3話:数字は嘘をつかない
一週間は、あっという間だった。
初日、山道の整備に取りかかった。
獣道に最低限人が歩ける幅を作る。木を切り、岩をどかし、足場の悪い斜面にはロープを張る。
人手は私とセバスと、「まあ暇だし」と出てきた住民が三人。
それからグレン。
グレンには頼んでいない。護衛の延長として黙ってついてきて、黙って木を切り、黙って岩を運んだ。指示を待たない。礼も求めない。誰よりも重いものを持ち上げて、顔色一つ変えない。
住民の一人が「あんた、騎士だろ。こんなことしなくていいんじゃねえか」と声をかけた。
グレンは手を止めず、一言だけ返した。
「護衛ですから」
何の護衛だ、と男が笑った。グレンは答えなかった。黙って次の岩に手をかけた。
三日で道が通った。
四日目に初回の採取。群生地の端から、再生に影響のない範囲で摘み取る。根は残す。来月も来年も採れるように。
手伝いの住民たちは半信半疑だったが、レムリア草を手に取った老人が「間違いねえ、本物だ」と呟いた瞬間、空気が変わった。
五日目に出荷。セバスが手配した荷馬車で港町へ。
帰ってきた荷馬車には、金貨が載っていた。
***
一週間と一日目の朝。住民を広場に集めた。
前回より人が多い。六十人近くが集まっている。
私は帳簿を広げた。その隣に、革袋を置く。中身が見えるように口を開けて。
「レムリア草、初回出荷分。経費を引いて、純利益は金貨八枚」
ざわめき。
「金貨八枚?」
「一週間で……?」
「嘘だろ」
「嘘じゃないわ」
帳簿を掲げた。
「取引の記録。港町の商会から受け取った証書。採取量、輸送費、人件費、全部載ってる。確認したい人はどうぞ」
帳簿と証書を住民たちに回した。数字が読める者ばかりではないだろう。でも、金貨は誰にでも分かる。革袋の中で鈍く光る金色が、何よりの証拠だ。
「この利益は領地のために使います。まず食料の備蓄。次に道の修繕。手伝ってくれた方には日当を払います」
人だかりの後ろから、杖の音が聞こえた。住民たちが道を空ける。
老婆が前に出てきた。
帳簿を受け取り、じっと眺めていた。長い間、ページを見つめて——やがて返し、私の顔を見た。
「……ふん。口だけじゃないのか」
それだけ言って、背を向けた。
「ばあさん、どうすんだよ」
後ろの男が聞いた。
「どうもこうも。明日から手伝うよ。どうせ暇だしね」
老婆が去ると、堰を切ったように手が挙がり始めた。一人、二人、五人。一週間前に腕を組んで斜に構えていた男までが、ばつが悪そうに手を挙げた。
全員じゃない。でも、空気が変わった。
金貨八枚という事実が、どんな言葉よりも雄弁だった。
***
それから数日。
採取は二回目、三回目と続き、領地に少しずつ金が回り始めた。食料も港町経由の新ルートに切り替わりつつある。前の仲介業者より安い。まともな値段で食べ物が届くというだけで、住民の顔つきが変わっていく。
私は帳簿を一から組み直していた。前の代官の帳簿は捨てて、収支の項目を全部作り直す。採取量と売上。住民ごとの作業量と日当。食料の調達コスト。
帳簿に向かっている時間は、嫌いじゃなかった。数字は裏切らない。足し算は誰がやっても同じ答えになる。
その日の夕方。セバスが慌てた様子で執務室に来た。
「アイリス様、お客様です」
「客?」
「ヴァレンシア公爵家から、とのことです」
ペンが止まった。
***
応接室に入ると、見覚えのある顔があった。
ドルトン。父の側近。公爵家の財務を「表向き」仕切っていた男。
実際は私が全部やっていたけど。
痩せた男で、目が落ち着かない。昔からそうだ。帳簿を見ているふりだけして、中身は私に丸投げしていた。
鑑定する。
【ドルトン】
現在価値:300
潜在価値:400
300。伸びしろもほとんどない。数字通りの人間だ。
「お久しぶりです、アイリス様」
「何の用?」
「単刀直入に申し上げます」
ドルトンが書類を取り出した。公爵家の紋章入り。
「この領地の薬草取引を、公爵家の管理下に移していただきたい」
「理由は?」
「辺境の資源は公爵家の管轄下にあります。無許可での商取引は——」
「辺境領の資源管理権は領主にあるわ。公爵家の管轄は名目上のもの。取引権の移管を命じる法的根拠はないの。知らなかった?」
ドルトンの目が泳いだ。知らなかったのだ。誰かに言われた通りの台詞を喋っているだけ。
「……しかし、公爵家としてはですね——」
「次は?」
「は」
「次の話があるんでしょう。どうぞ」
ドルトンが一瞬たじろいで、それから書類を入れ替えた。
「……では、食料の件をお話しします」
声を整え直した。台本の次のページ。
「この領地の食料は南部の仲介業者経由ですね。公爵家と対立する領地に——今後も変わらず売り続けてくれるかどうか」
脅しだ。食料を止めるぞ、と。
この領地の食料を握っている仲介業者は、公爵家と繋がっている。帳簿で見た、あの名前。鉱山にも食料にも顔を出す業者の正体が、これで一つ見えた。
「ああ、それはもう要らないの」
「……なんですって?」
「食料の調達先、先週切り替えたわ。港町経由で、前より安い条件で。だから止められても困らないの」
ドルトンの顔から表情が消えた。一手目も二手目も潰された。台本にない状況。
「……あなたは」
声が変わった。建前が剥がれた。
「公爵家に逆らうということが、どういうことか分かっているのですか」
法も理屈もない。ただの権力。最後の一枚がそれだ。
「ドルトン」
私は立ち上がった。
「公爵家の帳簿、私が何年管理してたか覚えてる?」
「……何が言いたい」
「あなたの支出報告、五年分。数字が合わないところ、全部覚えてる」
ドルトンの顔から血の気が引いた。
「『雑費』の金額が毎月膨らんでいくのよね。それから『修繕費』。工事の記録がないのに、支出だけがある」
一歩、近づく。
「横領でしょう? 私がいた頃から怪しいと思ってた。証拠がなかったから黙ってたけど——今はもう、黙ってる理由がないのよね」
ドルトンが後ずさった。椅子の背に腰がぶつかって、がたりと音がした。
「あなた個人の不正なのか、父上も絡んでるのか。調べればすぐに分かること。私が公爵家の帳簿のどこに何があるか全部知ってることは——知ってるわよね?」
沈黙。額に汗が流れている。
「……この件は」
絞り出すように言った。
「なかったことに」
「最初からそう言えばいいのに」
扉を開けた。
「帰っていいわよ。ああ、父上に伝えて。『薬草の利益が欲しいなら、帳簿くらい自分で読めるようになってからいらっしゃい』って」
ドルトンは何も言わず、逃げるように去っていった。
***
廊下に出ると、グレンが壁際に立っていた。
応接室のすぐ横。最初からいたのだろう。
「聞いてたの?」
「護衛ですから」
いつもの返答。
ドルトンは使い走りだ。あの男に薬草の取引価値が分かるわけがない。誰かが送り込んだ。父か、レオナルドか。どちらにしても、公爵家がアーレン領の利益を直接取りに来ている。仲介業者を使って金を抜くだけでは、もう足りなくなったということ。
「あの男、二度と来ないと思うわ。弱みを握られたら動けないタイプだから」
「……あの書類」
「ん?」
「公爵家の紋章がありました。公式文書です」
「ええ」
「それを——帳簿の記憶だけで退けた」
グレンが自分から二文以上喋ることは珍しい。
「公式文書でも、中身が嘘なら意味がないわ。数字は嘘をつかない。嘘をつくのはいつも人間の方よ」
グレンは何も答えなかった。
ただ、いつもは壁の一点か、廊下の先を見ている灰色の瞳が——ほんの一瞬だけ、私の手元に向いた。帳簿を持つ手に。
視線はすぐに外れた。
「……異常ありません」
日課の報告。毎日同じ言葉。
でも今日のそれは、いつもと少し違って聞こえた。
お読みいただきありがとうございます!
もし「面白そう!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、
広告の下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆(投稿)の励みになります!
ブックマークもぜひポチッとお願いします。




