2話:同じ名前
セバスが執務室に入ってきたのは、グレンが去ってすぐのことだった。
「山に行く準備を、とのことでしたが——」
「その前に聞きたいことがあるの。座って」
セバスが向かいの椅子に、少しぎこちなく腰を下ろした。慣れていない座り方だった。前の領主たちは、執事を椅子に座らせなかったのだろう。
昨夜のうちに目を通した五年分の帳簿を、机の上に並べてある。
「まず現状を確認させて。この領地の人口は?」
「三百ほどでございます。多くは年寄りと子供で……若い者は出ていきました」
「産業は」
「鉱山が閉じてからは、これといったものは。畑を耕してはおりますが、自分たちの食い扶持にも足りておりません」
「食料は外から?」
「はい。南部から仲介の業者を通して、穀物と干し肉を」
産業がないから収入がない。収入がないから道も直せない。道が悪いから物が届かない。物が届かないから人が出ていく。前世でも見た構造だ。どこか一箇所を断ち切らないと、全部が一緒に沈む。
「その食料の帳簿、ここなんだけど」
ページを開いて見せた。仕入れ値に目が止まっている。高い。それだけなら、辺境の弱小領地が足元を見られているだけかもしれない。
問題は仕入れ先だった。帳簿に記された仲介業者の名前。
セバスが覗き込んで頷く。
「間違いございません」
同じ名前だ。昨夜、鉱山の帳簿で見たのと。
閉山した鉱山の「管理費」を受け取り続けている業者が、食料の仲介もやっている。鉱山の管理と食料の調達。業種が違う。接点がない。なのに同じ名前が二つの帳簿に並んでいる。
「セバス。この食料の値段、高いと思ったことは?」
少し黙った。
「……高いとは、思っておりました」
「前の領主には?」
「申し上げたことはございます。ただ——」
言いにくそうに目を伏せた。
「『お前に何が分かる』と」
おかしいと思っても聞いてもらえない。やがて言わなくなる。言わないから「問題ない」ことにされる。
セバスの顔を見た。帳簿で不正を見抜くような人間ではないだろう。でも、この土地で暮らし続けた人間の肌感覚は、帳簿より先に答えを掴んでいることがある。
「これからは気づいたことがあったら言って。遠慮はいらないから」
セバスが目を見開いた。何か言おうとして、口を閉じて、それからもう一度開いた。
「……かしこまりました」
声が少し震えていた。二十三年分の何かが、その返事に滲んでいる気がした。
仲介業者の件は、頭の隅に入れておく。公爵家側の帳簿がなければ金の行き先は追えない。今は棚上げ。
「じゃあ山に行きましょう。帳簿の問題は後で片づける。まず、この領地に何があるか自分の目で見たいの」
***
山道は獣道に近かった。
先頭はグレン。頼んでいないが、護衛として当然のように前に立った。口は開かない。ただ黙々と歩く。
ペースが私に合っている。速すぎず、遅すぎず。会ったばかりなのに、こちらの歩幅を把握しているような足取り。時折、頭上に張り出した枝を片手で押さえて通り過ぎる。その動作に無駄がない。
足元の悪い箇所に差しかかった時、グレンの手が横から伸びて、私の前で止まった。
「……滑ります」
それだけ言って、自分の足で石を踏み固めてから先に進んだ。手を貸すわけでもない。ただ、道を作った。
一時間ほど登ったところで、足を止めた。
茂みの向こうに、数字が浮かんでいる。
かき分ける。枝が頬を掠めた。
——青みがかった葉をつける薬草が、山の斜面の窪地に広がっていた。びっしりと。冷たい空気の中に、かすかに薬のような香りがする。
セバスが息を呑んだ。
「レムリア草……!」
「知ってるの?」
「高級な傷薬の原料です。王都ではひと束で金貨三枚は下りません」
鑑定する。
【レムリア草群生地】
現在価値:0
潜在価値:1,800
ゼロ。誰にも知られていないから。未発見の資源に現在価値はつかない。
でも潜在が1,800。
窪地を中心に、群落は北側の斜面に沿って点々と続いている。思ったより広い。
グレンが先に歩いて安全を確認し、私とセバスが範囲を見て回った。北側の斜面だけで、群落は五つ。根の張り方がしっかりしている。間引いても再生する。根こそぎ取って一度で終わりにする必要はない。
頭の中で数字が回る。月あたりの採取量。ここから売り先までの輸送の人手と日数。年間を通した再生サイクル。
「なぜ今まで気づかなかったの?」
「道が険しくて……前の領主様たちは、現地を見ようとはされませんでしたから」
帳簿だけ見て、現場を見ない。前世でもこの世界でも、失敗する人間のやることは同じだ。
「売り先がいるわね。それと、食料の仕入れ先も切り替えたい。今のルートは高すぎる」
「仕入れ先、でございますか」
「セバス、この近くに商売のできる町は?」
「東に港町がございます。馬で二日ほど。商会がいくつかあると聞いております」
「港町なら食料の調達先もありそうね。行ってくるわ」
「私もお供を——」
「留守番をお願い。群生地の範囲をもう一度確認しておいて。採れる量の見当をつけたいの」
セバスは頷いた。今度は迷いなく。
***
港町まで、グレンと二人で一日半。馬を借りられたおかげで予定より早い。
潮の匂い。荷馬車の列。商会の看板が並ぶ通り。アーレン領とは別の世界だった。
薬草の売り先を探す。大手は避けた。公爵家の息がかかっている可能性がある。
通りから少し入った路地の、地味だが手入れの行き届いた店に目が留まった。ロッソ商会。店主は四十がらみの男で、レムリア草のサンプルを手に取ると、葉の状態を確かめ、香りを嗅いだ。数字ではなく実物で判断する人間だった。
取引はすぐにまとまった。
ついでに食料の調達先もいくつか紹介してもらい、南部経由より安い条件で話をつけた。
帰りの馬上で、頭の中の帳簿を組み替える。薬草の販路。食料の新ルート。月ごとの収支予測。
数字が回り始めている。
***
領地に戻った翌日。住民を広場に集めた。
五十人ほど。小さな広場がちょうど埋まるくらいの人数だ。
疲れた顔。無関心な目。腕を組んで斜に構える男。杖をついた老人たち。
「北の山にレムリア草の群生地が見つかりました。売り先も確保済みです。明日から採取を始めるので、手伝ってくれる方には日当を払います」
反応は薄い。
「また新しい領主か」
男の一人が、腕を組んだまま言った。
「前の奴は三ヶ月で逃げたぞ」
「どうせ口だけだろ」
敵意じゃない。諦めだ。裏切られ慣れた人間の声。期待するだけ損だと知っている声。
その中から、一人の老婆が前に出た。杖をつき、腰は曲がっているが、目に力がある。セバスと同じ種類の目だ。
「お嬢。一つ聞いていいかい」
「どうぞ」
「証拠を見せてくれ」
まっすぐ、こちらを見た。
「言葉はいらないよ。前の連中もみんな、立て直すって言った。希望を見せるって言った。でも誰一人、形にしなかった」
広場が静まった。
「だから言葉はいい。この土地で金が生まれるっていう証拠を見せな。そしたら信じてやる」
前世の記憶がよぎった。データを揃えて、筋を通して。それでも握り潰された。
でも、ここには握り潰す上司はいない。数字を出せば、数字が語る。
「——一週間待って」
老婆の目を見た。
「一週間で結果を出す。金貨をこの手で見せる。それで判断して」
長い間、見つめられた。
「……ふん」
老婆が背を向ける。住民たちも三々五々散っていった。
広場の隅で、グレンが壁に寄りかかっていた。目線は私ではなく、広場の出入口と死角を追っている。
「セバス」
「はい」
「まず山道の整備から。人が歩ける道を作る」
灰色の空を見上げた。
一週間。言葉じゃなくて、数字で証明する。
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