カフェ・カーペンター
翌日、僕とヒナ、穂積は府中駅に降り立った。スマホの地図アプリを頼りに賑やかな駅前通りを抜けて、閑静な住宅街へと入っていく。
今日のヒナは、いつもと雰囲気が違っていた。どう違うのか、上手く説明できないけど、とにかく違って見えたんだ。すると穂積が、
「ヒナさん、今日はずいぶんと大人っぽいですね」
と指摘した。
「わかる? さっすが穂積くん」
ヒナは機嫌良く笑い、ワンピースの裾を両手でちょんと引っ張った。それでニブイ僕にもようやく、いつものヒナとの違いに気がつけた。
「仮装なんてしてどうしたの?」
夏場のヒナは、Tシャツにショートパンツというのが定番スタイルだ。ヒナは、しかめっつらを浮かべると、容赦ないチョップを頭にたたきつけてきた。
「あだっ」僕は頭を押さえた。「何すんだよっ」
「ていうか、コウイチこそどうしてそんな服装できたのよ。小学生ですって感じが丸出しじゃん」
え? と僕は自分を見下ろした。量販店で母さんが買ってくれた某スポーツメーカーのロゴ入りTシャツに、響兄ちゃんのお下がりのハーフパンツ。ビーチサンダル。
「ダメ?」
「気合いが足りないって言ってんの。いい? 私たちがしているのは、遊びじゃなくて、『任務』なんだよ」
「わかってるよ……」
まあまあ、と穂積が穏やかに割って入った。お坊ちゃんの穂積は、きちんとアイロンのかかった襟つきのシャツに、黒のチノパンをはいている。
「府中といえば競馬場だね」
穂積が言い、僕とヒナは、「だね」と頷いた。未成年である僕たちがどうして競馬場の存在を知っているかというと、小学二年生のときに遠足で来ているからだ。ふれ合いコーナーで馬にエサをあげて、絵を描いた。
「ヒナさんがおじいさんの病室で拾ったカードに、アルファベットの『U』に似た模様が描かれていたでしょう。調べたんだけど、あれは馬の足にはかせる馬蹄と呼ばれる金具らしい。身につけていると幸運を呼び込むラッキーアイテムとも言われているそうだよ」
「――大工と馬」とヒナが考えるように呟いた。
「大工って?」
「カーペンターって、英語で大工っていう意味なんだよ」
「マジ?」
ジイサンは元大工だ。すごい、発見だ。もしかしたら本当にジイサンにつながる何かが見つかるかもしれない。
カフェ・カーペンターは、丸太作りの山小屋風の建物だった。一階部分が店で、二階は店主の住居スペースとなっているようだ。窓にはレースのカーテンがかけてあって、店内の電気はすべて消されていた。木製の扉には、「定休日」の札が下げてあって……。
「ウソでしょう……っ」
と僕たちはがっくりと項垂れた。
「なんでなんでっ? だってこのカードには火曜日が定休日って書いてあるよ」
ヒナが、カードを見下ろして言った。今日は木曜日だ。しかも――、急に視界が薄暗くなったと思ったとたん、雨が降ってきた。ウソだろう。天気予報では一日中、晴れマークがついていたのに。
またたく間に、雨で景色が白くなって――。
「うわあっ」
ゲリラ豪雨に悲鳴を上げて、僕らはカーペンターの軒先に避難した。
*
「いやあ、びっくりしたよ。若い子が三人、ドアの前に佇んでいるものだから、新手の押し売りか、ナントカ詐欺かと思ったよ」
「すみません」
僕たちは、カウンターのなかにいる男性に向けてあやまった。
男性はカーペンターの店主で、牧さんという。僕たちが軒先で雨宿りをしていると、店の前に一台の車が止まって、なかから牧さんが降りてきたのだ。
「きみたち、この辺の子? まあ、雨だし、せっかく来てくれたんだし、飲み物くらい出すけどさ。何がいい?」
ありがとうございます、と僕たちはもう一度、頭を下げてからカウンター席に座った。それからアイスカフェラテを注文した。
「本格的に降ってきたなあ」
牧さんは窓の外に目を向けた。昼間だというのに窓の外は薄暗く、雷がとどろいている。
僕は手際良くカフェラテを作る牧さんをそっと観察した。細身で、背がひょろりと高い。映画やマンガのなかに登場するカウボーイみたいな帽子とベストを身につけていて、目尻の垂れた優しい顔立ちをしている。年齢は、僕の父さんと同じか、ちょっと下くらいに見えるから、四十歳くらいかな。
「はい。お待たせしました」
カウンターの上にアイスカフェラテが置かれる。炎天下のなかを歩いてきたから、喉はカラカラで、僕たちは一気に飲み干した。
「あらまあ」
と牧さんはほほ笑むと、もう一杯、作ってくれた。
「ありがとうございます。すごく美味しいです」
――うーん、それにしても困ったな。僕はストローで氷をかき混ぜながら考えた。当初の予定では、カウンターから離れた席に座って、マスターを観察しつつ飲み物を飲んで、他のお客さんがいなくなってから、色々と聞き出すつもりだったんだ。それがまさかの定休日とゲリラ豪雨のせいで、すべておじゃんだ。
でもこの悩みは、すぐに解決した。なぜって、僕があれこれと考えているうちに、ヒナが咳払いをして背筋をスッと正したから。鼻先を上に向けるように、気取った表情を作ったかと思うと、
「カーペンターという店名にした理由を教えてもらってもよろしいでしょうか」
これまた気取った声で牧さんに問いかけた。なるほど、と僕はここにきてようやく、ヒナの真意を理解した。ようはヒナはリポーターのつもりで、この店に乗り込んだのだ。小学生丸出しの僕がいてはナメられるとか、ハクがつかないとかでも思ったのだろう。まったく、それならそうと事前に言ってくれたら良かったのに。知っていれば、僕だってビーチサンダルはやめたのに。
「よく質問されるよ」牧さんは苦笑した。「響きがカッコイイのと、昔、お世話になったひとが元大工だったからなんだ」
僕たち三人は、「もしかして」と目配せをし合って、それからソワソワした。
「――その元大工って……、香具山雨のことでしょうか」
ヒナがジイサンの名前を出すと、牧さんは目をまん丸に見開いた。
「え、え……っ。香具山さんのこと、知ってんの? 何で?」
マジか、と僕とヒナの声が重なった。
「孫です。私は新藤雛で、こっちはイトコの香具山光一です」
「初めまして」
僕は慌てて頭を下げた。
「僕は、コウイチの友人の穂積雄馬です」
続いて穂積も挨拶をした。牧さんは驚いた顔をしたまま、「はぁ、どうも……」と浅く頷いた。
「これなんですけど」
ヒナは、カウンターの上に例のカードを置いた。
「あれ? うちの店のカードだ」
「祖父の病室で拾いました。牧さん、祖父のお見舞いに来ましたか」
「行ってないけど。え……、香具山さん、具合悪いの?」
「――死にました」
僕たちは牧さんの反応をうかがった。
牧さんは、息をのんだように表情をかたまらせたあと、急に蛇口を捻ってグラスに水をなみなみと注いだ。一気に飲み干すと、低い唸り声を上げて両手で顔を覆った。
「そっか……。亡くなったんだ……」
深い、深いため息がもれた。しばらくすると牧さんは顔を上げた。それから親しみのこももった眼差しを向けてきた。
「ありがとう。香具山さんから俺の話を聞いて、わざわざ来てくれたんだね」
――しまった、誤解させちゃった、と僕は心のなかで呟いた。牧さんの話どころか、僕たちはジイサンと喋ったことさえないのに。
ただ、牧さんの今の発言でわかったことがある。牧さんは、ジイサンが離婚していることや、ずっと所在不明だったことを知らないんだ。
「いいえ、違います。私たち……、本当は祖父と話したこともないんです」
ヒナが、やけにしおらしい声を出した。
「私の家って複雑なんです。祖父は、私の母――、つまり祖父の娘です。母が小学生のときにふらりと家を出て行ったきり、一度も戻りませんでした。一応、離婚は成立しているんですけど、ずっと祖父がどこでどう暮らしていたのかは誰も知らなくて……」
「はあ……、なるほど」
牧さんは目をぱちくりとさせながら頷いた。
「だから今は、祖父と生前親しかったひとを探して、祖父のことを教えてもらっているんです。ここに来たのは、祖父の病室にカーペンターのカードが落ちていたからです。さっき、祖父のことをお世話になったひとって言っていましたけど、牧さんと祖父は、どういう関係だったんですか」
僕は心のなかで、「おお……っ」と感心して、ヒナの名演技と名演説に拍手を送った。なるほど、言い方をちょっと変えるだけで、「ジイサンのことを調査するただの孫」から、おじいちゃんをずっと心配していた心優しい孫、に変わるんだ。
ヒナの質問に、牧さんは考えるように腕を組んだ。
「――恩人かな」
「恩人?」
「俺ね、若い頃に、探偵事務所でアルバイトをしていたんだ。で、仕事として香具山さんを尾行していたってわけ」
「ええっ、尾行っ?」
僕はびっくりするあまり声をひっくり返した。それから急に不安になった。やっぱりジイサンは何らかの犯罪に手を染めていたんだ。それで、尾行なんて……。
「依頼主は、ひょっとして香具山花子さんですか」
穂積が冷静な声で質問した。香具山花子は、おばあちゃんの名前だ。さらに穂積は混乱する僕に向けて、
「残念だけど、成人男性がふらりと姿を消したところで、捜索隊を結成してくれるほど日本の警察は暇ではないんだ。それなら、多少お金はかかっても、探偵を雇って見つけてもらおうって、コウイチのおばあさんは考えたのかもしれない」
と説明してくれ、僕は、なるほどって納得した。
「うーん、名前までは覚えてないなあ」
牧さんは首を傾げた。
「何年くらい前の話ですか」
ヒナが訊いた。
「十年……、十二、三年くらい前だったかなぁ」
なんだ……、と僕は肩を落とした。最近ではないけど、思っていたよりも「今」に近い。これなら依頼主がおばあちゃんだった可能性は低い。
「依頼主は、なぜ祖父を尾行させたんでしょうか」
「さあ。そこまでは説明されなかったから。ただ、香具山雨という人物の居場所と、今は何をしているのかを調べて欲しいって頼まれただけ」
「それがなぜ恩人に?」
「それがさぁ」牧さんは苦笑した。「香具山さんを尾行していたら、香具山さん、俺をくるっとふり返って、言ったんだ」
――あんたさぁ、尾行下手すぎ。あんたが背後にいると、俺まで目立っちまうじゃねえか。
「目立つ?」
「香具山さんもそのとき、ある女性を尾行していたの」
「――へ……?」
僕らはそろって間抜けな声を出した。それはつまり――、
「おじいちゃんも探偵だった、ってことですか」
「断言されたわけじゃないけど、たぶんそうだと思う。だって探偵以外で女のひとのあとを尾行するなんて、変態か警察くらいでしょう」
女性を尾行するジイサンを尾行する牧さん。その図を思い描いて、「マンガかよっ」と僕は爆笑した。穂積も笑った。するとヒナがわざとらしく咳払いなんぞをしてきた。
「祖父は誰を尾行していたんですか」
ヒナは、すました声でたずねた。僕と穂積は慌てて「笑い」を引っ込めた。
「さすがに名前や素性まではわからないよ。あ、でも妊婦さんで、小学校低学年くらいの子供を連れていたよ」
ふむ、と僕の隣りに座っていた穂積はメガネのブリッジを押し上げた。
「尾行しているのがバレたあと、牧さんはどうしたんですか」
「えーと、確か……。事務所に電話をかけて、『すみません。尾行バレちゃいました。俺、この仕事向いていないみたいなんで、やめます。クビにしてください』って言って、即効でケータイの電源を落とした」
「えっ、そんなことして大丈夫なんですか」
僕が訊くと、牧さんは笑って、「もちろんダメだよ」とこたえた。
「ただ、あの頃の俺はそれくらいテキトーなヤツだったから。――電話を切った俺に向かって、香具山さんが苦笑しながら言ったんだ」
――よくわかんねえけど、ちょっくら話でもすっか。
「それで一緒に動物園に入ったってわけ」
「動物園?」
牧さんは、三鷹にある動物園の名を挙げた。
「たまたま近くにあってね。初めて口をきく相手とカフェで向かい合うってのも緊張するでしょう」
まるで常識をとくような口ぶりで言ってくるけど、初めて口を聞く相手と動物園に入る方がよっぽどハードルが高いんじゃないかな。
「二人で何の話をしたんですか」ヒナが訊いた。
「そりゃあ色々だよ。あの頃は俺も青くさい若造だったからさ、社会と自分との折り合い方がわからなくて、人生を迷走していたのよ。俺ね、ガキの頃からとにかく集団行動が苦手でさ、どんな仕事についても大抵、人間関係でつまづいて辞めちゃってたんだ。で、ヤケになって競馬にあり金をつぎ込んで、すっからかん。探偵事務所に入ったのだって、単独行動で働けるからだと思ったからだし。それなのに、尾行はあっさりと見破られるし。――とまあ、グダグダ悩みとグチを口にしていたら、こう言われたんだ」
――あんた、どの子が好き?
――は……?
――あんなに小さいのに、一匹一匹、毛色が違うんだもんなぁ。あれだな、
「みんな違って、みんないい」ってやつ。この名言、誰が言ったんだっけ。
「香具山さんね、俺の話をそっちのけで、ふれ合いコーナーのモルモットを眺めていたの。もうさ、『はあっ?』って感じだったよ」
――いや……。え、俺の話聞いてなかったのかよ?
――つうかよぉ……。
とジイサンは切り返したそうだ。
――あんたの好きなことって何?
――好きなこと?
――俺が思うに、人生が上手く行かねえときってのは、大抵、好きなことから逃げているときなんよ。だからさ、いくらでも失敗していいけど、好きなことからは逃げちゃダメだ。逃げたら後悔する。
何それ、と僕は言いそうになったけど、寸でのところで言いとどまって、言葉の意味を考えた。なぜって、ジイサンが言った言葉は、世間の大人たちが言う、「常識」の反対側にある言葉だと思ったからだ。
『キライなことから逃げてはダメだ』『苦手なことを克服してこその成長だ』。こうした意味の言葉なら小さい頃から何度となく親や先生たちから言われてきたし、僕自身、(イヤなものはイヤだ、と反発しつつも)正しいことを言っているんだろうなって信じてきた。
でもジイサンは、「好きなことから逃げてはダメ」と言った。それじゃあ、キライなことからは逃げてもいいの?
「意味不明だろう」
牧さんが苦笑しながら言った。
「適当なことを言うなって、俺も言い返したもの」
――俺が好きなのは、競馬と単独行動と、あとはうまいコーヒーだ。でも俺は、競馬とは縁を切りたいし、大人なんだからきちんと集団行動ができるようにならないといけねえだろう。
――べつに、こうならなきゃいけねえなんていうルールは、どこにもないだろう。無理して周りに合わせて、それで仕事が嫌になって辞めるっていうのを何度も繰り返しているんだろう。そりゃあもう神様が、おまえの進むべき道はそっちじゃねえって教えてくれてるんじゃねえの。
――は? でたらめ言ってんじゃねえぞ。
――あんたさ、自分のことをダメ人間とか社会不適応者とか思ってんだろう。周りのひとは我慢してちゃんと働けているのに、どうして自分はいつまで経っても、成長できないんだって。でも、それ違うぜ。まあ全員がってわけじゃあねえけど、きちんと会社勤めができるひとたちっていうのは、そうしているのが好きだし、得意なんだよ。バクチ打ちの人生よりも安定が、単独行動よりも集団行動の方が好きだし、落ち着くの。
――そう、なのか……?
――自分が本当に好きだと思うものと、一度きちんと向き合ってみろよ。案外、大丈夫だって分かるかもしれないぜ。
「納得できる部分もあったけど、ほとんどは、『はあ? なにふざけたこと言ってんだよ』って思った」
牧さんは言い、懐かしむようにほほ笑んだ。
「――ムカついたけど、でも、好きなことから逃げるな、なんて言うひとに会ったのは初めてだったからさ。妙に気になって、その後も時々会うようになったんだ。場所は毎回、動物園。あー、水族館にも一度だけ行ったな。何度か話しているうちに、香具山さんの言う通りにしてみようかなっていう気持ちに傾いていったんだ。それでカフェのマスターになろうって決心した」
「『うまいコーヒーが好き』だからですか?」
「そのとおり。あと、競馬と単独行動ね。だから競馬場の近くで店を構えた。まあ、努力はしたけど。コーヒー一本で食べていくのは難しいだろうから、お金を貯めて、アメリカに渡って、本場のホットドッグや、パンケーキの作り方を学んだり」
ついっと逸れたマスターの視線を追うと、アメリカ修行時代に撮ったと思しき写真が何枚も壁に飾ってあった。
「いつもは途中で挫折したり、嫌になったりしたのに、不思議と頑張れたんだよ。それに、こうして店を開くと、競馬ファンや、コーヒー好きなひとが集まるようになってさ。そのひとたちとの会話は苦じゃないんだ。今じゃあ、常連客さんと一緒に高尾山に登りに行くし、もうひとつ、写真っていう趣味も増えたしね」
「祖父とはずっと、会い続けていたんですか」
いや……、と牧さんは瞳を伏せた。
「アメリカから帰ってきたあと、ぱったり会えなくなってしまってね。電話番号も変わっていたし、もとから住所は知らずにいたし……。香具山さんとよく会っていた動物園に行っても見つからないし……」
牧さんはテーブルの上に置きっぱなしになっていたカードを手に取った。
「七年前に、ここで店を始めたんだ。俺のことなんてもう忘れちゃってるかな、って思ったけど、どうしても一言お礼が言いたくて、例の――あのとき働いていた探偵事務所の仲間に頼んで、香具山さんの住所を調べてもらってさ。このカードと、店が出来たっていう短い手紙をそえて送ったんだ。返事はなかったけど……。香具山さん、ずっとカードを持っていてくれたんだな……」
そうか、と僕はようやく理解した。このカードは誰かの忘れ物なんかではなくて、ジイサンが倒れときに持っていた私物だったのだ。
「コーヒーの一杯でも飲みに来てくれたら良かったのに……」
牧さんは目元を拭いながら、ぽつりと呟いた。その姿を見て、葬儀のときは家族の誰も、ジイサンのために泣くことはなかったな、と思い出した。
窓から明るい日差しが流れ込んできた。いつの間にか雨がやんだようだ。
僕たちは、牧さんが作ってくれたホットドッグとパンケーキをご馳走になってカフェ・カーペンターをあとにした。