第四九話 姉妹(二)
神宮寺孝子は山梨県国府市にいる。この地が今年の全国高等学校総合体育大会バスケットボール競技大会の開催地である。昨年までは遠隔地での開催だったこともあり、静の晴れ舞台を観戦したことはなかった孝子だった。今年は隣県での開催ということもあって、行こう、と当初は考えていたのだ。しかし、相談した長沢に、混むぞ、と言われ、断念しかけていたところ、意外な人物の声が掛かった。
「視察に行く、とか生意気なことを言ってるんだがな」
声の主は各務智恵子だ。初夏あたりから、孝子、正村麻弥、北崎春菜は昼食を各務の教授室で取るようになっていた。冷房の効いた、静かで、食後の飲み物などにも事欠かない、理想的な食事場所を確保したのは、やはり、春菜だった。
「先生。このお部屋でお弁当食べてもいいですか」
「構わんよ」
厚かましい申し出を、各務は事もなげに受け入れていた。
くだんの発言は、七月初旬の、昼休憩に出たものだ。だいたいで主語が欠けているのが各務の話法だ。前後を参照し、隠れている主語を見つけ出さないといけないのが常である。誰かが視察に行く。それが生意気だ、と言っているのだが。
「……北崎さん、高校総体を見に行くの?」
「お姉さん。今ので、なんで理解できるんですか。私、いまだに各務先生が何を言ってるのか、わからないときがあるんですけど」
「おい」
「私たちの知らない人のことを各務先生はお話にはならないでしょう。共通の知人っていったら、現状、二人しかいないね」
「ああ。長沢先輩と私ですね」
春菜は何度も首を縦に振っている。
「そう。この二人に関する話なら、だいたいバスケットボール関連だと思って。バスケットボール関連で、視察、なんて改まった言葉を使うのは、今の時期なら高校総体でしょう」
「大正解だ。賢い。行くな、って言っても無駄だ。随行させる。お前たちも一緒に来ないか」
「長沢先生が、混む、って言ってましたけど、大丈夫ですか?」
「来賓だ。泊まる場所も大丈夫だ。ただ、私の都合で、決勝だけだが。問題なく勝ち上がってるだろう。麻弥、どうだ?」
突然の指名に、黙々と弁当をつついていた麻弥がむせた。
「妹のことだ。来るだろうが。お前は?」
「はあ……。実は、応援に行こう、とは考えてたんですけど、長沢先生に、すごく混む、って言われて、諦めかかってたんです。大丈夫なら行きたいです」
「よし。じゃあ、車、頼むぞ」
かくして、八月。孝子、麻弥、春菜は各務の随行として高校総体の視察に赴くことになったのである。
各務が手配したのは、全国高等学校総合体育大会バスケットボール競技大会のメイン会場である国府スポーツ公園から至近の温泉街にある旅館だった。露天風呂のある離れが四人の部屋だ。チェックインが少し遅れたので、外出は控えて、四人は室内でくつろぐ。
「……お泊まり会に呼んでもらって、すしをご馳走になった、って自慢しやがる。経験ないでしょう、なんてな。ああ。少なくともお前には何をしてもらったこともないな、ってな」
座椅子に座って、窓越しに庭を眺めていた各務が、唐突につぶやいた。孝子は長沢のことと気付いた。
「すごく喜んでいただけました」
「うん。そういえば、推薦したのって、お前なんだって?」
身に覚えのある話だった。三年前、高校への進学を控えた静に、孝子は鶴ヶ丘高校への進学を熱心に説いたのだ。
「長沢先生は素晴らしい方だよ。きっと、静ちゃんのためになる」
今にして思えば、義姉、義妹の関係とはいえ、養家の総領娘に対して、せんえつにも程があった。将来、静は神宮寺家の家業である医療の道へ進むのだろう。それを考えれば、平凡な公立校を勧めたことが、そもそもの間違いだったかもしれないのだ。
もはや、口が裂けても言えないことだが、当時、孝子は長沢の指導者としての力量を、ほとんど承知していなかった。高校時代の知己に女子バスケ部員がおり、彼女の受け売りが少しと、残る全ては担任として受け持ってもらった実感だった。
「……長沢先生なら、きっと、妹を正しく指導していただけると思いまして」
「お姉さん。お見事でした。長沢先輩の下でなければ、静さんも須之内さんも、あそこまで伸びませんでした」
「そういえば、お前は、やたらにあれらを買ってるな。どうしてだ」
「最初は、ああいう奇跡的な巡り合わせがあれば、公立でもいいチームができるんだな、と感心しただけでした。ところが、ある日、お手紙をいただきまして」
「誰に」
「静さんです」
「え。初耳」
夕食も近いし、とお着き菓子をつつくか、どうかで煩悶していた麻弥が交ざってきた。
「それは、そうですよ。こんなこと、誰彼構わずに話したりはしません。……私が鶴ヶ丘を褒めたのを、静さん、どこかで知ったみたいで。光栄だ、と。『神奈川の奇跡』の名に恥じないよう精進して、いつか私に勝つ、と。殊勝じゃないですか。ぜひ、頑張って、勝ってほしいですね」
ここでチャイムが響いた。時計を見れば、午後六時だ。部屋食の準備にスタッフが訪れたのだろう。
「はーい」
孝子は立ち上がり、小走りに玄関に向かった。




