夫婦喧嘩?
一休みとばかりにコーヒーを一口飲んだロジーナは、軽く伸びをした。無造作に束ねられた長い黒髪が踊る。
「今日の午後はラックフェルン城に納品してくるわ」
その言葉に、書簡に目を通していたクレメンスが顔を上げた。
「ラックフェルン城?」
怪訝な声で聞き返す。
「ええ。ラックフェルン城よ。領主から頼まれてた付与品が完成したの」
クレメンスは視線を右斜め下に落とした。それは彼が何か思い巡らせている時の癖だ。そして、そうやって突然考え込むのは、よくある光景だった。
ロジーナは形の良い唇を開け、スノーボールを口の中に放り込むと、再びノートに向かい、付与魔法の構想を練りはじめた。
「私も一緒に行こう」
「え?」
突然言われ、ロジーナは思わずきょとんとした声をあげた。
「なんであなたが……」
「私が行くことに問題でもあるのか?」
真顔で首を傾げるクレメンスに、ロジーナは眉間にしわを寄せた。
「そういうわけじゃないけど……ただの納品よ? 私一人で十分。私の請け負った仕事だし。それに……」
そう言ってから、気まずそうに視線を逸らす。
「あなたがついてきたら、ちょっと恥ずかしい」
「なにが恥ずかしい?」
「まるで親離れできてない子供みたいじゃない」
「私はお前の親ではない。夫だ」
憮然とした様子で訂正するクレメンスに、ロジーナは心の中で盛大なため息をついた。
「それはそうだけど……。とにかく、自立してないみたいでみっともないでしょ。私は師範魔術師よ?」
師範魔術師——それは上級魔術師のなかでも特に優れた者しか認定されない、魔術師の最高位階だ。
「そうだな。確かに魔術師としてのお前は一流だ。その能力に何の不安も抱いてはいない。だがな……」
そう言って軽く視線を落としたクレメンスの様子に、ロジーナの怒りセンサーが反応した。
「なによ。私が社会人としては未熟って言いたいわけ?」
「いや、そういう意味ではない。ただ……」
言い淀むクレメンスに、ロジーナの怒りがヒートアップしてくる。
普段はロジーナを対等に扱ってくれてはいる。けれどときおり、今のように上から目線で見てくる。しかも、たちの悪いことに、どうやら本人は無自覚のようなのだ。「夫だ」とこだわるくせに、妙なところで師匠というか、まるで保護者のような言動をしてくる。その無自覚な態度がロジーナの怒りのツボを刺激する。
「なに、その含みのある言い方。はっきり言ってムカつくんだけど」
ロジーナは黒い大きな瞳を半眼にし、クレメンスを冷たく睨めつけた。
「……あの界隈は少々不穏な動きがあってな……」
クレメンスはロジーナの顔を真っ直ぐ見ながらも、慎重に言葉を選んでいる様子だ。
「不穏?」
「下手をすると、お前が巻き込まれかねない」
「大丈夫よ。納品するだけだし」
ロジーナは事もなげな様子で答える。
今回のクライアントは地方領主。社会的な地位のある人物だ。おそらくは貴族としてのプライドもある。報酬を踏み倒したり、理不尽なことを言ってくる可能性は極めて低い。しかも、知人からの紹介の紹介の紹介なのだ。なんの不安もない相手に違いなかった。
それに、ロジーナは付与魔法だけでなく、実戦的なものを含め、一通りの魔術はマスターしている。だから、身の危険を感じても、即座に対応できる自信もあった。
クレメンスは小さく息を吐くと、まるで何もかも見透かしているような深い紫色の瞳でロジーナの顔を見据えた。
「お前は奴らの狡猾さを知らない」
静かだがずっしりと重みのある声。
その様子は、かつてロジーナを導いてくれた『師匠』そのものだった。
「……」
圧倒的な実力と経験の差を見せつけられたように感じたロジーナは、何も言い返すことができなかった。唇をぎゅっと噛む。
「気に入らないのなら、過保護な夫が勝手についてきたと言えばいい。事実だしな」
ロジーナの様子に気がついたのか、クレメンスはそう言うと、いつもの穏やかな表情に戻った。
その、あまりにも手慣れた対処の仕方に、ロジーナはノートを乱暴に閉じた。
「……好きにすればいいわ」
すっと立ち上がる。
「すまんな」
クレメンスの言葉を背後に聞きながら、彼女は足早に部屋を後にした。




