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その後、私はどういった生活をしていたか。

 ずっと部屋でこもりっきりになっていた。

 全てが否定されたのだ。

 夢見ていた外への、冒険者としての願望が閉ざされる寸前で、なんとかそれを閉ざさないように、様々な考えを呈していた。

 どれほどそうしていたか既に覚えていないが、ある日たまたま外を出歩いていたときのこと。たしか酒でも飲んでやると初めてロムサラスに行った日だったかな。

 夕方、帰り道。

 広場で興味深い告知を国の人間がしていた。 


『労働者募集。発掘、単純作業』


 私は何も考えずその労働に赴くことにした。

記念すべき、そしてある意味では憎むべき初めての労働体験だった。


   ・


 国の片隅にある、鉱山に方々から集められたらしい私を含めた取るに足らないような人間が一挙に集合した。


 目標は、つるはしを持って鉱石を掘り出すということ。

 仕事そのものは、大まかに三つに分類された。掘る者、運ぶ者、雑務をする者。どれがどう面白いということはない。どれもが等しく単純作業であった。

 他の、ほとんどの人間は三つの仕事を時間ごとに区切って行っていたが、私はひたすら掘る者として仕事をしていた。掘りたくて掘っていたわけではないが、同じ単純作業とはいえ仕事が切り替わると頭も少しばかり切り替えなければならなくなる。それが嫌だった。無心でいたかった。目線を変えることすら嫌だった。 

唯一仕事の中で、喜びを見出していたことは、無心になれるということだったのだ。

壁と向き合い、同じ力加減で同じ動作を繰り返し、等間隔で打ち鳴らされるつるはしの音を聞いていると、眠気ではないまどろみが段々と訪れてきて、体を動かしているはずなのに、その意識もなくなってきて──そして無心になれるのだ。


 一番嫌だったのは、おかしな話なのだが昼の休憩だった。つまり、労働をしていない時間である。

 昼は少し多めに休憩を取る。それが私の骨を折るのだ。せっかく苦心してからっぽになれたところで、昼の休憩が訪れるというのだ。一気に現実へと引き戻される。

 飯を食べている内などはまだいい。食欲をただ満たすことに精一杯になっているから。

 しかし一度食事を終え、はっと顔をあげると、まず目の前にいる連中の薄汚さに気が付く。そして、自分も同様に汚れていることに気が付く。これは考えてみれば当然だ。この仕事をして、外観が汚れない人間などいない。それなのに私は無心であった反動からか、ただ薄汚れているという事実に気が付いただけでひどく自分を嫌悪してしまうのだった。

 始めの内は、他の人間を見下すことで自我を保っていた。

 誰もが空虚な目をしていて、早く時間が過ぎるの待っているだけだった。こんな仕事やりたくもない。早く過ぎ去ってくれ。切にそう願って憂いているというのに、いざ休憩が終わるとあくせく働き出す。真剣に、そして必死に。なんと滑稽なのだ。やりたくもないことに精を出している。この不可解な現象。

 まったく愚かな奴らめ。

 私は絶対この連中とは違う人間だ。

 外に出て一度冒険して見せた。魔物とも戦った。一連の行動そのものは賞賛して慈しむべきだ。勇敢だった。夢に立ち向かった。

 ここでも、過去を美談に仕立てようと必死になっていた。

 考えているのだ。考える頭を持って、思想を持っているのだ。だから、貴様らとは違う。決定的に違う。どうだ。という風に。

 そうして昼休みが終わると、再度集中をして壁に向かい、無心へ。無心へ。昼休みの感情を忘却することに努めるのだった。

 そして翌日の昼休みには同じ感情に新鮮味を伴って浸されるのだった。

 落ち込み、美化し。

 再度、無心へ。

 何度もそれを繰り返した。

 私が自分も全く彼らと同じであるということを認め始めるのは、その繰り返しを仕事の一環として捉えるくらいに鉱山での労働に慣れた頃合いだった。


   ・


 そんな繰り返しの毎日に変化があった。 

 私の隣で毎日掘り続けていた人間が倒れたのだ。ゆっくりと、地面に眠りに就くように。特にその人間に思い入れがあったというわけではない。倒れて初めて、そういえばいつも隣にいたなと思う程度の人間だった。

 平坦な繰り返しの中での突発的な異常事態だった。その起伏が私の神経を研ぎ澄ました。この現場に来てから初めての感覚だった。目を覚ましたといってもいい。

 男は聞き取れない声でうめいていた。私はその場で立ち尽くした。すぐに助けようという考えが働かなかったのは、男がとても心地よさそうにに伏していたからだった。

「あかるい」

 地面に吐いていた言葉の中でかろうじて聞き取れた単語だった。これだけやたらと明瞭に聞こえた。砂が男の吐息でわずかに舞い上がった。

 あかるい。

 震えた。意味もわからず震えた。

 私がすくんでいると、他の人間が男の元へ集まった。男は既に言葉を発していなかった。

 彼があの後すぐに事切れたということを知ったのはその翌日になってからだった。死因についてはうやむやだった。恐らくもっと後になってから判明したなにか病名や事実があったのかもしれないが、私の耳には入ってこなかった。

 人が一人死んでも、現場はすぐにいつも通りの光景に戻った。昨日の今日で、ということである。

 私も表面上は今までと同じように掘り続けたのだが、心内では明らかに変化が生じていた。

意識をしていなかった男だというのに、ふと隣から消えると違和感が生じた。気になり続けた私は掘り続けていても無心になることが出来なくなっていた。様々な感情が頭の中で浮かび上がり、消え。浮かび上がり。かき消して。今度はその繰り返しだった。

 特に労働環境が劣悪過ぎるというわけではない。過度な労働を強いられたというわけでもない。男は望んで自ら掘ることを選んだ。

 なぜ、彼は死んだ。

 思い出せ、どういう人間だった。何か予兆のようなものはなかったか。私が気がつけることは……

 しかし彼について思い当たることは何一つとしてなかった。話したこともない。話しているところをみたこともない。昼飯を食べている所も。そういえば休憩で彼を見たことすらない。

 違う。見ていただろう。私は私以外のここにいる連中を全て等しく見下して一緒にしていたということだ。

 ふと近くにいる作業をしている人間を見た。前からいたような気がしたが、初めて見たような気がした。つまりはそういうことなのだ。

 男についての何を思いだそうとしても彼の死ぬ瞬間だけが切り取られたようにして鮮明に思い出せるだけだった。


 男の死に対して何度も熟考を繰り返した後に行き着き、得られた一つの解答のようなものは、至極単純なものだった。

 人間はいつか死ぬのだな、ということ。

 一度死にかけた経験があった。もちろん恐怖として根強く残っている。男の死と混ざって交互に想起されることもあった。あの時は魔物に殺されかけた、という明確な説明が施せた。

 しかし待っていても死ぬらしい。

何もなくても、人間は死ぬ。死んでしまう。なんてことだ! そんな馬鹿なことがあってよいのだろうか?

 私は当然のことを改めて再認識した。人の死に触れたのも初めてではないはずなのに。

 人間はいつか死ぬ。死に、朽ち。土に還って。

 その後は?

 花になる? いや違う。死んだ時点で何でもなくなる。無だ。無ということも感じ取れなくなるくらいに、無だ。

 あかるいのだろうか。

 何を馬鹿な。彼が死に間際に放っただけの言葉だ。いやしかしそれは死を経験したことのない人間がどれだけ死について説明するよりも説得力がある言葉ではないか。死に一番近い男の、全てを凝縮した端的な説明ではないか。あかるい。

 彼は彼で、未来をもって、希望を持って死を遂げたように見えた。実際朗らかで、笑みも含んでいたではないか。最後の最後まで壁を掘り続けていたというのに。それなのに、なぜあかるいのか? あかるかったのか?。羨ましい。もし本当に彼が彼の中で望んだ死を得られたというのならば、羨ましい。


 では、私はどうなるのだろう。

 私は死ぬのか。死ぬんだ、いつか。あかるいと言えるか? 死ぬ時、死ぬ間際に。言えない。絶対に言えない。無理矢理淡白に笑ってみせてあかるいとでも言うのだろうか。


 一気に恐ろしくなった。

 私は、何も見ずに終わるのだ。

 何も得ずに終わるのだ。

 何も見ずに、死ぬのだ。


 既に持っていた夢は幻に変わり果てていた。 

このまま縁取られた枠組みの中で淡々と生きて、死ぬ。それだけの未来が待ってるのだろうと一瞬で先々の道々が見出された。

 気が付いたら、無心のまま、ずっと。ずっと──働き続けて。

縮められた時間を生きて、老人になって私も壁に向かいながら事切れるのか。

無心が生んだ虚構の現実を見てあかるいと言って…………

























   Ⅶ


「つまりあなたは、冒険をしたいということですね」

 全ての話を聞き終えると、ルーシェは簡単そうに言った。

「はい?」私は裏返った声を出していた。

「全て、ということでしたが。一つに聞こえました。一つ、冒険をしたい。と。そういうことなのだなと思い、私は聞いていましたが」彼女はすました顔だった。

「違う。もう諦めたんだ。模索しているんだ。外に対する夢想は絶たれた。しない方がいいんだ! 馬鹿みたいに。私が夢を膨らませ続けていたというのは事実だけども、それに成り代わる何かを模索しているんだ。満足をして、笑って死ねるような。何かを」

「違います。あなたはそれだけ挫折をしていても、自分や、他人の死に直面しても、誰かにあざ笑われても、、それでも外へ、冒険者になりたいと思っている。そう言ったように聞こえました」

「違う……違う! 理想と現実というのはいつだってかけ離れているんだ。夢想なんて意味が無いんだ。自分なりの、自分にぴったりの何かがあるはずなんだ」

 言いながら疑問に思う。

 ぴったりの何かなんてあったか? いや、なかった。今後も見つかるかは全くわからない。

 だったらこの際……もう……この際。いや……難しい。その事柄を認めるのは。

 落ち着け。少し興奮している。深呼吸だ。

 私はまず彼女に期待していた。話をした後に、私の深層にある気持ちをすくいとってくれるのを。

 そして事実そうしてくれた。言ってくれた。


『つまりあなたは、冒険をしたいということですね』


 この文言を聞いて、私は混乱した。混乱して、そしてそれを否定しようとした。

 なぜだ? なぜ必死になって否定したがる。

 そうだ。簡単に認められないからだ。

──それはなぜか。

 それを認めて行動すれば……やはり超えられない障壁の前で途方に暮れてしまう。私はまた現実を突きつけられて、絶望するのだ。そうに違いない。そうなんだ……また私は……

 そう予測が出来ている。きっちりと。

 だけど……だけど……なんで私はルーシェにこのまま否定をし続けないんだろう。

 決定的に、怒りをちらつかせながら、『まるで馬鹿なことを言うんじゃない! そんなことあるわけないじゃないか! そんなことを言ってもらう為に話したのではない!』などとわめいてその場を後にしないのだろう。

 ほら。もう無理だってわかっているんだ。絶望するという予測が立っているんだ。

 言ってみろ。言ってその通りにしてみろ。多分楽になれるぞ。そうして彼女と別れて、何事もなかったかのように、翌日にはまたいつも通りの生活に埋もれていくのだ。

 それはきっと楽だ。そういう形でもしかしたら私の過去に終止符を打てるかもしれないぞ。

今この葛藤を見て見ぬふりして……答えが出ておらぬと理解しながら……

さぁ……やってみろ……そうしてみろ。口と体を動かしてみるんだ。


 うっ……がぁ。


──無理だ! 出来ない! 出来るわけがない! 


 体中が悲鳴をあげている。そんなことしないでくれって。彼女の言葉を否定しないでくれって。

 違う! 体中とか、私という存在を切り分けて考えるな。そういう考えはもう止めるんだ。今のこの瞬間くらいは、踏んばってみせるんだ! あとほんの少しで見えてきそうなんだ。

 落ち着け……体じゃない……私が……他ならぬこの私が訴えているということだ。

全身全霊で、私という個が訴えているんだ。

……何を?

私が彼女のその言葉を宝物のように大切に扱いたいということをだ!

認めてしまった。ああ、認めよう! そういうことなのだよ!

 ここから先は……多分単純だ。心なしか頭がすっきりとしてきた。

 ならば結局、彼女がすくいあげてくれたものは私の期待していたその通りのものだったということ。つまり本心に限りなく近いものということだ。

 こうして第三者に目の前にぶらさげられて、突きつけられて、ようやく私は自分に向き直ることが出来たのだ。

自分を細部までつぶさに観察し、その状態を冷静に分析すること。それは全く恐ろしい行為だ。人間にしか出来ないだろうが、人間が出来る所業ではないと形容したい。私にとってはそれ程までに恐ろしいということだ。

だから先延ばしにし続けてきていたのだな。向き合うことを。怖くてたまらなかったから。

先延ばしにしている間に本心を深い所に沈め、心を違うもので書き換えようとしていた。

しかしいざこうなってみると本心は深い所になどなかったようだ。沈めたはずのものはすぐ

手の届く所にあったようだ。同じ所にずっとあったのだ。沈めた気になって、結局沈められなかったのだ。触れることが出来ない。それくらい危険で、ある意味では尊いものだから。そういう認識も全てひっくるめて、気が付かないふりをしていた。

心を何かで書き換えることなど出来なかったという結論は既にルーシェに言った通りだ。


 結局……認めるしかないのだ。

 私がなおも外を見て、冒険者にあこがれているということを。

 剣と魔法の世界に、また足を踏み入れたいというその願望を!



   ・


 私だけにしかわからない場所に埋めておいた、鉄の剣。

 捨てたという認識のはずだった。捨て場所に困って、埋めただけ。そう安いものではないから、ただ廃棄するのも躊躇ったのだ。売ろうとしても端金で買い叩かれるだろう。だから、埋めたのだ。誰かに見つかって、持ちされられてもしゃくだから、人目のつかないところに。

 掘ることには慣れていたから、剣を埋める作業そのものには苦労しなかった。あの時、私は無心だったろうか。

 別に、後で使うなんて思っていなかった。思っていなかったのに、私はぴたりと埋められた場所を思い出して、夜な夜な掘り出していた。かちんと堅い感触がした。鉱石ではない。

 それを引っ張り上げる。こんなに重かったのか。

 鞘から引き抜いて刀身を見てみた。全く手入れをしていなかったというのに綺麗だ。

 当然か。何も斬っていないのだから。あえて挙げるとすれば、風か、空か。

 一度振ってみた。振ったというよりは、持ち上げて、降ろした。地面に情けなく打ち付けられた。もう一度振ろうという気にはならなかった。

 しかし、この感情。抑えに抑え込み、見まい見まいとしていたこの感情。

 これはもう一度振るうべきであろうか。

 

   ・


「決心をされたのですね」

 結局私はあの時あそこまで結論が出ていながらルーシェに何を言うこともできなかった。

だが、また会う約束だけはしていた。

要するにもう少しだけ考えたかったのだ。頭を冷やしてなおも私は彼女の言葉を肯定するのかどうか。ルーシェにそういった説明を施さなかったが、この数日というのは私が一つの決断を考える期間であると、そして今日こそはその熟考した結果を打ち明ける日であると理解してくれているだろう。

 であるがゆえに、ルーシェは開口一番そう聞いたのだろう。

「決心というほど、大層なものでもないかもしれない」

「そんなことはないはずです。一体、どうされたのですか」

彼女はちらと私の腰に携えた剣を見た。

「別に。何のことはないのだ。暇つぶしさ。私は暇をもてあましていて、一人じゃ退屈だから。こんな腰の剣をね、まぁ」

「そうなんですね」

「ええ」

 彼女は意地が悪いことにそれ以上私に聞いてこなかった。待っているのだ。私がそれ以上踏み込むのを。嫌みには感じなかった。むしろそうしてくれたことに感謝を覚えるくらいだった。理由はやはり、私から踏み込み、私の口から、私の意思で物事を打ち明けることで、一つ心の整理がついたと自信を持てるからに違いない。か細い自信でしかないだろうが。

「一つことを成し得たいのだ。どんな顔をして、今更君に頼み込めばいいのかわからないけど、手伝ってくれないだろうか。お願いだ」

 散々場をためこんで私はそう言った。

 ルーシェは考える素振りをみせた。

「一時的にでいいんだ。少しだけ外に、一緒に来てはくれないか。君に仲間がいるのだってわかる。本当にただ一つのことを、私はやってのけたのなら何か変われるような、そんな気がするんだ」

「ええ。私でよければ」

 彼女ならば、そう言ってくれるだろうと信じていた。

信じた者が報われた。長らくなかったその構図を感じ取ることが出来て、私は感動を覚えた。


   ・

 

 思い立ったらすぐに行動を開始した方がいいというルーシェの助言のもと、直ちに私達は外へ冒険する運びとなった。少しだけであれば問題ないだろうとルーシェは楽観的に言ってみせ、私を奮い立たせた。

 今日そのまま、という覚悟はしていなかったのだが、心の準備が、と情けのないことを言うわけにもいかなかったので私はルーシェに流されるがまま門を目指した。

 以前、一度だけ訪れた大層な外への門。あの時の守衛はいるだろうかと見てみたが、知らない顔だらけだった。時が経った。彼もまた違う場所で仕事をしているのかもしれない。

 私は手に汗をべったりとかいていた。手だけではない、脇から、背中から、うなじから、額から。暑いというわけではない。体全身から絞り出されるそれらは、恐怖のにじんだものだ。

 前に門をくぐった時は無知で、ただただ前と上を見ていた。

 今は下を見ているだけだった。

 思い出されたのだ。前だけを見ていた私が直後に陥った事態を。そしてその後の顛末を。

 それら記憶が荒れ狂って精神に襲いかかるのを感じた。

 深呼吸をして紛らわす。

 大丈夫だ。大丈夫。問題ない。落ち着け。近辺にはそうそう凶悪な魔物もいない。あのニュルンという魔物だって、会えば即死というわけじゃないんだ。今は昼前。曇りがちだが、心地よい。散歩日和。そう、散歩をするだけ。散歩に恐怖する必要なんて無い。子供の使いだ。そうさ。

 それに今は、前と違うことが一つある。

 ルーシェの存在だ。

 一人じゃない。

 その事実を噛みしめることで、何とか一歩一歩進むことが出来た。

 再度確認する為に、丁度門をくぐった辺りで隣のルーシェを見た。

 私は驚愕した。いや、驚愕だなんて単純に言い括れない感情が私の中にあった。

 彼女の表情が、かつてないものだったのだ。会ってまだ期間は短い。それでも、私は彼女のことを大体の部分は理解した気でいた。気でいただけだからまずかったのか? 違う。今の彼女は明らかにおかしいんだ。

 青ざめて、この世の終わりが今にでも訪れてしまう予感をさせているような。心なしか肩もすくんで、前屈みだ。まるで私の現し身のようだ。

 あれだけすぐ近くなら大丈夫だといって、私を励まし、奮い立たせてくれた張本人だというのに。一体なんだ……この……説明がつかない!

私は夢中になってルーシェを観察し続けた。

 気が付くと足は進んでいて外に完全に出ていた。

 ルーシェが突然小走りになって駆けだした。私はその背中を見つめた。

 振り返ったルーシェが笑顔を見せた。それは不気味な笑みだった。

 彼女は普段からこんな風に笑っていただろうか。よく考えると彼女の笑う所をあまり見たことがないな。ともかくこれは……なんというか。

 いや、不気味だなんてそんな感想を持つのは彼女に失礼だ。きっと私を安心させる為に、彼女なりの笑顔を作ってみせてくれたに違いない。うん。きっとそうだ。

 もし、仮にそうでなければ一体何に対して笑っているのか全く不明瞭である訳だし。

「どうです。感動しませんか」

「いや。どうだろう。二回目だからか、そこまで感動はしないかな。でも、やっぱり開放感はある。あの先には城壁がないんだなって思うと、うん。やっぱりいいね」

「そうですよね! 本当!」

 度が過ぎるくらいに頷いて、目を大きく見開いてまた笑った。不気味であるという感想を再度持ってしまった。そしてそれはもう拭えなくなってしまった。

「一体どうしたんだい。なんだか君の様子がおかしいような気がして、私はついつい恐れることを忘れてしまっていたよ」私は抑えきれぬ疑問をはき出していた。

実際恐れてはいた。彼女に。

 彼女は何も言わず、また私に背中を見せた。しばらくそうして、景色なんかを眺めているようだった。

 再度振り返った彼女は、笑顔を消して、普通の、いつもの表情をしていた。

それを見て安堵することはまだ出来なかった。

「なんでもないですよ。ちょっと、ただ高揚してしまっただけです。深い意味なんてありません。そういう時ってありませんか? 今までしたことのないことを突然やりたくなるということとか」

「どうだろう」

 ひとまず彼女がそこからまた極端におかしな状態になるということはなくなった。

 歩いていると、段々とルーシェについてのそういった事象も些末なことに思えてきた。

どんどん歩いて国から離れていくにつれて、記憶にある道を歩くにつれて。

 そう。何の因果か知らないが、私が以前歩いた道と全くもって同じ道を辿り歩いていた。

「大丈夫ですよ。こっちは安全な道です。魔物なんて出やしませんから」

 ルーシェがそういうので、私は仕方なしについて行っていた。魔物は出たはずだが。という感想を持ちながら。魔物の出る出ないもなにか時間の経過で変わるのだろうか。単純に現われる可能性が少ないということだろうか。そういうことだろう。いつだって魔物が現われる気構えでいなければならない。そう思うと腹にきりきりと痛みを感じて、また嫌な汗をかくようになっていた。

 ひたすらに早歩きを続けるルーシェ。私はここの辺りの地理と、戦ったことのある魔物の話なんかを聞こうとしていたのだが、なぜか彼女の背中に声をかけることができなかった。

「そう急がなくてもいいんじゃないか?」

「いや、いいんですよ」

 その言葉の深い意味がわからなかった。彼女も気を張っていつ魔物が現われてもいいように身構えているのだろうか。

 彼女の仲間と比較したら寸分の役にも立たない、私という人間を引き連れているのだから、それは気も張ってしまうに違いない。うむ。なるほど合点がいった。

 そもそも彼女はあまり魔法を上手く使えないと言っていたし。そういえば、あまり戦闘には自信がないのだろうか。そもそもどういう魔法を使うのだ……?

 私は今更になって気が付いた。

 外に出る前に、もっと彼女と話しておくべき事柄がたくさんあったのではないか? 子細に、入念に。事前準備として。

 今回は外に出るだけということではあるのだが、あらゆる危険性を加味して行動に移さなければならないはずだ。戦力の不足は目に見えているし、私がいつ恐怖に落ち込んでその場を動けなくなるかもわかったものではない。それらを考えずに単純に外に一度出さえすれば色々と払拭され、新しい息吹が身体に吹き込まれるはずだ、とどこか楽観的になっていた部分があったのではないか。楽観だなんて私はしていた記憶はないのだが、今準備が足りなかったことの事実に初めて気が付いたわけで、結果的に楽観的であったということになる。

 もっと考えていくと、眼前の目標を明確に捉えることが出来ていなかった。先々のものではなく、まず一番手前、つまり今回における目標。今日は外に出るという、一応それらしいものがあるわけだが、一体どこまで? どこに到着するまで? 何をもってして成就というのだ? 精神的に満たされればそれで? 私の中に解答はない。

 精神的に満たされればよいというのもそもそも漠然としているが、もしそれをもって今回の冒険……とも言えない何かの成就とするのであれば、成し得ていない。むしろ、今後成し得る気がしなかった。

 一体どうすべきか。

 猛然と進むルーシェを再度見る。

 何となく互いのことを全てを話したという建前の元、個人の性質なんかを理解したつもりでいたけれど、実はそうではなかったようだ。

 今一番知りたいのは、単純に冒険者としてのルーシェ。彼女が一体どういう経験を得てきたのかということは私にとって有益だ。こればっかりは聞かなきゃならないだろう。もし聞けたのならば、少しばかりの活路は見出せるような気がした。

「それにしても今日は一体どこまで行こうか」

意に反して私は何か別のことを問うていた。

「そろそろ引き返した方がいい気がする。もう十分やっただなんて褒めることはできないけども、少なくとも第一歩か半歩くらいにはなったんじゃないかな」

 もうすぐ私がニュルンに襲われた地点に到達する。だからだ。私はこれ以上進みたくなかった。その願望の方が先回りした。議論どうこうは既に遅すぎた。

「もう少し進みましょう」

 ルーシェは有無を言わさなかった。口調が強いからいうわけではない。こちらを一瞥もせず、ただ前へ前へと進みたがるその姿勢が私の口を閉ざした。

 しかし私の記憶は刻々と鮮明に思い出される一方で、もうルーシェがどうとかは気にならないくらいに引き返したくなった。なので、声に出した。

「帰ろう」簡潔に、希望を。

 ルーシェはしばらく何も言わなかったが、ようやくして立ち止まった。

「それでいいんですか?」

「なぜ、君は今日という日にそこまで全てを賭けようとするんだ。あ、いや。君にとってはまったくこんなところ序の口であっても、私にとってはそうでないのだ」

 ルーシェは自然に私のことに気を遣ってくれると思っていた。こう言わないとわかってくれないとは、と意外になった。だが、彼女は私ではない。私の全てを知ってくれているなんてむしがよすぎる発想だ。なので私は口に出して、今の恐怖を伝えた。

「はっきり言って、ここに立っているだけで私は全裸で氷水に浸かっているような。例えが悪かったかな。しかしそういう状態なのだ。今日はもう、帰りたい」

「いいんですか?」

「いいと言っている!」私は声を荒げていた。

 彼女は振り返った。笑っていた。またあの笑顔だ。勘弁してくれ。

 私は彼女を知らない。冒険者や準備どうこうの話ではない。つくづくそう思い知らされた瞬間だった。

 その時、静寂に包まれていた周囲で異変があった。

 物音。

 私の鼓動は一気に高鳴った。動悸がして、呼吸も険しくなるのを感じた。

 なぜなら、全く同じだったから。

 いや、微細な違いはあったのかもしれない。事細かに思い出していけば差異ははっきりとわかったかもしれない。しかしそいつが草むらから出てきたということと、今の気候と時刻と場所がもう私にとって全く同じといえるような状況だった。奴、ニュルンと初めて出会った時と。

 一度目の時のように、奴は警戒するようでもなく草の隙間からゆっくりと姿を現した。薄緑の体液。

もしかしたらそうなるんじゃないかという漠然とした気配はあった。運命だなんて魔物に感じたくはないが、こうなるともはや運命的である。

 もしかしたら私は今回こいつにまた遭遇することを望んでいたのかもしれない。

 なぜならこいつは私にとって宿敵だ。例の障壁だ。こいつを倒せれば何か変わり、一つ何か、私の中で打ち克てるかもしれないのだ。

 今こそそれが成就出来る機会なのだから、喜ぶべきだ。勇んでもう一度戦うべきだ。

そうすべきなのに、なんだこの震えは。 

 また私が無様な形で圧迫される。そんな光景しか想像出来ない。腰に据えたこの剣で、一刀両断している姿なんてまるで思い描けない。剣を握って振るうところすら。

 また剣にはっついて、身体に……顔に。

 駄目だ。手に取れ。手にとって戦え。勇敢に。冒険者として。

 暢気に震えている場合か!

 私のどのような心内の激励も意味をなさなかった。立ちすくむというその行為でしかしばらく相対出来なかった。

 動けたのはようやく生命の危険を感じた瞬間だった。なるほど命というのは尊いらしい。ニュルンが足下に来て、私の足下にまとわりつこうかという瞬間まで動けなかったのだ。

 私は踵を返して全速力で駆けていた。

 しかし思い出されるルーシェのこと。

 足を止め振り返る。

 淡い希望が実のところあった。杖を取り出し、魔法を使い、既に倒していて、平然とした表情で私に大丈夫ですよと一声かけてくれるという。

 現実はいつだって辛辣だということを私は理解した気になって、全く、一分も理解していなかった。いつだって。これからも理解は出来ないかもしれないと頭をよぎった。

 彼女は立っていた。遠目で、どんな表情をしているかはわからなかったが、とにかく立っていた。何をする素振りはなかった。

漠然とした不安が頭をよぎった。

 この光景。

 今逃げ帰ったら私はどうなるだろう。もちろん自分の一抹の自尊心が泡と化して消える。ルーシェに対しても顔立てが出来ない。

 そして、ルーシェはニュルンに勝てるのだろうか。

 私は彼女のことを知らない。私だけ逃げて、もし仮に彼女がニュルンにやられたら? 彼女は冒険者として旅をしてきたはずだ。そんなことはないと多寡をくくるのが常識的なはずなのに、あの不気味な笑顔を思い出しながら、彼女が今棒立ちなことを見るとどうしてもそう思えなかった。考えすぎか? そうなのか? 私が彼女の心配をするだなんて、全く立場が違うじゃないか!


 駆けだしていた。なるほど他人の命も尊いらしい。もちろん自分が後味を悪くしないという為だけの利己的な行動だったのだが、その保身は私を突き動かす為に最適な効力を発揮してくれたようだ。

 走りながら腰の剣を取り、助走を付けて斬りかかるのが私の理想であったが。やはり……やはり、現実は辛辣だ。剣は重かった。走りながら手に取って構えるなんて私には無理だった。

 一度立ち止まってから剣を取り、近付いていくことにした。攻撃可能な範囲まで到達。ニュルンを見据える。互いににじり寄っていく。

「倒そう。こいつを」

「ええ」

 ルーシェを見た。

 遠目から見たのは幻覚だったのか。今は既に杖を構えていた。私の勇気が変えたのかな。と勝手に妄想した。とにかく助かった。二人がかりならなんとか希望が出てくる。顔にはっつかれても、はがしてもらえばいい。そうだ。今は二人なのだ。

 そのように理解しておきながら、私はなおも混乱していた。何とかしようという感情だけが先走っていた為、考えなしに剣を振りにいっていた。

 その結果、空を切った。鈍重な太刀筋であったと思われる。こいつはやはり危機に敏感らしい。体液の硬度を変えて、左へくるりと反転した。

 すぐに振り下ろした剣を引いた。飛び移られたらまた無力化されてしまう。

 落ち着け。大丈夫。落ち着け。二人いるんだ。力を合わせれば事なきを得る可能性が高いはずなんだ。

「君は一体どんな魔法が使えるんだ」

私はニュルンを注視したまま言った。

なにやら動いているのだ。もぞもぞと体液を流動させて。それが攻撃の予兆なのか判断がつかなかったが、嫌な予感はした。

「なぁ!」

 返事を促していた。聞こえているはずだというのに、彼女はなにも言ってこない。

 ちらと視線を彼女にずらした瞬間だった。

 私が彼女の状況を知る前に、ニュルンが飛びかかってきた。地面から跳ねるようにして、私の胸元に。硬度を変えて、器用に飛んだのだろう。なんて奴だ。

 私は飛んできたニュルンを何とか剣で防ぐことに成功していた。防ぐというより、偶々飛んできたニュルンの軌道に剣があったというだけなのだが、とにかく体に飛びつかれるという事態は防いだ。

 しかし、剣にまとわりついている。

 恐怖が体を駆け巡った。

 大丈夫だ、二人。二人いる。私は呪文のようにそう心で唱え続けることで何とか自分を保てた。

「ルーシェ、魔法だ! 魔法を使ってくれ」

 戦略的には間違っていないはずだ。私がニュルンを引きつけ、その内にルーシェが魔法を使う。自分でどうこうするつもりはないという全く他人任せで勝手な作戦かもしれないが。

 ルーシェは走り出していた。

 なんだ、ようやく加勢してくれるのか。私に冒険者としての教訓を与えるために試練を課していただけなのだな。もったいぶって。後で何と言ってやろうか。意地悪だ。

 心が緩んだ一瞬にルーシェは私の後ろを通っていった。僅かに風切り音が聞こえた。

 あれ。どうしたのだ。距離を遠くに保つことが必要なのか。そういう魔法なのか。 

 彼女は全速力だった。脇目も振らず、私に背中を向けて猪突に来た道を突き進んでいた。

 こちらを振り返ることもしなかった。段々と遠のいて、全く見えなくなろうかというところで私は自分の考えが見当違いではないかということにようやく気が付いた。希望が、絶望へと徐々に移り変わっていくのを実感した。

 何をしているんだ。彼女は。

 まさか……? いや。まさか。そんなまさかがあってたまるか。

 疑念の渦に溺れている暇はなかった。

 手首に感触。奴が形を変えていた。ここから硬度を変えて、私の身を束縛するつもりなのだ。

 まず何も考えずに、体を動かした。無我夢中に。思考する余地はなかった。一人だ。もう、一人になってしまった。あの時と同じ。

 何度手をゆすってみても奴の吸着力を揺るがすことは出来なかった。焦りがどんどん募っていく。不眠で手を動かし続けたあの時の記憶が蘇ってくる。駄目だ。今度あんな状況になったら死んでしまう。

 逃げることしか考えなかった私は、思いもかけない僥倖に当てられた。

 奴は予想通り固くなったのだ。固くなったのだが、私はその前に服を脱いでいた。どうやって脱いだのかわからなかったが、とにかく脱出。奴が服に乗り移っている隙に、剣を取り、駆けた。 

 二度目の敗北。息を切らし、走りながらその事実が重々しくのしかかってくるのを感じた。


   ・


 ルーシェに一体何が起きたというのか。

 無事に帰宅が出来た私は、ひたすらに考えていた。推測できる多くの事柄はあるのだが、それらをこねくりまわしてみたところで、どのような推測も推測でしかなかった。何をもってしてもルーシェを決定づけることが出来なかった。可能性どうこうの話ではないのだ。

 結局そういう結論に至ったので、私はまた彼女の姿を探そうとしていた。

私達は疎遠になっていた。あの後一度も会っていないのだ。それが何を意味しているのか、ということもはっきりとさせておきたい。

 私の方は出来ることなら会いたいという気持ちがある。いや、会わなければ何にもならない。なので、以前情報を知り得たあの界隈でなら容易に見つけ出すことが可能であろうと足を向けようとしていた。だがしようとしていただけであった。先延ばしにして、結局行かない毎日。

再びニュルンに敗北して打ちのめされたという事実が、一方でありありと眼前にぶらさがっていたので、そに打ちのめされる毎日でもあった。しかし場合によっては、ニュルンへの敗北は大したものではないかもしれない。ルーシェへの感情と、敗北。別個に捉えることはできないが、あえてそうするのであれば……そうだな。やはり、前者の方が気がかりではあるのかな。ならばさっさと行動に移せばいいのに。

 一番私にとって気がかりなのは、私とルーシェの、大なり小なりの信頼関係を損なわれた可能性があるということだ。冒険に関してもそうだし、人間的な、情念や性質についてでもある。私は過度な期待をしていたというのか。それとも、この信頼なんぞはそもそも虚構でしかなかったのだろうか。一方的なものだったのだろうか。

 ニュルンと対峙した時のことを思い出す。

 あれを逃走ととっていいのかもわからなかったが、もし仮に逃走だとするのであれば、ルーシェの方から私を探し出すのが道理のような気がする。

 いや、だが……よくよく考えればあれを敵前逃亡と言わずになんと言おうか。仮定はどうあれ、結果的にはそうでしかない。とすると信頼を損なった直接の原因というのは他ならない逃亡だ。私は小さな、本来守るべきものでもない自尊心を守る為に、自分から、という行動を抑制しているのかもしれない。


 だが事実はわからない。

 思考の堂々巡りである。私はこういう際限のない思考の循環に陥ることがひどく多い。無益だと理解していながらルーシェのことに頭を悩ませている内は他に雑念が入り込む余地がないのだ、というとても矮小な発想から、繰り返し思考してしまうのである。それも等しく無益だというのに。


 

 それからいくらかの月日が経過した。

 私はルーシェへの感情をもてあまし続けながらも、やはり行動には移さないままだった。

 私に変化はあった。時間が経つにつれてその感情は変容していったのだ。苛立っていた。憎悪していた。侮辱されたと感じていた。総じて怒っていた。

 何なのだ、あの女は、という感情。

 私は彼女にどこか見出していたのだ。自分を誘い、導いてくれるなにかとして。いっそのこと、強く言葉で突き放してくれたほうがせいせいした。無駄で、過度な期待こそが私の怒りを増幅させていた。

 あれだけ自分を包み込むように、やれ冒険だと示唆しておいて。一度外へ出て、私を一人置いて逃げて、それっきり。侮辱以外の何ものでもないじゃないか。そもそもあの時なぜ彼女は戦わなかったんだ? 始めは彼女が魔法を使えない何か要因があったのかもしれないと思ったのだが、そもそも最初から私をからかうつもりだったんじゃないか? 結局単なる、都合のいい暇つぶしの対象でしかなかったのだ。運命的な邂逅でもなんでもなかったのだ。

 彼女はそもそも私なんかがいなくても仲間がいる。暇をもらったと言っていたが、時間が経過した今、既に私のことなど忘れてのうのうと旅立っているかもしれない。いったいどの面をさげているのだろう。罪悪感はないのか。かろうじて生きて帰ってこれたからいいものの、死んでいた可能性だってある。

 腹が立つ。

 しかし一方で私はまだ彼女の某かの部分を信頼してしまっているから始末が悪い。すがろうとしているのだ。これだけの怒りをもってして。自己嫌悪しながらもそうせざるを得ないと認めてしまって、さらに私という存在の些末なことに気が付かされる。

 また、元に戻るかもしれない。

 まだ意識は外に向いている。しかし一人では一向に何も出来ない。ニュルンにすら負けるのだ。奴らが言っていた、最弱の魔物に。それで外に出て冒険だなんて誰が思うんだ!

 開き直って負けを認めたところで空しいだけだ。いや、いつだって、これからも私は空しい気持ちを抱えるのだろう。

 また戻るのだ。いや、戻るしかあるまい。彼女と出会う前の私に。

「お兄ちゃん」

 扉の奥からミナの声が聞こえた。

「なんだい。昼飯なら母が机に置いておいてくれただろう」

「違うの。誰か来てるよ」

「今は両親は留守だと言っておいてくれないか。あいにく私は塞ぎ込むのに忙しいんだ」

「違うよ。お兄ちゃんに会いたいって」

「え?」

 その一瞬前まで怒りをもてあましていたというのに、小さな希望がはっと膨れあがったのを感じた。自分への嫌悪感も同様に膨れあがった。

「誰だ?」

「女の人だよ」

 確信した。確信して、私はもう希望がにじみ出んばかりに喜んでいたのだが、嬉々として階段を降りてしまったら自己と彼女に敗北を喫してしまう気がしたので、ミナに「部屋に呼んでもらってもいいかい」と言った。

 勝つ負けるという話ではないのだが、私の中でこの怒りがしぼんでしまうのは情けないことであるし、怒りを持って彼女と会いたかった。

 ミナの階段を降りる音が聞こえた後、しばらくして二人分の足音に変わった。そしてまた一人分の降りる音が聞こえた。恐らくミナの足音だろう。

 私はこちらから出迎えようとはしなかった。あちらから何か言うのをひたすら待った。

「あの、オデロさん」

 ルーシェの声だった。確信していたというのにいざ本当に来たのだなと思うともう私は飛びあがる程に嬉しかった。

「なんでしょう」

 しかし私はそんな感情をおくびもださずに声色を沈めた。全く素直ではなかった。

「入ってもいいですか?」

「君が入って、私の顔を見たいというのならそうすればいいさ。だけど、君が想像力豊かだったなら、私がどういう表情をしてここに佇んでいるかを、いたかを、思い描けるだろう」

「それは、入っては駄目ということですか」

「入りたかったら入ればいいと言ったさ。その、固辞するという訳ではないし」

 つまらない強がりだということはわかっていながらこんなことを言ってしまうのは、彼女の声が弱々しく、反省したような声だったからに他ならない。そこにつけ込んだという次第である。

「では、そうさせてもらいます」

 私は肝を冷やした。くだらないことで喧嘩別れしてしまったら、それが今生の別れとなるような気がした。『そうさせてもらう』とは一体どちらなのか。入ってくるのか帰ってしまうのか。      

駄目だ。帰らせてはならない。階段の降りる音がしようものならすぐさま立ち上がろうと準備をした。

 扉の開く音が聞こえて安堵した。

 彼女は初めて会ったときのように凜としていた。この前見せた薄気味悪さは払拭されていた。果たしてどちらが本当の彼女なのだろう。

「やぁ」

 私は平静を保って彼女に挨拶を告げた。

「オデロさん……」

 彼女はばつが悪そうに俯いているだけだった。

「とりあえず座りなよ。なにせ堅苦しい部屋だからね。振る舞いくらいは自由にしてくれて構わないよ」

「歓待してくれているんですね」

「どうだろうね」

やめておけ。もうこれ以上余計な強がりは。何度も自制を試みるが、駄目だ。このままでは価値のないあてつけを彼女にするのが目に見える。

「正直言ってよく思っていない、そうでしょう?」

「なるほど。君も私と同様に色々とあれこれ考えを巡らせていたらしい。互いに何を思っているか。であれば私達が気持ちよくことの清算をするのに一番利口なのは、正直に打ち明けることだ」

 ルーシェは再度顔を伏して、私から目線を外した。やっぱりそうなのだ。後ろめたいことがあるらしい。安堵した。無神経に彼女が逆立ってくるようであればもう私達の関係は終焉に近付いただろう。

「そう言った私から正直に打ち明けると、君のことが頭にこびりついて眠れなかった。よくよく考えてみると悪い意味でね。ただでさえ私は私なりの決意を持って重い腰を上げて外に出たというのに、いや、そういう決意をさせてくれた点では本当に……君に感謝、すべきなんだろうけど。でも何したって一緒だって気持ちにもう一度なってしまっている。二回目の敗北を喫してしまったからね。結局以前と進展がないままで。永久に同じ所で。夢想を持って潰えて、夢想を持って潰えて。違う夢想を持てないって君に気が付かされたけど。どうしようかなという気持ちになってしまっている。もっというと、君に悪い感想を持ってしまっている」

「そういう気持ちにさせてしまったことに対して、私はごめんなさいとしか言えない。本当に……ごめんなさい」

 彼女は心の底から悔いて、謝罪しているようだった。

 私はそんな彼女の姿をみて、なんだかいたたまれなくなってしまった。

一方的に言い詰める権利が私にあっただろうか。

そういえば彼女のことを私はまだ知らないままだ。もっと彼女のことを知ってから、その上で吟味した気持ちを打ち明けたほうがよかったんじゃないか。

「その……そこまで落ち込まなくてもいいさ。私は君が思っている以上に深刻にことを考えていないから。なんせ生きて帰ってこれたからね」

 私は少し笑顔を交えて場の雰囲気を和ませようとしただのだけど、顔がひきつるだけだった。上手く微笑むことが出来ていなかったと思う。

「ただね……知りたいんだ。君があの時何を考えていたのか。あるいはあの日に至るまでに何をしてきたのか。そういう……君のことを、私に話してはくれないか。それで互いに気持ちを整理できるかもしれない」

「私も話をしても?」

「ああ。構わないさ」

「実は今日。そういう気概を持ってオデロさんの家にお伺いしています。遡って、前の方から、私という人間を話していこうと。オデロさんの為に。そして私の為に」

 彼女はまた私に視線を戻した。確かに決意が宿ったような目をしていた。

「遡って、ということでしたが、まずある一定の事実、結論から言ってもいいでしょうか?」

「君の好きなように話せばいいさ。私は君のことをよく知らない。最近切にそう思い知っているから。君のことを知れれば話の順序などどうでもいいことさ」

 彼女は眉間にしわを寄せて、もう一度視線を落として、間を作った後にようやく口を開いた。

「私は嘘つきです。生来の。とんでもない嘘つきなのです。オデロさんをだまし続けて来ました」

「嘘……?」

彼女は誠実そうだ。自分が嘘つきであると言われても全くぱっとこない。

「私は魔法が使えません。冒険だってしたことはありません。名家だってありえません。ただの農家の子供です。真実を一つあげるとするならば私って、嘘つきで本当に馬鹿なんです」

「人間って言うのは」

「いや。私は虚言につつまれた人間です」

彼女は私が抽象的なことを言うのを止めるように言葉を差し込んできた。

「あの時……初めてオデロさんに会った時。私は全てを話すと言って悩みを打ち明けましたが、あんなものはつまりでっちあげたものだったのです。私が私の中で作った創作です。それをオデロさんは結果的に全て信じてくれて、私に全てを話して返してくれましたね。そしてそれを聞いてしたり顔で冒険しましょうなどと言ったのです。嘘つきが自分のことを省みずに他人の生き方についてとやかく口を挟んだのです」

 確かに私は全てを真実と受け入れていた。

「さらに罪を告白するのであれば、あの時私はオデロさんを見下していました。あぁ、愚かだなって。私の方が何倍も愚かなのにですよ? 私の嘘に気が付いていないとほくそ笑んで、被害者ぶって安心しきっていました。私の嘘は嘘でないほど迫真性があるのだな、と思っていました。だから結果的に嘘じゃないかもしれない。そんなことを考えてもいました。これ以上話をしても?」

「構わないさ。私の気分を害するかどうかなんて気にしないでいい。この部屋はやはりただでさえ狭いからね」

「私という人間は演技をし続けているんです。嘘を吐いて、生きているんです。しかもその嘘を嘘と考えないようにしていて、自分の中では嘘とわかっていながら真実になりかわってしまう場合が多々あるんです。発端は単純です。私は魔法を使えるものと信じているから。ただそれだけです。そこから嘘も、周りへの演技も全て始まったのです。魔法を使えるだろうって所に関しては今も昔も変わってはいないのです。その信頼こそは、こうなった今でも全く損なわれていないのです。そこが始末に悪いのです。生きていることに関する希望を、全て魔法に見出しているんです。面白いですか?」

「ちっとも。君は真剣なのに笑う気なんてない」

「そうですか。ありがとうございます。オデロさんは魔法に関して何か知っている所はありますか?」

「そうだな。魔力を持った家計に生まれなければ魔法を使うことは出来ない。確かそういう、才能と運に恵まれなければいけないんじゃないか」

「ええ。才能と運はどうしても必要なのです。努力で拭えない圧倒的に天賦のものが。しかし、必ずしも魔力を持った家計という条件が必要な訳ではないのです。もちろん可能性としてはその方がぐっと高くなりますからそれに超したことはないのですが。ある日突然魔力を持った人間が生まれるということもあるのです。私は自分のことをそうだと思っています。幼少期、魔法に恋い焦がれてから。根拠はあるんですよ。私、魔法を一度使ったことがあるんです」

「なんだって? だったら、君は才能があるんじゃないか」

「そうです──違うっ! そうじゃないんです。どっちですか。わかりませんよ!」

 彼女はまたあの時見せた不気味で、憂いたような笑顔を見せた。これが彼女なりに混乱しているというような外面なのだろうか。

「一度でも使えたのなら、そうなんじゃないか?」

「一度でも使えましたよ。はい。本当……嘘。じゃない。使えた? いや、使えましたよ! 嘘なんかじゃないですから……本当ですとも」

「落ち着こう。大丈夫だ。この部屋では誰に気を遣う必要も無い」

 ルーシェは何度も呼吸を繰り返して、ようやく平静に戻った。

「そうです、これが真実と嘘の狭間を右往左往してしまう理由に他ならないんです。私は過去魔法を使えたことがあるのかどうか? というところを私は以前から、その使った時から明確に自分の大事なものとして守っていて、はい使えましたと言えるところなんですけどね……ごめんなさい。嘘です。そんなことも嘘なんです。またつまらない嘘を吐きました。はい使えましただなんて言える訳がないんです。だって、もう最近ではその記憶も薄ぼんやりとして、かすみがかっていて、曖昧としていて。仮に使えたというのなら今も使えるわけで」

「でも、今までずっとそう思っていたのならば、確信に足る一定の現象は起きたわけなんだろう?」

「わからないんです。もう」

「君が使えたというその魔法はどんなものだったんだ」

「光が一挙に手に集中して。矢のように飛んでいって。それくらいのことしか思い出せません。なにせ本当に昔のことで……もしかしたら夢の中のことで、勝手に事実をねじ曲げてそう思い込んでいるだけかもしれなくて……実際私は今魔法も何も使えていないのだから、その可能性が……高いんです」

「いや、前にも言ったように、人間は全てを話すことは出来ないと思う。だから、上手く話せないのは仕方がない」

「私、オデロさんの前でなら自分に正直でいられると思ったんです。理由というのが、この人は何か私以上に苦悩していて、そしてどこかに嘘をついて生きていそうだったから……というどうしようもないものなのですが。自分より苦しそうな人間に、ちらちらと自分を見せることが出来るかと思ったんですね。あの時ああやって、探し続けていたのは、そういう思いがあったから。それに、少しでも自分の気持ちを……嘘を嘘だと指摘してくれそうな気配があったから……事実、最初にあったあの日、それに似たことをしてくれた」

「私は私の強がりで君を陥れただけさ。前に言った通りだ」

「事実がどうだって構わないんです。私がそう思ったのですから。オデロさんの前では拙い嘘をつかず、正直でいられるかもしれないって。大切なのは、その点です。本当に私が心の底から真っ直ぐでいられて、嘘をつかずに接することが出来るかどうかだったのです。でも結果は駄目。あの時外に出る前に正直に打ち明けるべきだったんです。そうあるべきだったのに、私は何も打ち明けないまま一度も出たことがない外へ行き、魔物に出会い、恐れ、気が触れたように逃げ帰った。というただそれだけなのです。深い意味なんてありもしません。要するに私が愚かな嘘吐きで居続けたということなんです」

「しかし君はこうして戻って来てくれた」

「今日はもうお別れを言いに来たんです」

「何を言っているんだ」

「認めてしまったんです。私は、私は魔法なんてもう使えるわけがないんだって! もう幻想に蓋をしてしまった方がいいんだって! 外に出て、魔物と対峙しても何も出来やしない。おかしいですよね、実はあの時、魔物と出会ってみれば何か覚醒めいたことが自分の内に起こるような気もしていたんですよ。オデロさんに嘘をついているということは自覚していたのに。そういう愚かな希望を持ち続けているから、他人に迷惑をかけてしまうんです。そう迷惑を。結果的にかけてしまった。オデロさんにひどい仕打ちをしてしまった」

 彼女は声を荒げていた。ここまで感情的になっているのは初めてだった。

「だから、もうこれ以上外へオデロさんとは行けません。私は何も出来やしない、馬鹿な人間なのですから。そこに、オデロさんの希望を含ませてしまって……本当に何も出来やしないのに! 夢を見て、見させて……さよなら!」

 彼女は突然の宣誓と共に、一挙に翻して階段を降りていった。

「待て! 待つんだ!」

 そのように呼び止めることは出来たのだが、それ以上かける言葉が見つからなかった。

 追うべきだったのか、どうなのか。

 私は立ち尽くし、彼女の背中をそのまま見送った。






   Ⅷ


 彼女の告白を吟味して、行動を決して言葉を投げかける資格が私にあるのだろうか。

 彼女は一心に魔法を使いたいと願っている。だがそれははっきりと言えば不可能に近いのではないだろうか。彼女は魔法を使えないという事実。それが既に結論を導き出している。

 彼女だってそれに気が付いているはずだが、ほんの毛の先が入るほどの隙間にある希望を見出している。何か奇跡的なことが起きて、魔法が使えるようになるのではないかと。彼女も言っていたように、朧気ながらも一度使えたという記憶があるからこそ、そこを見つめ続けなければならない。

 無神経に、その希望にすがり続けようと私は言っていいのか。疑問であった。

 しかし、一つ間違いのない気持ちは存在している。

 もう一度彼女に会って話したい。その気持ちの外郭にどんなものがこびりついていようが、揺らがない。

 考えてみろ。私を動かしたのは、間違いなく彼女だ。その恩を返す、というわけではないが私の方から彼女を突き動かしてみるというのは筋道が通っているような気がする。一つの当然な礼節というような。

 気持ちの整理という私のが得意としない部分であるし、あれやこれや今自室で考えていても結論が出ない可能性が高い。と気が付けた私はいささか聡明になれたのだろうか。

 

 だから探そう。もう一度彼女を。


   ・


 大層な労力を使うまでもなく、彼女に遭遇出来た。 それも日をまたがず、晩の内にだ。

 彼女はロムサラスで酒を煽っていたのである。

 もしかすると彼女も私のことを待っていたのかも知れない。いや、考えすぎか。ただ一人で酒を飲みたかっただけだろう。

 彼女は私の同席を拒まなかった。

 結構飲んでいるようだ。顔が火照っている。

 着席し、お互いに沈黙した。あのような物別れの後だ、致し方ない。

「一つ、言いたいことがあるんだ」

 私は酒を待たずにそう宣誓した。むしろ酒の力などに頼ってたまるかと意固地になっていた。

「私は成し遂げたいことがある。今までは外への冒険という漠然とした大きな目標を掲げてきたけども、今回は違う。あの宿敵とも言えるニュルン。奴を倒したい。一人でじゃない。君と。決して臆病だからというわけではない。君と行動を起こすことに意味があると思っている。どうだい」

 彼女は別段私の言葉に心を打たれた様子はなかった。私は私のやりたいことを勝手に言っただけだから、当然かもしれない。しかし勇気が要ったというのは気が付いて欲しかった。

「あの魔物を倒せば何か変わるんでしょうか?」

「それは、私だってわからないよ。でも、私と君が一つ明確な目標を持つのには非常に適切だと思わないかい?」

「私はそれでも魔法が使えるようになるというわけではないので……どうでしょうか」

「無論、奴を倒して魔法が使えるようになるかといえば可能性はほとんど低いかもしれない」

 しかし……もうこの際諦めてしまえばいいんじゃないか。そういう言葉が出かかったことに私は胸を痛めた。私だって、冒険者を諦めろと言われて途方に暮れてしまい、事実頭を悩ませる羽目になったのだ。おいそれと簡単に彼女を刺すことを言えてたまるか。

「けれど、使えるようになるかもしれない」

 しかし私はどのみち刺してしまった。違った形で。これは半ば無理やりひねりだした言葉だった。彼女を私と同行させるため。

「根拠はないが、仮に冒険で一つの目標を達成できたならば魔法が使えるようになるかもしれないじゃないか。実際、あの時君はそういう希望を持ち続けていたそうじゃないか。倒したらどうなる。本当に覚醒めいた何かが訪れるかもしれないじゃないか。私だって、もっとこの思考と身に変化が起こるかもしれないと心湧く部分があるのだ」

 これも強がりかもしれない。なんだ、本当に言いたいことではない気がする。

 そこを隠してはいけないのではないか。正直に

「すまない……根拠もなしにそう言うことは不躾かもしれない。でも……そう信じて何かをすることは決して悪くない行為というか……いや、この際はっきりと言おう。私は君とそうしたいのだ。なにか必然的なものを感じる。いいかい、ちょっとくさいことを言うけども、君が恥ずかしくなって目を背けたくなったらそうしてもらって構わない。そうして、今から言うことを聞かなかったことにしてもいい。ああ、運命的な何かをね、はっきりと感じたのだよ。私達は二人で何か真剣に苦悩しているから、真剣に行動をしてみるのもいいかもしれない。こんなことを君に打ち明けて、提案できるのは、やっぱり運命だよ。違いない」

 彼女は目を背けなかった。私をじっと見ていた。私の方が気恥ずかしくなっているようで、顔が火照っていた。だが今放った言葉に満足していた。恥ずかしいというわけではないな。照れだ。これは。その照れに加わり、清々しさも覚えていた。

 彼女は間を置いて、口を開いた。

「わかりました」

「本当かい?」

彼女の表情は決して晴れやかではなかったが、私のこの提案に乗ってくれるようではあった。

「はい。お供します。本当に、何かが変わるのならば……」

「変わるさ。変わる。違いない。私達は今まで何もしないままだったんだ。私はもっと外に希望を出して、君は魔法を使えるようになる。信じよう。信じて行動してみようじゃないか」

私がなぜこのように言えたか。持った夢想が潰えると知っていた私に。

 それはやはり、私一人でなく、二人で実現するということに意味があったように思えたからだ。

 ルーシェ。私を突き動かしてくれた彼女がいるから。

「やると決まったからには本当に私は勝つよ」

 そう言った私の中に沸々とかつてない闘争心が芽生えるのを感じた。

同時に気が付いた点があった。

 私は思考を放棄していたということ。実際に戦っている最中も、戦った後も。今に至るまで。どれだけ思考せずにいたというのだろう。他のことに気を取られすぎていて、どうしたら奴に勝てるかということを全く考えていなかったのだ。

「一つ反省するのであれば、私達は準備不足だった。異常なまでにね」

「それはそうですね。でもごめんなさい。私がやっぱり知ったふりをしていたから。それで」

「済んだことさ。君は自分で罪だと思うことを告白した。それで十分じゃないか。君は戦闘において何が出来る。当然私も偉そうに言えたものじゃない。が、冷静に、自分たちに何が出来るのかという点は客観的に見直さなければならないだろう」

「棒術ですね」

「棒術か。他には」

「その……ありません」

「大丈夫さ。これから増やしていけばいい。しかしあの体液だと打撃はかえって悪手かもしれん。かといって斬撃もな」

 遅い、私の太刀筋が目に浮かんだ。

「私達は戦力を底上げするのに、何をすればいいんだろう。私が出来ることと言えば……ないな」

 絶望感が辺りを漂ったのを感じた。

「私に何か意見などないかな? これがあった方がいいとか」

「やはり、剣技ですかね」

「剣ね。うん。決してそこに目を背けるわけじゃないんだけどね」

「オデロさんの持っていた剣はかなり重そうでしたが。あの剣でなく、かなり小ぶりのものでもいいんじゃないでしょうか?」

「剣を変えるのか」

 賢い一つの手段であることには間違いがなかったのだが、私はあの剣にこだわっていた。

「私はなんだかあの剣で奴を、ニュルンをたたき切ることが出来たならば言い様のない快感を得られると思うんだ。物理的にたたき切るというだけじゃない。今までの私の情念を、あの日と同じこの剣に宿し振るうことによって昇華してくれるのではないかと期待しているふしがある。歳月を経たこの剣で。全くの世迷い言で、自己満足だと言われればそれまでなのだけど、人間はやっぱり自己満足の為に生きているようだからね。話が飛躍しすぎたかな」

「オデロさんがそういうのならば全く止めませんよ。ふふ。そうね。素晴らしい言葉だと思うわ。人間は自己満足の為に生きているって」

 彼女は久々に、自然な笑顔を私に見せた。よかった。私の提案が功を奏したのだろうか。

「こんなわがままを言った私なのだが。奴に対抗する手段というのはどうやら少ないようだ」

「そのようですね」

 私達は二人で唸った。唸っても何も出ては来ないだろうな、と思ってしまった時点で私は思考停止状態に陥っていた。

 あの剣で攻撃し、勝つ。それ以外に何か提案できることは。

「冷静に分析をしてみると、あの魔物はそこまで脅威ではないように思えます」

「というと?」

「言葉の通りです。だってそうでしょう。やろうと思えば全速力で走って逃げることは容易ですから。事実、私達は逃げ切りました。それに二人いればどのような攻撃を受けても片方が援護に徹すれば窮地に陥ることも少ないように思います」

「なるほど。君の言うとおり、こと移動速度という点においては奴はのろまだ。劇的な攻撃能力もない。間違いない。しかし今回私達の目的は奴と真っ向から対峙して戦い勝利することだからね。近距離での戦いとなると、奴は体液を駆使して、瞬発力のある攻撃をしかけてくる。あの辺りは侮れないだろう」

「常に一定の距離を維持して戦えばいいのではないでしょうか」

「今私もその結論にたどり着いた。しかしだ。剣を持って制するという目標を掲げてしまった以上、ある程度隣接して戦わなければならないような気もする。というより、そうしなければならないんだ。じゃないと心残りが出来てしまう」

 そうまでして自分のわがままを通すべきなのか。言ってから考えてしまう。すべきではないな。考えることを放棄していたと先程猛省したではないか。ひとまずは勝利。勝利だけを志す。それだけでいいのではないか。むしろそれ以外のものを貪欲に求めてどうなるというのだ。

 そう考えておきながら、私は自分が勝利以外のものを密に求めているのを頭の片隅で感じ取った。

 いや──そうか、そういうことか。そうに違いない。

「そう、ですね」

 ルーシェはどこか納得しないような表情だった。

「確かに君の言うとおり二人で再度心してかかるのであればそこまでの脅威はないと言えるね。私は過去奴に殺されかけたことがあり、かつ二度の敗北を喫したから過大評価し過ぎていたのかもしれない。だからこそ……もちろん何も考えずに突進するというわけではなく、考え、理を詰め、理想の勝利を得るべきではないだろうか。真っ向から奴と勝負するべきではないだろうか。ある意味では向こう見ずの突進かもしれないが、私達にとってすれば、それこそが計算されつくされた行動なのではないだろうか」

 彼女は何も言わずに私から視線を逸らした。それが肯定なのか否定なのかは判断が出来なかった。

「そうだ。私達は覚醒するべきなんだ。ここでいう覚醒というのは本当に色々な意味を含んでいるよ。君は一筋の可能性にかけて魔法を習得すること。私は過去の一切を振り払えるような劇的な……うまく言えないが、改革が生じることを願望として持っている。それ以外の、様々な微細な願望も含めて。そういうことが起こる。起こりえる勝利にしなければならないんだ。だからだ、だから。私達は戦おう。理想の勝利を得るために。勇敢に。そして前向きに」

「しかしそれは戦略を立てないという意味ですか? 魔物と戦うに当たって、知恵というのは私達に必要不可欠だと思います」

「そこを否定するつもりはないさ。ただ、覚醒を起こすに値する勝利を作り上げるには──」

「言っていることはわかります。私もそうであって欲しいと思いますから。でも……」

「わかる。君が不安に思うのも仕方がないことだ。しかし私は次こそは勝てると思うのだよ。何せ二人だ。前回のように、混乱せず、結託すれば危機に陥ったとしても助け合えば容易に勝てるのではないかとね。いや、決して油断をしてはならないが……」

「オデロさん、なんだか変わりましたね」

 突然、嘆息をするようにルーシェが言った。

「変わった?」

「私にそんなにも勇敢そうに語りかけるさまは、何と言うか。今まで想像が出来なかったのだけど。あとしゃべり方も、自信が溢れていて……あ、ごめんなさい。別にそこまで付き合いが長いというわけでもないし、オデロさんという人間を知った気になっているだけかもしれないけど」

「変わった……私が。変わった……」

 変わった。その単語は、ルーシェからすると咄嗟に口から出たただの何気ない言葉かもしれない。

 ただ私は、その変わったという明確で、客観的な言葉に心が昂ぶった。思い出された。ここまでの道程を。その道程を跨いでなお、私は彼女と何か行動をしようとしている。そして彼女はそれを変わったと言ってくれている。

 かなり抽象的過ぎる言葉だし、何がどう変わったとは説明がつかないけれども、嬉しかった。つまりは私は過去の自分など嫌いだった。そういうことなのだろうか。新しい自分へと巡り会えた。既に。そう気が付いたのが嬉しかったのかもしれない。

「なんにせ、ルーシェ! 行こう! この高揚を忘れるわけにはいかない。今のうちだ!」

「え、えぇ? 今のうちって、本当に言っているんですか? 夜ですよ、今。せめて明日にでも」

「よし、ならば明日だ! 明日、この新しい自分を持ち、ニュルンを撃退するのだ。倒せる。覚醒は起こるんだ!」

 私は自分に酔い、酒にも酔っていた。

 しかしこの高揚感。なるほど。私は今満ち足りている。

 目標を掲げ、ルーシェと二人で行動している。その目標は成就出来るかも知れない。目標の先には何があるかわからない。これだ。この……微妙な均衡によって生み出されている、指で一つ突けばあっという間に崩壊してしまいそうな、絶妙な均衡。

 これこそが……これこそが私の求めていた、破滅的衝動を見出す精神状態なのかもしれない。

 破滅的衝動だけが全てを占有してしまうのも問題だったのだ。こういう希望が見え隠れしている状態こそが、歯がゆく、最高の香辛料になっているのだ。

 いけない……何を考えている。破滅してはいけないではないか。彼女にあれだけ大儀そうに促しておいてから。そう。これでニュルンを倒し、全て上手くいけばいいのだ。

 そう思って違和感。だが全てが上手くいくのだろうか。

「そうですね。わかりました。明日。私も自分に覚醒が起こるように、オデロさんと共に勝利を飾ってみたいと思います」

「──あ。ああ。そうだ。そうしよう。そうすより他……ないのだから」

 私は興奮の反動でせり上がってきた不安を消し飛ばすように応答してみせた。


   ・


 興奮は寝て起きると冷めていた。

 同時に、不安が押し寄せていた。つくづく私の愚かさと無能さが露わになる瞬間だった。

 だが……やらなければならない。

 先延ばしにして、周到な準備の期間を作ることは容易であるが、それをすれば覚醒を起こすような勝利には繋がらないような気がした。

 これはもはや観念的な問題だ。

 私は昨日の昂ぶった気持ちをを持って、この剣で奴をたたき切る。そのことだけを考えればいいのだ。

 その為に、目を瞑りもう一度昨日の沸き上がった闘志を思い出そうとした。

 結果、また私の中で燃え上がるものを感じることが出来た。いい意味でだ。よし。悪くない。悪くない状態。不安もあるにはあるが、それが全面に押し出てくる気配はない。

 ルーシェと会ってからのことが同時に思い出された。そしてその前のことも連鎖的に。

 それでも不安が荒れ狂って私を取り込む様子はなさそうだった。

 

 ──よし、出発だ。


   ・


 予定通りに落ち合ったルーシェも、不安そうな表情はしていなかった。

 穏やかで、それでいて覚悟をしている表情。

 私達は揃って精神的な調子は良好のようだ。

「ねぇ、オデロさん」

「なんだい」

「その剣に、既に想いを込めていますか?」

「それは……?」

「いえね。私は昨日、この杖に念じてきたんです。もう一度記憶を遡って、ずっと集中して、気持ちを杖に送り込んできたんです」

「なるほど。そういう手があったか。しかし私の武器は剣だから、魔法とは違って精神的な力が宿ってくるかと言うとどうかな」

「そうですか……」

 ルーシェは残念そうな顔をした。

「いや。待て」

 私はそのルーシェに応える為に、一つ行動することにした。

 目を瞑り、大きく剣を掲げた。私の想像では、天まで届く程剣先が伸びている。

「オデロさん。一体何を」

「少し待ってくれ。私は今、君がそうしたように念じている。こうすると感覚がが研ぎ澄まされる気がするよ」

 私はもう一度、色々なことを心に浮かべた。

そして最終的に昨日の気持ち、今日の闘争心。それらを手から剣へ念じて伝えた。

「うごおあぁあああぁぁぁいぃぃっっぁぁああアアァァ!!」

 あらん限りの声を腹から捻り出した。これほどの大声を過去私は出したことなどなかっただろう。

 羞恥心などなかった。誰が見ている訳でもあるまい。これは私と、ルーシェに必要なことだと思った。

「オデロさん」

 ルーシェは私に少しばかりの笑みを向けていた。決して嘲笑などではないと理解出来る。

「これで、私は……私達は、第一歩を踏める。いわば儀式のようなものだよ」

「前もって考えていなかったのでしょう。ふふ」

 言って、ルーシェも手にした杖を高く掲げた。私がそうしたように。

「きゃあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 そして叫んだ。悲鳴っぽくもあり、もしかすると朝早いこの時間。近隣の誰かがばっと飛び起きたかもしれないが、気にしないでおこう。儀式、儀式。

「くく。ふははははは」

 私はなんだかおかしくなって笑った。二人して叫んだことで、緊張して強ばっていた体が一気に緩んだからかもしれない。

 ルーシェも顔を赤くして、笑っていた。彼女の方はまだ若干の羞恥心があったのだろう。


   ・


 一歩一歩足を進めていくことに、恐怖は感じなかった。

 既に奴に殺されかけた恐怖も、ルーシェに対する未知の恐怖も消えていた。

 私は叫んだことで本当に研ぎ澄まされていた。

 この腰に下げた剣で、奴をたたき切ること。有言実行。ただそれあるのみと念じていた。

「清々しいですね」

 私の重々しい決意と比較して、ルーシェは気さくだった。そうしようと意識しているのかもしれない。あまり重圧を自分の中で作らないようにと。それはそれで賢い選択と思える。

「そうだな。今日は天気がわりとよい。朝の空気というのも久しぶりに吸うが、いいものだ」

「やっぱり国の近辺にはあまりもう魔物がいないんでしょうかね? 見渡す限り、蠢いているものはいないように思えますが」

「実際どうなのだろう。私も君の言うとおり、確かにこの城壁付近というのは本当に何の危機も感じない。この近辺から多くの魔物は手を引いたのかもしれない。闘争する意思があれば、この城壁を囲って絶えず襲撃をかけてくるだろうし」

「そうなんですかね」

「まだ三度目だし、わからないがね。最も、一度遠くへ行けば、奴らが多く蠢いているだろうというのは想像に難くない。だが、今はニュルンだ。奴のことだけを考えて行動に移そう。違う危機が生じたら、その時考えればいい……というのは楽観しすぎがな」

 私はもう一度周囲を見渡してみたが、広々とした視界の中で何か気配は感じなかった。

「そうですね。うん、うん」

 ルーシェが頷いて、私も頷いた。


   ・


 例の場所へ到達した。

 ここに来れば奴とまた遭遇出来ると信じていた。

 その信心はすぐに報われることになった。奴は見計らったようにまた私達の前に現われたのだ。 

 こいつが今までの奴と同個体なのかどうかはわからないが、この際どうでもよかった。

 手が震えた。やはり私はこいつに恐怖しているのだろうか? 違う。違うと言い聞かせた。

 これは好機なのだ。奴を倒す。そうだ。奴を倒しに来たのだ。

 震えはなおも止まらなかったが、私はその震えがそこまで悪いものではないと思い込むことにした。自分を鼓舞する為の震えだと断定した。

 剣をもう一度握りしめた。

 これで、終わるんだ。貴様との因縁も今日、これで。三度目の敗北はない。なぜなら、お前が私に叩き切られるからだ!

「うおおおおおおあぁぁぁぁおあああぁぁぁァァ!」

 私は今朝そうしたようにもう一度叫んだ。

 そして、奴に突進した。

 ここまでは私が思い描いていた通りだった。

 勇敢に奴に突進し、剣を振り、一刀両断。これが筋書きである。一瞬であれば一瞬である程いい。そう思っていた。

 しかし空しくも、奴は私の一撃を避けた。

 がしんと剣が地面に当たる感触がしびれを伴い手に響いた。

「オデロさん!」

「大丈夫だ!」

 ルーシェが駆け寄って、杖で一撃をくらわせた。 あまり効果がないだろうと思っていたが、奴は怯んだ。 

 私はその隙に一歩身を引いた。早くも筋書きと異なってきたが、大丈夫だ。最終的に、たたき切りさえすればいい。何度も何度も、奴に直撃を浴びせるまで振り下ろせばいい。

 私は再度奴に向き直った。

 奴は私を威嚇しているのだろうか。ぶくぶく自らの液体を水泡と化して上へ飛ばし、体液を循環させている。

「オデロさん。次は私がいきます」

「大丈夫なのか」

 この言葉は私が彼女の身を案じて放った言葉ではなかった。私が早くも次の一撃を浴びせたかったが為に、彼女に攻撃させまいとしたのだ。

 しかし彼女も覚醒が起こりうる勝利を渇望しているのだから、何もしないで突っ立っているというわけにはいかないだろう。

 少し自己中心的になりすぎた。それに、次の私の一撃がまた空振りに終わってしまったら、不安が顔を出しそうだった。

「いや、よし。やってやるんだ」

「はいっ!」

 ルーシェは杖を高く掲げた。今朝そうしていたように、目を瞑り、何か祈りを捧げているようだった。

 まさか。

 魔法的な何かを放とうとしているのだろうか。

 彼女は魔法を放てない。そのはずなのに。

 今、あえて放とうとすることによって、彼女は何かを見出そうとしているのだろうか。

 彼女は大きく杖を振りかざした。

 風がそよぐ音が聞こえた。

 私達は何事もなかったように、再度ニュルンへと向き直った。

「打撃でも怯むようです。その怯んだうちに、オデロさんが!」

 その戦略は理に叶っていた。

しかし、当初組み込まれていた覚醒への道筋には含まれていなかったので、私は辟易した。

 が、一瞬で考えを改めた。

 彼女と共に奴を倒そう。そのように。

 ルーシェが動いた。

 先程と同様に、器用にニュルンへ打撃を加えた。

打撃は有効ではないと考えていたが、もしかすると奴の弱点だったのかもしれない。先程もそうだったが、打撃が当たった直後、行動を停止させているのだ。

 今だ。今しかない。

 私は剣を振り抜き、駆けた。

 そして、振り下ろした。

 また地面に剣が直撃して、手にしびれがやってきた。

 しかし、よく目の前を見てみる。切った感触などまるでなかったのだが、ニュルンは真っ二つになっていた。


 私達はその場で呼吸を落ち着けながら、立ち尽くした。

 動かなくなったニュルン。これは間違いなく私達が討ったものだ。

 勝利を得たという紛れもない事実がそこに証拠付きであるというのに、胸の内からせり上がってくるものは何もなかった。

 とにかく目標を達成したのだから、自分の中から達成感を見出そうとしていたのだが、やはり出来なかった。

 とりあえず歓喜の声を大げさに出してみようかとも思ったが、これも出来なかった。

 覚醒……私達が求めていたものは…………

 最初から予想出来ていたものではあった。ニュルンを倒したところで、私達が根本的に変わるわけがないのだと。精神的な進化というのはもちろん望んでいたかもしれない。そしてそれを成就しようとし、覚醒と呼びつけていたのだろうが、肉体的には全く変化など起きるはずもない。

 そう……私達には……

 私はようやくルーシェの顔を見る気になった。

 彼女もやはり虚脱し、私のようにことを省みているだろうか。

 顔を上げると、異常に気が付いた為、ルーシェの表情がどうとかより、まずそちらを先に見た。

 遠目に、何かを発見したのだ。

 ルーシェの向こう側。

 そちらの方面には深い朝霧がかかっていて、視界がはっきりとしていないから、具体的な形、輪郭が覚束ないのだが、とにかく何かがいるのだ。そして、動いているのだ。

 よく目を凝らし、そして観察し続けた。

 大きい……ような気がする。人間などではない。ここは外だ。人間でなければ何がいる。動物か……魔物。あの大きさは魔物ではないか。

 そう気が付いたとき、私は危機を察知した。

「ルーシェ。ここを離れた方がいいと思う」

 その時初めてルーシェの表情を見た。

 彼女はどこか寂しそうだった。後悔、苦悩、物憂い。そういったものは感じ取れず、ただただ寂しそうだった。

 私は彼女の表情に一瞬気を取られ、身を固めた。

 彼女が私の方を見たときには既に普段の表情に戻っていたので、私は危機感を再度募らせた。

「あれなんだ」

 指を差して驚愕した。

 もっとずっと遠くにいたかと思っていたその存在がかなり近くに来ていたから。

 そして、その正体が既に霧に隠れていなかったから。

 顔が三つある。いずれの顔も、犬のような顔だ。耳がついていて、鼻がとがっている。目がやたらと大きい。全身が茶色い毛で覆われている。

 顔が三つあるだけで異常だが、更に常軌を逸している部分があった。

 なんと二足歩行しているのだ。前傾姿勢をしていて、人間のような二足歩行ではないが、はっきりと二本の足で立ち、進んでいる。

 今は何をしているという訳ではなさそうだ。単純に辺りを徘徊している……ただそれだけなのだろう。

 そのように客観的に分析は出来ていたのだが、しかし感情のほとんどは恐怖に支配されていた。

 この辺りは安全。そう錯覚していた私達にとって、その全く未知なる魔物との遭遇は、恐怖へと突き落とすものとして十分だった。認識が誤っていたのだと一瞬で悟った。

 私はもう、先程の震えとは比較にならないほどに、全身に悪寒を感じながらがくがくと膝を震わせていた。そしてぺたんと尻もちをついた。

 立ち上がろうとするも、腰が抜けていた。どんどん近付いてくるその魔物を見ることが唯一出来ることだった。見れば見るほど恐怖を感じるということはわかっていたのだが、だからといって目を逸らすことも出来なかった。この状態で目を瞑るなんて愚か者がどこにいようか。しかし立ち上がれない。なぜだ! 動け! 昨日の闘志を思い出せ……いや……昨日の闘志など……

「オデロさん!」

 ルーシェが大きな声で私を呼びかけた。

 私とは違い、ルーシェは立ち上がることが出来ていた。顔が蒼白になっていたが、私に手を差し出す余裕もあるようだ。私はその手を取った。今はそのことに羞恥を覚える余裕もなかった。

 彼女の手を取り、私はようやく立ち上がることが出来た。

「は、はやく逃げないと」

 魔物は私達の存在に気が付いているのだろうか。

 下手に背を見せて逃げると、追いかけてきそうな気がする。しかしだからといってこの場に留まるという選択も出来ない。

 であればどうするべきか。

「戦う……」

「オデロさん?」

「戦った方が……いいんじゃないか」

 私は本心から果たしてこんな言葉を発したのかどうか、全くわからなかった。

 もしかしたら先程手を貸してもらった拙い羞恥がこの短い間隔で再燃し、それを払拭する為の勇敢さというものを今ここで見せつけようとしたのかもしれない。

 それか……きっとこの先に待ち受けているものであろう、その未来を阻むために、一石を投じたかったのか。

 考え得る理由としてはそれくらいだろうか。

 しかしどちらも答えではないような気がした。

 私は単純に死に急ぎたいのか? さっきまで身動き一つ取れなかったというのに、勝てるわけがないとわかっていたのに。

「オデロさん! その判断は正気じゃありません。目を覚ましてください。私達では奴に勝てません。逃げましょう」

 ルーシェはなおのこと冷静だった。

 私はその客観的で冷静なルーシェがなんだか羨ましくなって、嫉妬してしまった。軽い苛立ちもあった。いやいや。私の為を思って彼女は私の過った考えを正そうとしているのだ。

 どこかで期待していたのだろうか。彼女が戦おうと少しでも、格好だけでも示してくれることを。だから苛立ったんだろうか。

「走りましょう!」

 私は葛藤を止めた。

 気が付くと、魔物は私達の方にはっきりと進んできているのがわかった。

 私はその時点で、戦おうなどといかに愚かな考えをしていたのがわかった。無理だ。土台無理だ。剣と魔法が、私達にはやはりない。何か私の手の中にあった、ルーシェと作り上げてきた結晶のようなものがこなごなに割れてしまったような気がした。

「はやくっ!」

 私達は駈けた。これ以上はもう無理だというくらいに。全速力で。気が付くともう、剣も捨てていた。ルーシェも杖を、捨てていた。身を軽くして、速度を維持し続けた。

 後ろを振り返るべきか悩んだ。振り返った所で私達には走るという選択肢しか既に残されていない訳だから、もう仮に魔物がすぐ側に迫っていたってどうしようも出来ないはずだ。

 しかし私は振り向いた。仮に、奴との距離が離れていればそれは精神的な安息に繋がるからだ。

 驚愕した。

 距離が離れていれば。そんな仮定を作っていたことを後悔した

 私達との奴との距離は明確に縮まっていた。

 そして、魔物は私達を目指して駆けていた。これも明確に。

三つの顔にある両目が全てこちらを見ていた。即ち六つの目が。

 速すぎてもうすぐに捉えられるという速度ではないのだが、このまま走って行けばやはり魔物との距離は着実に縮まる。そして捕まるという予測は一瞬で立てられていた。

 どうする。私は考えた。

 いや、どうするも何もない……がひねり出さなければならないらしい。探す。探せ。

 真っ先に思いついたものは、ひどく下劣なものだった。

 即ち、ルーシェと違う方向に走り、奴の狙いを分散させようということ。

 つまり、それはルーシェと私。どちらかが助かり、どちらかが死のうということ。

 私はそんな発想をした自分を呪ったが、考えようによっては自分が生け贄になるという場合もあるため、勇敢さと下劣さを半分ずつ兼ね備えた発想ではないかと考えたが、そんなことはないとすぐに自分を戒めた。全てが下劣である。間違いなく、私は自分が助かる為だけに発想した。

 しかしそれを選択してしまったら、私は生涯後悔し続けることになるだろうと理解出来たので……そう理解することはかろうじて出来ていた為、ルーシェとの並走を続けた。


 私とルーシェは懸命に走り続けた。

 もう息を切らしていて、これ以上は無理だとずっと思いながら走っていたのだけど、命の危機となると体の制御が解かれるらしい。私はなせる最速を維持することが出来ていた。

 しかしこれでも、魔物との距離が離れている気がしない。出

 魔物の咆哮が背後で聞こえたと同時に振り向いた。

 もうすぐそこにいて、私達を見下ろしていた。

 私は走ることを止めた。動いたら、命を奪われそうだったから。既に魔物の両手の届く範囲に私たちはいたのだ。

 大きく深呼吸を繰り返して、ただ目の前の魔物を見上げ、恐怖した。

 ルーシェを見た。

「か、く……………」

 彼女も私と同様に魔物を見上げていた。そして足をぶるぶると震わせながら、うめくように言葉を発していた。

「か、せい……かくせ、い……」

 私達に武器はなかった。

 それでもなお、彼女は戦おうとしていた。先程は戦うことを拒否していたが、あの時は逃げるという選択肢があったからだ。

 その選択肢がとれなくなった今、彼女は戦うことを選んだ。先程少しでも嫉妬した自分を殴りつけた。

 ただ戦うことを選んだのではない。覚醒の伴う勝利を求めて……戦おうとしたのだ。私が当初掲げていた、その目標が成就出来るように。

 私は既にもう自分に覚醒を起こそうだなんてことは頭の中からすっぽりと抜け落ちていて、どのように自分が助かるかしかを思い描いていなかった。

 私は死ぬべきだった。

 彼女はもしかすると死を覚悟していたのかもしれない。その上で、最後に自分の魔法への憧れを死の間際に発現させたのかもしれない。そうすれば本望だと……

 私は死ぬべきだった。

 死ぬべきだ! 死ね! 死ぬんだ! 今すぐ! 動け! この……この……こうまでして……ルーシェがこうまでして………………

 頭の中では、私はこう言っていた。思い描くことだけは出来ていた。

『ルーシェ! 君は逃げるんだ! 私がこいつを引きつける。その内だ!』

 そして、勇敢にも魔物の前に躍り出ているのだ。

 いるのだ。いろ。早く。早くしろ! 間に合わなくなったらどうする。今しかない。この一瞬しかない! 早く! 覚醒だ! 覚醒、覚醒、覚醒。起こせ。起こしうる!

 私は泣いていた。そう気が付いたのは、口元に涙が流れ落ちてきたから。口内、自分が噛みしめた唇から血が出ているようで、涙と混じって、苦くしょっぱい味がした。だからどうした。どうもしないのに。

 大粒だった。泣くことで何かに許しを請おうとしていたのだろうか。依然私は一歩も動くことも出来ず、そして言葉を発することも出来なかった。

 しかし、拙い意地だけはどうやら張ることがまだ出来たようだ。私は、ルーシェに泣いている所をみられまいが為に、嗚咽をこらえ、顔を背けた。こんな時に、もう最後かもしれないというのに! なんでこんな馬鹿みたいな意地を張ってしまうんだ。私という人間は!

 ルーシェの勇敢さに当てられて、目を背けたくなったということもあったのかもしれない。いや、そんなわけないな。ただ体裁を気にした愚行だ。

 止めた。思考を止めよう。何を気にするな。私は今なすべきことをするんだ。今だ。今に集中せよ。

 そう考えても、ただ足が震えるだけだった。

 魔物が、目の前までやってきていた。

 私達の無力さを理解して弄んでいるのだろうか。恐怖を調味料とすべく、じっくりと私達を見下ろしていた。

 こうして対面すると体格差がはっきりとわかり、同時に絶望が浮き彫りになった。

 魔物がゆっくりと手を水平に引いた。

 ひどく緩慢な動作だった。わざとそうして、私達の反応を確かめているかのように。

 ルーシェを見た。彼女は戦おうと身を構えていたが、全身が私と同じように震えていた。

 鉱山での日々をその時一瞬だけ思い出した。恐らく私は今死を悟っているのだろう。「あかるい」と言ったあの男の記憶が蘇ったのだ。あの男の死に間際と、私の今この瞬間を比較して、何かを見出そうとしている。一体何をだ?

 同時に、つるはしを振り続けている時に生ずるあの無心の境地も思い出していた。そしてそれを今の私に無理矢理当てはめた。手につるはしが握られていると錯覚するくらいに、感覚を思い出して。

 無心。無心。

気が付くと体が動いていた。

 ルーシェを抱きかかえ、二人で倒れるように地面に伏した。そして、魔物の放ったなぎはらいを回避した。風切り音と共に、風が頭上を舞った。

 魔物は体勢を崩していた。

 来るであろう第二撃。私達はすぐに立ち上がった。立ち上がることが出来たことに驚いたが、そこからどうすればいいかわからず、やはり立ち尽くしてしまった。

 私はこの後に及んで、先程の回避行動が、今までの汚点を払拭するような勇敢な行動かどうかを考えていた。

 無意識であったが、彼女を結果的に助けたという意味では、私の意図を実直に孕んでいるのだからルーシェの勇敢さと同じくらいの価値あるものなのではないか。私の勇敢さが発現し、死に間際に彼女を救ったのだから、あの汚い自分だけ助かろうとした思考を帳消しに出来るのではないか。そんな具合に。

 そうして恐怖を打ち消そうと必死になっていたのかもしれない。

 私達は、本当に何も出来ず立ち尽くした。

 ルーシェがかたく私の腕を握ってきた。少し痛いくらいだった。

 魔物が再度こちらに向き直った。今度は怒りを目に伴っていた。

 先程のような一撃はもう放ってこないだろうと予想された。不可避で必殺のもの。それをもって、私とルーシェの生を奪い去るだろう。

 私はなおのこと、恐怖をどこかへ追いやる為に、先程の行動が勇敢かどうかを吟味し続けていた。もはや、意味のある思考でも何でもなかった。とどのつまり、思考停止であると理解していたが、歯止めが効かなかった。私は自分を狂人だとすることによって、本来の私をどこかへ放り捨てようとしていた。

 来る。第二撃。

既に私の中の狂人はどこかへ行った。短い間だった。

思考を止めることも出来やしなかった。

 私は再度恐怖に包み込まれた。

 ルーシェを抱きしめた。今度は同じ境遇の彼女と恐怖に没入し、最後までいようと、そう思った。意味があるようには思えなかったが、彼女の体温が思いの他暖かかった為、ずっと抱きしめていた。そして、目を瞑った。その温もりを永遠としようと。


 しかし、どれだけ待っても、私の身には何も起こらなかった。もしかすると既にもう死んでいるのかもしれない。なんだ、痛みもない。好都合じゃないか。そう思ったが、そう思う自分が存在している時点でやはりまだ生きているように思う。

 いや、この瞬間が本当に、もしかすると永遠になったのか? 私の、奇跡的な……願いというか、そういうものの為に。あるいは、一瞬の時間をひどく長く感じているとか。

 けたたましい咆哮が聞こえたと同時に、私はその黒い夢のようなものから解放された。

 見ると、魔物が胸を貫かれて、断末魔をあげていた。耳を塞ぎたくなるようなものである。

 ほんの一瞬だけ、覚醒のようなものが起きたのかと思ったが、魔物の奥に人影を見つけてそうではないと理解した。

 彼らは一斉に剣、あるいは杖を振りかざして膝をついた魔物に攻撃し、動かぬものとした。


 私は口を開けて、ただその光景を眺めていた。


 

「大丈夫? 君たち。助かったよ。君たちが気を引きつけてくれていたから、背後から仕留められた。よくあの距離で対峙出来たね」

 笑みをこぼしながら、その冒険者達のまとめ役であろう人間が話しかけてきた。

 私はなおも口を開けたままだったが、少ししてようやく彼に意識を向けた。

「これは……こいつは……」

「こいつは本来もっと遠くに生息しているらしい魔物なんだが、なぜか最近この近辺で姿を見せ始めた。俺達が追っていた一匹だったんだけど、途中で姿を消してしまって、ようやく発見出来たというわけさ」

 物知り顔で説明してくる。私は言葉の咀嚼にいつも以上の時間を要した。

「だったら、君たちがここまでこいつを連れてきたっていうのか」

「ある意味では……そうなるかもしれないね」

 彼はわざとらしく、顔をしかめて見せた。

「ふざけるな!」

私は気が付くと怒鳴っていた。

「君たちが悪い! そんな魔物を……その……遠くから引っ張り出してくるなんて。全くもって迷惑だよ! いい加減にしないか!」

 私は見境なく叫んでいた。

 ルーシェが私の袖を引っ張ってきた。たしなめようとしているのか。

 頭の片隅では理解していた。この私の恨み言というのは全く筋違いで、本来なら外に出ている時点で冒険者として魔物と対峙することを覚悟しているわけだから、あのような魔物に出くわすことも冒険者の中では誰もが想定の範囲内として持っている共通の認識であると。

 だが……だが!

 私達には剣と魔法がないのだ。これをありありとまた痛感してしまった。痛感してしまったがゆえに、叫びたくなった。誰かにやつあたりしたくなった。そしてこいつらは持っている。持っていやがる。くそう! なんなんだ……本当に!

 この柔和な表情をした、集団のまとめ役。腹が立つ。なんだ。その顔は。私達はあんな思いをしたっていうのに。いけしゃあしゃあと。誰にでも優しくするような素振りをして。

「それは……悪かったな。俺達も、こいつがここまですばしっこいとは思わなかったんだ。でも、もう終わったことさ。こいつの毛皮は高く売れるんだぜ。なんなら君たちも持って行くかい?」

「なるものか! そんな施しなど受けてたまるか! ルーシェ。もう行こう。こんな奴らとかまっていられるものか」

 底なしのどうしようもない奴。彼らの目には私がそう映っただろう。だだをこねる少年のようであると。私も自分のことをそう思った。まるで滑稽であるな、と。

 しかし私の心はもうずたぼろに煮えくりかえっていたのだ。先程まで目の前にいた魔物への恐怖。彼らへの嫉妬。外に対する、更なる絶望。ニュルンを倒した時の虚無感。そしてやはり未来。今日、これから。明日。明日以降の私達について思いを巡らすと出てくる結論めいたもの。それら全てがもうごたごたになってわけがわからなくなっていた。いや、一つ一つ説明をつけることは出来たのだが、それらを自分からわけがわからないものにするためにごちゃごちゃにしていた。結果的にわけがわからなくなっていた。

 しょうがない。しょうがなかったのだ。

 私達は逃げるようにして、早足で帰路についた。

 帰路の途中に、よくあのような手練れに喧嘩を売って、無事でいられたなと安堵を重ねていた。そしてそんな自分を、心の中で踏みつぶす作業をずっとしつづけて、無心になろうとしていた。


   ・


 ようやく門までたどり着いたとき、道中一切無言だったルーシェが口を開いた。

「この際、言っておきたいことがあります。私は魔法が使えないんです。わかっていました。ずっと。わからせる、ことにしました。覚醒というのは、多分起きないだろう。そうわかっていながら、今回オデロさんと行動を共にしました。思い出になりました。思い出になって、本当によかったです」

 死線を乗り越えて、ようやく生きて戻ってこられたのだから、そういった告白はもう少し後……あるいは後日にでもするべきではないかと思ったのだが、彼女のその言い方というのが、前もって考えられてきたような、つまり前から言おう言おうと決心していたような、そんな文言に思えたから、その告白を無下にすることは出来なかった。言う必要があったから、今私に言ったのだ。

「そうか。よかった」

 何か彼女の為になることを言おうとは思ったが、私はただ相槌を打つことしか出来なかった。疲労困憊し、頭が朦朧としていたからろくな思考が出来なかった。

 ただ、余計なことを言わないことが、きっと彼女が見出したその終着点に疑いを持たせないためになるだろうとは思った。

 しかし同時にこれでいいのか、という思いもちらついていた。魔法を使いたいというその気持ちを捨て去っていいのかどうか。

 だが現実問題、私もこれで彼女と共に外への決別を計ろうかという考えを少し抱いていたのだ。考えを抱いていたというだけで、まだ何も決断していないが、そんな優柔不断な私が、彼女にどういう理屈で助言を与えればいいのだろうか。

『きっと、それは間違っているよ。考え直すんだ』

 一体何を根拠に私はそんなことを言うのだ。まるで自分のことなど知らぬ私に……そうだ。私は私の何を知っているだろう。知ることが出来ただろう。

 覚醒など起きたか?

 起きなかった。それが結論か?

 いやこれも正確にはわからない!

「とにかく、今日はお酒でも飲みませんか?」

 その突然の誘いに、私は心が昂ぶった。なぜだろう。

 多分、誰かにそういった誘いを受けるのが久しく……いや、私の人生においてまるでなかったからだろう。

 昂ぶったというのは、性的な意味でもだった。私はルーシェを女性として認識してしまった。なぜだ。今まで私は彼女をなんと思っていたのだろう? その問いの答えは見出せない。

 女性として認識したというのは、性的なものだ。私が人生において女性と縁がなかったことが、今更思い出された。なぜ今なのだ。今でなくてもいいんじゃないか。


   ・


「いやぁ、今日は。本当にお疲れ様」

「ええ。本当に」

 私達はロムサラスに疲れた体でロムサラスに赴き、笑顔で杯をぶつけあった。この笑顔というのは果たしてどういった性質のものか分類するのを私は一考して止めておいた。

 私は気が付くともう、彼女を今夜どうにかすることしか考えていなかった。あらゆる思考を放棄するために、これ以上のものはなかった。逃避するように、性欲へ。

 私達は、同じなのだ。同じように外を志し、奮起したが、挫折した。その流れを共有した一蓮托生の存在であるのだ。その仲間に、私が繋がりをもっと求めるのはまるでおかしくはない。

 しかしそんなものは性的欲求、つまりこの場に似つかわしくない不道徳な気持ちを正当化するためのものだ。

 ああ、ありありと私は性に突き動かされてしまっている。どうすればいいんだ、これは。

 整理できない事柄がありすぎるから、本能的な欲求へと導かれているのか。

 だったら何も考えずに飲めばいいだろうに……酔いつぶれてそのまま寝るくらいに……

「どうしたんですか。難しい顔をして」

「難しい顔なんてしていないさ……ただ、ちょっと今日は色々あったからね」

 私は今から二人で酒を飲もうというのに、湿気た顔をしてしまった。

 それはルーシェから同情を買うために見せたものだった。彼女と今夜どうこうするための布石でもあった。

 既にある程度の筋道を頭の中で描いていた。私達は嘆き、お互いに慰め合う。その延長線上に性行為がある。私はその最終到達点を頑と見据えていた。もうそこしか見えなかった。性に体が支配されてしまっていた。

「ええ、そうですね」

「本当に……」

 私は眉間にしわをよせて、深刻そうに唸ってみせた。

「でも、こうして生きて帰ってこれたことって素晴らしいことじゃありませんか」

 ルーシェが同じように落ち込んでくれるのを期待していたのだが、今の私達にとって唯一楽観的になれるような要素を持ち出し、話す姿勢は落ち込んでなどおらず、前向きなものだった。

『ああ、よく考えるとそうだ。私などは二回も魔物に殺されかけたのだからね。それでも生きているこのずぶとさ。もしかすると、強いかもしれないね。運が、ということだけれど』

 というようなことを言って、大して面白くもないのに無理矢理笑って、酒の勢いで話を悲観的にならないでこの場を華やげるということが私達にとって……いや、彼女にとって理想的な会話の流れだったかもしれない。

「ああ……」

 しかし私の性。今日ばかりはかなり根強いものであった。かつてない程である。一度描いた筋道をなんとかなぞろうと必死になっていた。

 私はなおのことこの世の終わりとばかりに絶望に浸り、暗い顔を作って見せるのだった。

「だが、結局は……」

「オデロさん!」

 突然、ルーシェが声を張り上げた。彼女にしては珍しい。

 私はびくりとした。腑抜けとも言える私のこの態度に彼女は苛立ちを覚えたのだろうか。

「今日は笑って過ごしたいんです」

 彼女はニュルンを倒した直後に見せた寂しそうな顔をまた見せて、そして笑った。寂しそうに、笑った。

 私は性から解放されたというわけではなかったが、筋道をなぞることは止めることにした。彼女の笑顔が、それだけの訴求力を持っていた。

 

   ・


 この後はどうするかという話し合いを特にせず、私達は店を出た。

 ルーシェが少し歩こうと言って来たので、私はそれに応じた。

「いやぁ……もう夜も遅いね……」

 私は精一杯雰囲気を出しながら言って見せた。

「ええ、本当」

 ルーシェはそう言って、どこか遠くを見ていた。

 そのまま私達は歩き続けた。

 私は言葉を放つのを一旦止めた。ルーシェが何を考えているのかよくわからなかったからだ。まさか私のように性的な何かを内に秘めているわけではあるまい。もしそうなら、すごく好都合なのだけど。


 辺りには閑静な森と水面がおだやかな池がある。趣があると言えばあるのかもしれないその場所に到達し、ルーシェが足を止めて、私を見てきた。

「あの、オデロさん」

 何かを決心したような表情。

 何か言いにくいことを今から言うのではないか。漠然とだが、そんな予測をさせられた。

『これから夜を共にしませんか』

 そんな都合のいい提案を私は妄想した。


「私達はもう会わない方がいいかもしれない。今日という日を、門出にするためにも」


 しかし彼女から発せられたその言葉を聞いて、私の妄想、及び今までの性的な思考が全て音を立てて崩れ落ちたのを感じた。

「どういうことだ」

「どうもこうもないんです。私達は、また会ったら何をするんでしょう? 何をすることもないでしょう」

 ひどく突き放したような言い方だった。

「なんだ、それは。だからって君は今生の別れを私に要求するのかい」

「そういう話ではないです」

「そういう話にしか聞こえないさ」

「この世界は狭い。そういったのはオデロさんですよね。だから、いつかどこかで会うかもしれない。その時はその時で、挨拶を交わして話せばいいと思います。今生の別れというわけではないです。でも、何か意図して会うのは、止めた方がいいと思ったんです」

「……なぜだ」

「なかったことにしたいんです。今までの自分を。ありのまま。私は既に一つの決意をしました。慎ましく、女性として、この国で生きていこうって。手に職でもつけて。お嫁さんとして、誰かと結婚して。その決意を限りなく強固なものにするために、私は決別したいんです」

「私と意図して会わなくなるのが、決別だというのかい?」

「そうです。私はオデロさんと出会えてよかったと思っています。またオデロさんと会ったら私は私をもう一度思い出します。今日、これまでの日々を」

 彼女がただ私のことを嫌になったのではないとは理解出来た。

 私という、奇遇にも出会えたその希有で、同じような境遇の人間をあえて突き放すことによって、彼女は自分のこれからを無理にでも見出そうとしているのだ。

「そうかい。勝手にするがいい」

 しかし、私はそう理解しておきながら、怒りで彼女を突き放した。理解していたがゆえに、そうしたのかもしれない。私をもう二度と会いたくないと思わせるような、そんな存在にしたて上げるために。そんな優しさのために。どちらかはわからない。恐らく半々かも知れない。彼女への怒りと、そしてある意味自己満足に近い優しさ。私はそれらを発現した。

「私も実を言うとそういう気持ちだった……なんというか、区切りという意味で。ひとまず今日君と一晩を共にし、一度でも記念に性交渉出来ればということしか考えていなかったくらいだからね。私としては性交渉を門出にしようと考えていたということだ。実を言うと、まだ女性とそういったことをしたことがなかったから、一度でも性交渉して自分を変えようという浅はかな考えを見出していたんだ。しかし今となってはその野望も崩れそうだね……いや。やりようによっては、こんなことを言う前に君を言いくるめて性交渉に持っていけたのかもしれない。にも関わらずこうして打ち明けたのは、きっと私が──」

「なんですかそれ」

 彼女は目を見開いて、私を見た。まるで別人を見るみたいに。

「言葉の通りだ。所詮それまでだったのだよ、私達は。君は私のことを突き放すつもりだったし、私は君を犯して一人前の男になって少しでも自分に胸を張ろうとしていた。一人前というのは、性的な意味でだけどね。ともかくなんという矮小な関係性だろう。別段決意なんていらないさ。君は腕についた毛の先ほどの小虫をなぎ払う、それくらい意識せずに私という存在を記憶から追いやればいいんだ。そしてそれを門手とすればいい。簡単だ。だろう」

 私は言いたいことを言っていた。

 怒りだった。怒りが全面に出ていた。優しさもあるにはあったが、やはり怒りの方が強かった。この怒りの根源を今私は分析出来ないが、彼女に突き放されたことがやはり直結しているとは理解出来る。

「もっと言うならね。やはり必然だったんだ。君と私は揃ってなにも出来ないから、冒険に行こうというのがね……こう、喜劇を演じるための……ああ、君に前にも言ったね。悲劇の主人公を演じたいだけだって。つまりはその延長線上の行動をしていたに過ぎないんだよ。私もああ言って君のことを揶揄していたが、その気質があった。あの時から、何も二人で変わっちゃいなかった。破壊的な衝動に身を任せて、それを客観的に眺める自分を作って、楽しみたかっただけなんだ、きっとそう……それだけだったんだ。あれだけ何かに酔いしれて行動しても。叫んでみても。何も変わりはなかったんだ。全て喜劇の延長線上。私達は自ら道化師のごとく観衆のいない舞台で躍ることを選び、そしてそれを最終的にあざ笑いたかった、自分で。自分達で。これからもずっと、喜劇を演じ続けるんだ。今思い出すと、今朝二人で叫んだのだって、なんだかまるで道化のようだったよね。喜劇に他ならなかった。私達が糸を自ら作り出して、自らが糸を操るという……」

 頬に衝撃が走った。

 私は横を向いていた。

視線を前に戻した。

 ルーシェが目の前で、うっすらと目に涙を浮かべていた。

 平手打ちをくらったのだと、彼女の返された手首を見て理解出来た。

 私は頬をさすり、彼女のことを見据えた。

 ルーシェは何かを言おうと口をぱくぱくさせていた。

 私は殴られたことにも気を遣わず、話を続けた。というより、あえてもうルーシェが殴った理由だとか、彼女の心情を一切考えることを止めた。寸分も彼女の気持ちを想像して、取り入れてしまえば、私に妥協が生じてしまう。これは徹底してやる必要があるのだ。私の独善的な優しさの行使の為に。そうだ。優しさを貫徹するんだ。怒りもあるけれど……優しさもあるのだから。

「君が今平手打ちを私に食らわせたことで、君自身私の話に肯定したと気が付いたかい? 私達は悲しみに暮れるようなふりをして、二人で息をひそめあってお互いを慰めたふりをしていたのだ。ここもふりだ。ふり、ふり、ふり。いつだって格好だけだ。思っているように、人は行動出来ない。出来やしないんだ。そしてなりたい自分に……なれるわけがないんだ。事実なれなかった。覚醒なんて何も起きやしなかった! 君が魔法を使えるようにはならなかった。私も何か変化が起きたわけではなかった。より一層ひねくれて、溢れかえった絶望と恐怖を注ぎ足しただけだった。だから、そのことに対して君が一区切り付けたいというのは全く嘘偽りない、合理的な君本来の気持ちであるということは理解出来るよ。だから、それが正解なんだよ。君のその行動は勇気があるだろう。最も、私は君と一晩性行為を行いたかったし、ゆくゆくはそういうことを常態化することを君と出会った時から考えていたから、やはり君ともっと長いこと側にいたかったんだよ。だから突き放されたことに対して怒りを覚えているのかな。私は性にずっととりつかれている、汚い男だからね。君をいつ汚してやろうかと、四六時中考えていた、汚い男だからね。そうなんだ、私は取るに足らない、一般的な汚い男なんだよ! しかしもう君の口からその正解が出てきてしまって、君ももう私に会いたくないというから、こうしてもう私も本当の気持ちをぶつけてみたわけだ。気持ちがすっきりするかと思って。射精するくらいには」

 再度衝撃。今度は逆の頬だった。

 今度ははっきりと泣いていた。何粒も涙をこぼしていた。

 そして、彼女は踵を返して夜の街に走って行った。

 私は立ち尽くし、その後ろ姿が見えなくなるまで目で追い続けた。

 気持ちなんてすっきりしていなかった。

 黒点が一つ、私の心に表れて、そしてそれが一気に広がるのを感じた。

一瞬で、真っ黒。その色を変えることが出来る日はいつか来るだろうか。








   Ⅸ


 あれから私は徐々に腐敗していった。日を追う毎に私の外郭及び内部にあった精神的な情念の一切合切がくたくたになり、古ぼけて朽ちていきそうになっていた。脱皮ではない。ただの腐敗である。

 明確にそうであると認識が出来る点で、私は少し進歩したと言えるのかもしれない。しかしそう気が付いた所で、何の足しにもならなかった。朽ちていくこの私に何の助けともならなかった。

 結局、戻ってしまったのだろうか。

 彼女と出会う以前の私に。

 時間というものは絶えず流れているものだし、私も某かの経験をその中で必ずしている訳だから、純粋に過去の私と今の私が全く同じではないとは言い切れる。言い切れるが、しかしこの感覚。これは……何度も体験したものだ。夢想が潰えた時に生ずる例の虚無感。これを体験する毎に、私は過去を遡るかのように、いつかの私に戻っているような気がするのだ。何にも結論が出ないから……きっとそう錯覚してしまうのだろう。

「おにいちゃん。ごはん」

 扉越しにミナの声が聞こえた。

「ああ。今行くよ」

 いけない。後ろ向きになりすぎた。

 前までの私であったら、自分をここまで否定することはなかったんじゃないだろうか。多数派が悪いと信じてきていた。

 今は明確に、私が私を否定している。

 その根拠とは一体何だろう。

 私は考えながら階段を下っていった。


   ・


「どうだ。今日のご飯は」

 父親が私の辛辣な顔をしているのを見てか、声をかけてきた。私はなぜか家族に表情を隠さなかった。正確には、隠そうとしなかった。目に見えて落ち込んだ顔をしていたと思う。なんだかそういう所で気を遣うのがひどく億劫だったのだ。私はそれほどまでに自分をすり減らしているということなのだろう。

「すごくおいしいです。ええ。とっても」

「そうか」

 話はそれで終わった。

 両親はもしかすると私を今まで以上に心配しているのかもしれない。

 私が何かをしようかということは彼らも勘づいていただろう。頻繁に家の外へ繰り出していたから。それが最近ではめっきり頻度が落ちた。そうなるとやはり何かあったのだろうと推量せざるを得ないだろう。

 事実、母親などは私と同様にえらくまずそうに、苦いものを含むかのように食事をするのだった。

 それを見ても私は自分から口を開こうとはしなかった。自分のことで精一杯なのだ、今は。

 というのも、今の私を作り出している根源というものが一つはっきりしそうであり、そしてそれを突き詰めて私がすべき行動というのが一つ頭に浮かび上がっていたからだ。即ち行動への道筋が見えたのだ。見えただけで、実際に行動に起こすか、はたまたそれが本当にすべきものなのかという苦悩はこの後にやってこようと予測は出来る。それについてかかりっきりにならなくては。


 食事を終えて、部屋に戻ろうかという時になって。

「そうだ」

 父親が思い出したように言った。

「今度、弁論会という大会が開催される。国の主導で。わりと大きな規模で、人も多く来る。弁論会とは言っても、言葉を戦わせる訳ではなく、国民が政治に関して一方的に主義主張をする場だ。それを専門家と参加した国民とで分析し、より良かったものをその場で仮採用し、題目として とはいえ、採用されるには相応の論理的な主張が必要になってくる」

 一方的に父親は説明した。あらかじめ考えられていたような言い方だった。

「そんな催しがあるのですね」

「どうだ。出てみないか。参加者は誰でもいいんだ。出るのは。あくまで一国民が主義主張をするということに、この弁論会の意義があるのだ」

「そうなのですか……ですが今私は……」

 自分のことを考えるのに精一杯だった。

 しかし私が断る雰囲気を出すや否や、父親と母親は心底残念そうな顔をした。

 この提案というのは、彼らにとって、苦肉の策であったのだろう。なんとか私を公の場に出し、何らかの経験を積ませたいという親としての願望。その願望を成就するために実行に移した。

 父親も勇気が要ったことだったに違いない。私に拒絶されることを内心怯えていただろうから。なぜなら私は過去父親のありとあらゆる誘いや提案を断っていた時期があった。それを境に、父は私に何かを提案することはしなくなった。食卓では独り言を呟くだけになった。

 それを乗り越えて、父親は提言したのだ。

「わかりました。出ましょう」

 気が付くと私はそう口走っていた。

 なぜだろう。これも以前であれば多数派に取り込まれるだろうとして、拒絶していたことかもしれない。だが私は承諾した。


 両親は嬉しさを表情に出した。

 父親は珍しく早口になって私に弁論会とやらの更なる概要を説明し始めた。

 私はひたすらそれを頷きながら聞いた。


    ・


 私は部屋に戻ると、床に倒れ込んだ。

 そして、自分の髪をかきむしった。床を思い切り殴りつけたくなったが、やめておいた。きっと嬉々としている両親がまた心配ごとを巡らせるだろうから。

 この今の気持ちというのは、別段負の感情だけじゃないというのは理解出来た。様々な感情を持ち合わせている。結果、胸がえぐられるような、身が悶えるような状態になってしまっている。

なるほど。私は一つ得心出来たことがあった。

私はこれ以上、誰かの気持ちを踏みにじりたくなかったのだ。

 だから弁論会などと得体の知れない催しの参加を承諾したのだ。

 ルーシェを踏みにじり、親を踏みにじることなどなぜ出来よう? 良心の呵責というものは、私にまだ存在していた。違う。ルーシェが私に教えてくれたのだ。如実にそんな教えられたというような経験はしなかったけども、とにかく今の私はルーシェが作り出してくれたのだから、そうに違いない。

 そうだ。ルーシェ。

 あれからどれくらいの月日が経過したのだろう。

 もう私は気が付いてしまった。ありとあらゆる……今の私の根源に。

そして、なんて単純なことだったんだろうかと気が付いた。

だから短い食卓の中ですべきことを見いだせていたんだ。

後悔しているんだ。ああやって別れたことを。

 

 ルーシェ。私は君に……手紙を出す。決めた。絶対だ。迷わない。即決だ。いいか? もう決めたんだ。この決定についてうだうだ言うのはやめるんだ。

 そうすれば、きっと報われるかもしれないんだ。

 今の状態。そして続く未来。私はもしかすると変われるかもしれない。だから書く。

まずは第一歩。そこからだ。
































   Ⅺ


「あなたーどこいくのー」

 家を飛び出ようとすると、背後からおれを呼び止める声があった。かみさんだ。

「ちょっと、ルダが面白い見世物があるってんで。暇つぶしに出かけてくるだけだぁ!」俺は家屋の妻に聞こえるように大きな声で言った。

「早く帰ってくるのよー! また酔いつぶれて帰ってきたら承知しないんだから!」

「へいへい! いってくらぁ!」

 まだあの時おれがさんざ玄関でげろを吐きまくったってのを根に持ってやがるのか。相当昔の話に思えたが、もしかしたら最近の話なのか? なんだか最近は時間の感覚がおかしいような気がする。心なしか、はやく感じるのかな。わからないが、とりあえずルダの元へ急ぐとしよう。


 

「しかしなんだ、せっかくの休日に呼びつけて。休日の憩いの時間を割くほどの余興が一体どこで催されるっていうんだい」

 といいながらおれはそこまで嫌々というわけではない。結構、休日はやることもなくのんべんだらりとぐうたらしている時が多いから。ぐうたらしているっつっても、やっぱりかみさんのご機嫌を気にしなければならねぇからな。ほとほと気の抜けた、休まるぐうたらってわけじゃねぇ。だからこうして今日、抜け出てルダと落ち合った。

 ルダはもったいぶった顔をしていた。こいつはいつだってそうだ。なにかにつけてもったいぶりやがる。出っ張った頬骨をぴくぴく動かして、にやにやにやにや。しかしこのにやにやは多分、こいつもかみさんの機嫌を伺うことをやめること、外に出たことに対するにやにやなのかもな。互いに恐妻家だってことはおれたちを休日に引き合わせるにふさわしい事情なのかもしれん。

「ヨンド、驚くなよ」

「ええい。そういうのはもういいんだ。さっさと言わぬか。この際なにがあっても驚かんよ。ぶったまげることなんて早々ないっておれはもう知っちまってるんだ」

「なにを物知り顔で言うかい。まだ早々わからんだろうよ」

 ルダはそういうと急にしょぼくれた顔になった。

「なんだ。高揚としてたのが急に」

「お前は、昔と変わったなと思って」

「変わった? 変わったか? そりゃ時間の経過と共に人間は変わるけどな。おれはおれだぞ。だがお前の目からしてみれば、変化はより明白なのかもな。自分の全身は自分で見れないからな」

「いいや。いいさ。そういう話はこの後のみ散らかしてからいいつけてやればいいさ。本題だ。まぁ正直言おう。そこまで面白いものでもないかもしれない。かもしれないというのであって実際面白いかもしれない。どうだかな」

「なんだっていいから、早くこの先なにがあるんだかをいってくれ」

「弁論会だ」

「なんだそれは。まさかお前が小洒落た勉強でも始めようってのか?」

「そういうわけじゃないさ。でもヨンド。知らないだろう? 君はこの弁論会に一度も参加したことがないだろうからな。相当の群衆が集まるんだ」

「お前だって参加したことないくせに」

「ああそうさ。しかし相当の群衆って、本当に多いらしいよ。それだけ熱心に楽しみにしていた連中がいるってことだ」

「まさかお前、人が多く来るってだけで楽しそうだから行こうってのか?」

「悪いか? だって、新しいものに興味が湧くじゃないか」

 その時のルダの表情は、なんだか気持ち悪かった。いつもは湿気た顔しかしてねぇってのに。しかし、どこか活き活きともしていた。一体なにかこいつに変わったことでもあったんだろうか。

「新しいもの、ね」

「まぁご託はいいさ。とっとと行こう。つまんなければ、酒をかっくらえばいいさ」


 さっきのルダの言葉がおれの中で喉に引っかかり続けていた。

 変わったという言葉。なにがどう変わったか、わからねぇ。ルダは後でいいつけると言っていたが、ルダに言われちまう前に、自分で気が付かなければならねぇ気がした。なぜか、そういう焦りを感じた。だから、俺はルダが小突いてにやにや話題を振ってきても、あまり話題を広げないでおいた。後でのみ散らかすのであれば今話す必要もないだろう。

 しかし、変わったか。変わった。変わった? いや、やっぱり人間は時と共に変わるものだ。そういう結論にしちまえばいい。しかし、それでも、もやもやが収まらねぇ! ルダの野郎め。しかしルダは悪くないか。あいつはおれへの感想をただ言って見せただけだから。

 よしじゃぁこうしよう。今から考えていけばいい。

 今、おれは幸せだ。それは間違いねぇ。間違いねぇと思う。言い切れるぜ。はったりじゃぁねぇ。

 たしかに、かみさんは怖ええし、仕事だって辛いときもある。それだけど、子供の笑顔一つみりゃなんだって吹き飛ぶさ。そうさ、おれには子供がいるんだから。それにかみさんだって、怖ええがふとした時に可愛く見える。結婚した時のように。つまりこれは愛しているってことなんだ。愛している家族がいて、それを守ることが出来るおれっていう人間はとんでもねぇ幸福なんだ。今おれは幸せなんだ。

 その幸せの価値観は、どうにかこうにかおかしいのか? そういうのを見て、変わったといったのか、ルダは。

 おれは昔何を幸せに思っていたっけか。うわ。あぁあああ。そう考えると、確かにおれは変わっている。そういう発想が出来なかった時点で、昔を思い出すことが出来なかった時点で、変わっている。

 ルダと一緒に、様々な夢物語をふくらませていた気もする。あの時のおれは今の幸せをなんと心得るだろうか。 

 おれは最近考えることをやめちまっているんだろうか。そうに違いねぇ。だって、今思い出されたルダとの日々なんかが、まったく忘却の彼方にあったものだから。

 どういった心持ちだったか。もういいか。ちょっとここらへんまで考えられたから、あとはのみ散らかす時に思い出していけばいい。酒のせいで忘れちまうんだろうけどな、翌日には。別に今のこの感情も忘れちまうんだろうけどな。どうだか。


   ・


「おい、始まるぞ」

 ルダがおれを小突いてきた。

 はっと壇上を見上げると、たしかに一人の人間が歩を進めていた。

 最初に出てきたその人間は、なんだか痩身の頼りなさそうな若者だった。いや……若者なのかな。髪が長く、表情がよく見えない。肌の色が、なんだか白い。その肌の質というのは、歳月を経たものなのか、そうでないのかはっきりとしなかった。まぁとにかく若者ということにしておこう。

 政治家特有の、覇気のあるような、厳かな雰囲気というのは全くないように感じられた。だがこう見えてこのあんちゃんもひとたび口を開けば独自の雰囲気を帯びてくるのかも知れない。そういう兆しはどこかにあるように見えた。

 人が出てきた途端、群衆は静まった。一気に。緩慢な空気が一気に張り詰めたのがわかった。誰もが多少なりともの期待を発言者に寄せているのだろう。しかし、おれには政治の知識なんてびた一つもないものだから、これからの演説にどうにか期待を寄せるのは難しい。

 おかしいな、と思った。

 一向にその若者は何もしゃべり始めようとしないのだ。どうしたものだろうか。おれはよくわからんが、この日のために練習を重ねてきた開口一番の、洗練に洗練を重ねたような文言があるんじゃないのか? おれみたいな大衆を振り向かせるようなすんごいやつだ。しかし若者はまだしゃべる素振りを見せない。だからおれは前髪が長い彼の奥底にある表情をより一層観察し始めた。なんで喋らんのだろうって単純な疑問だ。

 観察してわかったことはほとんどなかった。一体何を考えているのかよくわからない顔つきをしているということがよくわかったくらいだった。

 

 段々と観衆の苛立ちが募り始めてきたような、そんな雰囲気を感じる。

 今にもヤジの一つでも飛び出しそうだ、と思ったら飛び出した。

「なんか言えよ!」

 どこかでその言葉が出てきたのを皮切りに、群衆の大して煮詰まってもいない鬱憤がどろどろと出てきて、一瞬に膨れあがった。急かす言葉の中に、そこまで悪びれたものではない罵詈雑言も飛び交った。少し待ったくらいの鬱憤なんて本当にたいしたものでなかったらしく、群衆から発せられる言葉と雰囲気は、段々と自分達が楽しもうとするためのからかいのものへと変わっていった。

 そうこうしていても若者は喋りそうにない。どうしたものか。

 おれなんかはもう興ざめになって酒でも飲みたい気分に駆られていた。主催者は一体どうしているのだろう。

 調子に乗って指笛をならそうとしているルダに声を掛けようと思った時、彼はようやく動いた。

 しかし、動いただけだった。群衆を、なじるように、ねぶるように見回しただけだった。どこか恨めしい感情があるように思えた。

 少しの間そうしている彼だったのだが、突然驚いたような表情をしていた。雷にでも打たれたかのように目を見開いていた。それはほんの一瞬で、ヤジを飛ばすことに夢中になっている群衆は気が付かなかったかもしれない。

 どうも目の端に何かを捉えたようだ。つまりなるほど、群衆の中に何かを見つけたようだった。

 おれはその目線の先を辿っていった。女性がいた。目線をつけたのはあの女性だろうか。女性の姿はこの男くさい群衆の中では珍しいものだったので、私はそうなのだなと決めつけることにした。だからといって何か思い至ることはない。ただの暇つぶしだ。


「……は…………」


 若者が口を動かした。

 だけども、群衆のヤジに隠れてしまって何も聞こえない。ちょっと不憫に思えたが、彼が作りだした状況なのだから、なにもいえまい。

 そこに手が差しのばされた。といっても、そういった人間もヤジを吐いていたやつの一人なのだけど。

「おい! 何か言おうとしているぜ! 皆、どんだけ大層なものが飛び出てくるか、聞いてやろうじゃあないか」

 そいつは、演説とヤジには最良の通る声で怒鳴るように言った。全く悪質なもんだ。

 群衆はそれに従って静まった。どうも雰囲気というのは伝播するらしい。そいつの言葉が聞こえていないであろう群衆もぴたりと静まった。先程までの喧噪と比較するともう、本当に静寂だ。この静まりはしかし悪質だった。若者がなにか言おうものなら、多分またヤジを飛ばすものだろう。

 若者はそんな静まった群衆の前で再度だまりこくった。

おいおい。ちょっとそういう小芝居はもうやめておいた方がいい。今度はおれが助言という名のヤジをを挟み込みたくなったが、つかの間。若者は口を開いた。

「誰だって、英雄になりたいはずだ」

 そう言った若者の声はか細いもので、静寂にもかき消されそうであった。でもそれは最初だけのようで、若者は喋っていくと同時に、段々と我を忘れたように、饒舌になっていった。

「ここで言う英雄というのは、私だけの、私にしかない独自の英雄という意味でありまして、すなわちそれがあなた達のそれと合致する必要は毛頭ないのですが、英雄という概念そのものは誰彼にだって少なからずあると私は思います。手頃に成就出来る人もいれば、そうでないものもいる。その英雄になろうとすら志さない人もいる。見て見ぬふりをしてね。それが賢いのかどうかっていうのは結局の所本人が決めるところであるし、もしかすると英雄というのも流動的で、形を変えていくものかもしれないから、見て見ぬふりをしている自分というのをよしとするのも個々人の全く自由です。でね、最近、死ぬ間際にどう思うかなんじゃないかって思うようになってきたんですよね。英雄を志して死ねたのならば、きっと安らかで明るい死が待っていると思うのだけど、そうでないのなら……? と考えると身の毛もよだつ。そうは思いませんか、皆さん。心に問うてみて、どうですか、皆さん。あなた達は老いぼれてなおも英雄を志していますか?」

 誰もヤジを挟んではいなかった。

 思いの外、彼の演説と話口調に引き込まれるものがあったからかもしれない。

「しかし志した連中が必ずしも自分の、自分だけの英雄になって死ねるかどうかはわからない。それはやってみないとわからない。志半ばで死んでも本望だとは思うんですけど……そこでね、私はこの国の行政ということで今回話を進めていかなくちゃならんので、あえて絡み合わせて一つ提言したいのだけど。国は全力で応援すべきだと思いますよ。誰彼の微細な願望もね。全力で支援してね、成就させてやるべきと思いますよ。皆が皆、単純に与えられる労働を望んでいるわけじゃないんだ。労働が英雄だと思う人間だけじゃないんだ。で、提言というのは私一つ言葉を作って参りました。『国家支援』どうですか。ぴんと来ますか。来ませんよね。こんな発想するのは私だけでしょうし、始終理解されなくても別にいいんですけど、ここは一人の考えを持ってして発現する場ですからね。英雄というのは夢ですよ。夢を追いかける人間に対して、国は支援をすべきだ。手を差し伸べてやるべきだ。社会全体の中で、少数派に該当する人間も含めて救済すべきだ。どういう救済方法かはお任せしますけど、取り残されて苦悩をする人間を作るべきではないんだ。それが客観的にどれだけ根拠が乏しく、実現不可能だと思われていたってね、国が寄り添ってあげるべきですよ。誰だって、英雄になりたいのだから。本質的な願望なのだから。つまりはそこに落ち着くわけですよ。財源なんかは適当に見繕って出してやればいい。失敬。そんなことを言うとまるで無計画な戯言のように聞こえてしまったかもしれない。しかし無計画の戯言である。別にそこはどうでもいいのだ。だって私はこの国に期待していない。だからこんな案は却下されるだろうと目にみえているからね。というところから転じて、私はこの国について言及していきたい。それについては全くかまわないはずだ。誠治について論ずるということは国について論ずるということだ。私が国について話したって、この場に似つかわしくないということはないはずだ。まぁ、政治的な面で話すかはわからないけどね。無計画の戯言ゆえ。ええ。それでね、この国はいつだって小さい。誰もが小さく纏まっている。私だって小さい人間だということは理解をしていますけどね、それはこの国が小さいだからだ! って言うのは責任逃れでしょうかね。しかしまぁ発言者である私の存在の大小はべつにしてね、やっぱりこの国は小さいですよ。普段皆さんはこの国が城壁に囲われているなんて気持ちでは生活していないでしょう。広大な土地をもった国と認識されている。それは皆さんがいつも似たような場所で生活しているからであってその気になれば余すことなく隅から隅までこの国を知れる立場にいる。それはつまり狭い。私はいつもそういう閉塞間を感じていますがね。どうやら少数派のようで。いつも同じ、見飽きた生活空間で生活をする。もちろん、広大な土地だ。外には危険があるし、魔物は昼夜でその性質を変える。おいそれと外へは行けないけども、この国は内に目が向きすぎている。その結果、豊かな生活基盤が整い、誰もが満足げにくらせるようになった。貧富の差は多少あれど誰もがともかく、満足げに暮らせるようになった。それでもなおのこと内側へしか目を向けない。いや、知りませんよ? 実は水面下で国が少しでも外へ目を向けようということをしているのかどうかは。でもねぇ国をあげてって活動をしないのであれば塀の中の家畜ですよ。国という名の刑務所ですよ。魔物にへりくだった魔物に似た何かですよ我々は。まぁでも今言った事柄ですが、全てこの国家には無理難題と思っていますし、実際まだまだこんな状態で外のことに関しては冒険者というまとめの効かない人材で解決しようとしている辺りで目に見えてますよ。だから私が見てきてあげましょう。という宣言は無計画の戯言ではなく、どこか用意してきた文言ではあるが、それをあなた達にこの場で言うのは筋違いかもしれません。しかしこの場でいうことに個人的に意味を持っていたので、私は言った。ただそれだけです。そう。見てきますよ。現状で満足が出来る拙い群衆と国家のために。英雄となってね。誰彼の援助は全ていらない。突貫してきてあげましょう。今だって冒険者の数は少ないしね。その少数の英雄になることが、私にとっての英雄なのだから。例え外が剣と魔法の世界であってもやってのけてあげましょう。どんな困難に阻まれようとも。与えられた才能が天賦のものでなくても。あらゆる障壁を打破してみせよう! 縮こまった、内政にばかり注力する愚かな行政にわからせてあげよう。世界は広い! もっともっと広大なのだ。危険を顧みず、私がそれを証明してやろう! 剣と魔法ではなく、知恵と勇気で英雄になってあげましょう! 結局ね、国の姿勢というのは国民の姿勢になるんですよ。国がそうだから国民もそう……というのはあなた達を怒らせますかね? いや、怒らない。あなた達はおそらくいま自分自身の英雄を探すことに必死なはずだから。

そんな模索中のあなたたちの中で、今こう思ったものはいませんか? 夢を見る人間は全て馬鹿者だ。夢想をするやつはすべからく叩きのめされるのだ。何も持っていない人間は、全て朽ちてしまうのだ。夢想したって意味が無い! 夢を描いてなんになろう! 何にもならなかった! 馬鹿だ。馬鹿者だ。死んでしまえばいいんだ。生きている価値なんてないんだ。これは私が以前持っていた感想ですけども。もし同じ所感を今抱いた方に向けて言いたいですね。


 なににも属さないことを誇りに思え。なににも恐怖することを誇りに思え。人を見下すことを誇りに思え。誰だって少数派なのだ。自分の英雄と、他人の英雄を重ねてみる必要はない。人々はそれを認めようとしない。周りと同じようにして合わせてみせようとする。違うだろう。あなた達の未来は、死は、あかるいですか? 英雄は、見つかりましたか」


 

 気が付くと群衆はヤジを飛ばそうとする考えを捨てていた。彼の話を聞き取ろうとしていた。面白いのは、それでもなお、群衆はいまかいまかとヤジを飛ばす機会をうかがっているということだった。おれには予測が出来ていた。多分彼が話し終えるまで、ヤジが再燃することはないだろうと。全く根拠はないけど思っていて、事実そうなった。


 彼が叫ぶように最後の言葉を放ち、残ったのは圧倒的な静寂だった。実際、彼の言葉は人々に突き刺さったのだろう。事実、おれには突き刺さっていた。

 英雄。

 そのひどく単純で、ときめきのある言葉に打ちのめされていたのだ。久しく聞いていなかったような気がする、その言葉を。

 自分の英雄とは一体何だったのだろうか。

 昔を辿って考えることは難しいかもしれない。

 けれど、今の自分にとっての英雄を探し、これから悔いのない、彼の言う明るい未来を作ることは可能かもしれない。


 おれとルダは、この若者の演説を聴いただけで、そそくさとその場を後にした。
































 ~~~~~~~


 ルーシェへ。


 突然こんな手紙を送るのを許して欲しい。

 いや、許して欲しいと一方的に請うのは簡単で、自己中心的過ぎるが、手紙の性質上気持ちが一方通行になってしまうというのは致し方ない点だと思う。そのため、もう一度許してほしいと書くしかない。

 住所をどのようにして知り得たかというところから君はそもそも不気味に思うかも知れないから、その点をまず予め説明しておきたい。そこを予め記載出来るということは、君の住所を知ってからこの手紙を書き始めたということだ。

 以前、そばかすとえくぼが似合う女性と会ったと話しただろう? その子と出会った界隈で聞き込みをした。ただそれだけだ。

 説明をしたところで、さらに不気味に思ったかもしれない。

 ただ、どうしても私が伝えておきたいことがあったから、このように手紙を出した。直接会うのは憚られたので、手紙という形で。

 君がここまでの文章を読み、君の思想をもってこの文を破り捨てるのは全くの自由だ。

 もし仮に、私のこの手紙を読むことで君が不幸になるのならば、破られることも仕方がないとは思う。むしろ、そうしてくれた方が君のためになる。


 しかしそう前もった上で、私の本心を言うとするのであれば、私は君にこの手紙を最後まで読んで欲しい、と思っている。でなければ手紙など出さないだろう。


 この相反した気持ちというのが、やはり私の利己的な性質を浮き彫りにしているようだ。一体何なのだろう。君のためを思っているのならば、そもそもこんな手紙を書かないはずなのに。そして出さないはずなのに。

 それをわかっていながら書いてしまっている。出そうと思っている。


 ここから、私は君に伝えたいことを記す。

 恐らく、そのほとんどが私の未練につながっているものだと思う。未練を昇華させるために、手紙を出しているのだ。やはり利己的なのだ。


 さて、君は今どうやって過ごしているのだろう。君は君で幸福に過ごしているのかもしれない。そうだとしたら、嬉しく思う。この感情について偽りはないよ。

 ただ、その反面私のことを一切合切忘れてしまったことがやはり幸せに繋がっているというのであれば寂しさを覚えてしまう。

 すまない。こんなことを書いてしまって。もし君が私を完全に忘れてしまっていたら、記憶をえぐり返すようなことになってしまうだろうから。

 私の方はといえば、変わらないよ。

 変わらず、日々を生活している。足踏みをしているままだ。

 私はあの時、あのような別れ方をしてしまったことを月日が経つにつれて、後悔をしてしまっている。

 針が一本ずつ、一日ごとに体を貫いていく。そういった痛みを毎日感じている。

 私はあの時、君を侮辱した。まずその点について後悔している。

 まず謝罪したい。あの時君を侮辱してすまなかった。

 そして、説明をしたい。

 いや、説明ではないかな。これはやはり私の一方的な言い訳だ。その言い訳を書き連ねるとしよう。

 あの時、私が君を侮辱したのには理由があった。

 こう説明することがまずやはり言い訳くさく、詭弁めいた文言になってしまうのだが、続けるとしよう。

 君はあの時、私ともう会うのを止めた方がいいと言った。君には君の考えがあってのことだ。単純な拒絶とは考えなかったよ。

 君は君で新しい生活を始めたかったんだ。そこまでは推し量れていた。

 でも、私は怒っていた。なぜか。その気持ちは後述するとして、一方で……こう書くとまた美化しすぎではないかと思われてしまうかもしれないが、私があの時そう感じていたことだから書くけども、優しさを持っていた。

 一般的な優しさとは少し異なるものかもしれなかったけども、私は私の優しさを行使したかったという思いがあったのだ。

 私をもう、二度と金輪際思い出したくなくなるような、そんな最低の下衆野郎として心象付けることが出来れば、と思って言ったんだ。

 そうすれば君は私を呆れて、心の底から私を忘れることにもなんの躊躇いを覚えることもないだろうと思ったのだ。

 どうだろうか。君はあの時、私を本当にただの下衆野郎だとう思ってくれただろうか。

 しかし、今こうやって弁明している時点で、その私の優しさというものは何の効力も示さなくなったかな。いや、あるいは更に君は私に呆れかえっているのかな。

 とにかく。そういうことだったのだ。

 私は君を、心の底から罵倒したわけではなく、そして関係を断ちたかった訳ではないのだ。

 そう、決して関係を断ちたくなかったんだ。


 君ともう少し、夢を見たかった。

 夢を見続けて、その先を知りたかった。

 結果的に、もしかすると芳しくない未来が待ち受けているかもしれない。

 しかし仮にそうであったとしても、その夢を見た期間。例えば、私と君が酒場でああして語り合っていた時とか、お互いの葛藤を紐解いていった時。ああいうのも含めて、夢だ。一本……ある線で続いているんだ。それは夢だ。

 寝ている時に見るというような夢じゃない。

 人が人である為に、必要な夢なんだ。

 君がどう思っていたのか、私は君ではないから知らないが、その夢を見ていた時間、私は楽しかった。


 ああ、楽しかったんだ。


 打ちのめされて、打ちのめされて、今に至るけども、君と過ごした期間というのは、間違いなく……たとえ今後なにが起ころうとも、楽しかったと胸を張って言える。充実していたと言える。それを忘れることなんて、なかったことにすることなんて、今後出来やしないだろうから、私はあの時怒ったんだ。ようやくあの時の怒りを言葉で言い表すことが出来たよ。私はあの時の怒りを上手く言語化することが出来なかった。要は君にも私と同じ心情でいて欲しかったんだ。ずっと胸に、忘れないで持っていて欲しかったんだ。

 楽しかった、なんて表現は少し抽象的過ぎるかな。もう少し突き詰めていけば……こう、生きていると実感出来るような。まさしく、これが人間の意志であり、生であると……指をさして言えるような、珠玉の時間であったと。

 私が自己を陥れたい、とする破壊的衝動だと考えていたそれは、夢を追いかけることそのものだったのだ。

 夢の過程にある道というのは、もろい。壊れかけの吊り橋のようだ。

 その吊り橋を一歩一歩歩んでいるその時こそ、確かに生きていると実感する瞬間なのだ。それは破壊ではない。創造だったんだ。活路を切り開くための、勇気ある行動だったんだ。

 そのことに気がつけたんだ。

 君のお陰で。


 そういう時間をもっと、君と過ごしたかった。

 君はもう、自分の生活の軌道を上手く作っているかもしれない。ひょっこりそこに私のような者が現れて、夢を見よう、などとその軌道を簡単に変えることは許されることではないと思う。


 ただ、私は、この未練を君に伝えないと、次に何かをするということが難しいと思えた。


 君は私を忘れることが門出に繋がったかもしれないが、私は君との時間を素晴らしかったものとして賞賛しなければ次に何も出来やしないような気がしたんだ。事実、素晴らしかったんだ。


 だから称えよう。私と君を。共に歩んだ、私と君を。

 私は君を友と呼びたい。これも一方的だが許して欲しい。

 親愛なる友として、一緒に立ち向かった、勇敢な友として君のことを忘れない。いつまでもいつまでも、大切な時間であったと胸の内にとっておきたい。

 私はそうしたい。そして、それを門出と……出来るかどうかはさておき、この手紙を持ってして君に私の胸の内を伝え、私という存在に一区切りつけたい。

 そういうことだ。


 

 結局、私は私の言いたいことを書いただけだった。

 これで、何か私の気持ちが晴れたのかは日が経過してみないとわからないかもしれない。

 しかし君に手紙を出そうとして、実際に書くという行動をしてよかったとここまで書いて思えたよ。

 一方で君の気持ちを蔑ろにしすぎた。

 金輪際、このような手紙を出すことはないとここに誓う。だから許して欲しいなんて簡単なことは言わないけども、わがままはこれで最後にする。そう、最後にね。



 最後に、君に言いそびれたことを記そうと思う。

 これが、本来どうしても伝えたかった言葉だ。と書くと、偽善ぶっているような印象を受けるかもしれないが、違う。本当だ。本当に、私が素直に思っている言葉だ。


 君と過ごせて本当に良かった。

 ありがとう、ルーシェ。


          オデロ・パークディアより



 ~~~~~~































   Ⅻ


 弁論会からそそくさと引き上げた私は身を隠すようにロムサラスで酒を煽っていた。

 今日ばっかりは酔いたい。酔いたいから来た。それだけの理由はないのだ。

 しかし、我ながら大層なことを言ったな。充実感? 達成感? それともあれを虚言とするのであれば言葉に対しての責任感がつきまとうか。

 いや、どれにも該当しないな。確かに大勢の前で決意じみたことを口にしてしまっていたし、父親も聞いていただろう。だからなんだというのだ。別に構いやしないさ。逆にもうこれで人の目なぞ気にしなくていい。そういう気概で生きていけるじゃないか。奴らが私を口だけの人間だとして見てきても、奴らはその口すらもない人間だとして生きていけるじゃないか。元々奴らに何も求めてはいないじゃないか。

 そもそも私は群衆に向けてあの言葉を発したという自覚はない。群衆はたまたま居合わせていただけだ。ただの、場を賑わせる為の置物だ。

 目の端に彼女、ルーシェを捉えたから言えたのだ。あの言葉は全て私と、彼女に発した言葉だ

 そう、ルーシェ……なぜ、いたのだ。

 別に私が今日あの場に出るなんてことを彼女が知っているはずもないし、単純に人垣があったから興味本位で見ていただけだろう。きっとそうに違いないさ。来てみたら、私が現われた。偶然なんだ。ただの。ただのね。

 私は何を期待しているわけではない。私達はもうお互いに決別をしたという体裁になっていてそれを了承している風だし。ルーシェも魔法どうこう言うのも諦めたはずだし。まぁ口に出してそんな約束はしていないがね! ああ。別に約束していないのだ。だから……やっぱり期待をしていないというわけではない。一縷ですよ。本当に一縷の望みがあるというかね……あの手紙を彼女が破らずに読んでくれて、最後の最後まで読んでくれて……なおかつ私の先程の演説を聴いてくれてね……いやいや! 全然違う! そんなことはありはしないさ。大抵期待通りにね……ならなかったじゃないか。こうして入口に背を向けて座っているのはそのほんの少しの期待を根絶やしにしてしまうためさ。今日は、酔って、帰って、寝る。寝て起きたらまた……また? 同じ一日が始まるのか。業を煮やす毎日が始まるのか。今日言ったことも全て忘れて。ええい。明日のことなど。

 私は希望を否定しながら、興奮していた。昂ぶっていた。結局は……結局は……

 その時入口から音が聞こえた。

 私は振り向かなかった。馬鹿な。都合のよいことは起きない。夢想していたことは早々叶わない。学習しただろう。オデロ・パークディアよ。

 きっと私は絶望に打ちひしがれるに違いないさ。振り向いた瞬間にね。全然期待していた人間じゃないか、と。大方数少ないここの店員とかそんな現実さ。そうに違いないさ。

 いや、でも彼女だったら? おい、やめろ。私よ。考えは捨てるんだ。わかった。いいさ、この際、彼女ではないと断定した上で、いいかい。断定した上で仮定しよう。断定した上での仮定だ。もうこれは全く問題ない。可能性を捨てきっているんだからね。

 仮に彼女がここに来るようなことがあるのであれば、言っておきたい一つの言葉があるのだ。だいぶ、ずっと前から言いたかったような言葉。私はそれを今日彼女がここに来なくたって、遠い彼女に心の底から打ち明けたいのだ。

 この店は何か私達にとって因縁を感じる店であるだけなのに、その因縁のある場所でね、打ち明けたいのだ。


 足音が近付いてきた。

 馴染みのある音かもしれない。

 私はもう仮定どうこう忘れて後ろを振り返った。

 そこには、笑顔で一人の女性が立っていた。

「英雄さん」

 女性は笑顔のまま言って、持っていた杖を小さく掲げた。

 そんな彼女に私はこう言った。言うしかあるまい。

「ずっと待っていました。あなたと、こんな日が来るのを」


                                  -終-


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