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   Ⅰ 


私の思想が危険で愚かしいものであるから、排除されるべきである、という確証はどこにもない。一つの社会的な通念から否定することは可能であるが、それが全てではない、と私は考える。あくまで物事の側面をなぞったくらいの効力しか持たない。

 であるからして、いかなる社会的な通念をもってしても、私の意見を全て妨げることは許されないはずだ、という論法はいささか強引すぎるし、そんな確証も実はどこにもないと私は理解しているのだが、声を大にして言いたいことは山ほどある。山ほどあるが、言えない社会に、私は生きている。

 言えない事柄を、私は胸に秘めている。あるいは言いたくない事柄も、私は胸に秘めている。

 それを確固たる信念というものにしてみよう。見栄えがよく見えるだろう。私はそれに従って生きていくしかない。出来損ないかもしれないが、それが個を形成し、自分を自分たらしめると私は理解しているのだから。自分を立脚し、蒙昧に生きるようなことにならない指針となると理解しているのだから。


    ・


 ある日のことだった。

 自室の扉の奥から、軽い、叩く音が聞こえてきた。

「何でしょう?」

 客人が来ているという訳ではないから必然的に家族の誰か、ということになる。今は父親も仕事で出かけている時間なので母親以外ないだろうな、と予測を立てた。

「ミナです」

 しかし違った。妹のミナであった。

 私は机に向かって行っていた作業を一時中断し、扉の方へ向かった。開けると、ミナが立ち、何かを言いたげに私の方を見ていた。

 最初はなんだ、と思うだけだった。便所に一人でいけないだとか、そういう、本当にどうしようもない類いの相談事であるかと思った。

 だが、と考える。

 今まで妹が私に悩み事を相談した試しなどなかったなと思い至る。であれば、悩み事を相談に来たという可能性は、行動を確率として考えるのであれば低い。

 であれば一体何用だろうか。

 勘を総動員して考えてみるも、何も想像は出来なかった。

「入るかい」

 実の妹だというのに、随分他人行儀な言い方になってしまった。恐らく、ミナが放ち、纏っていた雰囲気がそれだけ非日常的であったからだろう。

 ミナは私の自室に入り、床にぺたりと座り込み、なおのこと私を見続けた。

 私はなんだか沈黙に耐えられなくなり、言葉を発した。

「一体何の用件だい。珍しい」

 ミナは私にあまりなついていない。というより、無関心に近い。私があまり興味を示す素振りを見せていないから仕方ないのかもしれない。

 ミナはなおのこと私を見つめてくる。

 沈黙が長く続き、散々場をため込んだ後に、ようやくミナは口を開いた。

その言葉は一言一句はっきりとしていて、台詞じみていた。

「お兄ちゃん、どうして働かないの」

 一瞬時が止まったかと思った。まさかそんなことをミナが言ってくるとは思わなかったから。

 はっとする。まさか。両親の。いや、そうだ。そうに違いない。

 最近は両親の、私への干渉が全くないものだと思っていたのだが。なんとミナを使い労働を促そうとするとは。

 いや、まだ確定したわけじゃない。純粋にミナの疑問として、わだかまりを露わにしただけかもしれない。どちらだろう。

「お兄ちゃん、どうして働かないの」

 私が悩んでいるところに、再度ミナは繰り返した。それだけを言うためにここに来たかのように、やはり台詞じみていた。事実そうなのかもしれない。親の使いなのか。やはりそうなのか。確定しないまでも、私は思考を落ち着かせるためにひとまずそう仮定することにした。仮定することにしてみると、若干の苛立ちが生じた。

 はっきり言って、姑息だ。私も姑息さを兼ね備えているということは自負しているが、あちらも姑息だ。度しがたいぞ。姑息な息子に対する、使者を派遣した姑息な両親達による姑息な論議が始まろうとしている。

 その議論における先制攻撃。開口一番というのは議論の場面で、場合によっては優位性が付与されることがある。それがこれだ。してやられた。

「どうした、ミナ?」

 私はさも平然で、威厳のあるような表情を繕って度量が広い兄を演じてみせようとしたが、いきなり出てきた直接的な疑問にやはり戸惑いを禁じ得ないままだった。

 決して、回答が出なかったから、というわけではない。

 ただ、他人に説明しづらい部分があるため、そう改まって聞かれると中々に戸惑う部分があるというだけなのだ。ましてや実の妹に。そうだ。妹はまだ幼い。説明をしてもきっとわかりはしないから、さらに説明に頭を悩ませたのだ。だから戸惑ったのだ。

 妹はそれ以上何も言わず、疑問の眼差しだけを注ぎ続けてきた。私が、どうした、と聞こえなかったというような素振りをしているにも関わらず、である。聞こえたでしょう、お兄ちゃん。というような沈黙の圧力があるような気がするのは両親の吹聴による策略だろうか──と考えるのは至りすぎだろうか。ともかく、私は姑息な議論を少しばかり続けなければならないようだ。

「お兄ちゃんには、色々事情があるんだ」

 抽象的なごまかしというのはいつだって応用が利くものだ。あわよくばこれで退いてくれればいいのだが。

 しかし、なおのこと眼差しと共に頑とした圧力を投げかけてくる我が妹は強敵であった。

つまり、抽象的すぎてわけわからんぞ、具体的な回答を持って行かないと両親になんか言われる、と。そういうことなのだろうか。

「皆、働いているみたい」

ミナはしかるべき追撃を浴びせてきた。「みたい」というのはやはりミナもよくわかっていないのだろう。これも親に仕込まれた文言なのだろうか。

 私は意を決した。どうやら腰を据えて議論をしなければならないようだ。

「いいや。しかしねぇ。ミナ。私は働きたくない、働きたくないというだけじゃないのだよ。あ、いやまぁ、実際にそういうことを口にしたことはないけれど……体現はしているからね。それで、こう見えて、実は働きたくないということ以外のことも考えていたりするのだよ。というより、働きたくないというかね、結果的に働いていないというだけであって、私は別段働きたくないから働かないという論理でこうしているわけではないんだよ。そこの所をどうか理解して欲しい」

「へぇ」

 無関心なのか、興味があるのかわからない相槌をミナは打った。

私は構わず喋り続けることにした。

「へりくつなどではないよ。私はいつも、芯を持って生きていると前に言っただろう? そういう芯が私の中にあって、それが働かないという選択に繋がっているわけだよ。その芯というものの一部を語り聞かせてあげよう。いいかい。まず、あまりにも不躾だ。私はもちろん今を生きている人間だから、今こうして眼前にある現実社会に生きなければならないのだけど、この社会は不躾だよ。こうすべき。こうあるべき。はたはた面白いことなど何もないくせに規則だけはえらくご立派に作られている」

「よくわかんない」

 ミナはもう私のことなど興味なさそうに、さっさと切り上げて欲しいという願望を目に表していた。しかし私は意を決したのだ。今更何をしようとも遅いぞ、我が妹よ。しかけて来たのはそちらだ。

「まぁ待ちなさい。ひとまずそこで黙って聞いていなさい。面白いのはね、ミナ。皆、その不躾だと思われる規則に真面目に従い生きているということなんだ。なんでだろうね。私は多分、こういうことだと思うんだ。つまり、この社会の規則があまりにも無難で、頑張ろうと思えば守れそうだからこそ、現実に守る。守れる。そして、守った自分に対して褒美を与えているんだ。やぁ、今日もよく頑張った。自分を抑えつけて、規則に従って生きた。充実だ。なんて言いながら夜は酒を飲み、寝るだろう。翌日には今日も始めるかという具合でまた仕事に取り付く。私から言わせれば狂っているのだよ。本当の自分を見失っていないかい? と言いたくなるよね。だって、そういう姿はもうほとほと規則の存在意義などを考えようともしていない姿勢だから。その姿勢こそが二次的にも三次的にも無駄な規則を生み続けるきっかけになってしまうのだよ。底意地の悪い、無知から発せられる無自覚の罪だよ。そういうものは。ああ、規則というのは国がかかげているものだけじゃないからね」

 ミナはもう既に眠そうになって地面を眺めているだけだった。構わない。もう、たがが外れてしまった。

「どういうことかというとね。規則というのは二通りに別れると思うんだ。まず一つは、国が定めたもの。もう一つは、人が勝手に生み出したもの。いわば不文律。慣習とも言えるものだね。後者が面白い。言わずとも勝手に誰かが規則を作り、気が付くと意識的に、無意識的に誰かがその規則に乗っかる。そしてさらに気が付くと。そんな具合に規則は拡大していく。そういった有象無象の規則や明文化された国の規則を全て含めたものを、私は社会的規則と名付けた。ここまではいいかい?」

 大きなため息だけが返ってきた。

「社会的規則は大なり小なりまばらにあって、場合によっては連結し、絶えず蠢いて、人々を束縛している。一度束縛された人間は、他の人間を規則の輪の中に放り込もうとする。ミナ、君も気が付いたら社会的規則の輪の中に入り込んでしまっている。『人間は働かなければならない』かい。誰が決めたんだい、そんな命題。そんなことは私が決めることであって、他人に決められることではないはずなのに、気が付くと働いていない人間を規則に乗っかっていない人間として由々しき目を持ってして駆逐しようとするではないか。その無自覚の悪意に私は驚かされるよ。ああ、ここでも無自覚だ。無知だ。そう強いて輪からはじき出るものが存在するからこそ、輪の結束が強まっているともしらずにね。規則を作ると、いつも弾かれるものがいる。相対的にそれを喜ぶ人間もいる。そういうものさ。そういう、私の社会への憎悪というものを説明した上で、さらになぜ働きたくないかということになっていくのだけどね。もしかしたら違う方向に話は進んでいくのかも知れないのだけど、それは許して欲しい。私も他人に説明をするということが非常に不得手な人間であるから。で、そうだな。と言った途端話は変わるけどね。ミナ。君は冒険者という存在を知っているかい? 閉ざされたこの国において、唯一外へ繰り出す連中のことだ。外には危険しかないというのに、嬉々として自らその危険に飛び込もうという連中のことだ。その存在自体は結構少ないからミナはあまり知らないかな。彼らはこの国の中には存在しないものを外で得て、持ち帰り、それで富を得ようとする。珍しいものや資源は高値で取引されるからね。それこそずっと遊んでくらせるくらいに高値で。だからこそ危険を顧みずにやれ冒険だと外へ繰り出す連中がいるわけだよ。私は心底羨ましくなるよ。ああ羨ましい! だって、才覚と運がないと出来ないだろう? そういう自覚がないとそもそも決断が出来ないだろう。向こう見ずの馬鹿者以外はね。この世は剣と魔法であるからして、その才覚が無いと、冒険だと銘打って二、三歩足を出てみたところで魔物はおろかそこらへんを彷徨いている猪にだってやられてしまうよ。少なくとも私にはそういう自信があるよ。だから、私はそういう生き方が出来ないという絶望に打ちひしがれる訳だ。こう見えて、実は憧れを抱いていたのだよ。私だっていつか。ってね。冒険で一山あげよう。ってね。どのような山かは知らずね。そういう心があったからこそ、こういう具体的な話が出来るのではないか。でも、繰り返すけどね。この世は剣と魔法だってのに私にはそれがない。この事実は覆せないという現実に私は直面してしまった。で、どうするか。残った道は? ここで、嬉々として労働が顔をちらつかせてきて、実際そうしようかという話になるのが社会的な通念になってくるのだけども、その話はおかしい。待った、異を唱えよう。ここで意思と現実に齟齬が生じてしまうのだ。私は私なりに一山あげようかと心に決めている節があるというのに、現実はそう上手くいってくれない。それではい労働ですか、と食い下がれるものですか。そういった次第なので、現在の状況を端的に説明するのであれば、模索中、というところなんでしょうか。なぁ、ミナ。聞いているのか」

「もう、いや」

 私は聞かなかったことにして続けた。姑息な議論に勝利するためには、私のこの内にあるものを貫徹して打ち出してしまわなければならない。いや、もはや議論がどうとかより、私はただただ喋りたかった。ミナがほとんど話を理解しておらず、何も言い返してこないことをいいことに、自分の溜まりに溜まったこの情念の類を自己満足に近い形で放ち、愉悦に浸りたいだけだった。

「そもそも、労働だなんてのも社会が浴びせてくるものがほとんどだ。浴びせられた労働を行い、飯を食べて寝る。そんな人生に何の価値があるのだろう? 私はこのように考えることが好きな人間だしね、人生に対しても色々、ほら。あ、ほら、さっき言った通りね、働きたくないということ以外に考えていることがあると言ったようにね、人生に対しても色々考えている趣があるのだよ。人生は短い。儚いよ。大体がどれくらい生きられるっていうんだ。明日死ぬかもしれないのに、なんで悠長に働いている暇があるっていうんだ。それなのに、皆あくせく働いている。時間、つまりは人生をぎゅっと縮める自殺行為じゃないか? なんて思うのだけど、社会的にはそうでないらしいから、ここでも私は嫌気を感じてしまう。中には興味のある仕事をしたりだとか、やっている仕事を好きになる人間だとか、そういう連中もいるかもしれないね。しかしだよ。私はどうもそういう気がないようだ。やってみろって? やってみたことはあるよ。妹よ。君がまだばぶうと言っている頃合いだ。労働という名の下に賃金を得ようとした日があったのだ。鉱山に行った。穴を掘った。金を得た。という経験。確かに、あの日々口に入れた食事というものは皆が口を揃えて言うように格別だったよ。しかし今になって思えば、ただ異常に体を動かして腹が極端に空いていただけなのだと説明がつく。まやかしに過ぎないのだよ。労働で食事がうまくなるだなんてことはね。肉体労働、頭脳労働、問わずね。あぁ、ちょっと話がずれたか。食事がどうとかは些末なことで、一旦控えよう。それで、あの日々に私は思ってしまったのだよ。先に言った、自殺であるとね。つまり、金という人間が作り上げた虚構の価値を得る引き替えに、生きている時間を持って行かれる。そこに気が付いたとき、侮辱かと思ったね。この仕事は侮辱ですか、と監督者に問おうとしたが、しただけで何もしなかったのはいい思い出だ。その仕事と監督者は悪くないとは理解していた。悪いのは社会だ。辛抱たまらんと決意した翌日に私はもう鉱山には足を運ばなかった。決意した日ではないというのもいい思い出だね。そういう、即断して即行動が出来ないという点は今の現状を生み出している微々たる要因になっているような気もする。私ってひどく優柔不断でしてね。なんにせよ、二の足三の足をその場で踏みたがる。生来の気質なのかなぁと思うよ。どれだけくだらなく、単純そうな選択に見えても、どちらか、あるいは複数の中から何かをとれなんて言われたら本当に悩み、苦しんでしまうのだよ。とにかく私は嫌になってしまったのだ。まず現実を突きつけられて、労働と向き合った。しかし労働は自殺だ。社会は規則の名の下に自殺を強要してくる。それが本当に正しいと私も疑いなしに思えるのであればそうするよ。でも、そう、私はそれ以外の道を探している。そうなんだ! つまり、さっきも言ったような模索中、という話に帰結するわけなんだ」

 言い終えて、私は奇妙な感慨に浸れていることを自覚した。清々しい、という感情が一番近いものか。だが、今話したことなど、全くもって私の心の一部というか、一部でもないかもしれないし、どこか説得の為の継ぎ接いて出た言葉かもしれないという感想は抱いていたので、やっぱり清々しいというのは間違いかもしれない。

 妹はもうぐったりしていた。ようやく終わったか、とばかりに胡乱げに私を見ると、部屋から出て、とたとた階段を降りて行った。

 姑息な議論に勝利したのかはわからなかったが、ひとまず、出来合いの安息は訪れた。



   ・


 出来合いの安息はすぐに音を立てて壊れることになった。

 我が家の食卓というものはとてもじゃないが居心地のいいものではない。

 この居心地の悪さを私だけが感じていればいいのだが。確認する方法は持ち合わせていなかった。

 とにかく、誰がいつ私に対して労働の促し、あるいはそれに類似した話題を振りかざしてくるかわからないのである。私は先程ミナに話した通り、自分の中で労働を拒否することの答えをある程度は持っているから、それを説明することはやぶさかではないのだが、両親に一から説明することが非常に煩雑で、理解されもしないと思っているから、話したくないのだ。そうだ。正味理解されないのだ。ミナに言ったことは何も理解出来ない妹の前であるからこそ言えたのであって、半ば中途半端に理解をしようとする両親の前ではやはり到底言えたものではない。

「あら、今日は本当によくできたわ」

 こういうなにげのない会話であっても、私はびくついてしまう。『それで、ねぇ』と話を展開させられた日にはいかに食事をはやく終わらせるかということしか考えなくなってしまうくらいだ。

「ああ、そうだね」

父親が言った。私はびくついた。

 それをきっかけに、皆が思い思いに食事を開始した。私もそれに追随して食事をぱくつくことにした。


 私の両親は寡黙だ。あまり、自分の考えなどを口に出したりすることはない。それは子への教育という点においても同様で、覚えている記憶の中でしかられた、と自覚するような場面は片手の指だけでまかなえるような回数だ。だからどうした、という話ではあるが、私がかように少数派の道を選んだことともしかしたら何かのつながりがあるかもしれないと最近思いつつある。

 寡黙さというものは誠実さも伴っていると私は思う。事実、父親などは本当に誠実そうだ。誠実という表現は抽象的すぎるきらいがあるし、実の父親に対して、誠実そうだ、なんて尊厳を損ねてしまいそうではあるが、とにかく誠実なんだろうなぁという感想が私のなかにひたひたとある。

 根拠としては、一つある。父親が優秀だからだ。

 ここでいう優秀とは、やはり社会的な輪の中で、ということである。社会は規則で成り立っている部分が多いということは多分誰も異を唱えないだろう。その規則にいかに疑いなく溶け込み、疑いなく時間を削ぎ、疑いなく輪と規則が正しいかと言えるかという点は社会においての優秀を勝ち取るに必要なことであろう。父親は眼前の事象に対して、誠実であるがゆえに優秀を勝ち取れたのではないか、ということだ。

 私は決して父を罵倒しているわけではない。ある種の才覚だとむしろ褒めたい。尊敬している部分だってある。誠実に努力を重ねて来たのだろう。人間関係における交友なんかが上手なようには見えないから、多分、私が想像をするより相当の努力を。

 寡黙で、誠実で、優しい。端的に言うと父親はそういう存在だ。


 しかし今日の食事はいつにもなくさらに居心地が悪いな、と思った。

 なぜかと考えていけばやはり今日のミナによる私への牽制だろう。もうほとんど確信していた。あれは両親の使者だと。

 まだ生々しく打ち明けた議論の余韻が脳裏に残っている。それが居心地の悪さを助長している。

 それに、ミナが見てくるのだ。部屋で見せたような疑問の目を、ちらちらと。両親以上に圧力を放ってくる存在である。いや、これも両親の吹聴によるものなのだろうか。食事の時でも、兄にひたすら目を向けなさい、お願いよミナ、と。それとも、ミナの本心から来る疑問の目なのだろうか。この食卓の場では打ち合わせてなどいないのだろうか。

 前者だとしたら、憤りがどんどん増してしまう。

 ミナという純粋な人間を絶えず使役せしめ私を労働に導こうだなんて。考えただけでも恐ろしい。今までは無垢であり続けたミナが私を監視するようになるだなんて! 恐ろしい! 

 ミナはなにも親の考えなんてわかりやしないし純朴だ。その純朴さを出し物にして私を……

 いけない。考えが過ぎた。自分の中で陰謀を増やし続けてどうする。

「まぁ、今日はいつにもなく急いでいるのね」

 母親にその気は多分ないと思うし、ないと信じたいのだが、どこかいやみたらしく私の中で聞こえた。待ちなさいよ、我が息子。そんなに急いて食べたら喉につまりますよ。その前にね、ちょっと話がしたいことがあるんですよ。というように労働の話を打ち出すのではないかと穿ってしまうのである。母親がそんな人間ではないと知りつつも、勝手に心情を想像してしまうのである。

「いえ、あまりにも料理がおいしいので」

 私はそう言ってそそくさと食べる行為を止めなかった。一応、おいしそうに咀嚼するくらいの演技はしてみせておいた。

「そう」

少し微笑した母親の表情を見て私ははっとした。

 そうだ、別に両親は底意地が悪くない。いつだって私に寛容だ。社会的規則の中にいながらも、ある程度はいつだって寛容だ。だから、勝手に悪く思うのはよくない。

 ミナを使役したのだって、きっと私に対して面と向かって言えないからこその代替案に他ならない。ミナに説得させたら即座におたおたと慌てふた向き心変わりするだろう、そのざまが目に浮かぶわ。などという陰謀を呈しているわけではないはずだ。純粋に親として、労働を促したいのだろう。それはよくわかる。苦肉の策なのだろう。あまりにも私が自発的に輪に入る努力をせず、話も聞かないものだから。

 しかし、そういう親の心情もなんとなくわかりながら、私は輪に入ろうとしない。規則に従おうとしない。当然結果的に労働もしない。

 誰かの言葉一つで変わるような芯ではないということで、それはそれで気変わりのしない自分に一つ自信を持てるところではあるのだが、両親には申し訳ないという気持ちはある。申し訳ないと思う心構えがあるからよしとしよう。というこれだ。

 いつだって私は論理と打算の元、親を出し抜いている。そう思う瞬間、いたずらな罪悪感を感じてしまう。

 このいたずらな罪悪感はいつだって余りある。計算をもって両親の感情なんかを手玉に取っているのだという意識が生じ、そしてその罪悪感を感じたからよしとしようとする心構えにも同様に罪悪感を感じてしまう。

 いつも計算づくなのである。計算といえば、労働だ労働だとあまり強く私に言えないのも、恐らく自分自身の育て方にも問題があるのではないか、と両親が考えているからだろうという計算もある。子はいつだって、保護下におかれる。責任をもって育てなければならないという義務感を親というものは持っている。そこにつけこむ私の計算。打算。

「あぁ、そうそう」父親が言った。

 父親は、食卓で会話をするのが義務だと思っているのか、このように思い出したような前振りを置いてから、自身が前もって考えてきたのかどうだかしらない話題を振りかざす。毎日必ず、というわけではないが結構な頻度で。

 この『あぁ、そうそう』という前置きはもう何度も聞いたような気がする。

 話題とそれに付随する独り言に近い父親の所感というのは大抵が傍から聞いていて何の面白みもないものが多かった。私はそういう話題であればひどく安堵したものだ。どうでもいい話に家族の全神経が向くわけで、私の労働への言及はなくなってくるわけである。

「ジェイド君がね」

 とここまで聞いて、しかし今日は安堵できないようだと思った。

 ジェイド君とは私のだいぶ古い知人で、近場の隣人でもある。知人というとよそよそしい響きだが、実際よそよそしい関係である。まだ物心つく前には彼と遊んでいたりしたのだが、それははっきりいって友人とは言えない。幼少期の関係など、歳月を経てしまえば忘却とともにかすんでしまうものである。それに遊んでいたのだってほんのわずかな期間だ。

 最近では全く顔を合わせないし、私なんかはもうほとんど存在を意識しないものだったのだが、まさか父親の口からジェイド君の名前が出るとは。

 無理もないか。ジェイド君は私の数少ない交友関係の中にいた人間であったし、現役の隣人だ。手頃にぽっと出せる話題でもある。

 他人の、特に私の同世代の人間の話となると厳しい。なにが厳しいかって、比較して語られる可能性があるからだ。ジェイド君は輪に入り、労働している。しかし、君はどうだ。我が息子よ、という具合に。

身を強ばらせながら、ひとまずは口に入っていたまだ満足に噛んでも味わってもいないパンを飲み込んだ。

「今日、帰り道で会って、話したんだけどね。まぁ。元気そうだった。懐かしいよな」

 父親はそう言って、私を見て来た。一体どう反応するのが正しいのかわからない。この質問の意図はどこにあるのか。

「確かに、懐かしいですね」

 私はそう言うしかなかった。

 そこで一旦会話は終わったかと思った。

 なんだ、ただの、短すぎる父親の一日の報告か。私が安堵しかけた瞬間だった。

「ジェイド君は、国の兵としてこれから寮での生活をするらしい」

 まだ話は続いていたらしい。

「国と大義を守る為に兵としての道を選んだと私に言っていたよ」

「へぇ、あのジェイド君がねぇ。幼い頃の印象が強いからかしら、とても国の兵だなんて。出来るのかしら」

「結構、意思を持った目をしていたから、大丈夫だろう」

 そこでようやく会話は終わった。

 ただそれだけの会話だったのに、私はジェイド君との過去を掘り起こしながら、少数派の恐怖に身を蝕まれていた。

 大丈夫だ。落ち着こう。

 ジェイド君を引き合いに出して、私に労働を促したわけじゃないのだ。いや、実際どうなのだろう。そういう腹づもりくらいはあったのかもしれない。

 ちらりと、家族を見た。

 皆、何食わぬ顔でいつも通り食事を進めていた。特殊な感想を持ったのは私だけなのだ、とこじつけることにして、そそくさと食器を片付けてから階段を上った。


   ・

 

 私は翌日の夕方くらいに家を出た。理由としては、やっぱり昨日のことだ。なに、逃げ出たんじゃない。気分転換さ。

 私は家にいることが多いのだが、別に家から出るのは特段嫌ではない。

もちろん嫌だと思う要素もあるのだが。例えば、この緩やかな民家に沿った坂道を上っていくと必ず似たような顔ぶれに会う。話もしたことがないのに顔だけは知っている人達と出会うのだ。この気持ち悪さたるや、いかんともしがたい部分がある。顔だけは知っているから、とりあえず挨拶しておかなければならないという義務感も生じる。挨拶も社会的な規則であるが、私は挨拶は、する。したい。ぶれていないぞ。決してぶれていない。自分が挨拶が必要だと思うからそうするんだ。

 といってもまぁ、軽い会釈で済ますのだけどね。その後の彼らの目たるや。なんだか、あぁ、私は決して自分を卑下しているというわけではないんだけど、彼らは私を疎んじたような目で見てくる気がするからやっぱりばつが悪いのだよ。気がする、という点で実際に視覚的にそうなのだとわかるような目つきではないし、あなた今私を疎んじましたか、だなんてことは聞けるわけもないから実際のところがどうなのかわからないのだけども、やっぱり社会的規則という輪の中に入っている人間達がほとんどだからだから、直感的にわかるのかもしれない。私が輪から外れているということを。それゆえの、侮蔑を孕んだ目であるのだ。多分。

 しかし、そういった時に、私は自分自身にこそばゆい存在感を見出してしまうのだ。没個性的に輪の中に入らずによかった。と思うのだ。個性の為に生きているわけではないけどもね。

 輪に入っている人間も、私のことをおかしな人間として輪を結束し、自己をを確立するのと同様に、私も彼らと同じでなくてよかったと思うのだ。思い出す鉱山の日々。あれが労働の全てとは言わないが、それに近いものに従事して、満足する連中でなくてよかったと心底思うのだ。

 この関係は言ってみれば、共存共栄だ。互いが相対的に利得を生じうる関係を持っている。

 しかし、私はこの共栄関係に全力で肯定が出来ないために、こそばゆい存在感と銘打っている次第である。

 理論に過ちはないはずなのだが、肯定出来ない理由は恐らく私が少数派だからだ。少数派どころか、一人だからだ。自分と似通った感性を持つものがいないのである。それゆえに私の自己確立がよく出来、このような人通りが多い場所であっても胸を張って前に進めるという点はよしと出来るのだが、心のどこかで、同じ感性を持った人間を求めている。もしかすると、という話ではあるし、人数の多寡によって論理の優劣がつくはずもないというのは重々承知している所ではあるのだけども。

 だが、私はこの自己の甘えとも呼べる恐怖に対抗すべき論理を知っている。

 正直言って、少数派というものは大抵が恐怖しているに違いない。いつの時代でも、である。その恐怖を単純に薄めたいがために、自己を甘やかし、人を取り込んでいってしまうのだ。結果、多数派に繋がる。多数派に繋がり、社会的規則を作り上げる。そういう仕組みなのだ。

 なので、私は貫徹したい。甘やかしたくなどはない。

 道中の人間達を尻目に、私はそう意気込んだ。

 

 酒場『ロムサラス』に到着した。

 たまに居心地が悪くなったりした時、あるいは居心地が悪くなくてもこの酒場に出向く。つまり、どんな気分でもたまに足を運ぶような店である。結構な頻度になるが、常連扱いされているというわけでなく、顔見知りがいるというわけでもない。一人でただ肩身狭く飲むだけである。

 大通りの脇道にあり、店内も期待通り寂れた感じで場末であることが私がこの酒場に足繁く通う理由の一つである。

 いつも口ひげを無駄に生やした愛想の悪い、何考えてるんだかわからない店長がどっしりと構えている。初めて訪れた人間はその店長が存在感を放ちすぎているがゆえに再訪しないことを決意するかもしれない。

 私は酒と適当なつまみを頼み、一番奥の角の席に着席した。

 ここに来ると心が本当に安らいで、俗世を全て忘れられる。なんてことはないのだが、少なくとも我が家族の食卓以上には気分が落ち着く場所ではある。

 当然、支払いは私の金ではなく親の金である。母親は、私が外出をするというだけで金を恵んでくれる。裕福であるだろうし、貯蓄はあるのだろうから、あくまで経済的な面で私に金を渡すという点はまるで問題がないのだろうなという打算がここにも生じていて、私は軽い自己嫌悪を感じながらも、差し出された小金を手にすると、反面ほくそ笑み、またその後に自己嫌悪に陥る。が、ここで飲んでいる内にはそんな感情も吹き飛んでしまっているので、その程度の感情なのだろうとすることにしていた。

 母親をだましてなどいない。外出するということに加えて暗にそれ以外の行動をしてみせようだなんて示してはいない。例えば労働を探しに行ってみますだとか、少し散歩に行ってみて自分探しとかいう抽象的過ぎる行動をしてみますだとか、そんなことを暗にするだなんて私は一言たりとも言っていない。私はただ外出をすると言うだけだ。

 母親は多分、そういう労働に直結することでなくても、外出をすることが少ない私が単に外に出るということ自体そのものが嬉しいのかもしれない。私が外出先で労働につながる行為をするのかもしれないという空寒い期待もしているかもしれない。なんにせよ親が期待と喜びを感じるであろう、行動の最下限は想像している以上に低いものだろう。

 恐らくだが、私が呼吸を出来たと大げさにいってみせれば喜ぶのではなかろうか。いやいや。やめておこう。それ以上また親を打算でこねくり回すのは。

 私は再度浮かび上がった嫌悪感をどこかへ放る為に運び込まれた酒をかっと一気に煽った。

 その時、店に集団で誰かが入り込んだ。四名であった。

 私は酒の余韻に浸りながら、集団の様子をあちらに気が付かれないように観察した。この店に入ってくる連中の大半は孤独に孤独を上塗りした薄気味悪い連中であったので、どこか垢抜けたその集団が珍しく思えたのだ。まぁそもそも客が入ってくることがまず珍しいのだが。

 集団は私とは対角に位置する席に座った後、注文を告げた。どうやら彼らは何かの祝い事らしく、私の親から得た小金での晩餐と比較すると羨ましい限りの多彩な料理を盛大に頼んでいた。

 私はしばらくの間彼らの会話に耳を傾け続けた。というより、静かなこの店だとしたくなくとも耳に入り込んでしまうので、そうせざるを得ないのだ。


 話をまとめるとこういうことらしい。

 彼らは冒険者を志しているらしく、実際先程初めての冒険に出かけ、結果的に予想外の実りを得ることが出来た。だから、祝うことにした。なぜこの店を選んだかはわからないがとにかくそういうことらしい。


 耳が痛かった。他人の武勇伝ほど煩わしいものはない。さらに耳の痛さを増長させる一つの要因として、私が一つ剣と魔法の世界になじもうと努力した日々が思い出されるからだ。こういう冒険者達を見ているとね。そしてその日々を思い出すたびに、私は破壊的な──もちろん我が身に対しての破壊的な衝動に駆られることを余儀なくされるのである。この破壊的な衝動というものも、今の私の状態に間違いなく一役買っているもので、言葉では言い表せないような深淵を作りだしているものだとそこまで私は自己分析出来ている。

 

 連中の快活な笑いを見て聞いていると、私があの中にいてもおかしくはないのでないかと思う。

 あの日、あの瞬間。私は。

 やめておこう。何を考えているんだ私は。もうどうでもいいことのはずだ。剣と魔法だなんて。

 ここでも居心地が悪くなってしまったので、私は一通り酒を飲んだ後、早々に店を出ることにした。

 









   Ⅱ


 最近、私は自分が取り込まれそうで怖い。

 少数派の恐怖というものに覆われて、自分が自分でなくなってしまう瞬間というものがいつか来てしまうのではないかと。

 完全に取り込まれてしまった瞬間というのが、恐らく私が労働を始める瞬間だろう。

 恐怖へのささやかな反撃、というべきか。最近どうやって恐怖に打ち克ち、反撃をしようかと頭を悩ませている場面が多い。

 そういった思考がいつもどんよりと頭の片隅に置かれていたものだから、母親が毎年恒例の立食会合を行うから、という旨の報告を私にしに来たとき、快諾したのかもしれない。

 いつもであれば『母さん。今朝は胃が弱くて、どうしても叶わないです』などというような口上を立ててみて、立食会合は部屋にいたきりになってやり過ごすのが常であるのだが、違ったのである。

「いいですよ」

 凜として言ってみせた。母親はぱっと驚きの顔をみせたが一瞬後に平静に笑ってみせて「じゃぁ後でまた詳しいことは言うからね」と言って階段を降りていった。

 嬉しかったのだろう。しかし、母親が嬉しく思うだろうなという所まで計算に入れて、かつ今後のこと、つまりは労働のことについて茶々を入れなくなるような布石を打っておくという打算のもとに快諾したという側面も実はある。

 こういうことだ。社会的規則の範疇で「頑張った」というようなことを一つ成し遂げることによって、それが母親への免罪の証となるということである。免罪というのはあくまで社会的規則においての、ということであり、私は私の存在と行動を罪と思ったことはないことは付しておきたい。

 私はここでもかのいたずらな罪悪感を感じてしまった。明らかな打算。

 計算だらけで、私は少数派を勝ち取ろうとしている。その計算の姑息さはやはり認めざるを得ないので、両親にはその点では申し訳ないと考えている。だが、申し訳なさを感じるという点でよしとしようという心構えがやはりあるので、何か行動をして両親にさぁ示して見せようという気概はびた一つも生まれなかった。

 快諾したのは、恐怖への打破の為である。決して両親の為などではない。

 

 この会合は手強いものだと容易に予測出来た。当日、私があらゆる恐怖に身を蝕まれ、辛辣な状況に陥るということも。

 ただでさえ人の多い場所が苦手な私にとって、その中で、少数派の恐怖を身に纏いながら私なりの社交性を発揮しなければならないというわけだ。同時に、参加する顔ぶれが二重に輪を成して襲いかかってくる。

 まず親戚という存在。

 方々から、両親が親戚を呼びつけるのである。

 親戚の会合というのは労働に少し似ている。というより、私にとっては労働に他ならない。

 顔を突き合わせて一体何を話そう?

 そのやりとりはどこか戯曲的で、形式ばったものであるために私は嫌なのだ。大儀そうにどうでもいいことを話し始めるのである。

この会合に参加するのは久しぶりであるし、親戚と顔を合わすのも、久々だ。

 だから、彼らはこう問うてくるに違いない。あなた今何やってるんですか、とね。余すことなく説明してやりたいけどもね。だけどその場は多数派しかいやしない。結局理解されないから、私は説明の施しようがない。よくわからんやつ、あるいは、社会的弱者としての判だけを押されてしまうだろう。親族の中においても少数派だということが浮き彫りになり、少数派の恐怖が色濃く私の心内で踊り狂う瞬間である。

 別に構いやしないさ。そうさ。構いやしないさ。そういうことに負い目を感じなくなるのが、きっと恐怖を克服したってことなんだ。

 親族と同時に、この近辺に住んでいるものも呼ばれる。これも、中々だ。つまりは、酒場へ行くまでのあの毎日顔を突き合わすような連中達もこぞって参加するというわけである。

二重の輪。集落における輪と親族における輪の両者が互いに輪をくみながら襲ってくるわけである。これは強敵である。

 しかし、私は私の存在確立の為に出席を決めたのだ。この恐怖に自ら首を突っ込むという行為。考え得る限り、最上級の恐怖を私に提供してくれるだろう。これはどこか、かの破壊衝動にも基づいているかもしれない。自分をもっともっと被虐したい。恐怖に飲み込まれたいという精神がどこかに埋め込まれている、あの破壊衝動。

 いや。まずは己に課した試練ということにしておこう。

 恐怖に打ち克ってみせようではないか。


   ・


 会合催行日当日。

 私は予想以上に平静を保てていた。自分でも驚く程である。達観しきってしまったのかもしれない。こういう境地を常日頃から持ちたいものだ。

 晴天だった。その晴天の元、我が父とここらへんを取り仕切っているらしい何の権限があるのだか知らない老人の、堅苦しい、冗談の一つも無い挨拶が終わると料理が次々と運び込まれてきた。

 その後に、飲み物を使用人が参加者全員に配り始めた。私も一つをもらい受けた。全員に行き渡ったであろうという頃合いに、先程の老人がまた出てきた。乾杯、と言って飲み物の容器を晴天に突き上げた。一体何に対しての乾杯なのだろう。どうでもいい疑問は押さえつけることにした。

 さぁどうしよう。遂に始まってしまった。恐怖に打ち克とうという抽象的なもののみ考えていたので、具体的な行動目標は一つも考えていなかった。

 自分なりに楽しめばいいのだが、そうなると料理をぱくつくしか選択肢がなくなる。それとも、誰かと話す? 率先して私が? 駄目だ。出来ないよ。

 そもそも他人と話していて面白いと思ったことはあまりない。

 私は少数派なので、多数派の意見を聞いてもそもそもが相づちすら打てないのだ。彼らには全く同じような主義主張しかないのだから。

 面白くないのだろうなぁという先入観がまずあるから、他人と話す機会そのものが少ない。

 そういう風にかこつけて、今この場で誰とも話さないのは、恐怖しているからだろうか。違う。違う違う。打ち克つのだ。行動せよ。私。

 ともあれ、料理は頂きたい。腹が空いている。動くのもいい。

 私が料理を選択していると、見知った、古い知人を見た。それをすぐに名前と共に認識出来ていたのは、最近話題に上った人間だったからだろう。私はせっかくであるし、義務的な感覚で彼に話しかけた。

「やぁ、随分と久しぶりに会ったような気がするね」

 自然に話しかけられたと思う。特にジェイド君が不審がる様子はない。一瞬で私のことを思い出したようだ。

「本当に久しぶりだね。小さな頃を覚えている?」

「覚えているよ。あの時のように純粋に遊ぶには、僕たちは成長しすぎた」と言ってから私は笑いそうになった。遊ぶつもりなんて毛頭ないくせに何を詩的なことを抜かしているのかと。しかし真剣な顔を続けた。ジェイド君がどこか物憂げであったためだ。

「うん。そうだね」

 実は私との関係性の期待していた部分があったのだろうか。また遊ぶ、だとかそういうことを。

「君は国の預かる兵になるようだね」

 私は別段なんの感情も込めずに言った。特に、そんなこと大した問題ではないという風に。

 ジェイド君は体格が見違えるように成長していた。なるほど、だからこそ剣を手に取ったわけだ。

「うん。僕は国の兵になるよ」ジェイド君は疑いも知らぬ子猫のような目をして言った。既に物憂げではなくなっていた。

「君は?」

 どきりとした。ひょんな所から私の鼓動をはやめる質問が飛び出てきた。

 昨日はこういう話題が出てきたら一から十まで説明してやろうと心構えていたのに、いざ晴天の元、人が多すぎるこの場所で、時間と労力を割いてジェイド君に私の矜持を説明してやろうという気持ちは生まれなかった。単純に億劫だったのだ。

「私は最近、この世のことというか。失敬。ちょっと抽象的な話になってしまうのだけどね。色々考え続けていて、まだ道は決まらないみたいだよ」私は気が付くとそういう風にごまかしていた。

「勉強をしているの?」

 ジェイド君は私の父親に似て、誠実そうだ。だから働き者のジェイド君なのだ。

「学問ともまた違うのだ。学問というものは多分いつだって一対一のやりとりで、もちろん体系的に勉強をすることだってあるだろうけど、大体が知識を前にしてそれの入力出力を繰り返したりするだけだろう? 中にはもちろん実用的なものだってある。実用的なものはその通りにすればすぐ手に入る。だけど、私の場合は違う。自然発想的にひらめいた自分の本質的な疑問から、思考の渦に入れ込んでいく。そこから得られるものは、普通の勉強を通して得られるものではないんだよ。そういう点で、学問とはまた違うのだと言ってみせたというわけさ」

 そこまで言ってみると、ジェイド君は「なるほどぉ」と興味深そうに言ってから、興味の対象を料理へと移し替えた。どうやら私の話はかぐわしい料理に負けるべく存在らしい。そういうジェイド君を私はあまり嫌いではない。純粋過ぎるがゆえに私の話もぱっとくるところがなかったのだろう。別にいいさ。理解されるだなんてこれっぽっちも思っていなかったから。


 ジェイド君から離れ、その場をうろついていると両親の姿を見た。

 両親は輪を作って多くの人間と談笑している。あれは多分親戚一同だ。私と血の繋がっている連中だ。

 父親と目が合った。こちらに手を振っている。

 遂に訪れた。想定していた事態の一つだ。

 私はそちらに足を進めて、両親の間に入り込んだ。

 予測というのはともすれば強力な武器になるのだなと私は学習した。

 この時、自分でも気色が悪いと思うほどの笑顔を親戚に差し向けることが出来ていたのだ。予測のお陰である。

「これは、皆様。久しぶりです」

 覚えのない顔もいくつかあったが、知ったふりをして、卑屈にならず、堂々と胸を張ってその笑顔のまま挨拶をした。どこか厳かな雰囲気が出ていたかもしれない。

 親戚の方は、そんな私に全く見覚えがなさそうな顔から一転、徐々に思い出した人もいたようで、愛想笑いを振りかけてきた。

 誰かがここから私に話を振りまいてくるだろう。そうなるのが自然だと思われた。話すか食うかしかないこの場でなら。

 私は途端に、これ以上は我慢ならない、こんな笑顔で親戚と相対するのは、私が私でなくなってしまう! と思ったので「では、これで」と身を引いた。誰かと話す急務などないのに。

 予測という武器はもろかった。すぐに音を立てて崩れてしまった。なんてことだ。

 気が付くと、唯一今日話せたジェイド君の姿を探していた。ジェイド君と話すためにここから身を引いたのだと私は自分に説明を施していた。ジェイド君は私の知らない人間と愉快に話をしていた。ちくしょう。ジェイド君め。なんの約束をしていたわけでないのに、恨めしくなってしまった。という感情が芽生えた自分に嫌気がさしてしまった。

 私はこのとき完全に自分を呪いたくなった。認めてしまった。逃げたことを。結局少数派の恐怖から、逃げてしまったことを。

 私のその後の愚かな行動ときたら。

 どうだかわからなかったが、親戚がもうずっと私のことを監視しているような気がして、何か意味ありげな行動をしようとして、実際にしてみせたのだ。

 例えば、考え深い表情、眉間にしわをよせて深刻な面持ちを作ってみせたりだとか。料理を全て見回して、あぁ、なるほど、こういう料理もあったのだ、という風にわざとらしく感嘆してみせたりだとか。詩人ぶって、眩しさを手で覆い隠しながら空を見上げてみたりだとか。偶然舞い込んできた小鳥の一羽を見てにやりとほくそ笑んだりだとか。

 私はこういう変わった、一人でいて感受性が強い人間なのですよ、というそういった暗黙の訴えを親戚の目を気にしながらしていた。とかく意味ありげに。

 考えれば、そこまで私のことを気にしているはずなんてないのに。でも、多少は気にしているだろうと思えたから、私はその無様な行動を続けざるを得なかった。

 そう、無様だった。認めてしまった。無様だということも。

 だもので、ミナが私に話しかけて来た時には救われた気持ちになった。その手持ち無沙汰を一挙にミナに集中させた。

「お兄ちゃん。大丈夫?」

 こういう心配をミナが私にしたことはない。相当見ていておかしかったのだろうか。

「何がだ」

「なんか、汗すっごい。顔もすっごい」

「顔もすごい」

「うん」

 ミナは大きく頷いた。

「ちょっと、容姿が悪いみたいじゃないか。ああ、笑ってもいいのだぞ」

「ううん」

 全然面白くないらしく、ミナは頬をぴくりともさせずに真顔を維持していた。

「ミナは親戚の方にご挨拶をしたのか」

「したよ。おかしくれたよ」

「それはよかったな」

「怖い」

「すまない」


    ・

 

 私はその後も右往左往しながら、少数派の恐怖に打ち克つために堂々と誰かと話したりしてみせようかと思ったのだが、料理を片手に結局皆が楽しそうに話しているのを見ているだけだった。

 それにも飽きると、今日はおいしい料理が食べられたので満足だった、と独り言を呟いてこっそり、誰にも見つからないよう帰宅し、自室で過ごした。

 いい一日だったとして振り返ることは到底出来ない。当初の目的を思い出した私は自室で震え上がってしまった。

 

 ──なんてことだ。

 

 打ち克とうとした結果、私は、より一層、少数派の恐怖を身にしみて感じていた。息を巻いて、余裕だと思ったのに。

自分への怒りも含まれていた。

 ジェイド君にも、誰に一人だって私の考えを打ち明けなかったし、親戚からも逃げた!

 揺るがない事実だ。後悔が押し寄せてくる。あの時、ああいう風にもっと胸を張っていられれば、この自室でも胸を張り続けていられたかもしれないのに。

 続けて怒りがこみ上げてきた。

 矛先をどこに向ければいいか。社会? 多数派? 違う。自分へでしかなかった。







   Ⅲ


 私は人が好きだ。

 人間はお互いに寄り添って生きていく動物だ。支え合う輪というのは素晴らしい。

 人が持っている経験や思想なんていうのに驚かされて、自己を改革することだってある。 

 だから、見知らぬ人に話せる機会があったら、進んで話す。

 今後生きていく上で、誰かを助け、助けられる機会というのは必ずある。その時のために、というほど私は計算高く、利己的な人間ではないのだけどね。

そういう私なので、昨日の立食会はとても楽しめた。

 料理もおいしかったし、知らない人間とも話せた。結果、交友関係を広げることも出来た。


 うん。満足。本当に満足。

 だけど、一つだけ後悔していることがある。

 後悔というと少し違うかな。私は私でちゃんとはいやりますといって考えを持って示したわけだし。

 少し気が重いということ。


   ・

 

「えっ? 話を? 私が?」

 私の父親の兄弟。つまり叔父にあたる親戚が今回立食会を主催した。何でもわりと資産家らしく、国の行政に携わっているらしい。だから、すんなりと大規模な立食会も開けたりするとのことだ。何らかの寄付も当然あるんだろうけど。

 その叔父様の奥様。つまり叔母様に私はさぁ帰ろうかという時に声をかけられた。話を要約するとこうだ。

「息子に説教して欲しい』

 叔母様は本当に長いことを現状を説明し、紆余曲折を経て、遠回しに言って見せたのだが、一言でそのように纏まる内容であった。

 何でもずっと働かないで、怠惰な暮らしをしているとか。

 叔母様は自分にも非があるような口調で、息子をかばうような口ぶりでもあったが、それはどうだろうと思った。

 もちろん、教育のせいでもあるかもしれないけど、働かないのはやっぱりどう考えても本人がおかしい。むしろその非につけ込んで、働こうとしていないのでは。いや、彼と話してはいないし、どういう理由で働かないのかは知らないけど。


 正直、あまりやりたくないな、とまず思った。一つに、立食会での彼の印象が悪かったからだ。挨拶に来たときの不気味な笑顔は今でも覚えている。幼い頃に一度会ったような記憶はあったのだが、その記憶とはまるでかけ離れていて、雰囲気がかなり独特だった。

 外見で人を判断するような人間を普段嫌いがっている私だが、あの時ばかりは外見……というよりかは漂う雰囲気で、話しかけたくないと思ってしまった。

 そういった、よくないと思う感情が芽生えてしまったのだが、それを否定したいからこそ、私は叔母様の相談に「はい。私でよければ」と答えていた。叔母様が本当に切羽詰まっていた表情をしていたというのもある。

 人は助け、助けられる。そういうことだ。

 問題の彼もきっと何か理由があるに違いない。話せばわかりあえるはずだ。同じ人間だから。

 

   ・


 約束した当日。叔母様に挨拶をして、早速本題を切り出した。

 彼の部屋は二階にあるらしく、彼もまた自室にいるらしい。

 私は「一階に呼んで話をさせてもらうことは出来ないのか」ということを言ってみたのだが、また叔母様が出来ないと言うことの説明を遠回しに始めたので、私は潔く彼の自室に足を運ぶことにした。まぁ、やって出来ないということはないのだろうが、どうやら私と彼の一対一の話し合いの方が彼にとっていいという叔母様の判断だろう。そういうことにしておいた。場合によっては外の、どこか適当なお店に連れ出せばいい。

 資産家とは聞いていたものの、特に家全体の外観や内装は私の家と同様普通のものだなと感じながら、階段を上っていった。

 部屋の前で止まる。

 私は楽天家だった。

 この部屋の前に来るまで、特になにをいうか全く考えていなかった。

 なぜだか部屋の扉から立食会の時に彼が纏っていた威圧感のようなものを感じてしまっていた。

 緊張が一気に駆け巡っていた。

 恐る恐る扉を開け、中に入った。

 私は、机に向かっていた彼にまず挨拶をした。

「こんにちは」一応微笑んでみせた。もしかするとぎこちないものになっていたかもしれない。

「こんにちは」彼も挨拶をした。彼は一瞬目を見開いて驚いた表情をした後、神妙な面持ちになった。

「いや、一体、あなたは……」

 私に問うようでなく、独り言のように彼は呟いた。事実、自分に聞かれたと思わないくらいだったので、少しの間私と彼は何も喋らなかった。

 しばらくしてようやく、先程の言葉が私に投げられたものなのだと解釈することにして、口を開いた。この場には私と彼の二人しかいないわけだし。

よくよく考えれば彼のその困惑も当然だ。独り言のように呟くのも致し方ない。

私はなぜ固まってしまっているのだ。やはり相当緊張してしまっているのだろうか。

「ある事情があって、今お邪魔をしています」 

 私は一通りの身分や自己紹介をし、立食会で実は出会っていたことを説明した。

「つまり私は、あなたの親戚ね。だから、血が繋がっているの」

「はぁ、そうですか。ただ、血の繋がる繋がらないが私の部屋に入り込む理由にはならないと思うのですがね。だって、私は見たことがない。あなたを」

 私はもう苛立ってしまっていた。必死に、彼を更正してあげるのだ、という気概を保とうとしていたのだが、一方で何とかこの男を打ち負かしてやりたい気にもなっていた。

「別に私も今日ここに来たくて来た、というわけでもないんだけどね」

 いけない、と思っていた。喧嘩をしに来たのではないのに。だが、私は自分を制することが出来ず、上から目線で、彼との話を続けた。なめられないように、ということに気を遣った結果かもしれない。

「それじゃぁ、来たくないのに、ここに来たと。ばかげてる。そんな話があるんですか」

「あるのよ。理由はね。もう簡潔に言うけど、あなたのご両親に頼まれたのよ。この前の立食会でね。どういう頼み事だか、想像がつく?」

「いいえ。つきません。これしきも」

 そう言いながら、彼は私に表情を隠すようにして立ち上がり、床に落ちていたものを拾って、机に戻した。その後、再度私に向き直った。

 ここまで話しただけで、彼はひどく今の自分の状況に怯えているのだな、とほとんど確信した。

 話して感じたのだ。強がりの虚栄心をひしひしと。

ただ、まだ私という闖入者に怯えているだけという可能性もある。慎重に話を進めていこうと思った。

「あなたを正しい道に導いてって。抽象的に言うとそういうことだわ。もっと、具体的に言って欲しい?」

 彼は私のそのけしかけに、表情を変えなかった。私には頑張って表情を変えないように努めているように見えた。

「いいえ。どうでもよさそうなもので」

「あら。理由をこぞって聞こうとしていたのに」

「なんだか、あなたのもったいつけた話口調が気にくわないのです。そんな人に懇願出来るものですか。それに今話しているこの場は、私の部屋で、私の空間です。あなたにかき乱されるのがたまらなく嫌なので、理由を聞きたいというよりかは、ただ早く立ち去って欲しいという気持ちが強いです」

「残念だけど、そういうわけにもいかないの。私は私の使命を粛々と行わないといけないと考えているから、もう少し話をさせてくれないかしら。私も頼まれてここに来た、ということは理解して欲しいのよ。つまり、それ相応の収穫を持って帰らないと」

 ここで、もう出て行け、と言われるものなら、さらにけしかけるつもりだった。意気地のない男だとして散々罵倒するつもりだった。

 だが、彼はどうやら大抵の男がそうであるように、女に負けるのを認めたがらなかった。

「わかりました。あなたの名誉のためにね。私がね。時間を割きます」大きくため息をつきながら、彼は言った。

「ありがとう」私は全く感謝の意を込めずに、表面だけの謝辞を述べた。

「では、本題に入りたいのだけど。いいかしら? もしかすると、この話題はあなたがいやがる類いのものかもしれないから、私はこう前置かないと話を始められないのだけど」

「いいです」

 即答だった。どういった話がされるのか、彼はもう勘づいているだろう。私への敵対心というものも伝わってきた。

「まず、あなたは労働をしていない。というより、なにもしていない。その部分について、あなたの両親から相談を受けたの」

 やはりどう話を組み立てていいものか迷ってしまった。迷いながら、話を進めた。

「その点に関して、どうなのかしら。私はあなたという人間を詳しく知らないから、なにか意味のあるものとしてそのようにしているのであれば、聞く耳を持つし、ただ単純に働いたらどうか、なんてことは言わないけど、もし考えもなしにそうしているのならば、もう強くおしりを叩くしかないと考えているわ。事実、あなたの母親からあなたの話を聞いたときは、そうするより他ないかもしれないと考えたのだけど。そこのところは一体どうなのかしら?」

「ふむ。私が労働をしたくない理由というのは複雑ですよ。複雑な理由を、筋道立てて説明するのは本当に面倒で、どうせわかりきってもらえないだろうし、わかって欲しいという気持ちも生まれないから、あなたにも説明はしたくないんですけど」

 彼は気怠そうに、もったいつけてそう前置いた後に「仕方ない、一つ打ち明けてみましょうか」と言って話を始めた。

 それから彼は一方的に捲し立てた。私に何を喋り込ませる余地も残さず。むしろそれを恐れていたようだった。論理の隙間をつかれることを。

 私はひとまず静聴することにした。彼の話している素振りというのはなんとなく愉快だったし、聞いている側としても、ほんの稀に、なるほど、と納得させられる部分があるからだった。


「やはり、私はまだ探しているんだ。模索中なのです」

 彼はそう締めくくった。

 複雑そうに見えて彼の言っていることは一つだった。つまり、働きたくないし、怠け者なのだけど、自分を怠け者だと認めたくないから、色々な理由を無理矢理作ってあてがっているだけなのだ。

 私はその事実を指摘し、付随する感想を言うことを躊躇った。

 なぜなら、彼は本当に自分の今言ったことを複雑に捉えているようだったから。見ず知らずの私に端的に指摘されたら、彼が不憫……というよりかは、面倒そうだった。一向に終わらない議論を続けそうだからだ。

 実際彼のその、様々な感情は彼の中で思い入れの強いものになってしまっている。依存すべきものとして成り代わってしまっているから、これはいよいよ始末が悪い。

 彼は私が納得していると思ったのか、終わったかと思われた話を再度続けた。

「私は模索中と今言いましたけど、待っているのかもしれません。勝手に、何かが、得体の知れない何かが舞い降りてくるのを。そういうのに期待をしているから余計にその場で足踏みをしはじめるのです。待っている自分というのも、何か慎ましくて微笑ましいというか、ひたむきで敬虔でいるから、賛辞してしまっているのかもしれない。自分のその姿を。ああ、君に本音を語りすぎた。今のは本音だけど、気にもとめないで欲しい。あまり、あなたみたいななんだかよくわからなさそうで底の浅そうな人に私の深層を知っていて欲しくないから」

 沈静しかけていた苛立ちが再度再燃した。

「じゃぁ今まで言ったのは本音じゃないというのね。これだけ長いこと話し込んでおいて。面白い。今、あなた。自分の論理を全て否定してしまったことに気が付いていない? 自分は嘘を吐いてその場をしのごうということを言ったのよ」

「もちろん、今言ったことは、本音ですよ。本音ですとも。だが、まだまだあなたなんかには言いたくもない本音が私の中に隠れていて、その本音こそが、先程話したことと複雑に絡み合ってるから、全体を通してみて本音じゃないということを言ったんですよ」

「これだけ話してまだ隠している部分があるというの? 聞かせてもらえないのかしら?」

 彼は、ひどく酸っぱいものを口に含んだような顔をして一通り逡巡した素振りを見せた後に口を開いた。

「わかりましたよ。わかりました! 私も、誰にも打ち明けたことのない話だから。躊躇っている部分があったのです。その部分について今から話しますよ。私は待っていると言いましたが、もっと言うと、待つということその行為が非常に好き、というかこう、大切にすべきというか。こういう所の説明が本当に上手く出来ないから、弱いのだけど」

「意味がわからないわ」

「鉱山での労働の日々が今に直結しているわけじゃないのです。まず、自分の心の拠り所。理論に沿って私は自我を確立しているつまり、少数派だからこその居心地のよさを感じてしまっている。少数派に身を沈めている自分にこそばゆい存在感を感じている。だからこそ働かないことが、私の──心の拠り所になっているから。ますます働かないということを選びたくなるんですよ!」

「それと、待つという行為について、なにか関係があるの?」

「私の心の拠り所について説明した上で、私は現在の状態、行為をどこか破滅的なものと認めています。破滅的な行為を嫌いながらも、これがないと生きていけないという気もしているんです。だから、心の拠り所というのも破壊衝動がちらつきながら、少数派に埋没していて。それが。そうだ……! 破壊衝動が自分の本心かわからないんだ。あちらが顔を引っ込めれば、今度はこちらが顔を出す。そうやって行ったり来たり、私の感情をうろつかせている期間というものがまさに今なのだ。表面的に、なんとなく適した仕事を選んだり、あるいは他の人間がそうしているように勉強なんかをしてみるのもいいかもしれない。だけど、そうすると、そうしようとしても。破滅願望が。心の拠り所が」

 もうこれ以上は何を聞いてもでっちあげたものしか出てこないだろうな、と感じた。むしろ、最初からでっちあげたものばかりだ。

 でもどこかで話に迫真性を感じた部分があったのは認めるし、彼が深層に持っている本音を話してくれたというのも認めよう。

 だけど、それであっても、この考えは間違っていると思われるし、私のそもそもの役目は彼の話を聞いてその是非を問うことではなく、更正してあげることだ。自分から話しを聞き出しておいてなんだけど。

 何が有効かと考える。

 やっぱり指摘をしてあげるしかないのだろう。

 恐らく、今まで誰もいなかったのだろう。話を聞いてくれる人間や、指摘する人間が。だから、今彼はこういう状態になっている。煮詰まった気持ちが錯綜している。本来であれば、私でなく、家族の誰かや親しい友人なんかがするべきなのだろうけど。

 仕方がない。私はやると言ったのだし。中途半端にことは終えたくない。

だけど、どう切り出したものか。

「あなたの話は大方わかったわ。でも、全てを理解は出来ないけれどね。気持ちなんかが通じ合えない、という意味でも」

彼は放っておけばまた何か話し始めそうな勢いだったので、私はとにかく先に喋ろうとひとまず口を開いた。もう彼の口上は聞きたくなかった。

「それは当たり前でしょう。私もあなたが全て理解するだなんて前提で話をしていませんから」

「その上でね。やっぱり、あなたは間違っていると思うの」

 どこが、と聞いてくるか、あるいは突然彼が心身のひきつけを起こして私を追い出そうとするかのいずれかだと思ったのだけど、彼は「へぇ」というだけだった。

 私は、このとき恐怖を感じていた。彼の論理の隙間を指摘することに、本当に恐怖していた。言っていいのだろうかと。見ず知らずの私が容易に突きつけていいものかと。決意をしたはずだったのに、揺らぐ。

 彼は彼で、世界を完結させようとしている。彼の言い分は間違っていると思うのに、彼の世界では完結がもうすぐ訪れようとしているような、そんな気がするから、私が踏み入っていいものか。

 しかしその私の葛藤も、彼がまるでそうであったように、一言喋りだした後は一気に喋ることが出来た。

「まず、社会が悪い、とか憎いか言うその気持ちはわかったけど。だからそれが労働しないってことに繋がらないんじゃないの」

「はぁ」漏れ出た彼の声は弱々しかった。

「人間が生きていく上で社会というのは必要不可欠だからこそ、皆それに従い、働きもするのよ。口には出さないけれど、理解している。あなたが着ている服も、食べるものも、住んでいるこの家も。全部とは言わないまでも、ほとんど他の人達が社会の中で生み出したものじゃない? それを皆理解しているの。自分たちは社会的共同体があるからこそ生きていられるんだってね。社会に依存しないで生きてくのならばそれもいいと思う。例えば、誰も干渉してこない山奥の僻地とかに一人でね。でも、あなたにその覚悟がある? 単純に今、あなたの理屈で少数派としての存在感や心の拠り所というものを得るためであれば、それでいいと思うのだけど。出来るわけないわよね。だって、あなたは親に保護されて生きているだけだもの。もう一度言うわ。あなたは親に保護されて生きているだけだもの。その事実はゆるがないはずで、本当はあなただって気が付いているはずなのにね。親の保護下ってつまり、あなたのいう社会の枠組みの中よ。あなたのいう多数派のね。そこから離れて自立出来るのならばどうぞ好きにやればいいじゃないの。はやく。さぁ。でも出来ない。出来るわけがない。なぜならあなたは親という名の社会に生かされていて、怠け者だから。生かされているのに、それを気が付かないふりをしている。社会に生きるのであれば、絶対に労働、あるいは役に立つことは求められる。ご飯を食べて、人間としての生活を営む為にね。多数派、というかあなた以外の人間は社会に生きていく上でそんなこと説明されるまでもなく理解しているから、働くのよ。ああ、でもあなたはあくまで多数派の中で、少数派として居続けたいんだったっけ。でも、それを行うにはやっぱりどうしても社会に居続ける必要があるじゃない。あなたが虚構と言っているお金も自給自足で生きていけないなら必要になるじゃない。でもあなたはお金を得ようとしない。両親が面倒を見てくれている部分に甘えているんでしょう。それを恥と思う感情はまだあなたの中にあるのかしら? ご両親が働き、あなたはただ自分の論理を振りかざし、こねくり回しているだけ。ねぇ、どうなのかしら。別に今すぐ答えは出さなくていいけど、その点については今後あなたが熟考すべき点ではないかしら。あなたは自立もできないのに、社会……つまり多数派の中に生きようとしているけども、働かない。何もしようしない。それはもうわがままでしかないのよ。今はそんなあなたのわがままを受け止めてご両親が面倒を見てくれているけど、一体いつまで? 亡くなってしまったら? そういう恐怖を、ご両親は抱えている。我が息子はいつまで妙なうわごとを言って何もしないままなのだろうか、ってね。感情的に言うのであれば、ご両親がかわいそうだと思わないの? 一生懸命ここまで育ててきた息子が、なにもしない。それはがっかりもくるよ。時間が経過しても、変化がなさそうだと来たらそれはもう。それは私の元まで頼みに来るよ。あなたのご両親は優しいから、こうしているあなたをここまで受け入れているのだから他人である私に頼んだのでしょう」

 私はこのとき、彼の更正を考えるというよりは、自分の主義主張を通すことに精一杯になっていた。彼がそうしていたように。

「話がぶつ切りになって申し訳ないのだけど、まだ言いたいことはあるわ。あのね、少数派がいるから輪が結束するなんてことはないわ。だって、あなたがいなくなっても誰も困らないもの。それが、まったく対した結束を表していないってことの証拠につながる。いい? あなたの存在なんて取るに足らないものなの。社会はあなたを意識してなどいないわ。あなたの存在がなくても、皆、さっき言ったように社会が自分にとって必要だからそれに従うということを理解している。あなたは何者にもなっていないのに、勝手に息巻いているだけじゃない。なった気になっているだけじゃない。もう一つ言うと、ひたすらに待っているって一体なにを待っているというの? こんなうさんくさい部屋にこもって、一体なにが起きるって言うの? 何も変わらないじゃない。模索中とは言うくせに待っているだけって。あと、破壊衝動でしたっけ? 何のことだかわからないけど、これも待っているということと含めて、ただ理由作りの為のこじつけにしか聞こえないわ。だってあなた自身が具体的に説明出来ていないのだもの。それはつまり咄嗟に考えたただの詭弁ということにならないかしら。抽象的なことで自分や周りの人間をごまかし続けるのは止めた方がいい。さらに、あなたは冒険者になることを諦めたらしいけども、それが労働をしないという選択を強めてくれるものと思ったら大間違いよ。才能の違いというのは誰にだってある。たしかに、努力なんかで拭えない才能というのはあるかもしれない。だけど、一体何の関係があるの? 労働をしないということと。一度挫折したから、労働をしない。なにもしない。こんな道理が通用するわけがないでしょう。全く別の問題じゃない」

 私は全く自分の主義主張に誤りが無いとは思いながら話すことが出来たものの、感情論のようになってしまった部分もいくつかあった。

 そこを彼につかれたら、私が彼を更正するのは難しくなるように思えたので、一気に捲し立てた。

 彼は面食らった様子でもなく、私の話をじっと聞いているだけだった。もしかしたら、頭の中で、どうやって言い返そうか考えているかもしれない。

「まとめて、一言で言うと、あなたは色々な言葉や感情で、ただ理由を作ろうとしているだけよ。働かずに怠け者としていられる為のね」

 私はそこに、言い逃れの出来ないであろう、最終的な切り札としての文言を言い放った。

「怠け者。怠け者とは。私も認めている所だったのですが」

 彼はそれだけ言って、どこか遠くを眺めていた。

 その後に続く言葉はお互いに何もなかった。


   ・


「叔母様。その、ひとまず彼に対して私が出来ることをしました。つまり、今の状態は少しばかりおかしいということを言及をしました。だけど彼は今までそういった経験がなかっただろうから、もしひどく様子がおかしくなってしまったりしたら、私をすぐさま呼びつけてください」

 私はそう言い残して、この家を後にした。

 後味が悪かったものの、私のしたことは間違いが無かったと強く思うことにした。誰かが言わなければならないこと。それを私が言っただけのことだ。


 













   Ⅳ


 私は、少数派の恐怖と共に、孤独の恐怖というものも知っている。そしてそれが認めたくもない複雑怪奇な願望を生じさせるということを、先程の来訪者によって再認識した。

 あまねく恐怖に打ち克とうとしているのに、誰かに話しかけられると、さぁ待ってましたとばかりに心を震わせてしまう場面があるのだ。孤独というのはこれだから困る。

 それがどんなものであっても、孤独を打ち消すものであればなんでもいいかもしれない。だがことさら人間であるといいという思いはある。知らない人間であれば知らない人間であるほどいい。運命的なものを感じるからだ。そんな誰とも知らない人間に表面的であっても優しさをふりかけられた日には! ありもしないし、事実ありもしなかったということは今の女とのやりとりで十分承知したというのに。そういう優しさをふりかけられる瞬間を無意識に求めている。孤独を打ち消す何かを見つけようとしているのだ。これが孤独の恐怖とそれに伴う願望だ。

 そう。あの女が来た時、私は……心を躍らせてしまっていたのだ。私が待っていた何かを持って来たのかと思ったのだ。知らない人間で、かつ女性であったという点も、心を躍らせるに足る要素だった。

 しかし違った! ちくしょう! あの女! そんな、私が満ち足りる為に舞い降りたような存在ではなかったのだ。話してみてすぐに気が付いたのが救いだった。あの女は外面だけを気にして、いざ困窮するとすぐに本性を現す、薄い皮一枚で世渡りしているような性質の人間だということは話してすぐにわかったんだ。見抜いてやったんだ。底の浅いということに気が付いていない浅薄な畜生なのだ!

 それに……散々私を侮辱してくれた……いや、でも……しかし……この際もう認めよう。認めるしかない……あれは単なる侮辱ではない。あれは、私の理論や感情の隙間を埋める、整然とした指摘にもなっていた。それに打ちのめされてしまった。

 他人に私は説明が出来なかった。自分のいま、作りだしているこの現状と、理由を。嘘偽りなく、納得が出来るように。

 あの女に、私は包み隠さず全てを吐露してしまおうと、決意を持ってして意気込みをかけたのに。それでも駄目だった。

 今になって考えると、あの女の言っていたことも、無理矢理感がある箇所があった。だが、あの時そう気が付いていても、私は何も言い返せなかっただろう。抗えない部分の方が俄然多かったということだ。

 別に口論で勝った負けたという話は問題でない。あの女に建前上負けたってことにしたって別に構いやしない。構いやしないのさ。

 私の心の拠り所である思想の類いを、一切破棄してしまおうかという気概が生まれてしまったことが大問題だった。長らく保持していた私の大切なものを、見たことのない女が勝手に現れて葬り去ろうとしていることが最大の問題なのだ。あの女など全く気にしてはいないさ。憎しみなど覚えていないさ。

 あの女はいわゆる多数派の代弁者としてここに現われた。ただそれだけのことだ。


 私は、これからどうする。

 自分の現状を説明できないまま、一体どうしようか。どうしてやろうか。


 気が付くと私は考えることを止めて、家を飛び出していた。


    

 最初の目的地はロムサラスだったと思う。

 なのだが、久々に夜に外出して、暗闇で走り、元から少ない体力を摩耗して、かつあの女との邂逅と口論による当てつけようのない感情を手にしていたということもあって、私は気が付くと今まで入ったことのない店に入っていた。平たく言うと混乱していた。夜というのは、人を気変わりさせる性質があるらしい。

 その店は大通りにあり、何度か店の外面だけは見たことがあった。その外面だけ見ても、私には合わないだろうな、と思っていたのだが、実際入ってみてもそう思えた。

 私が好むような雰囲気ではなく、喧噪だけしかないような酒場であった。静けさとは無縁である。皆、一様に笑顔を揃えてはしゃいでいる。多数派が散々詰め込まれている。多数派の中枢であり、その権化として機能しているに違いない。

 そこにわざわざ入った理由は深く考えたくもなかった。踵を返してロムサラスに行くということも出来たのに、居続けた理由というのも。


 私はかつて感情に揉まれて酔いつぶれるまで酒を飲んだことなど一度もなかったのだが、今日ばかりはそうしようとした。体全身が酒をよこせとがなり立ててくるのだ。そのまま飲み続けた。

 ここにいると、より一層私の孤独が浮き彫りになった。私はその孤独がちらついてくるのをごまかそうと、酒場の中でひたすら人間観察をしていた。こんなことをしていて面白いはずもないのに。実際、何一つ発見などなかった。朦朧とした頭だったから、より一層多数派の彼彼女らに見いだせるものはなにもなかった。全員同じだろうな、と思えた。

 私は角が好きであったので、角の四人掛け席へ着席していた。隣の四人掛け席も空いていた。なので、他人が近くにいないという意味合いでは居心地がよかった。なのだが、すぐにその居心地の良さは失われることとなった。

 四名の冒険者達が私の出口を塞ぐようにしてその隣の席へ腰掛けたのだ。彼らは空いている席に案内されて座っただけだから私に対してなにか悪意を働いたという意識はまるでないだろうけども、私は感情が昂ぶっていたから、そういう悪意を勝手に作りだして、隣の四人を恨めしく思った。だからといって、酒場でよくあるような口論や喧嘩に発展することはないだろうとは思えた。私がそんなことで彼らにけしかけるわけがないから。

 私は人間観察を続けることにした。

 男が二人と、女二人という構成だった。男の二人と女の一人は屈強そうで、大方剣を嗜んでいるに違いない。実際それぞれが物々しい武器を持っている。

 あと一人の女は青い、上等そうな生地のローブを着込んでいて、こちらは杖を手にしている。魔法使いなのだろう。

 冒険者というのは酒場にきたら祝杯しかあげないようだ。楽しそうに乾杯の音頭をとって飲み、今回の冒険を総括し始めた、あそこで誰彼がどうした。いやー危なかった。あの時お前がいなければ。やっぱり俺達は最高だ。こういった具合。

 私は仲間がいて冒険者として活動をしているこの連中にやはり嫉妬の感情しか芽生えなかった。

 ちらちらと目線を送るも、彼らは全く私のことなど気にもとめていなかったので、彼らの祝杯を眺め続けた。

 すると気が付いたことがあった。

 この魔法使い。笑顔のさなかに一瞬だけ落ち込んだような、陰鬱な表情をした。何事をも受け入れるような笑顔から一気に沈むように。その対比の興味深さが私を駆り立てた。

 表面上は皆に理解を示して場を紛らわせる笑顔をしておきながら、腹の中では私のような、複雑な恐怖に囲われているのではないか。

 そうだ。そうに違いない。そうであって欲しい。

 私はじっとその女のことを見続けて、また先程の表情をするかどうか観察し続けた。

 よく会話を聞いてみると、彼女はほとんど自分から話そうとしていない。適当に相槌を打ったりしてるだけだった。なるほど、これはもしかすると本当に……

──ふっと彼女と目があった。気が付かれた。

 しまった。怪しさ全開の目で見ていたのだろうか。

 私は目を伏せてから、逆方向の壁を見た。壁になんだかよくわからない抽象画が飾ってあった。理解出来なかったが、納得した風に眺めた。

 もう彼女の方を向くことは出来なかった。

 そもそも、彼女が私の思想像通りの抑圧された人間だとして一体なんだというのだ。ただ隣り合っただけで、接点などまるでないくせに。

 私はいつもと違う所にきたから、何かこう……出会いのようなものを期待してしまっているのか! あの女に打ちのめされてしまって、孤独を埋め合わせてくれるものなど、都合のよいものなど、私の近くにはそうそう現われないと知ってしまっていたのに。それでもなお……求めてしまっているというのか!

 私は決心してもう一度女の方を向いた。

 彼女は何事もなかったかのように、誰かが言い放った冗談か何かに笑っていた。純粋な、笑い顔だった。心の底から笑っていた。


 私は店を出た。


   ・


 今までにないくらい飲んでいたのだが、私はロムサラスに行ってまた酒を煽ることにした。どれだけ飲んでも、この沸き上がる苛立ちは解消されないと思われたが、このまま帰宅するという選択は取れなかった。

気を落とすであろうという場所……つまりあの大通りの酒場に自ら顔を突っ込んでいた、という愚行に気が付いてしまったことが苛立ちに拍車をかけていた。先程の魔法使いに妙な感慨を抱いてしまったのは哀れとしか言いようがなかった。

 駄目だ。いくら悪い方に考えても駄目だ。

 店に入るとまた巨体の店主がいつも通り構えていた。挨拶なんかも、いつも通りない。

 少しだけ心が落ち着いた。こんな無愛想で、威圧感しか伴っていないような人間でも私に安穏をもたらしてくれるらしい。

 手持ちの財産がなくなるまで飲み食いしようとして、普段では手の付けられない料理なんかを片っ端から頼んでいった。

 大きく深呼吸を繰り返しながら、無心で酒と料理に溺れていると、一時的にではあったが、求めていたような心地よい気分に浸れていた。その場しのぎの逃避であるということは理解していたのだが。

 誰か客が来た。

 顔を上げると、私は自分が夢の中にいるんじゃないかと思った。ここはあのロムサラスだ、ということをもう一度周りを見て認識して、再度その人間を見た。

 あの魔法使いだ。

 なぜここに。一人で。仲間は?

 混乱が駆け巡る中、彼女は適当な席に着席して、注文をした。私の存在を意識するような素振りはない。

 飲み足りなかったから一人でこんな薄汚れた酒場に来たというのだろうか。似つかわしくないと思えた。身に纏っていた服装が上等だし、凜としていて賢そうだし。その空間だけ切り取られたみたいに異色だ。馴染んでいない。

 私は、大変酒が回っていたという甲斐あってか、なんとその女に話しかけていた。孤独の恐怖に蝕まれていた。恐怖により、勝手に動いたということにしておきたい。

 あえて理由をあげるならば、あの時見せた彼女の物憂げな表情がどうしても気になってしまったのだ。あれは、私にしか気がつけない。そういう表情だったのだとして彼女との出会いを数奇なものに仕立て上げようと画策していた。

「やぁ。夜分遅くに」

 飄々とした遊び人を頭で描いて言った。

「え、あ。こんばんは」

「失礼。私がここに座っても?」

 彼女は一瞬目を伏せて、困惑するような素振りをみせてから頷いた。

 しかしその後発する言葉が見当たらなかった。気まずさだけが私達の間に漂い始めた。

「あの」お互いがほぼ同時に言った。

「どうぞ」私は彼女に促した。私の方は、あの、と言ったあとの文言を何も考えていなかったのだ。

「一体あなたは?」

「私は、ここの酒場によく来る人間です」

「そうなんですか」と言って、手持ちぶさたに彼女はゆっくりと容器を手に取り酒を一口飲んだ。

 もっと深い自己紹介を期待されたかと思ったが、なんとかそれだけで一先ずの納得は得ることが出来たらしい。

「私の素性なんてたかが知れてるものですし。それより、私、実は先程あの酒場……あの、大通りの酒場であなたを目にしまして。記憶に片隅に残っていたのです。それで、ここに来たらまたあなたが来たじゃないですか。今喋りかけた理由というのはそれだけです。ほんの好奇心なのです」

「えぇ、あそこにいらしたんですか」

「あの店内は薄暗かったですからね」

目が合ったというのに覚えていないらしい。私の存在感が希薄というわけではないはずだ。店が暗かったのだ。そういうことなのだ。

 また沈黙が訪れた。私は遊び人でなかったし、遊び人がこういう時なんと言うのかを知らなかった為、もう遊び人を頭に描いて成り代わろうという発想は実現できないなと思った。この酔いのまま、自分を出していくしかあるまい。ひとまず私が知り得た情報を彼女に投げかけた。世間話で間を持たすのだ。

「あなたは冒険者のようでしたね。どうですか、首尾の方は」

「そう悪くはないですよ」 

 言いながら彼女は何度か私と酒を交互に見た。それが何を指し示すのか私にはわからなかった。ただ目の前に私のような者が突然現われて、落ち着かなかっただけということかもしれない。

「そういえば、お仲間とは別れたのですか」

「ええ。解散です。でも、あまりこちらの方に来たことがなかったから、ちょっと散歩がてらに歩いていたらこのお店を発見しまして。あまりこういうお店に入ったことがなかったから新鮮ですね」

 それはこの店を褒めているのか、けなしているのか。彼女の純朴な表情から推察するに、恐らく前者だろう。

「それが冒険者ということなんですね」

 笑いが起こることを期待したちょっとした冗談だったが、彼女は真顔だったので、それを見て私も少し緩んだ表情を戻して真顔になった。

「でも、やっぱり色々ありますよね」ため息がちに彼女が言った。

 突然話題が変わったような気がした。

「色々というのは一体?」

「あなたの言う冒険者についてですね」

「私は全く冒険者についての私生活や苦悩などとは無縁の生活を送っているので、聞かせていただけたら、今後役に立つ場面があるかもしれません」

「ああ。そうですよね。ええ」

 彼女はみるみる気が滅入った顔をしていった。先程の酒場でちらと見せた、陰鬱とした表情に似ていた。私はこの時自分の想像が間違っていなかったという確信を覚えていた。彼女はやはり抑圧された人間だったのだ。

「なにか思い悩む節があるので?」私はその根源と正体が気になった。

「もうこの際だから、こういう機会だから、話を聞いてもらってもいいでしょうか? 全て話してみても……いいでしょうか? 見ず知らずのあなただからそう出来るのかも知れない。特に、あなたは冒険者ではないというし。別段深刻な話でもございませんので」

彼女も実は酔っているのだなというのが、あまり呂律が回っていないのを見て推し量れた。

「私は外観から察していただけるとおり、魔法を使います。魔法を使って、皆に貢献をするのです」

「それは恵まれた才能ですよ。羨ましい」

「ありがとうございます。ですが、全くもって活躍出来ないのです。私の使える魔法というのも、本当にごくごく限られていて」

「魔法について私は明るくないので、よくわかりませんが。段々と力をつけていけばいいんじゃないでしょうか」

 私は軽く失望していた。出てきた悩みの種というものが、私の想像していたものと違った為だ。魔法を使えるという才能がある。それだけでどんな悩みも贅沢な悩みに変わるような気がした。

「ええ。そういう風に自分を鼓舞出来るのでしょうけども。かれこれこう長く続くと……」

ここで彼女は酒を思いっきりに流し込んだ。両手で丁寧に容器を持っていて、上品な飲み方ではあった。

「もっと他に、何か違う悩みがあるんじゃないですか? あなたはどうもそういう単純な悩みだけをお持ちでないように見える」

 私は期待していた悩みを探そうと躍起になっていた。

「他に、というか。やはり、それと関連してですね。責任というものを感じてしまいます。責任というのは、仲間に対する責任もそうなのですが、家の。私の家族に対する責任も感じてしまうのです」

「それは一体どういうことで?」私は足を組み直し、若干前のめりになって言った。

「いや、私の家は……名家なのです。魔法使いの、ひどく優秀な魔法使いの名家なのです。その名前と肩書きがあったからこそ、私は今の仲間と冒険が出来ているふしがあるのですが、私は……家族の皆と比較すると才能がないようでして。気が付くと毎日責任に押される毎日。本当にこれでよかったのかと思いまして。先程の酒場でも、私はあそこに自分が座ってていいのか、足を引っ張っているから、彼らを仲間と言っていいのか。彼らも、私のことをどう思っているのか。気になり続けて、全く楽しめませんでした」

「そうなんですね」

なるほど。あの陰鬱な表情の原因がよくわかった。

「頑張れと言って欲しいんですか」

「え?」

「頑張れと言って欲しいんですか? 私に」

「そういうつもりではないです。ただ、なんとなく私の悩みを打ち明けただけなのです。もしかして、どこか不快に思われたところがありましたか?」

 家族や周りの人間に抑圧されているというような悩みは私の望んでいたところかもしれない。社会の被害者として見出した悩みであろう。

 その時の私がおかしかったのは、彼女の存在に喜びを見出しているはずであったのに、どこか高圧的に、説教じみた態度を私が彼女に接したことだった。本来ならば、彼女の両手をとって、杯を酌み交わして、同意をした上で私の身の上話なんかに興じてお互いに意気投合するのが筋のような気がしたし、そうあるべきだと思ったのに。孤独も大なり小なり簡単に埋め合わせてくれそうだという思いもあったのに。もしや『待っていた』ものが訪れたと思ったのに。破壊衝動が顔を出してしまったのだ。いや、破壊衝動にかこつけただけで、違う動機があったのだろうか。ええい。もうどうでもいい。なんて言えないけれど、整理はつかない。

「君、それは確かに君は悪くないし、どこが悪いと言えば、社会だよ」

 私はまず彼女の気分を害さないためにもそう前置いた。

「でもねぇ。事と次第によると、君自身はそういう自分の境遇に触れてただ悲しみに暮れることを演じたいだけの人間かもしれないよ」

 私はこの時、これ以上言うのを躊躇った。でも馬鹿だったから、続けた。本当に、馬鹿だ! 大馬鹿だ!

「わかりません」彼女はそれだけ言った。

「そうに違いないよ。なんで私がこんなにも断定的に言うかっていうとね。私もそういう時があったから。ああ、なんて私はかぼそい人間で、不幸なのだと」

 思っただなんて過去形にして言って見せたが、現在も思い続けていることであった。嘯きであることの恥はなかった。彼女を心情的に征服しようと躍起になっていた。

「でもとうに乗り越えたよ。乗り越えた先にはなにもないのだけど、少しだけ客観的に自分を見れるようになるよ。君もどうだい、乗り越えてみたらいい。こうして私に気が付かされたのだから」嘘だった。

 私は鼻持ちならない態度だったと思われる。彼女は真顔で、表情変えずに私の話を聞いていたのだけど、段々、露骨に落ち込むようになっていた。

「別段、君の悩みは大したものじゃない。ひんぱくしたものじゃない。君には才能がある。魔法を使える。名家だ。その内さっと才能が開花するんじゃないかい? 君はそういうのを実は期待して、事実そうなるかもしれないかと思っているのに、ことを深刻そうに話している。実際にそうなった時の喜びを増幅させる為だ。私と話した時のことを思い出して、『あぁ、あんなこともあった。でも私は成長できたわ』なんてことをね、多分言うんだ。言うに違いないさ。そんなものは気持ちの振れ幅を上げるための作業だ。作業に選ばれた私は、ただの土台だ。都合のよい、下に見ることが出来る、能力も何も無いただの一般人だ」

 私はひたすら断定した口調で言うことを止めなかった。

「誰でも悲劇の主役を人生の中で演じてみたくはなるけどね、人に、『私はかくも悲劇的な道を歩んでいる』と言っても白い目で見られるだけだ。私でなければうんうんそうだね、辛いねと同情をしてくれるかもしれないが、心の中では皆私と同じような所感を抱くに違いがないさ。はっ。どうせ魔法を使えるというのに。という風にね。君自身だってどうせ他の人間を見下して生きているんじゃないか? 家に帰ったらどうせ、魔法を扱えるから、ま、別に需要はあるけどね。という風に。現実にそう思っていなくても、人間というのは悪辣で、深淵がある。自分自身に気が付いていないということもあるから、私が何かあなたに進言するとするならば、省みよ、ということでしょうか」

 彼女は酒を一口飲んでから、小金を机に置いて席を立った。

 そしてそのまま店を出て行ってしまった。


 





























 

   Ⅴ


私はあの後朝方になって帰宅した。家にそのまま帰る気が起きなかったので、夜の静かな町をやることもなく練り歩いたり、座って呆けていたりした。

 家に戻ると、朝の支度をしていた両親に心配そうな目で見られた。

「大丈夫です」

 私は何を言われる前に、そういって自室に引き上げていった。だが、それだけだと両親に面倒な心配ごとをされて、また誰かもわからない使者を差し出して来そうな気配がしたので、階段をまた降りて、一通りの説明をした。といっても全て真実をありのまま言うことは出来なかったので、私が両親に吐き捨てた言葉ほとんどが嘘で塗り固められたものだった。ただ、両親が心配をかけぬようにという計らいだけはちゃんと施した。私は両親への薄い、くたびれた優しさをもってまた嘘をついたことやその他諸々の罪悪感から免れようとした。


 再度自室に戻り、私は崩れるように床に伏した。心身ともに疲れ切っていた。それでも今日このまま眠る気にはなれなかった。私のわだかまりについて、何らかの回答と行動を示さなければ気が済まなかった。

 まず後悔していた。あの子。名前はルーシェと言っていた。私はひどいことを言ってしまった。

 彼女も、突然遭遇した私なんかに悩み事を打ち明けるには、酔いが回っていたとはいえ、結構な決意があったんじゃないだろうか。私はそれを、適当に揶揄してなじってしまった。彼女は多分、何か変わるんじゃないだろうかと思って、真剣に打ち明けたのに。

 そうだ、あの時の彼女の悩み事は深刻そのものだったし、そう軽いものじゃなかった。表情からしてもそのように推量できた。もしかすると、私が初めて他人として聞いてあげたような悩みだったのではないか? 仲間にも相談できず、家族にも相談できず。事実悩みの内容もそういう類いのものだった。

 なのに、私ときたら。このごうつくばりと来たら!

 理由はわかっている。単純だ。私は打ちのめされていたので、代わりに打ちのめせる人間を探していた。躍起になって探していた。あの時人が多い酒場に入り込んだのもそれが目的だったのだろうか。

 結局、あの親戚の女との口論の勝ち負けに捕らわれていたのだ。馬鹿の極みだ。それで、あの子、ルーシェを傷つけた。手頃な憂さ晴らしとして。

 言葉で人間が深く痛み入るってのは私があの時一番理解していたじゃないか。


 このような後悔を、私はどこにぶつければいいのかわからない。ぶつけてどうこうという問題でもないのだが、もやもやして、ずっと目を瞑って彼女が最後席を立つ間際の表情を何度も頭の中で描きながら、申し訳ないと念じて送ってみせた。そんなことに何も意味はないとわかりきっていたが。次第にまどろみは訪れた。


    ・


 目覚めはやはり最悪だった。

 ミナが昼飯だと私の部屋に入ってきて目が覚めた。最近ミナが私の部屋を訪ねてきたり、話しかけてくることが多い気がする。少し新鮮だ。しかし私のこの曇った気持ちはそんな些細な周囲の変化で晴れはしない。

今日は母親も出かけているらしく、二人でパンをむしって口に放り込んだ。ミナが脳天気に、大しておいしくもないパンを必死に頬張っているのを見て、なんだか羨ましくなった。

眼前の食事に精一杯になれるその姿勢。今の私には到底無理な芸当だ。

 寝ても覚めても、私の後悔はやはり変わっていなかった。

 しかしどうすればいいかはわかってきた。昨日からその解答は既にあった。ようやく行動に移そうと、今日になって思い至ったのだ。

ルーシェにもう一度会い、謝罪をするのだ。それで許されるかどうかは別として、謝罪をすることでまず自分を許したいのだ。という気持ちはひどくルーシェに失礼だ。くそう。何を考えているんだ。


   ・


 ともあれ私は行動をしていた。これ以上彼女の気持ちを想像して苦悩を重ねるよりはよい選択肢であると思えたから。

実際に会えるかどうか、そして会ってどうするのかというところは漠然とした不安に包まれているけれど。


 さて、どう探すか。

 また大通りの方へ足を向けてみるということしか思いつかなかった。

 ひとまず持ち合わせている情報と言えば名前と身なり。聞き込みには十分だ。冒険者で名家の魔法使いという素性も知っている。

 彼女がこの界隈の人間でなければ、場所を移し替えてどんどん聞き込みをすればいい。どうせ柵に囲われた国だ。そこそこに広いとはいえ、いずれは見つかるだろう。どこかにいるのだ。必ず、この国のどこかにいる。それは間違いがないから、なにかすぐに手遅れになるということはないはずだ。

 聞き込み開始から三日目で私はルーシェの情報を得ることが出来た。もっと長くなると思われたので、存外運がよかったのかもしれない。

「ルーシェならもうこの前冒険に旅立ったみたいだったわ」

 そのそばかすとえくぼが似合う女性は彼女の知人らしかった。

「そんな、いつ戻ってくるというんですか」

「なんだか相当長くなるって言っていたけど」

「相当ってどれくらいですか」

「正確にはわからないけど。少なく見積もって数十日は帰ってこないんじゃないかしら。それくらいの感覚で話していたような」

「他には、なにかその……彼女は言っていなかった? 変わった様子とか、なにか」

 彼女は段々と訝しむ目線を私に送ってきた。。

「あなたはルーシェの何なの?」

「私は……」

 何でもない人間だ。酔った勢いで絡んだだけの人間だ。説明したところでさらに薄気味悪がられるに違いなかったので、私はその女からそれ以上の情報を得るのを躊躇った。だがどうしても知っておきたい情報が一つだけあった。

「住んでいる場所というのはここらへんなんでしょうか?」

 私は疑問を疑問で返した。それだけは知っておきたかった。

 彼女はそっぽを向いて顔をしかめた。肯定と捉えた。それ以外に考えられなかった。彼女は大方この地方の人間だろう。

「失礼。もういいです。ありがとうございました」

 一礼して私は自宅に引き上げることにした。


    ・


 想定外だった。冒険者というのはこんなに短い間隔で外に繰り出すというのか。彼女たちが例外なのか、たまたま緊急の用向きがなにかあったのか。わからないが、数十日というのは今の私にとって気が遠くなるような日数だった。

 ルーシェは今どんな気持ちで冒険しているのだろうか。私の言葉が突き刺さったままのはずだ。何とかできないのか。

 いや、出来ない。どこに行ったかもわからない。それを追いかけるなんて無理だ。私にはその能力がない。

 あれだけやったからいいじゃないか。三日も人のために何かをすることなんて本当に久しぶりだったじゃないか。もう十分よくやった。その気持ちだけで十分だ。時間が経ったらまた探せばいい。

 そういうことにして、思考を切り離そうか。出来るかわからなかったが、ひとまず私は自分を慰めるためにロムサラスへ赴くことにした。

 最近は私がよく外に出るというので母親がいつもより多く金を恵んでくれた。親への罪悪感はルーシェへのそれと比較すると大したものではなかったので、気にしないでおいた。


 最近、自分が酒で身を滅ぼすのではないかと危惧してしまう。あの時酒を大量に飲んで失敗したというのに、今日は自分を落ち着かせるんだとしてまた酒を大量に摂取しようとしている。今日だけ、今日だけ。という精神。甘え。破滅という言葉が頭によぎるも、私は酒を飲むことをやめなかった。

 大体……そうだ。彼女は才能がある。魔法が使えるというだけで大方の一般人には持っていない可能性を秘めている。それを考えれば、別に大した悩みではないじゃないか。

 私は彼女の悩みを深刻すぎるものだとして捉えていたけど、実は酔っていて、勘違いをしていたんじゃないか。実は、私の今の悩みこそが深刻なのではないか。彼女としては、ただの余興として一介の酔っ払いをからかってみただけなんじゃないか。

 私は酒を煽りながら自分を正当化することだけを考えていた。そのように客観的に自分を捕らえることはかろうじて出来ていた。その中で、あの親戚の女の顔が蘇ってきた。

 怠け者になるために無理矢理理由を作っている。 あの女はそう言っていたっけ。

 今もそうなのか。

 結局、自己正当化をし続ける人間なのか。私というものは。

……やめよう。あの女のことはもう忘れたい。折角ルーシェとの一悶着で忘れていたというのに……いや、駄目だ! この思考そのものが諸悪だ。私はルーシェを都合のよい、鬱憤を忘れるためのはけ口として見ていたのだ。それが、私のどのような性質を凌駕する下劣な根性なのだ。

 酒の入った容器を机に打ち付けた。

 辺りがしんとしていて、打ち付けた音だけが響いた。

 いつも以上に客がいない。というか私しかいない。例の主人も厨房奥に引きこもっている。

 だから、来客が来てすぐに目を向けるのは至極当然のことだった。


 ルーシェだった。私が探していたその人だった。


 どうしてまたここに来た!

 目が合った。私は口をぱくぱくさせることしか出来なかった。彼女も驚いたような顔をしていた。

 近寄ってきて、私の目の前に座った。この前一緒になった時と全く同じような状況になった。

「いらっしゃったんですね」

「君。なぜここに」

「また来たくなって。いや。ううん。あなたがいるかと思って。でも、本当にいてびっくりしました」

 なんてことだ。あれだけの仕打ちをしたというのに、彼女は私のことを探していたのだと? 一体どういう理屈でだ。

 私はわき出る疑問がありながらも、どれから話せばいいのかわからずに押し黙ってしまった。彼女も黙ってしまった。お互いが探し合っていたというのに、なにも喋ることがないらしい。

 いや違う。

「私も実のところあなたを探していました」

正直に打ち明けた。嘘をつかないでよかったと安堵した。なぜか自分の本当の気持ちを吐き出すことを躊躇っていたのだ。あれだけ謝罪をしようとしていたのにも関わらず。ちゃんと言葉を紡ぎ出せてよかった。

「あなたの知り合いが冒険に出たと言っていましたが。それもとても長い冒険に。どうやらそういう訳ではなかったのですか?」

「いいえ。その通り、私達は冒険に出ました。でも私がすぐに仲間に暇が欲しいと伝えたのです。それで私だけ戻ってきたというわけなんです。しかし、一体誰からそんな情報を?」

 彼女は少し不審がっていた。

「多分あなたの友達かな。そばかすとえくぼがよく似合う子でしたよ」

「あぁ。あちらまで行ったんですね」

「ええ。実を言うと、三日間あなたのことを探し続けていました」

「まぁ」

「本当に申し訳ないと思ったのです。正直に言って、私はあの時ただあなたを侮辱したかっただけです。それだけの矮小な人間だったのです」

 もっと驚くなり、蔑んだような目で見てきたりするかと思ったのだが、彼女は表情を変えなかった。

「別に。いいですよ」

「いいや。よくないです。許してください。許してもらうことによって、自分を許せるのです。あなたの口から一つ言ってくれれば、この苦く重くのしかかったものが少しばかり肩から落ちてくれるかもしれません。こういう、自己都合でもあるんです」

「私はべつに。気分を悪くしたりしていませんから。大げさにならなくても」

「そんなことはないはずです。でなければあの時あんな顔をして席を立ったりはしない」

「私はただ悲しみに暮れるふりをしていただけです」

「どういう?」

「あなたのこの前私に言った通りだったということです」

「私は本気であのようなことを言っていない。君の悩みは深刻だった。そのはずだ」

「いいえ。私は落ち込んでいるふりをしているだけでした」

 彼女は頑なに私の言うことを否定した。その理由がいまいちよくわからなかった。

「私はあなたのことを探していたと言っていましたが、なぜだかわかりますか?」

「全くわかりません。想像も出来ません。強いて言うなら、私に平手打ちを食らわせるという用向きでしょうか」

「いえ……」

 彼女は私からふっと視線を外した。

 何か後ろにいるのかと思って振り返っても、なにもなかった。あの巨漢主人も厨房に引っ込んだままだ。私は視線を戻した。

「べつに、深い理由なんてありゃしませんよ」

 その一瞬目を離した隙に、彼女はまるで人が変わったかのように思えた。彼女は表情一つ変えず、真摯な顔を保ったままだったのに。なぜそう思ったのだろう。私はその理由が何一つわからなかった。彼女の方から理由を聞いておいて、というのもある。

 言葉尻が少し強かったからかな。勝手に結論づけて、私は彼女の目を見たまま小さく頷いた。

「とにかく、またあなたに出会えてよかったと心から思っております」

私はきざな台詞をするりと言えた。事実こうして会えたのは奇跡だとも思えた。しかし言った後で、私が彼女に放った私情の込み入ったでたらめな言葉の数々を思い浮かべると、どうしてこんなことが言えるのかという羞恥心が沸き上がってきた。

「はい」

彼女はなおも表情を崩さなかった。

 これ以上話すことがなかった。

 彼女は私の謝罪に対して、表面上は何の感情も抱いていないように見える。事実どうなのかは知らないが、私はこれ以上彼女から許しの言葉を請うことが出来なかった。今のまま、仮に許すと一言言われたところで、意思の疎通などがなにもないような形式的なものに過ぎないだろう。もっとお互いに理解を深めて、今の心境や状況やあの時の感情などを省みることが出来れば、その限りではないと思うのだが。

 しかし彼女がそもそもなぜ私を探していたのかも曖昧だし、さらに私の言ったことを何とも思っていないというこの様相。

 杞憂だったとして終わることも出来ないので、なんとなく後味が悪い。

 再度踏み込んで話そうとするのだが、ルーシェは毅然としていて……感情の出し入れをしなさそうで、私の感情の入り込む隙間がなさそうだった。

 このままでは自分を許せないままだろう。わざわざ謝罪をしに三日も探していただなんて、誠実なんだ、という感想をルーシェに植え付けることが出来たという自己満足くらいしか得られるものはない気がした。

 彼女への罪悪感と、私自身の様々な鬱屈した感情をいっしょくたにしていた。彼女に許してもらいさえすれば、つまり罪悪感が晴れれば、他の雲がかった部分も何となく一緒にどこかに吹き飛ぶと思っていた。だから、あれだけ熱情的にルーシェを探していたのかもしれない。

 しかし、まだ彼女に明確に許されてはいないが、仮に許されたとしても、私の気持ちが完全にうらぐということはないともう理解は出来ていた。

 理解して、その上で。私はどうするのだろう。どうしたいのだろう。


 沈黙だけが、なおも私達を包んだ。

 私はずっと机の下を見ていた。

 必死に探した。ぐちゃぐちゃになっている私の中を。本当にしたいこと。それを念頭に置いて。


 ──あった。見つかった。


 それまでの時間というのは、短かったのか、あるいはそれなり時間が経過したのか。どちらかわからないくらいに私は集中していたらしい。

 そうだ、あった。彼女に会うことが出来たならば、試みてみようと思うことがあった。

 それはやはり彼女への贖罪という性質を持った行為であったし、同時に自分の気持ちを少しでも穏やかにするための性質を持った行為でもあった。

「君はあの時、私に、もうこの際だから全てを話したいと言っていました」

 ここが本当に酒場なのかと思うくらいに、店内は静かだった。不気味なほどに、といってもいいかもしれない。私は静寂の中話を続けた。

「全てを話すなんてことは人間出来やしない。もし飄々と話せることが出来たなら、誰だって苦しまないはずだ。わかっていながら、そうしたいという時は、しかしあります。全てを吐いて。これがこうで、あれがああで。棚に物を収納するように、自分自身を綺麗さっぱり整頓したくなる時は。けれど人間にはやはり深淵がある。棚なんかに収まりようがない。専門の容器だってどこにもない。ろ過するように、切り離すしてつぶさに研究することがそもそも容易ではない。一瞬で整理がつくような、浅はかで単純な性質ではないと認めたくないと思う部分だってある。これだから! 捻れてしまっているんだ。色々。だから、全てを話したいというのには覚悟がいる。無理なんだとわかっていながら、絶対やってやるんだって一縷の希望無理矢理にでも見出して、その上で言えることだから。その決意と覚悟は、ふとした思いつきなんかで言えるわけがない。私はその覚悟を持った君を侮辱した。だからあえて、私も言葉面の謝罪だけではなく覚悟を持った上で、君に話したい。あえて、言いたい」

 そうだ。彼女に全てを話してみよう。

 そんなことを、あの三日間に漠然と考え続けていたんだ。

 実際は漠然とではなかったのかな。多分そうしたくて仕方がなかったんだ。

今こうして話している自分がいるのが、その証拠。

胸のつかえがすうーと落ちたような気もする。気のせいかもしれないけど。


 なぜ彼女に、なのだろう。

 理由はとかくうまく説明できないけど、なんだかどこかに合理的な必然性を感じることが出来た。


「全てを話しても、よろしいでしょうか」


 ルーシェはゆっくりと頷いてくれた。


 もう一度理路整然と思い出し、私は全てを話そう。

これがこうで、あれがああで……というふうにはやはり出来ないかもしれないけれど。

 それでも全てを本当に私が話せることが出来たら、何かが変わっているかもしれない。

 その一縷の希望を、今は見出そう。

 














   Ⅵ


 この世界が剣と魔法であると知り、それに対して絶望をしたのはいつだったのだろうか。


「ねぇ、一体外には何があるの?」

 私は幼い頃から度々両親にそう問い、困らせていた。

「怖い世界だよ。魔物がたくさんいるんだ。だから、出ちゃいけない。出れる人は、強い人じゃないといけない」

 両親は大体そのような事を言って、疑問をはぐらかしていた。後になって、両親の言っていたことは一言一句間違いが無かったということに気が付かされるのだが、私はこの回答に対して幼い頃からわだかまりを持ち続けた。

 私の住んでいるこの国は、城壁に囲われた国だ。実際にいびつな円を描いて背の高い城壁が囲っているのを私は知っている。この国以外人類の住むところはないと現在されている。

 その領土というのは広い。広いゆえに国はそれで満足をしている。人口一人あたりに対する面積も余裕がありすぎるくらいで、国のが自給自足で賄える。国の人間も仕事に困ることもない。それだけ豊穣な土地があり、資源には困らないということだ。

 私はこの国が限りあるもの漠然と知っていたが、本当にそうなのだと気が付いたのは、城壁を伝って国を一週した時だった。相当の日数がかかったことを今でも覚えている。

 私は衝撃を覚えた。区切られた柵の中で生きているのだという認識。途方もない閉塞感と、屈辱。人間としての尊厳を損われたような気さえした。

大概の人はそういった感情を持ち合わせていないようだった。当然だ。生活に困ることはないし、生活する分には広大なのだから。

 そんな周囲の人間を尻目に、一方で私はどんどん失意の底へと押しやられた。なんてことだ。柵の中でずっと暮らすなんて。国と謳ってみたって結局は閉じ込められているだけじゃないか。という具合に。

 その失望を除く為に外の世界に憧れを抱くようになった。出たい。私はこんな閉塞した空間で一生を終えたくないのだ、と。強い人になりさえすれば、外の世界に行けるものだと思っていた。強い人、というものが具体的に何を示すのかも知らずに。

 時間の経過と共に、憧れと失意は同じ大きさで膨らみ上がっていった。それらを少しでも落ち着かせる為に、私は能動的に行動を開始するようになっていた。

 必要な情報はわりとすぐに得られた。

 城壁の外に出るにはどうしたらいいか。簡単だった。一定の年齢を超えたら、役所で外へ出るための証明書を発行してもらうだけだ。本当にそれだけで、私は拍子抜けしてしまっていた。

 その年齢に到達するまで、外の世界を夢想をしながら準備をした。小遣いをはたいて、鉄の剣や可能な限りの装備品を購入した。

 純朴に憧れだけが強まっていて、不安や恐怖などは微塵も感じていなかった。

 時間と共に、なぜ皆は外に出たがらないのだろうという疑問を段々と強めていった。

私の周りの人間は城壁の中で生活を完結させる術を心得ていて、幸せそうだったから気味が悪いと感じていた。感性が全く合わないのだ、こいつらはまるで自分の現状を客観的に見たことがないんだ。私は私だけの矜持として外への願望を強め、持ち続けた。


 そんな私は、必然的にこの国の歴史を知ることとなる。一体なぜこのような状態になっているのかというところは是が非でも知りたい事柄だったからだ。

 話はまだ私が生まれる前の頃に遡る。

 人類はこの国以外にも様々な場所に繁栄し、豊かな文明と共にその人口を増やし続けていた。しかしある日、魔物と呼ばれる人類に対する凶悪な生物が現われた。どこから来たのかという点は謎に包まれ、とにかく人類を標的に攻撃をしかけてきた。それが魔物である。突然の天敵に人類は魔物に対して反撃を試みるが、結果は圧倒的敗北。

 縮小を続けた人類は最終的に現在の国を作り、城壁を作りその居を構えた。城壁を作ると魔物達は最初こそ攻撃の手を緩めなかったが、城壁が有能であったということもあり、段々と手を引いていった。

 それは誰かの意思に基づいたようでもあったとのことらしい。指示系統を飛ばす親玉のような奴がいたのだろうかと私は勝手に想像を膨らませた。

 結果的に、人類は今の国での生活を甘んじるようになり、恒久的に長くここで暮らし続けることを選んだ。

 それは和平のようでもあり、永久的な敗北に等しいとも思えた。

 歳月が流れた今、冒険者と呼ばれる人間達が外に出て少なくなったらしい魔物と戦い、外の世界を再度確かめようとしている。国はそれを放任しているが、あまり快く思っていないようだ。また魔物の牙がこの国に向くことを恐れているからだ。それでも、外がどうなっているかどうかという点を確かめる為に冒険者を泳がせているのが現状というところか。

 大体の歴史がこういうことらしい。

 もちろんこの歴史が嘘偽りのないものかどうかは怪しいものだった。私が知った情報の根拠も信憑性が全て高いというわけではない。

私は大方納得しながら、何か陰謀めいたものが働いていて、事実とは異なる伝聞というのもどこかにあるかもしれないという穿った見方もしていた。


   ・

 

 もうすぐだ、あと何日過ぎれば外に出ることを公に許可される、という頃合いになったら、毎日毎日城壁の前まで赴いていた。

 守衛に特に何かを話しかけるというわけではなかったが、また来ているなこの子はというくらいには思われていただろう。


 待ちに待った当日。私は飛び起きて、役所に赴いた。すぐさま登録を済ませて、門まで小走りで駆けた。

親にも、あるいはその他の人間にも、誰にも外へ行くということを言わなかった。

 身近な人間は全員、腑抜けで腰抜けだと思っていた。私が外に行くという話題を振っても臆病を見せて私の行動を止めるだけだと考えていたし、実際皆口を揃えて将来はこの国においての仕事を夢物語のように語って、そこに幸せを求めようとしていた。

 全く同意出来ない私のみが……そうだ。この時既に私の少数派としての自己は確立していた。自分だけが持っている夢を叶え、行動出来る勇敢な人間だとして、他人に溶け込もうとしなかった。

「君、本当に一人でいくのか。随分若そうだけど。準備は? 予定は? どこへ行く?」

 門の前まで来たとき、何度か目を合わせたことのある守衛が声をかけてきた。

「今日は試しに外に出てみるだけです。大丈夫でしょう」

私は根拠もなしにそう言っていた。この時、守衛の深刻そうな顔を見て、もしかして今まで私は楽観しすぎていたのではないかとうっすらと思ったが、そんなことをかき消すくらいの自信と、少数派としての誇り、心の拠り所が私を猪突せしめた。

「一緒についてきてくれる仲間はいないのか?」

「周りの人間は皆どうしようもないのばかりです。外にはどんな面白いことがあるかわからないっていうのに、腰が抜けて動けないんです」

「まさか、君、誰にも相談していないんじゃないだろうな?」

「もう、この街では私も大人と見られる年齢でしょう? わざわざ許可なんて必要じゃありませんよ」

「いいか、外はまだまだ未開なんだ。ここらへんにいる魔物の種類だって、何かあってからじゃ遅い。一度引き返して、誰かに相談をしてみるなりしてみたらどうだ」

「だったら、具体的に魔物がどういう姿をしているか知っているんですか?」

 私は魔物の姿を見たことがなかった。正直言って、魔物の存在そのものに半信半疑であった。魔物が外に出てすぐ近くにいるとは思えなかった。もしいたら、城壁があるとはいえ、この都市そのものの存在が危ういからだ。

 危機があればすぐに逃げ帰ればいい。そういう計算も一応はあった。

「私は……」

「知らないんですか? じゃぁこの近くには魔物がいないってことなんじゃないですか? だってそうですよね、いつも外を監視しているあなたでさえ魔物の存在を上手に説明出来ないんだから」

「私は、生まれてこの方ここを出たことがない。たまに外からきた冒険者の話を聞くくらいでね。でも、彼らの話すところの魔物は本当に凶悪なんだよ。伝え話で、上手く説明が出来ないが」

「大丈夫です。あなたがもう既に立証している。ここの近くには魔物なんていないんです。私はずっと夢だったのです。今日を待ち遠しく思っていたのです。外の空気を吸わせてください。どうか」

 私が懇願すると、守衛は苦い顔をして身を引いた。所詮他人であるし、身の上を真に心配する必要など無い。私のような聞き分けのない人間をいくら説得しても無駄だと早急に悟ったのだろう。


 門をくぐり外に出たとき、今までに味わったことのない充足感に浸れていた。

 嘘じゃないかと思った。魔物がこの世に巣くっているだなんて。皆を閉じ込めておく為の詭弁じゃないかって。

 その日の天気は突き抜けた青空で、雲一つ無かった。過ごしやすい温度で、そよ風が心地よかった。不穏な気配なんて何一つありはしなかった。

 視界も良好だった。これなら魔物とかいうのがいつ現われたって逃げ出せると私は考えた。

 調子に乗って、道を進み始めた。

 腰に据えた剣の重みが私をさらに上機嫌にさせた。なにかきたら、すぐに引き裂いてやろうと思った。この日のために、何度も素振りはしてきた。

 一歩一歩足を進めるごとに、まだ平気だ、まだ平気だ、と思えた。それを繰り返しているうちに、だいぶ遠い場所まで歩いてきてしまったことに気が付いた。

 はっとして振り返ると、遠くに自分の住んでいた城壁がぼんやりと見えた。

 自分の勇気で一歩を踏み出せたのだという達成感に身を包まれた。

なんだ、簡単じゃないか。今まで皆は何を怖がっていたんだ。

 空に向けて高笑いをした。大きく深呼吸をして、再度周りを見渡した。

 何もいやしないじゃないか。今度は大声を出してそう叫んでみようとした。

 その時。

 茂みから、がさがさと音が聞こえた。

 それだけで、一気に緊張した。強がっておいて、内心では恐怖していたのだなとようやく気が付き、認めた。

 だが、と思い直す。

 剣を手に取った。構えた。ここで魔物とやらがもし出てきて、それを倒すことが出来れば、一気に今後の自信に繋がると思えた。今回の冒険における結果を出しておきたかったというのもある。帰って誰彼に伝える武勲も手にしたい。

 茂みからゆっくりと、それは姿を現した。

 最初、笑ってしまいそうになった。その後、でもこいつだって確かに魔物なのだろうから、と気を引き締めて剣を握り直した。

 現われたのは、ただの粘着質な塊だった。だが、意思を持って蠢いていた。薄緑の半透明なじゅくじゅくとした液体が濃い赤い核のようなものを覆っていた。単純な動植物ではない。特殊な生命体だ。魔物と言わず何と言おう。

 少しの間、相対して魔物の様子を見続けたが、あちらから攻めてくる様子はなかった。

 ならばこちらから。構えていた剣を振るった。

 私の剣は遅かった。戦いを想定しての素振りはしたことがなかった。素振りをして、いけると踏んでいたのに、いざ実践で扱ってみると魔物には綺麗に避けられた。

目がなさそうなのに、一体どうやって視覚しているのか。私は混乱した。

 気が付くと、その魔物が剣に絡みついていた。思い切り地面に剣を打ち付けてみるも、弾力で跳ね返されるだけだった。自在に体液の硬度を変えられるらしいとそこで気が付いた。

 魔物は一気に剣から、私の手へ伝ってきた。この瞬間にもう先程までの達成感だとか楽天的な感情などは一切合切吹き飛んで、恐怖だけが全身にとりついていた。

 魔物は私を本気で殺しにきた。

 手から、肩へ。肩から首へ。首から、顔へ。

 私は魔物がそのようにして這い寄っている間に慌ててなんとかしようと体をじたばたさせていたのだが、それが駄目だった。

結果的に、背中から地面に倒れるようにこけてしまっていた。魔物は地面に上手く張り付いて、また硬度を変えた。最初見たような、粘着質の塊へ。そして、私の顔を全て覆った。私の顔は地面と魔物に挟み込まれるような形になった。

 腕一本差し込んで、何とか呼吸の道筋は確保出来ていたが、魔物が何とかその隙間を埋めようと蠢いてくる。

 そこから長時間、拙い攻防が続いた。隙間を空けたままにする為に、私は手をひたすらに動かした。動かすのをやめたら魔物は完全に隙間を覆って、それを固定してくる。

 完全に魔物が優勢だった。

 私の体力には限りがある。この魔物に体力という概念はなさそうだ。いつまでたっても流動的に動き続けていそうだ。

 つまり私の体力がなくなったら、負ける。手を動かすことが出来なくなったら、死ぬ。そこに気が付いたとき、死の恐怖がより一層深まった。

 私は動けるだけ、動いた。死にたくない一心で。

 しかし、いつまでたっても状況は転じなかった。思い切り顔を上げてみようとするも、しっかりと地面に固定されていてどうしようもない。

 

 どれだけ時間が経った頃だろう。夜を経て、朝がやってきて、もう一度夜がやってこようかというぐらいになって、私は遂に死を決意しかけていた。体力はもう残りかすもないくらいで。少しの間でも目を瞑ったら行動を停止してしまう程だった。疲労と眠気と空腹と恐怖と。混在した絶望が絶えず押しかけて、死が誘っていた。

 いいんじゃないかと思ってしまった。調子に乗った私への罰で。散々疲れてしまったから、もう。この片腕の動きさえ封じれば、簡単に死ねる。

 夢想していた日々を思い出した。

 世界は絶対に広い。広くて、面白い。

 そう確信していた。事実、この魔物にやられるまで、希望しかなかった。


 希望。死の恐怖。希望。死の恐怖。死。死。死。恐怖。恐怖。希望。死。


 諦めるべきかどうか、すんでの所まで悩みきって、なおも生命線である手を動かし続けた。

 決心がつかないままだった。結局死を選んで楽になる勇気もないらしいと結論付けた。

 そう結論づけたと同時に、一定間隔で動き続けて隙間を生んでいた手の動きが、遅くなり始めた。

 あれ、と思って力を込めてみるも、全く思い通りにいかない。段々段々、時間と共に、みるみる遅くなっていた。

 いざそういう状態になってみると、かつて味わったことのない焦燥感が全身に駆け巡った。今まで死の恐怖だと思っていたものが、違うなにかに思えたくらいに、本当の、言葉では言い表せない恐怖に似た何かを感じていた。

 幻覚や何かが見えればよかった。極限の疲労を感じていたはずなのに、その時意識はなぜかはっきりとしていて、最後までありありとその恐怖に似た何かを感じ取っていた。手が最後に動かなくなった瞬間は、時間が止まり、絶望と恐怖が永遠に感じられるようだった。

 口の中に液体が入り込みそうになったので、口を結んだ。

今度は鼻に入り込んで。苦しくなって、そのまま呼吸が出来なくなって。

そして真っ暗になって────。


 ここから生き長らえるということが出来たという点では、私は非常に運がよかった。

 通りすがりの冒険者が、私を助けてくれたのだ。一生に一度あるかないかの天恵を使い果たしたと言えよう。最も、生きながらえたことが私にとって最良だったのかということの答えを私はまだ見出せていない。


 目が覚めると私は自分の体がそこに存在していて、視覚で捉えられていることに驚き、安堵し、もう一度恐怖した。脳裏に鮮明に焼き付いていた。生と死の狭間を垣間見たその瞬間が。

 記憶を振り払う為に、現状の確認につとめた。

 毛布がかけられていて、暖かい。暖炉のぱちぱちという音が聞こえた。随分と牧歌的な内装だ。雰囲気がよいなと思った。他には。

 振り返ると、二人の人間がこちらを見ていた。

「あぁ、やっと起きたのか」

 一人は筋骨隆々な、戦士と呼ばれるのが似つかわしい男。もう一人は、体の線がやたらと強調された服を着た女。艶めかしい女で、私は死の淵から生還した直後だというのにぱっとみて性的な感情を湧かせていた。いや、死の淵から蘇ったからこそかもしれない。

「君ね、死んだかと思ったよ。なんせ顔全部を覆われていたから。目を覚ましてよかった」

「本当。びっくりしたわよ」

「あなたたちが助けてくれたんですか」

 私はこの時彼らが助けてくれたことに感動で打ち震えて、誠心誠意お礼を言うのが筋だと考えてはいたのだが、なぜだか素直にそう出来なかった。大きな理由として、彼らが人の死のうかという直面に遭遇しておきながら、笑みをこぼした表情を……まるで人をからかうかのような表情して私を見ていたからだった。

「ありがとうございます」

だが、一応は礼を言っておいた。感情はこもっていなかった。

「全く、俺らも丸くなったな。人助けだなんて。こう見えて、結構名の知れた冒険者なんだぜ?」

「そうなんですか」

 名の知れた冒険者であると、人助けをしないのだろうか。その論調がよくわからなかった。そもそも丸くなったとはどういうことか。頭か、顔か。確かに男の顔は丸かった。

「うふふ。きょとんとした顔しちゃって」女はそう言って、男の油くさそうな額に口づけをした。一転して気持ち悪い女だなと思った。

「なんだ、信じていねぇようだな」

「そんなことはないです。ともかく、ありがとうございました」

 冒険者である先輩に、もっと聞くべき話があるように思えたのだが、とてもじゃないがこの二人とこれ以上話していたくなかったので、早急に話を切り上げようとしてもう一度感情のこもっていない謝辞を述べた。

 だが、男は喋ることを止めなかった。

「ま、ニュルンにやられるくらいなら、外に出ない方がいいぞ」男はにやけ面を保って言った。

「ニュルンとはなんですか? あの魔物のことですか?」

「そうだよ、君がやられそうになっていたあの魔物だ。あれって、実は」

「この子、元気そうだし、さっさと飲みに行こうよ」

女が男の話を続けるのを制止した。全くもって私に興味がないような素振りだった。別に構わなかったが、どこか寂しかった。違う。別に構わなかった。

「話を続けた方が、彼の身のためなんだ。あれは、魔物の中でも、とんでもなく弱い部類だ。もう、とてつもなくな。俺なんかは誇張でもなく、寝ていても倒せる。君のように顔を覆われてもはがせばいいだけだ。ただの液体だよ。あんなものは。君はその最弱の魔物にやられたのだ。どういうことかわかるか?」

 私は何も言えなかった。無論、どういうことかは頭で理解していた。

「向いていないって事だ。なぜ外に出た? 街の連中は一体どういう教育してんだ」

 男は私の何が気に入らなかったのだろう。もっと感涙して、嗚咽混じりにすりよってくることを私に期待していたのだろうか。とにかく期待通りにならなかったらしい私を嫌悪感のこもった目で見て、話を続けた。

「大体、そんな剣で魔物に通用するとでも思ったのか? 駄目駄目。使いこなせなければ意味が無い。君の細腕と体つきを見る限り、どんな武器も扱いこなせないよ。武器どうこういう話じゃないかもな。先天的な素質と才能が全て欠けてしまっている」

「もうあんた、いいじゃない」

「この世は剣と魔法だ。それが出来なかったら、おとなしく働け。そしてつつましく生活するんだ。わかったな」

 この言葉は後々になって、私を貫き続けた。

 その時の私は、とてもわかったとは口に出して言いたくなかった。言ってしまえば私の外への道は完璧に閉ざされるだろうと思えたから。

 何とか反論しようと、男の言ったことを認めようとしまいと必死になった。

「へぇ。そうなんですか」

ひとまず馬鹿にしたような口調で、精一杯の強がりを目の前の命の恩人にしてみせた。

ただそれだけしかできなかった。後に続く言葉は何もなかった。


   ・


 男に言われたことは、私の中で日を増すごとに真実味が強まっていった。

 この世は剣と魔法。

 この国に住む多くの人間はそんな考えを抱いてはいないだろう。

 しかし冒険者の中では……世界では……確かに剣と魔法がどうしても必要になってくるらしい。

 事実私にはそれがなかったから、殺されかけた。

 私はまだ決定的にそれが足りないということは考えなかった。

一方で、自分の可能性を根拠もなしにまだ信じ込んでいたのだ。

 夜な夜な剣を持って素振りをしたりしたのがその未練がましさのいい例だ。

 どれくらいの日数、私は剣を振り続けていただろう。とにかく、かつてないくらいに私は一つのことに集中していたと思う。こびりついた精神的な傷跡を振り払う為にも、あの時は体を動かすことがなによりの妙薬だった。

 素振りをする毎日で、私はあの男が段々と憎らしくなっていった。とるにも足らない存在だと位置付けてみて、意識しまいとしていたのに、あの丸い顔のにやけ面が来る日も来る日もよみがえった。

 あいつらだって、徒党を組んでいたじゃないか。

 そういう発想が出来た時、私は自分の可能性をさらに広げることが出来た。今思うと無理矢理だった。

 私は一人で魔物に挑んだが、奴らは複数だろう。そもそもあの丸顔が嘘を吐いている可能性だってある。本当はニュルンという魔物も強い部類なのではないか。私が死にかけたのは至極当然の話であったのではないか。

 あの男に言われたこと。そして魔物との戦い。

 うねり、孕んだ精神的痛みを和らげようと、解釈を思考に当てはめていった。ただの都合のよい夢想であった。

 外に対する都合のよい夢想のせいで死にかけた直後であったというのに、私はまるで学んでいなかった。馬鹿で阿呆だった。

 とにかく無理矢理に可能性をこじあけようとしていた。だがその時の私に無理矢理という意識はなかった。自然な発想としていた──馬鹿で阿呆だった! 

素振りに飽いてきた頃、私は一つ行動をすることにした。仲間がいればいいんじゃないかと思ったのだ。あの丸顔がそうであったように。

 今まで、同じ志を持った人間を探そうとしたことはなかった。周りの人間のほとんどが分からずやで通じ合えない人間ばかりだと思ったから、それを見て自分が選ばれた人間だと思って孤独を貫き通そうとしていた。

 しかしここに来て自分があまり選ばれた人間ではないようだと少しばかり認めることにして、誂えられた自尊心と引き替えに仲間を求めた。同士を求める分には構わないとした。仲間がいればなんとかなるはずだと思い込んでいた。

 同士として、自分の目的を遂行出来る人間を求めているという体裁だった。しかし、本心では単純に私の現状を一から十まで聞いて慰めてくれる人を所望していた。私は既に孤独と少数派の恐怖に取り付かれていたのだった。


 冒険者が一堂に会して仲間を集う会合があると聞いて、私はすがる思いで足を運んだ。

 そこには確かに冒険者が多くいた。私の知り得ない情報を知っていそうで、幾度の死線を乗り越えた、百戦錬磨と見受けられるようなような風貌の人間ばかりだった。

 入るなり、私はじろじろと選別されるような目で冒険者達に見られた。事実、選別していたのだろう。

 手持ち無沙汰にうろついていると、一人の魔法使いが私に声をかけてきた。

「なぁ、君も魔法使いなのか」

 紺のローブを着込んだ男だった。

「いえ」

 そのやりとりをしただけで、男は鼻で笑い席に戻っていった。

 私はその男に苛立ちを覚えながらも、ひとまず腰をかけて、辺りの様子を見回した。皆一様に自分の仲間を探しているようだった。

 私に視線を送る人間は既に誰もいなかった。皆それぞれ違う人間と話しに興じていた。

 ここに来てようやく気が付いた。先ほどの男魔法使いが鼻で笑った意味と道理も理解した。

 場違いなのだと。

 目的と志は皆同じはずで、私も同様に持っていると思ったのだが、しかし場違いであった。

 本質的なことを私は理解していなかった。いや、気が付かないふりをしていた。誰かと仲間になるには、自分の優秀さを、能力を、提示しなければならない。いわば等価交換。互いに認め合うことが出来なければ、仲間などになれるはずもないのだ。狭い世界の中の、さらに狭い世界を生きていたらしいことに、私はこの時うすうす気がつき始めていた。

 私の存在には全く需要が見込めなかった。

 そうだった、と自分を戒めてみても、金縛りにあったように動けなかった。立ち上がることもできなかった。顔をあげることも出来なかった。

 自分の腕を、ただただつねりながら眺めていた。

 私の腕。何回も剣を振ったというのに何も変わっちゃいなかった。細くて、華奢。木の棒のようだ。先天的な才能が欠けているという、あの男の声が思い出された。それを反芻しながら、近くの人間が冒険に対する熱い情熱を話しているのを聞いていた。

『何を言っているんだ。お前なんて、馬鹿だ。魔物は恐ろしい。魔物に殺されかけたこともないくせに』

 話を聞きながら、そんな風に心の中で悪態をついて、死にかけた経験を何か人に話せる美談に変換しようとしていたのだが、空しくなってすぐに止めた。

 気が付くと、徐々に人が減っていた。出会いがあった者は酒場にでも行っているのだろうか。どれくらい時間が経ったのかわからなかったが、私は仲間を求めることを諦めた。それまでずっと心の中で誰かが話しかけてくれるのを待っていた。あれだけみじめな存在感しか放てなかったというのに。決意したと同時に金縛りが解かれて、走り出していた。

 

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