第1話 異世界転生のご利用は、確認画面をよく読んでから
キツキは、6つ目の入力欄を前にして、何度目か分からない欠伸を噛み殺した。
『最高にかわいいヒロインと――』
そこから先が、どうしても決まらない。
恋人になる。一緒に冒険する。最初から自分のことが大好き。
どれも悪くない。だが、実際に入力するとなると、途端に気恥ずかしくなった。
「最初から好感度最大っていうのもな……。なんか、こっちが操ってるみたいで虚しいし」
誰に聞かせるでもなく呟き、半透明の画面に並んだ項目を見直す。
1つ目。『無限の魔力』
2つ目。『すべての魔法と言語を使える』
3つ目。『健康な体』
4つ目。『容姿端麗』
5つ目。『何でもわかる壊れないメガネ』
そして6つ目。『最高にかわいいヒロインと――』
「うん。我ながら完璧だな」
何がどう完璧なのかと問われれば、答えられない。無限の魔力とは、どれほど強力なのか。すべての魔法を使えるとは、最初から自在に操れるという意味なのか。健康な体とは、怪我もしない体なのか。詰めようと思えば、考えるべきことはいくらでもあった。
だから今日は仮の内容だけ保存して、続きは明日考えるつもりだった。眠気で頭が回らない状態で、一生を左右する選択などするべきではない。それくらいの分別は、キツキにもある。
「続きは明日だな」
時刻は、深夜2時47分。照明を落とした部屋で、転生設定用の画面だけが青白く輝いていた。
異世界転生が夢物語ではなくなって、既に10年以上が経つ。期間を限定した異世界滞在から、肉体を保存して行う体験転生、人生そのものを移す永住型まで、いくつもの方式が実用化されていた。
キツキが登録したのは、正式運用前の試験サービスだった。注意事項には、設定反映の誤差や予期せぬ環境変化などが延々と記されていたが、ほとんど読んでいない。
キツキは画面の下部に指を伸ばした。左に『入力内容を一時保存』。右に『暫定設定で転生を実行』。文字も配置も、間違えるようなものではない。
ただ、その瞬間、欠伸で視界が滲んだ。
「よし、保存して寝――」
指先が画面に触れる。軽い電子音とともに、画面が赤く染まった。
『未確定項目を含む暫定設定を受理しました』
「……は?」
眠気が吹き飛んだ。
『転生先との接続を開始します』
「いや、ちょっと待て。保存するつもりだったんだけど」
『転生者情報を構築しています』
「取り消し。キャンセル。戻る。どれでもいいから出せ!」
停止ボタンはどこにもなかった。本来あるはずの最終確認画面すら表示されていない。
異常に気づいたときには、既に部屋の輪郭が崩れ始めていた。机も、壁も、床も、青白い光の粒となり、視界の奥に吸い込まれていく。
「嘘だろ。まだ何も決めてないって!」
『第1希望――無限の魔力。受理』
『第2希望――すべての魔法と言語を使える。受理』
『第3希望――健康な体。受理』
『第4希望――容姿端麗。受理』
『第5希望――何でもわかる壊れないメガネ。受理』
無機質な音声が、1つずつ読み上げる。そして最後に、わずかな間が空いた。
『第6希望――最高にかわいいヒロインと――』
「そこは未完成だ!」
『未確定のまま受理します』
「受理するな!」
足元の感覚が消えた。落下しているのか、浮かんでいるのかも分からない。
意識が遠のく中、赤い画面に最後の1行が浮かんだ。
『条件に適合する対象との因果接続を開始します』
意味を尋ねる暇もなく、キツキの意識は途切れた。
◇
次に感じたのは、背中を打つ硬い感触だった。
「ぐっ……!」
肺から空気が押し出され、視界が白く染まる。キツキは何度か咳き込みながら、冷たい石畳の上で体を起こした。
痛い。少なくとも、夢ではなさそうだ。
「転生って、もう少し優しく着地させてくれないのかよ……」
周囲には、ひび割れた石畳と、崩れかけた柱、錆びた金属製の枠が並んでいた。人の気配はない。
遠くには巨大な城壁がそびえ、その向こうから白い塔や尖塔が覗いている。頭上に広がる空は、見慣れないほど青かった。
「……マジで異世界じゃん」
ようやく実感が追いついてくる。
自分の体に目を落とすと、服装も変わっていた。黒に近い深紺の長いジャケット。縁には銀白の細い装飾が走り、内側には白いシャツと細身のタイが見える。揃いのズボンも、身体の線に沿った細身の作りだった。袖口には、見慣れない模様が薄く刻まれている。
「容姿端麗の方は……鏡がないと分からないか」
辺りを見回してみたが、鏡になりそうなものは見当たらなかった。代わりに、ひび割れた石畳の上に黒縁のメガネが落ちている。
「あった」
拾い上げ、フレームを曲げようとしてみる。びくともしない。
「壊れないってのは本当らしいな」
メガネをかける。だが、視界には何も起こらなかった。
「……あれ?」
壊れているのかと思い、近くの金属枠を見る。
これは何だ。
そう意識した瞬間、こめかみの奥がわずかに熱を持った。
《対象:旧式転送基盤》
答えるように文字が浮かぶ。
「おお……!」
次に、最後に使用された時期を知ろうとした。
《観測情報不足。解析不能》
「見ただけで全部分かるんじゃなくて、知りたいことを考える必要があるのか」
しかも、目の前の情報から導けないことまでは分からないらしい。
キツキは、近くに倒れていた案内板に目を向けた。見慣れない文字のはずなのに、意味は自然と理解できる。
《オルカ旧転送区》
《ミザル中央区まで18キロ》
試しにメガネを外しても、文字は読めた。
「言語能力はメガネじゃないのか」
すべての言語を使えるという能力は、既に自分に備わっているらしい。
キツキは上着の内側を探った。小さな革袋。数枚の硬貨。身分証。そして、封筒に収められた1枚の書類。
身分証には、簡単な情報だけが記されていた。
《氏名:キツキ》
《身分:平民》
《家名:なし》
《出自:孤児籍》
「そこは転生前と同じなのか」
少しだけ引っかかったが、今は考えないことにした。
封筒から書類を取り出し、最上部に記された文字を読む。
《ギレル魔法学院 入学許可証》
「ギレル魔法学院……?」
聞いたことのない名前だった。当然だ。この世界に来たばかりなのだから、知っているはずもない。
視線を下に動かすと、入学日と式典の開始時刻が記されていた。メガネで確認した現在時刻と見比べる。
「……あと、1時間40分?」
学院があるミザル中央区まで18キロ。徒歩での推定所要時間、3時間52分。
キツキは、城壁の奥に見える白い塔を見上げた。
「入学式当日に飛ばすなら、せめて校門前にしろよ!」
叫びは、人気のない旧転送区に虚しく響いた。
学院までの移動経路を知りたいと念じても、返ってきたのは簡潔な答えだけだった。
《解析には追加情報が必要です》
見えていない街の構造までは分からない。少し嫌な予感がした。
それでも、無限の魔力と、すべての魔法、健康な体まであるのだ。
「まあ、何とかなるだろ」
キツキは許可証をしまい、城壁へ向かって走り出した。
◇
10分も経たないうちに、息が上がった。
「健康な体って……体力無限って意味じゃないのかよ……!」
喉は熱く、足も重い。少なくとも、体力まで増やしてくれる能力ではないらしい。このまま18キロを走り切るのは無理だ。
そこでキツキは、右手を前に突き出した。
「風よ、俺を運べ!」
何も起こらなかった。草原を撫でる風だけが、髪を揺らして通り過ぎていく。
「……詠唱が違うのか?」
風が背中を押す光景を強く思い描く。
「飛べ!」
やはり、何も起こらない。
魔法を使うには何が必要なのか。メガネに問いかけると、頭の奥に軽い熱が生まれた。
《魔法の発動には、術式の構築および魔力制御が必要です》
今の自分に、使用可能な術式はあるのか。
《参照可能な術式情報が存在しません》
「全部使えるんじゃなかったのかよ!」
さらに問いを重ねると、先ほどより強い頭痛が走った。
《既知の術式に対する使用制限が存在しません》
「既知の……?」
つまり、知ってさえいれば使える。逆に言えば、知らない魔法は1つも使えない。
メガネも、複雑な解析をするほど脳に負担がかかるらしい。
「全部使えるなら、せめて1個くらい登録しておいてくれよ」
期待したほど便利ではない。だが、学院に着けば学べるはずだ。
キツキは再び歩き出した。
ほどなくして、石畳の先から荷車が近づいてきた。額に短い角を持つ2頭の獣が、木箱や麻袋を積んだ荷台を引いている。
「すみません!」
手を振ると、御者の男が手綱を引いた。
「どうした、坊主」
「ミザルまで乗せてもらえませんか。入学式に遅れそうで」
男はキツキの服を眺め、呆れたように笑った。
「学院の新入生か。西門の市場までなら乗せてやる」
「そこから学院までは?」
「走って40分だな」
残り時間は約1時間20分。間に合う。
「お願いします」
「運賃は?」
「あ」
革袋から銀貨を1枚差し出すと、男の眉が上がった。
「これで足ります?」
「多すぎる」
「じゃあ、お釣りを」
「相場も知らずに渡したのか?」
男は呆れながらも銀貨を受け取り、いくつかの銅貨を返してきた。
「学院の連中は世間知らずが多いが、入る前からこれか」
「今日、初めてこの辺に来たんで」
嘘ではない。
キツキが荷台に乗り込むと、角を持つ獣が再び走り出した。
遠くに広がるミザルの街並み。空を行き交う、鳥ではない何か。何本もの白い塔を従える巨大な建造物。
魔法はまだ使えない。メガネも万能ではない。それでも、これから覚えればいい。
「案外、すぐ最強になれたりしてな」
キツキは小さく笑った。
◇
ミザルの西門に近づくにつれ、人の数が増えていった。商人、旅人、剣を腰に提げた者。その中には、長い耳を持つ女性や、獣の耳と尻尾を生やした少年までいる。
「すげえ……」
物語の中でしか見たことのない者たちが、当たり前の日常として行き交っていた。
巨大な城門を抜けると、視界が一気に開ける。幅の広い大通り。白い石造りの建物。頭上を横切る連絡橋。そのさらに上には、小型の飛行艇が一定の間隔で進んでいる。
街の奥から鐘の音が聞こえた。
「入学式なら、あと30分ってところだな」
御者の言葉に、キツキは勢いよく立ち上がり、揺れた荷台で木箱に頭をぶつけた。
「いって!」
「ここで降りた方が早いぞ。今日は学院方面が混んでる」
「ですよね」
キツキは荷台から飛び降り、礼を告げて人混みへ飛び込んだ。
案の定、前に進めない。馬車と人が道を埋め、学院の白い塔も建物に隠れて見えなくなっている。
近くの案内図を見つけ、学院までの経路を知りたいと意識した。大量の道路情報が一気に頭へ流れ込み、キツキは慌ててメガネを外す。
「っ……相変わらず、加減がないな」
頭は重い。それでも、最短経路は覚えた。大通りを避け、商業区の路地と連絡橋を抜ければ、学院前へ出られる。
キツキは人の隙間を縫い、階段を駆け上がった。
その先で、ギレル魔法学院の全貌が姿を現す。
広大な敷地の中央には、城にも都市にも見える巨大な校舎群が連なっていた。白石の大講堂。宙に浮かぶ演習庭園。校舎と塔の間を結ぶ、青白い空中回廊。
周囲を取り囲む大小の魔導塔では、先端に掲げられた属性灯が、昼の空にも鮮やかな光を瞬かせている。その向こうには、中立都市ミザルの白い街並みがどこまでも広がっていた。
「でっか……」
感動している場合ではない。入学式まで、残り15分。
キツキは連絡橋を渡り、学院へ向けて走った。
◇
正門前には、新入生や家族、従者たちが集まっていた。豪華な馬車から降りてくる者。何人もの使用人を連れた者。杖や剣を携えた者。
その中を、息を切らし、髪を乱したキツキが駆け抜ける。
「新入生、です……!」
正門の職員に入学許可証を差し出す。
「見れば分かる。名前は?」
「キツキ。家名はありません」
職員は名簿を確認した。
「平民籍、孤児出身。キツキ……確かに登録されている」
転生したばかりの自分が、以前からこの世界にいた人間のように登録されている。一瞬だけ妙な感覚を覚えたが、今は時間がない。
「中央大講堂に急げ。あと12分だ」
「余裕ですね」
「その状態で言う台詞ではない」
キツキは許可証を受け取り、門の内側へ走り出した。
◇
中央大講堂へ近づくにつれ、新入生の数が増えていった。全員が、キツキと同じ黒に近い深紺と銀白で統一された制服をまとっている。
男子は細身で直線的な長いジャケットにズボン。女子は軍服とローブを合わせたような裾の長い上着に、プリーツスカートを合わせていた。可愛らしい令嬢服というより、規律と格を感じさせる礼装だった。
ただし、胸元に家紋を留める者や、上質な外套を重ねる者もいる。家名も装飾もないキツキは、走ってきた埃まで含めて明らかに浮いていた。
講堂に入ると、既に大半の席が埋まっている。案内された端の席に座った直後、入学式開始の鐘が鳴った。
「本当にギリギリだったな……」
壇上に、白髪の老人が上がる。彼が講堂を見渡すと、それまでの話し声が自然に消えていった。
「本日、諸君らをギレル魔法学院の新たな生徒として迎えられることを、心より歓迎する」
学院の歴史。中立都市ミザルの理念。国籍や身分、種族を問わず、学ぶ者に門戸を開くという方針。
キツキは最初こそ真面目に聞いていたが、10分も経つ頃には眠気に襲われ始めた。転生してから、ほとんど休む間もなく動き続けている。眠くならない方がおかしい。
「寝たらまずいよな……」
膝をつねったところで、学院長が話題を変えた。
「今年度もまた、人間諸国のみならず、各地より優秀な若者たちが集った」
正面脇の扉が開く。国や組織を代表するらしい新入生たちが、職員に伴われて入場してきた。
名前が読み上げられるたび、講堂の一部からどよめきが起きる。キツキには、1人として聞き覚えがない。当然だ。この世界に来てから、まだ2時間も経っていない。
「続いて、フォルテア王国第3王女――レニア・フォルテア殿下」
その名が告げられた瞬間、講堂の空気がわずかに変わった。
キツキも、何となく壇上脇に目を向ける。そして、動きを止めた。
白銀に近い淡い髪。腰の下まで伸びるそれは、光を受けるたび微かな色彩が混じって見える。
整った輪郭と、長い睫毛。赤い瞳は眠たげに伏せられているのに、切れ長でわずかに吊ったその形のせいで、視線を向けられるだけで射抜かれるような鋭さがあった。
それほど冷ややかな印象を帯びながらも、顔立ちそのものには少女らしい柔らかさが残っている。
黒に近い深紺の制服には、金の装飾1つない。それでも銀白の縁取りと、裾の長い上着が、彼女の気品を際立たせている。
背丈は、キツキとほとんど変わらない。周囲の女子生徒よりも明らかに高く、細身ながら姿勢が美しい。1歩進むだけで、自然と人の視線を集める。
可愛い。美しい。どちらか1つでは足りなかった。
人間の姿をしているのに、完成されすぎていて、どこか現実感が薄い。
キツキの頭に、転生直前の入力内容が蘇った。
『最高にかわいいヒロインと――』
「……いた」
思わず声が漏れた。




