第5話:沈丁花の香にまぎれて
梨花は、妃の寝所の前で立ち止まった。
──美麗妃。第三妃でありながら、皇帝の寵愛をほぼ独占しているという女だった。
(お綺麗な名前に似合わず、陰気な香りね)
簾越しにかすかに漂ってくるのは、沈丁花と白檀を混ぜたような、濃く甘い香。
その奥に、あの香炉の中と同じ、微かな違和感があった。
林苑が、扉を軽く叩く。
「薬館の者が参りました。香のご進物確認とのことにございます」
「……お入りなさい」
内から返った声は、よく通るがどこか艶めいていた。
部屋の中は、薄紅の帳に包まれていた。
まるで霞が立ち込めたかのような香の濃さに、梨花は思わず眉を寄せた。
「ほら、ご覧なさい。この子ったら、この香が気に入らないみたいなの」
美麗妃が、紅を引いた唇をすっと曲げて笑った。
隣には小さな女児がいた。まだ乳離れもしていないほどの年齢で、白い肌に赤い発疹がぽつぽつと浮かんでいる。
(……ああ、やっぱり)
梨花は視線を落とし、そっと鼻を鳴らした。
香の成分と、空気の流れ、肌に当たる刺激、目のかすかな痛み。
すべてが告げていた。
──これは、毒だ。
それも、身体の弱い子供や妊婦にだけ効くよう、意図的に調合されたもの。
「妃様。この香、誰が贈られたので?」
「まあ。粗相な質問ね。香など、日々届きますもの」
扇を口元に当てながら、妃は意味深に笑った。
林苑が一歩前に出て、低く頭を下げる。
「ご無礼ながら、香料に異物が含まれている可能性がございます。念のため、調査を――」
「異物? まさか、毒でも入っていると?」
美麗妃の目元がわずかに吊り上がった。
部屋の空気が冷えた。
「……そのような決めつけはしておりません。ただ、成分の一部が乳児に害を及ぼす可能性がございます」
「ふぅん……乳児に、ね」
妃はゆっくりと立ち上がると、香炉に近づいた。
「私の元には、妃たちが日々香を送ってくるのよ。“妊娠のお守り”だとか、“乳の出がよくなる”とか……下心を隠して」
「…………」
「でも私、この香が好きなの。“咲く前の沈丁花の、毒にも似た香り”。わかるでしょう?」
梨花は返事をしなかった。ただ、香炉の縁を指でなぞりながら、息を吸い込んだ。
「……この中に、“狐花”(こか)という草が混じっています」
「ほう」
「外からは普通の香。けれど、加熱すれば微量の“身体を冷やす毒”が揮発します。小さな子には、肺に炎症を起こさせる。母乳にも影響が出ます」
「随分と詳しいのね。どこでそんな知識を?」
美麗妃の視線が、刺すように鋭かった。
梨花は静かに笑った。
「辺境育ちですので。毒と香くらい、鼻が覚えます」
言葉の刃を、さらりと返す。
そのやり取りを黙って見ていた林苑が、一歩前へ。
「この香を下賜された名簿がございましたら、拝見したく――」
「名簿?」
美麗妃は、にこりと笑って言った。
「……“それ”、あなたたちに渡せば、何が起こるか分かってる?」
その声音に、林苑がわずかに身じろぎした。
この女は、美しいだけの妃ではない。
香を武器にできる、誰よりもしたたかな“狩人”だ。
だが、梨花は恐れなかった。
「妃様。香を使った毒は、殺すためではなく、“痛みを与えるため”にあると、私は思います」
「……どういう意味かしら」
「苦しめたい相手がいるなら、その名前、ぜひ教えてください。直接、診て差し上げますから」
部屋の中で、風が止まった。
そして次の瞬間、美麗妃は声を上げて笑い出した。
「ふふ……あなた、面白い子ね。まるで毒の精霊みたいだわ」
笑いながら、彼女は扇をひらりと振った。
「好きに調べなさい。香の名簿も、宦官を通じて渡しておくわ。でも――」
その扇の影から、瞳が鋭く光る。
「次に“私の香”を毒呼ばわりしたら、あの女の子の口に、火の粉を落とすかもしれないわね」
扉が閉まった後も、梨花の背中に冷たい汗が残った。
香の奥にあるのは、毒ではなく“意思”だ。
(……この宮には、笑いながら毒を贈る女たちがいる)
けれど、毒を見抜く者は、たった一人でいい。
そしてそれは――他ならぬ、薬館の梨花の役目だった。