第4話:扇の裏には、血の香り
(どうして人は、余計な飾りを好むんだろうね)
そうぼやいたのは、梨花が絹の布に指を這わせながらのことだった。
それは、死んだ乳母が手に握っていた扇の切れ端。絹と竹でできた、ありふれたものだったが、端には薄く、茶色い染みがついていた。
「……乾いた血、だね。しかも、古い」
金翠宮の女官長から呼び出され、こっそりと遺品を調べていた梨花は、布を手の甲でこすりながら呟いた。
呼び出しの理由は一つ。「あの乳母の死因について、怪しまれては困る」とのこと。
……つまり、“それらしく見せて”ほしいという意味だった。
(やれやれ、こっちは毒でも病でもないって言ってるのに)
前回の赤子の死因が乳からの“汚染”と推測されたのを受けて、女官たちはおろおろしながらも、表面上は冷静を装っていた。
だが、乳母が続けて倒れたことで、彼女たちは疑心暗鬼に陥っている。
梨花が何かを「見る」と言えば、もうそれだけで祟りを調べているかのような視線が突き刺さる。
(正確には、見るんじゃなくて、“嗅いで”“触って”“思い出して”るだけなんだけど)
「どうだった?」
部屋の隅から、宦官の林苑が顔を出した。
梨花がこの後宮で、数少ない会話の通じる相手だ。
「殺されたんじゃない。病気でもない。ただ……毒を、吸ったかもね」
「毒……? でも、食事はみんな一緒だって」
「そう、“口から”じゃないの」
梨花は絹の染みを指差した。
「この血痕、毒を吸った皮膚が破れて出たものかもしれない。たとえば、ある香……」
そこで彼女は声を潜めた。
林苑が扉を閉める音が、やけに大きく響く。
「……“桂花香”って知ってる?」
「ああ、体を温める漢方香じゃないか。妊婦に焚くといいと」
「うん、でもね――間違った使い方をすると、母乳に変化が出る。乳腺を塞ぎ、鬱血を起こし、身体の中に乳が溜まって腐っていく。外から見たら、ただの高熱と発疹。死ぬ頃には、内側から……」
「腐るのか」
林苑の顔が、青ざめた。
「やっぱり、殺され……?」
「殺す気だったのか、それとも“誰かに効けば”くらいの遊びだったのかは、分からないけど」
梨花は、部屋の奥に視線を移した。
そこには、亡き乳母の衣類と身の回りの品が丁寧にまとめられていた。
その中に――ひとつ、場違いな品があった。
「これは……贈り物だね。名前もない、差出人不明の」
小さな漆塗りの香炉だった。
中を開けると、ふんわりと甘い香りが立ち上った。桂花に、沈香と丁子を混ぜたような……だが、その奥に、僅かな異臭。
――薬師の鼻には、見逃せない香りだった。
「この香、もし他の部屋でも焚かれていたら、似た症状が……」
そこまで言って、梨花はあることを思い出した。
──以前、洗濯物を運んだ部屋。
ひび割れた唇、侍女の袖の赤、濃すぎる白木蓮の香……。
(やっぱり、あの部屋……妙だ)
「林苑、悪いけど、あの妃の部屋の香を確かめてくれる?」
「おまえ……また命知らずなことを」
「わたしは薬師だもの。毒を見て、黙っていられるほど聖人じゃないの」
ふっと、梨花は笑った。
(……まあ、聖人じゃないどころか、性格も悪いしね)
それに。
自分が黙っていれば、次は誰が死ぬか分からない。
この宮の中には、香にまぎれて毒を贈る者がいる。
そして、その毒は“誰か”を狙っている。
――それだけは、確かだった。




