第3話:練鉛香の影
(香を調合したのは、誰だろう)
夜の洗濯場で、梨花は布の切れ端を手に考えていた。
練鉛香――練り香に鉱粉を混ぜた劇物。
少し吸うだけでも喉が焼けるように痛み、特に赤子には命取り。
昨日、妃の寝間着に付着していた香の粉末。
色と匂い、指のざらつき。かつて師匠から教わったものと一致していた。
(妃自身が調合したとは思えない。となれば、侍女……それとも“香師”か)
後宮には、**香を扱う専門職・香師**という役職が存在する。
位の高い妃には、個別の香師が付くこともあるが、下級妃の場合は共有の香師から調合を受ける。
問題は、その香師が、どこからどの香材を得ているかだ。
「……あんた、まだ起きてたの?」
声をかけてきたのは朱鈴だった。
水場の桶に肘をつき、くたびれた顔でしゃがみ込んでいる。
「なんか、また妙なこと考えてる顔してる」
「うん、ちょっとね。……“練鉛香”って知ってる?」
「……聞いたことあるけど。そんなの、昔に禁じられた香じゃないの?」
「そう。でも、それが妃の部屋で焚かれてた。微量だけどね」
朱鈴の顔がわずかに引きつった。
「……また“呪い”の話?」
「いいえ。違う。これは、人の手によるものよ」
梨花はそう言い切った。
あいまいな怨霊のせいにして放置するより、確かな原因を追うほうがずっと建設的だ。
(とはいえ、この話を正面から持ち出せる立場じゃない)
下女である自分に、告発の資格はない。
それどころか、「毒」だの「殺意」だの口にしようものなら、不穏分子として処罰されるのが関の山だ。
(だから、まず“香師”の出入りを洗う)
翌日、洗濯場の裏手にある「物納帳」を覗き見した。
香材の出納は、細々と記録されており、誰が、何を、どれだけ使ったかが残されている。
(……あった)
「紅梅の間 侍女・胡春、沈香黄花香 一壺」
「同日 香師・蒼燕 練香追加調合 “補助香材不明”」
補助香材不明――つまり、書かれていない材料があるということだ。
(蒼燕……この人、紅梅の間にも香を納めてる)
蒼燕は、後宮でも珍しい“男香師”だという。
本来なら男子禁制の後宮において、極めて例外的な存在。
なぜなら、彼は去勢された宦官出身であり、その類稀な香の才を買われて、香師として引き抜かれた人物らしい。
(……怪しい。けど、あくまで推測)
梨花は自分に言い聞かせた。
今はまだ、動かすべきではない。
ただ――彼に話を聞く“きっかけ”は、意外にも早く訪れた。
「おい、下女! 香の補充、持ってきてくれ!」
それは、蒼燕本人だった。
大きな籠を抱えたまま、洗い場の隅で声をかけられた。
「お前、あの薬館出の娘だろ? 噂は聞いてる」
細い目をした痩せた男。
皮肉な笑みを浮かべ、香材の壺をぽんと手渡してきた。
「面白いこと嗅ぎつけたそうじゃないか。“練鉛香”なんて単語、普通の下女が知ってるものじゃない」
「……聞き覚えがあっただけです」
「言い訳が下手だな。薬師ってのは、口もうまいんだろ?」
ふふ、と喉の奥で笑う。
(やっぱり、この人……知ってる)
「紅梅の間に入れた香、あなたの調合ですよね?」
「ああ。あそこは注文がうるさくてね。甘ければ甘いほどいいと来た」
「練鉛香、入ってましたよね?」
言ってから、自分でも驚いた。
これでは、追及ではなく告発だ。
しかし蒼燕は、少しも動じなかった。
「……昔の香だ。今は使わない。どこでそんな話を?」
「師匠が、昔に少しだけ……」
「へえ。……で? その香が、どうかしたのか?」
静かに問われたその声に、わずかに冷たい棘があった。
(問いかけるふりをして、口止めしてる)
そう察した瞬間、梨花は一歩引いた。
「いえ、別に。少し、匂いが似ていたような気がして」
「そうかい。なら、勘違いってことで」
男は籠を抱え直し、踵を返した。
その背中を見つめながら、梨花は小さく息をついた。
(練鉛香は、確かに使われた。けれど、証拠がない)
書類にも残っていない。妃も気づいていない。
香師本人は「使っていない」と言った。
今、彼を告発する術はない。
けれど、梨花の目には映っていた。
香材壺の底に、わずかに付着した桃色の粉。
それは、昨夜見た“寝間着の襟”と同じもの。
(証拠はまだ手にできる)
口を閉ざすのは、恐怖ではなく、戦略のため。
梨花は静かに微笑んだ。
毒の匂いのする男には、毒のように、静かに忍び寄るのがいい。
その夜。
彼女は紙を取り出し、記録を始めた。
・紅梅の間 死産三名
・練鉛香、沈香黄花香混合
・蒼燕調合分に補助香材不明
・妃は気づいていない様子
少しずつ。確実に。
証拠を積み重ねていく。
なぜなら、次に死ぬのは――もう、赤子だけとは限らないのだから。