花開き 【三】
夕暮れに染まった校舎を後にしながら、私は涼しくなった通学路を歩く。
仕返しは終わった。もうこれ以上彼女から何かしてくることはないだろう。
暴力でも振るってくれればもっと問題を大きくできたかもしれない。無視に荷担していたクラスメイトの中にはいじめの兆候を良しとしない人もいたはずだ。彼らの証言があれば、安城に死の宣告をもたらせることも可能だった。
私は遠くに見える大きな雲に視線を向けた。陽があたる部分と陰になる部分。赤色から灰色へグラデーションをつける。その明暗を分けるのは、ただ太陽に焼かれているかどうかだけ。
クラスをまとめる安城は、笑顔に潜んだ慈しみのない自我を隠していた。真実を暴くことが私の望みではなかったとしても、道中の草木を邪魔だとへし折ることが誰かの助けになるのなら、進んでこの道を歩もう。
彼女の標的が私以外にいかないとも限らないのだ。
バスケ部に誘ってくれた彼女は、今でもバスケットボールを続けているだろうか。私を憎むことはあっても、あのひたむきだった青春をなかったことにだけはしないで欲しい。
溜め息にもならない軽い空気を吐き出す。私は改札を通り、いくつかの駅を越えて最寄りに到着した。電子音を背中に受けながら構内を出て、親しみ深い町並みの中へと姿を溶け込ませる。
点々と続く星の瞬きに混ざって、飛来する光の粒が目に入った。昔は宇宙船だとか冗談を言って笑い、それが飛行機だったなんて疑いもしなかったあの頃。すべてが色鮮やかで美しく、私はひたすらあの背中を追いかけていればよかった。無我夢中で余計なことなんて一切ない。澄みきった心の中。立ち止まることのできない時の中で、彼女だけは私を振り返ってくれた。
もう届かない、戻れない。
目指した光の道標は消え、いつしか私は他者を圧倒することでしかその価値を見出だすことができないでいた。
バスケ部の先輩の平手が私の頬をぶつ。
狂気に触れたような彼女の顔は、私の道を決定付けた。いや、彼女が決めたわけではない。私がそれを選んだのだ。
数ある選択肢の中からそれを掴みとり、後悔する自分を置き去りにしたまま人生を傾けた。
それを楽だと、私は思ってしまった。
「飯嶋先輩、もう必要ないので帰ってください」
息を飲む気配がした。
崩された均衡。平穏の破壊。音を立てて潰れていく安息の日々が、私の耳に響き渡った。
反対のコートで激しく打ち込むバレー部の情熱が、時が止まったバスケ部と反比例して大きくなる。
ユニフォームの袖から日焼けした飯嶋の二の腕がピクリと動いた。
声が聞こえなかったということはないらしい。
「は?」
それなのに、彼女は遠慮のない態度で私に聞き返す。
熱い心臓の鼓動を押し殺し、私は飯嶋の瞳を睨み返した。
「だから、部の雰囲気悪くなるんで帰ってください」
ここまではっきりと言われたことがないのだろう。飯嶋の今までの笑顔が凍りついているのが分かった。彼女の取り巻きである同じ三年の先輩が眉間に皺を寄せる。
「光島、お前最近調子乗ってんな」
先輩たちの乱暴な物言いは今に始まったことではないが、それまで私に向かって吐き出されたことはなかった。
目が回りそうだ。私だってこんなやり方で彼女たちを諭そうとは考えていなかった。恐ろしくも年が二つ上の彼女たちが敵意を剥き出しにすることを、私はどれだけ耐えられるだろうか。
だけど、誰かが口にしなければ何も変えられないし何も変わらない。黙って見ているだけなら誰にでもできる。
もし彼女だったら、身を削ってでも私のために動いてくれるだろう。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
必ず帰ってくると言ってくれた彼女に、恥じないためにも。
飯嶋たちは目を合わせてクスクスと笑い始めた。泥にまみれたような汚らわしい悪意。年齢だけ重ね、まともに自己さえ見つめられない木偶の坊たち。
調子に乗っているのはどっちだ。
「てかさ、一年がなんであたしらに指図してくるわけ?」
「だよね。部長が言うならまだしも。ねえ! 部長!」
三年生は夏の大会が終われば引退する。しかし、中高一貫の我が校にそんなことは関係ない。彼女たちとはこれからも顔を突き合わせなければならなかった。
飯嶋たちに呼び掛けられた部長は、部員の中では小柄であった。しかし一生懸命に声を張り上げる姿は皆の目には強く映り、そして全員が認める努力家だった。真面目な彼女が飯嶋たちの存在を快く思っていないのも事実だったが、それ以上に彼女たちの存在が大き過ぎるのもまた事実だった。
上下関係は役職とは裏腹に定まり、揺れる部長の瞳を私は不安げに見つめた。
「光島さ、先輩に失礼だよ」
部長の零した呟きが屈折した光のように私へ届く。
様々な色が混ざりあったくすんだ色。ねじ曲げられ、歪められ、本当の形を忘れた不協和音。
勝手ながら、部長の描く理想の体裁が私の中で紐解かれていく。不本意なんだろうな。
飯嶋は冷たい顔で告げる。
「だって。光島、返事は?」
割れた頭の中にギトギトの油が流し込まれる。脇にじっとりと汗をかき、胸の鼓動が今にも破裂しそうだった。
蔑み、嘲笑、戦慄、焦燥、憐憫。沢山の感情。鬱々とした糸に絡めとられた私に、手痛い視線が集まる。
助け船はこない。はっきり断言してしまった手前、後戻りもできない。完全に孤立する私に、誰が擁護したいと思うだろうか。部長でさえ保身に走り、後輩を責める姿勢を見せた。同じ一年生の中、やる気のある子たちにだって敗戦濃厚な私の背中は、酷く小さなものに見えただろう。
でも、そうなることは想定内だった。
これからは私は、ずっと一人で戦わなければならないんだ。支えてもらうばかりの弱い自分なんて、いらない。
「飯嶋先輩。去年の試合の動画観ましたけど、あんまり上達してないですよね」
コートの床全体が軋むような音をたてた。古くさい木造の建物特有の、乾いた匂い。
全員の耳に聞こえた私の言葉に、部員の誰もが体を固まらせる。動きだすのに、時間を要した。
その間に私は考えてきた言葉を流れるように告げる。
「それなのに威勢だけいいって、恥ずかしくないんですか?」
振り下ろした正義の鉄槌はどこまで響くだろうか。
私、うまくできてるかな。
黙っていた飯嶋が一歩前に出て口を開ける。
臨戦態勢だ。
「おい光島、マジお前なんなの?」
かつてないほどの恐怖が部員たちを席巻する。
割れないように囲ってきたガラスの箱。そこに入った亀裂が何を意味するか、彼女たちは戦々恐々と怯えた眼差しで見守った。
気に入らなかった。そんな雰囲気、私が思い切りぶち壊してあげる。
三年生が集まりだし、私を睨み付けた。馬鹿馬鹿しいったらない。やっぱり私はどこか他の人とは違うんだ。普通なら泣いて縮こまるところなのに、押し潰されて心を病むはずなのに、しでかしたことの重大さに後悔を抱く状況なのに。
それなのに私は、愉しくて愉しくて仕様がなかった。
「飯嶋先輩だけですよ。なんの成長もしてないの。もう一度聞きますけど、恥ずかしくないんですか? 後輩に言うだけ言われ、お友だちに囲われて。陰でなんて呼ばれているか、知らないんですか?」
事前に聞いていたバスケ部の内情。差し込まれて一番血が吹き出るのは多分ここだ。
揺るぎないと信じられてきた権力者に対する忖度なしの一撃。三点では済まされないシュートが、新入部員という死角から決まった。
目を見開いて首から下を凍らせる飯嶋。こんな彼女でも三年間は続けてきたんだ。それを愚弄されることは、高く積み上げた彼女のプライドが許さない。
私は高揚する胸を抑え奥歯の間がざらつくのを感じた。醜い心根を露にした飯嶋が不躾に言い返す。
「一年のくせに、お前うぜぇんだよ!」
激昂すると同時に飯嶋が私の肩を押す。誰かの短い悲鳴と、憤怒の放出。私は揺れるポニーテールの後ろ髪を気にしながら、毅然と彼女を睨み返した。
そろそろ騒ぎが大きくなる頃合だ。様子が変だと隣のバレー部に勘づかれて、止められでもしたらすべて水の泡になってしまう。
決着はここでつける。
私は留めていた感情の一つを解き放った。
薄紅色の唇が弧を描く。
見上げた飯嶋の瞳に映し出される、歪んだ笑顔。
飯嶋も同様に表情を変えた。
年下からこんな仕打ちを受けたことはないはずだ。怒鳴って態度を悪くすれば、全部丸く収まっていた今までとは違う。順風満帆で気を遣うこともない平坦で安楽な学校生活。散々いい思いをしてきたのだ。こんなことで顔をしかめてしまうほど、彼女は幸せだったのだから。その道程に多くの骸があることを、飯嶋は真っ先に自覚すべきだ。
私はユニフォームの下で体を震わせながら、笑う口元を右手で隠す。
「だめですって。アンスポとられますよ、先輩」
アンスポーツマンライク・ファウル。バスケットボールの試合中にスポーツマンシップに欠ける身体的接触を伴う危険行為を指す、通称アンスポ。
入りたての私が知ったのはその程度の知識で、実際にその行為にお目に係るのはかなり稀だそうだ。試合ですらない部員同士の言い争いに持ち出すには、あまりに仰々しくて滑稽だった。試合であれば必ず反則を取られているであろう飯嶋の行いを、現実の場面に当てはめた私は自分でも驚くほどに機知の富んだワードセンスだと思った。
自画自賛したっていいじゃないか。からかいは馬鹿っぽいほどいい。そしてその絶妙な場違いにも似た空白の時間と、流暢だった私の態度、思いもよらない言葉の選択が、張り詰めていたコート上に弛緩を生み出す。
部長がクスリと鼻で笑う。はっと気づいて口元を手で覆う。
彼女は本当にいい仕事をしてくれる。
その動作を皮切りに、普段耳にしたことのない部員間での笑いが伝染していった。
注目をかっさらい緊張していた場面なだけに、それが壊された時の感動はひとしおだ。
私も思わず可笑しくなって、横隔膜をひくつかせて口角を上げる。
微かな笑い声に包まれる異様な光景。
圧縮されていく威勢だけはよかった三年生たち。朽ちていく泥船に気が付いた船員のように、彼女たちはその困惑を顔に滲ませた。
私と対峙した飯嶋、たった一人を除いて。
鋭い音が体育館に響いた。拍手をどれだけ大きく叩いても、熱のこもった彼女の手のひらを再現することはできないだろう。
顔を横に逸らせた私はそのままの衝撃で膝を横に屈する。
再び、コートの中に息を呑む声がした。
飯嶋は振り切った手を空間に固定したまま、上気した顔を向ける。強い眼光を宿した双眸。大事に育んだ自尊心の危機。
飯嶋は破壊された己の立場を拒んだ末、嚥下できな私の言葉を嫌い、没落する姫君に成れ果てた。
「ちょっと! ヤバいって!」
冷静になった飯嶋の取り巻きが彼女の肩をひしと掴む。
私に駆け寄る一年生の部員たち。
じんじんと痛む熱い頬。目が回る。
頭の奥で誰かが囁いたような気がした。待ってるって、彼女が言ってくれたから。
乱暴に肩を振り払うようにして飯嶋は体育館の出口に足を運んだ。所在ない三年生の取り巻きたちも同様に。
だが、私と飯嶋を交互に見る彼女たちは選択しなければならない。今まで傍観を決め込んでいたその責任を果たすべき時がきたのだ。
私は患部を抑えて痛みの具合を確かめた。跡が残ったら、嫌だな。言葉をかけてくれるみんなの声を素通りさせながら、自分勝手に考えた。
こんなことで一生モノの傷なんて、作りたくない。
そっと頬に触れた自分の手が驚くほどに冷めきっている。私は瞳を部長の方に持っていく。傍まできていた彼女は両の目に涙をため込んで叫んだ。
「ごめん光島! 私のせいで!」
なりふり構わず後輩にこんなことができる。この人、根はいい人なんだろうな。私は落ち着いた頭の中でそんなことを思った。
なら、もう少しあなたにしかできないことがあったんじゃないか、そう言いたくなる気持ちを殺し、私は最後の仕上げに取り掛かった。
「いえ、大丈夫です。私があんなこと言ったのがそもそも悪いんですから……」
目を伏せて自分の行いを悪びれる。
誰かが氷嚢を持ってきてくれた。冷たさが伝わらない硬い布地をゆっくりと左の頬にあてる。
私は目線を上げて囲うみんなに告げた。
「それより、みんなも変だって思ってたんだよね? 飯嶋先輩たちが部活で偉そうにするの」
私を誘った子と目が合う。彼女に誘われた時、こんなことになるなんて予想もしていなかった。
「いくら先輩だからって、許せることと許せないことがあるでしょ? 私、そういうの部としてもよくないと思うんです」
口を閉じたままみんなは私の声に耳を傾ける。部長が目元から涙を拭い、気まずそうに胸の前で拳を握った。
バレー部員の誰かがさっきのいざこざを目にしていたのか、ひそひそとこちらを気遣わしげに見ている。噂は広まり、暴君の行いは白日のものとなるだろう。
「先輩も、そう思いますよね?」
私には理解る。この付和雷同な部長が欲しているもの。何物にも代えがたい不動なる柱。縋ることのできる誰かの到来。
目を背けない私に驚いたのか、部長は瞳を泳がせた。思考し、逡巡し、朧気だった自らの輪郭と向き合う。そうしなければ、再び飯嶋たちに飲み込まれてしまうだろう。決別を志し独りで自立するからこそ人は強くなれる。私にとって頼れる存在が、すでにいなくなったように。
「私、力になりますよ。だってこんなの、ひどいじゃないですか」
優しく微笑む私に、同情と心強さを受け取った部員たちがゆっくりと傾いていく。
引力に惹かれるようにして私を中心に彼女たちが回る。彗星だった私が星系を乗っ取り、新たな恒星となって光り輝く。
男バスの練習試合で邪魔な部員たちと顧問がいない時を狙った。それが私の思い描いていた理想。
全部、うまくいった。
内気で傀儡となっていた部長はそのまま転用が利く。野生馬と調教の済んだ馬とでは扱いやすさも違うだろう。
心からの笑みを湛えた私は鋭い剣をしっかりと持ち、鍔元までその刃を差し込んだ。
「大丈夫です。私がついてますから」
数日後、女子バスケ部の三年生たちの多くが退部を余儀なくされる。
私の中にあった蕾が、花開いた。