第一話
『僕は彼女が好きだった。気づかないうちに、彼女の虜になっていた。
満開の桜並木。石畳の続く長めの坂には、ポツポツとピンク色が見える。いつも彼女と通っていた通学路。昨日まで通り過ぎるだけの景色だったものが、今更特別な場所に変わりつつあった。
凪沙はその石畳の道の端から、満開の桜を眺めていた。
「凪沙。」
凪沙は僕の呼ぶ声に気づき、こちらを振り向いた。セミロングの少し茶色がかった髪が、遠心力でふわりと浮く。白いブラウスと紺のスカートの、高校の制服に身を包んだ凪沙はいつも以上に清楚な感じがした。無邪気に笑うその顔を愛おしく感じる。
「なんでにやにやしてるの。」
凪沙が笑顔のまま言う。無意識に頬が緩んでいたらしい。
今日なら、言える。そう思って、僕は凪沙との距離を詰めた。手を伸ばさずとも触れられるほど近くに。
そこで一瞬―――ほんの一瞬、ああ、違うと思った。今日なら、という考えは間違いなんだなと思った。
今日じゃなきゃだめだった。
「話が…あるんだ。」
声が震えていた。それを悟られないようにするのが精一杯だった。心臓の鼓動は速度を上げ、急に体温が上がったように感じた。
それでも、伝えるに値する気持ちはあった。』
それが、その本の結末だった。
目頭が熱い。
白井克人は、綴られた文字により構築された想像の世界からゆっくりと脱却しつつ、その手に開いていた文庫本を静かに閉じた。 角は擦れて丸くなり、陽に焼けて薄れた背表紙。手で長時間持っていたことによってふやけたと思われる凹凸と、何度も本棚から取り出し仕舞ったことを感じさせる細かい傷がついた表紙には、原色に近い鮮やかな色と荒い筆致で描かれた桜の木々。そしてその上部には、『坂道を登ると』というタイトルがあった。今まで一体何度読み返されたかわからないこの本。所有者は、俺ではない。
右手に持った本から左上に視線を移すと、壁に掛けられた時計は午前零時半を指していた。
「もう寝るか。」
小学校の頃から使っている、木製の質素な勉強机の明かりを消し、ギシリと年季の入った音を一つ鳴らして椅子から立ち上がった。
視界が急に広がったような感覚。目に飛び込んでくる膨大な情報量に、頭がゆっくりと順応していく。今の今まで文字だけを捉え、そこから描かれる景色に浸るためだけに研ぎ澄まされていた脳が、いつも通りに戻ったのだ。
五畳程の自室。南側にある縦1m横2mほどの窓の下には、下部に収納スペースの付いた茶色のベッド。その反対側、北側には入り口であるドアと、その右にテレビスペース付きのラック型木製本棚がある。東側には勉強机、西側には容量大きめのクローゼットが付いている。真っ白な壁紙にフローリングの床と、家具は主に白と茶色を基調としてコーディネートされた落ち着いた雰囲気の部屋だ。無口で表情の少ない自分に似た、自己主張の少ない部屋。
ベッドに仰向けに倒れこむ。一度だけ体は跳ねて、僅かにベッドに沈んだ形で落ち着く。網戸にしていた窓から風が吹き込み、収穫時期の稲穂に似た色のカーテンの足を攫った。
手元にあった携帯を開くと、一昨日届いて返信し損ねていた受信メールが表示されていた。
From:森野華奈
Title:Re:Re2:Re2:Re2:Re2:Re2:Re2:Re...
わかった。
明日貸すね。多分かつとは好きになってくれると思うな。
返信を送るか少し迷って、携帯を閉じた。楽しみが減る気がしたからだった。
俺がこの本を好きになるかどうか期待している華奈の、自分の思った通りになったという満足気な顔を思い浮かべて、惜しくなったのだ。今一言感想を送ってしまえば、その顔は見れない。
枕元に置いていたリモコンを操作して蛍光灯を消した。途端に訪れた暗闇。
朝起きて、朧気な昨日の記憶を思い出すように、解けかけた想像を取り戻そうとまぶたを閉じた。
ありきたりな恋愛小説だった。そこまで有名でもない作者が書いた『坂道を登ると』は、比較的平凡な恋愛小説だった。この世で最も多くの恋人たちが辿ってきたような話。しかしそこに生きる登場人物たちにとっては、たった一度だけ与えられた人生の中で、無限のように見えてほんの幾つか用意された選択肢を、自らの望む結果になるよう全力で選ぶことしかできない物語だった。曲がりなりにも、とても面白いとまでは言えない作品だった。
それでもここまで心に残っているのは、感情を揺り動かされたのは、平凡だからこそあるリアリティに自己投影せざるを得なかったからだろう。今の俺の心境、立場そのものだった。
森野華奈と知りあった時のことを、俺はよく覚えていない。ふと物心ついた時には既に彼女を名前で呼んでいた。母の話からすると、近所で俺と同学年だったのは彼女だけであり、幼稚園の頃から毎日のように二人で遊んでいたらしい。当時の彼女と俺は両極端な性格で、彼女がいたずら好きのおてんば娘だったのに対し、俺は表情に乏しくいつもじっとしている寡黙な男の子だったのだとか。今考えてみれば、内心ではそれなりに驚いたり嬉しがったり恥ずかしがったりしていたから、本当に顔に出ないだけで子供らしい感性は持っていたように思う。
そんな、二人いてやっと普通の子供らしくなれた俺と彼女も、思春期に入れば距離が開いていくのは必然的だった。小学校高学年になった二人には、二人でいるための理由が求められた。理由が先行しない二人の関係に理由を付け足せるほど大人になれなかった俺と彼女は、次第にお互いを避け始め、その埋め合わせをするように居場所を作った。「華奈」は「森野さん」になり、顔を合わせない日の方が多いまま小学校を卒業し、中学校ではまるで赤の他人だった。彼女の母と仲の良い自分の母からの彼女の情報だけが、唯一の繋がりだった。
而して転機が訪れたのは、高校に入ってからのことだった。俺と彼女は高校受験を経て、県内の平均的な学力の高校に入学した。華奈が同じ高校に入学したことは母から聞いていて、どうやら違うクラスになったようだった。そして新たな環境に少しずつ慣れ始めた頃、俺の携帯に一通のメールが届いた。
From:kndykxxx@xxxxx.ne.jp
Title:森野に聞いた
突然すまんな。俺は一組の金田利希。
俺、森野の友達なんだけど、森野と音楽の話してたら白井って奴と音楽の趣味が合ってるから話して
みたらって言ってて、気になってメールした。明日良かったら屋上で飯でも食いながら話そうぜ、三
人で。
このメールをきっかけに、俺と彼女、そして彼女と同じクラスの金田を含めた三人でつるむようになった。金田は俺と彼女にとって、三人でいる理由になったのだった。金田は彼女に似た性格で、バイタリティがあって口がよく回るやつだった。いつも金田を中心に話が続いて、その話にころころ笑う華奈と、無表情で無反応な俺に絡む金田。そんな風景が日常になった。俺と彼女も小学校の頃に近い距離感に戻ったのだった。
だがそこで、頭をもたげた感情が一つ。それが嫉妬だと気づいてからは、華奈への気持ちを認めざるを得なかった。
「暗闇か。」
まぶたを開く。暗闇は消えていて、部屋の輪郭が浮かび上がっていた。
壁にかかった時計は午前一時を指していた。
見つめるうちに夜目が利いて、次第に透けゆく暗闇のように、寄り添えば人の心は次第にわかっていくと思っていた。しかしどれだけ通学路で二人話を交わしても、華奈の好きな本を読み漁っても、華奈の心はわからないまま。むしろ登るたびに濃くなる山道の霧のように、華奈の心に近づこうともがけばもがくほど、この気持ちの行く宛と退路は奪われる。
私の一番好きな本、読みたくない?と華奈は数日前メールで言った。本が大好きな彼女から、いくつか本を借りて楽しむようになって、少し経ってからのことだった。その言葉がメールで送られた言葉だったが故に、俺は華奈がどんな気持ちでその言葉を綴ったのか考える羽目になった。そして昨日、昼休みにその本を借りることになっていたのだが、最近非公式に手伝っている学園祭運営委員会の仕事が忙しいらしく、昼休みの時間ギリギリにバタバタと息を切らして現れ、この本を押し付けて帰っていった。一緒に飯を食っていた金田も、あいつ大変そうだな、と他人事な言葉を漏らしていた。今運営委員会は一ヶ月半後に控える学園祭の企画や準備のために忙しく、華奈は委員会役員をしている友達に頼まれて手伝うことにしたという。ただ、一つ考えた企画を実現させてもらえるなら、という条件付きで。おそらくその友達は小学校の華奈を知らない友達なのだろう、何てことを…という俺の心の嘆きも、声に出したとしてもその友達は頭を傾げるばかりだろう。
そんなわけで、華奈が一体どんな気持ちでこの本を俺に貸してくれたのか、俺はある程度の結論も出せぬまま読了してしまったわけだ。急いでいた華奈の顔からは焦りしか読み取れなかったから、メールが届いた時からの情報に変化はなかった。だが、もしこの結論を出せなかったこの気持ちが自分にこの物語への自己投影を強く促したのでは?と聞かれれば、否定することは出来ない。この精神状態が、この本を読むのに最も適した状態だったかもしれない。
ふと、あの本の結末は、ハッピーエンドだったのだろう、と思った。そうであって欲しかった。そうでなければ自分が迎える結末までもが最悪のものになってしまう気がした。
自分が底なし沼に片足を突っ込んだことに気づいて、慌てて足を引き抜く。そのまま行けば頭までのまれる沼だ。
明日、もし会えたら華奈はどんな顔で俺の話を聞くのだろう―――真夜中の大回想と『坂道を登ると』にあてられた思考から慌てて離れて、明日という定まりかけた未来への、願いにも似た想像が始まった。しかしあれこれと考えていくうちに頭には靄がかかってきて、少しずつまぶたを透ける光は消え、そして真っ暗になった。
********
「だーれだ。」
いつも通り、眠気にあくびを噛み殺しながら、学校に向かうバスが着くバス停までの道のりを歩いていたところだった。突然両目を後ろから手で塞がれ、女性としては少し高めな声で甘ったるく囁かれた。くぐもった声が艶かしい。
いつもの、か。
覚えのある手口と、どう誤魔化しても誤魔化しとわかる声。何度反芻しただろう。どう考えてもこんなことをしてこんな声の女子は俺の周りに一人しかいない。
自分の目を隠す誰かの腕を掴んでゆっくりと外す。いつもなら、ちょっと!先に答え言ってよ!と言いながら必死に抵抗するのに、今日はやけに無抵抗なのが何か変だ。
しかしまあ、結局のところ答えは変わらない。
「お前いつもと手口が変わらなさ…」
すぎ、と振り返りながら言ったつもりだったが、声にならなかった。
うわああああと叫んだつもりだったが、これも声にならなかった。驚きで顔の感情の振り幅が振り切れ、顔のパーツがピタッと固まってしまったのがわかった。
振り返った先には、うちの高校の制服、それも汚れ一つなくぴっしりアイロンがかけられシワ一つない女子の制服を着たゾンビがいた。肌はトマトソースを塗ったピザ生地を焦がしたように赤黒く固まり、髪はほとんどなく、どう見ても死後長い時間が経っている。左目はなく薄暗い穴が覗いているだけ、右目も瞼が見開かれたまま死後硬直したようで、眼球はぎょろりとこちらを見つめている。死の瞬間の絶望とその後の狂気が想像できた。口付近の皮膚は削がれ、犬のように奥歯まで歯が並んで見えているのが恐ろしい。首は顔と対照的で、まるで生きているかのように肌色で、、、。
どう見てもゾンビマスクを被った女子高生だった。
「……。」
マスクのどこに目の穴が空いているのか知らないが、俺とゾンビはしばし見つめ合った。
「ちぇー。また失敗かー、今回はかつとを驚かせられると思ったのになあ。」
耐え切れなかったように先にゾンビがくぐもった声で喋った。
「……」
内心驚きすぎて声と表情がなくなっただけとは言えなかった。
んっしょ、と頭からゾンビマスクをとった華奈は、口を尖らせて不満そうな顔をしていた。右肩に学校指定のバッグと一緒にかけていた紙袋にゾンビマスクを苛立たしげに突っ込む。
「おはよう!」
口を尖らせて目をすぼめて、拗ねたように華奈が言う。眉間にも皺が寄っている。マスクのせいで髪もそこかしこが跳ねている。
「おはよ。」
素っ気ない返事にまた少し華奈の顔が険しくなる。すまん。
華奈は俺の横に並んで歩き出した。いつものように歩調をうまく合わせる。
森野華奈。首にかかるくらいまでのショートカット、裏表なく表情に富んだ整った顔立ち、活発的な性格。一番上までボタンが詰められ赤色のリボンが端正に結われたブラウス、ひざ下という校則を少しだけ逸脱した紺のスカート、サイズがピッタリの黒のローファー。外見と性格から醸しだされるボーイッシュさ。そしてそれとは裏腹な無類の本好き。彼女の情報を羅列すればこんなところだ。
「かつと早く行くよ!」
つい足を止めて、彼女の後ろ姿に見入っていた。華奈はむくれた顔のまま、顔だけこちらを向いて早足になっていた。俺は右手に持つバッグを肩に掛け、少し駆けて華奈に追いつく。
俺と華奈は、都市部から離れた、山の麓にある住宅地に住んでいた。平地より標高が高いため夏は涼しく、冬は少し冷える土地。住んでいるのは主にお年寄りや、子供が独り立ちした夫婦といった中年層から上の人々で、俺や華奈の家庭は珍しい方だ。二階建て以上の背の高い建物は殆ど無いため、昼は陽が注ぎ暖かく、夜は月の明かりを頼りに外を歩ける。大きい道でも車二台分くらいで、家を出入りするため以外に車はめったに通らなかった。十二時を超えると、この土地には誰もいないと言われても納得できる程、人の気配がしなくなる。どの家も明かりも消え、街灯も多くないので、月がどの土地よりも眩しく見えた。俺はこの土地が嫌いではないけれど、その人工的に作られたような夜の静けさだけがどうにも苦手だった。
二人の家は少し離れていた。歩いて十五分ほど。でもそれはあくまで小学校の頃の話で、今ならもっと早く着くかもしれない。最後に華奈の家に行ったのがいつだったか、小学生だったことを除いてもう思い出せない。
俺も華奈も、毎朝住宅地から十数分歩いた場所にあるバス停からバスに乗って登校している。住宅地の南側に接するように走る、左右二車線の大通りを西に向かった先だ。バス停の近くには有名チェーンのスーパーマーケットや、個人経営の文房具屋、軽食屋、自転車屋、駄菓子屋などがあり、俺が住む住宅地の人々やその周辺に住む人々の生活拠点となっている。特に俺自身は駄菓子屋のおじさんに小さい頃からお世話になっていて、この前久しぶりに華奈と二人で学校帰りに立ち寄ったら、「大きくなったなあ、お前さんたちも。」と皺は増えたが三年ほど前と変わらない笑顔で迎えてくれた。高校生にとっても駄菓子は金銭的にちょうど良かったりする。たまにはいい。
華奈が現れたのは住宅地から大通りに出て、距離的に住宅地とバス停の真ん中になるところだった。もしかしたらその前から俺を発見してはいて、最も油断している瞬間を狙っていたのかもしれない。
「そういえば―――」
はっと目が覚めるように、華奈の声で思考が現実に戻る。いつの間にか軽食屋が軒を連ねるところまで来ていた。バス停はさらにこの先のスーパーマーケットを通り越した先だ。陽の光はいつの間にか強くなっていて、道沿いに植えられた樹木がありがたかった。
「昨日貸した本読んだ?」
ちらと隣の華奈の顔を伺う。特に表情もなく前を向いていた。
「読んだ。」
「お!ほんと!で?で?どうだった?」
予想以上の食いつきっぷりに、面食らって少し距離が開く。華奈の方はと言えば、さっきの拗ねていた顔が嘘のように期待に目を輝かせ、こちらを向いて次の言葉を待っている。空っぽの餌入れを前に主人を待つ犬のようだった。
「割と普通だったかな、話は。」
一瞬、期待に見張られた華奈の目が僅かに細まる。
伝われ。
「でもだからこそものすごく感情移入できた。最後は泣きそうになったな。」
人の心を理解することは難しいと身に染みてわかったのに、中途半端に小さな希望を乗せてしまう自分が恨めしかった。
ホッとしたような、満足したような、どちらともつかない表情を経て、華奈は興味深そうに何度か頷いた。
「ふんふん、かつとはストーリーとか登場人物の感情重視なのかな?確かにストーリーとか設定とかはよくある感じだよね。そんで変にテンションが高いわけでもなく、トンデモ展開でもなく、学校の友達から実体験として話されても納得しちゃうくらいのリアリティはあるね!」
華奈は前を向いて満足気に微笑んでいた。歩き方もさっきよりずっと軽快で、小さくスキップをしていた。俺の感想を噛みしめるような一時の余韻の後、華奈が振り向く。
「私の意見も言っていい?」
華奈の顔は今まで見たことがないほどに真剣味を帯びていて、反射的に背筋が伸びた。ゴクリと息を飲む音が華奈にも届きそうなくらい大きく鳴る。いたずらをする時の、全てを見透かしたような賢しげな目とは正反対の、見えないはずの地平線の向こうを見つめているような真っ直ぐな目だった。
「ああ。」
小さく頷きながら言う。
華奈はふっと頬を緩めて前を向いた。視線は斜め上を向いていて、行き先を見つめているというより、頭の中を整理しながら必死に言葉を紡ぎだそうとしているように見えた。歩くことはついでだとでも言いたげで、そのうち何もないところで躓いて転んでしまいそうな危うささえあった。
「私はね、この作品の、想像力に訴えかけてくるところと、まとまり方がすごく好き。この作品って、空白が多い気がする。文字が少ないとか言葉足らずとか文と文の空きが多いとかって意味じゃなくて、読者の想像力も考慮に入れて景色の描写とか心情の表現を文字に起こしてる気がする。詳細に詳細に文字を尽くして想像を書き起こすんじゃなくて、読者の想像の世界が一瞬で色付くような、鮮やかな比喩を一つぽんって置いて、後は御自由に、って言っているみたい。器が大きいと言うか、放任主義と言うか、男らしいよね。そんなところが物凄く好きなんだ。そして、それでいてしっかりまとまってるの。普通、空白が多くて読者の想像力に頼る物語って、解けた糸の先みたいに、途中からまとまりがなくなって最終的には芯がなくなっちゃうのが多いんだ。でもこの作品は、色を落とす度に画面が変化して、最後には調和のもと完成する水彩画みたいに、比喩が一つ一つ色となって混じりあって、結果として物語が作り上げられてる。ラストはあんな形だけど、あれは多分、読者が唯一自分の色を落とせる部分なんじゃないかな。そう考えると、まだわくわくが収まらない。もう、物語はあの本の中で結末を迎えているのに。」
とうとうと華奈の唇から流れる言葉から、『坂道を登ると』の文章が思い出された。そうだ、華奈が使う言葉の感じ、それはまさにあの文章の雰囲気そのものだ。
一体、何度読んだのだろう。華奈の得意そうな横顔を見つめながら、迫り来るように沸き上がってきた疑問。あれだけ年季の入った本だ。一字一句思い出せるくらいまで読み返したに違いない。本に対する華奈の比類ない熱意や愛は、一種の畏怖として俺の心になだれ込んで来た。無防備なまま一心不乱に自分の好きなものを見つめ続けることができる彼女が、自分と同じ地平の上にいるように思えず、ただ畏ろしかった。
「あ、ごめんね、長くなっちゃって。私、本のこととなると止まらなくなっちゃうんだ。そういえば、かつととここまで深く本の話するの初めてだよね。」
華奈は気まずそうに笑って、この女の子が過去にいたずらで泣かせた友達を見て大笑いしていたようには思えない風に笑って、こちらを向いた。
中学時代に、華奈も自分と同じくらいの時を過ごしたのだと思った。俺も彼女も、少し角が取れた。知らないことの方が多くなった。
「そうだな」
少しでも表情を読まれないように、前を向いて答えた。
バス停に到着した。時刻表の貼られた看板に、日に焼けた薄ピンクのベンチが置いてあるだけの、簡素なバス停だった。いつも七時三十三分のバスに乗って行く。左腕につけた時計は、七時二十七分を指していた。
「ねえねえかつと。もう一つ聞きたいんだけど、」
「なんだ。」
なんともなしに見ていた時刻表から声のした方に目を移すと、華奈は学校指定のバックを胸に抱えてベンチに座っていた。俺も少しスペースを空けて隣に座る。
「あの結末の後、二人はどうなると思った?」
さっきのような、夢中になって話をしていた時とは正反対な、慎重な声色。
隣を振り向きたくとも、振り向いてはいけないような雰囲気があった。
「そうだな…、普通にハッピーエンドだと思うけど。あれだけお互いの気持ちがはっきりしていたら。」
「ハッピーエンドって、具体的には?」
間髪入れずに飛んできた予想外な質問に、一瞬頭が真っ白になる。自分にとってのハッピーエンドってなんだ?
「二人が付き合うってことじゃないのか?」
願いを多分に含んだ想像だった。
「じゃあその後は?」
考えたこともなかった。頭の中に答えを探すように、視線が上を向く。その後?
「結婚とか?」
「結婚して、二人は死ぬまで一緒、ってことかな。」
「まあ、そういうことになるか。」
誘導尋問みたいだった。でも、無意識にではあれど自分がそう思っていたのは事実だった。
視界の隅に、俺と華奈がいつも乗る二十三番のバスが映った。
「んー…。そっか。なるほど。」
華奈はベンチからゆっくり腰を上げて、バス停の看板の右隣に立った。
「私ね、あの物語の結末は、」
華奈は振り返らずに、壊れる寸前のレコードみたいに、弱々しく、途切れ途切れに言った。
彼女を乗せていくバスが着いた。
「ハッピーエンドじゃ、ないと思う。」
聞きたくない言葉だった。
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