第6話 美作市
秘書は駆け出した。
北へ、北へと。
無論、逃亡ではない。
美作さかから頼まれた、あれを取りに行くためだ。
餓鬼は、走り去る秘書を追うことはなかった。
餓鬼のたった一つの瞳が捉えているのは、美作さか唯一人。
ズリズリと、美作さかの立つ鐘楼に近づいていく。
「では、もう一発行くでござるよ」
美作さかは、再び鐘楼に手を触れる。
リュバンベールの鐘は、再び鐘を鳴らす。
超音波は先程の一撃よりもさらに密集し、人差し指一本程度のサイズとなって発射された。
そして、極細のレーザーとなった超音波は、餓鬼の眼球を正確無比に命中した。
が、音波は眼球を貫通しなかった。
高密度の音波に対し、眼球の密度はさらに大きい。
餓鬼の眼球は、放たれた超音波を防ぎ切り、小さな穴の開いた体をすぐに塞いだ。
「ふむ、硬いでござるな。ということは、眼球が急所で御座るな?」
どんな生物も、弱点は守られる。
人間の脳が頭蓋骨で、人間の心臓が肋骨で守られているように。
逆説的だが、硬く頑丈な場所は、得てして急所だ。
美作さかは鐘楼に触れ続け、何度も何度も鐘を鳴らす。
何度も何度も、超音波のレーザーが餓鬼の眼球にぶつかる。
が、いくら撃とうと、眼球は無傷。
どころか徐々に、超音波が眼球に届く前に、餓鬼の体に飲み込まれ始めた。
超音波の行く末を確認した美作さかは、鐘楼から手を離す。
「同じ行動を繰り返せば、対応されるでござるか? これは厄介でござるな」
「ジュバババババ!」
餓鬼は、体に大きな穴を作って笑った直後、美作さかの視界から消えた。
否、美作さかが餓鬼の速度を捉えることができないほどの速さで、接近した。
美作さかが気づいたときには、餓鬼の体は鐘楼の中へ入りこんでおり、美作さかの腹部に拳大の一撃をお見舞いしていた。
「う……ぐ!?」
美作さかの体は鐘楼の外へと吹き飛ばされる。
空中で体を捻り、着地と同時に体を転がし、勢いを回転で殺す。
立ち上がった時には、既に跳びはね向かってくる餓鬼の姿を捉え、落ちてくる軌道の外に出るべく横へと回避する。
突撃を躱された餓鬼は地面にぶつかり、地面を食い、着地した場所に穴をあける。
眼球がごろごろ動き、着地したままの体勢で、視界だけは美作さかを捕らえ続けていた。
「やって、くれたでござるな」
強がってはみる物の、現時点で美作さかに打つ手はない。
音速のごとき速度を手に入れた餓鬼の突進を前に、ただ躱す以外手がない。
ただ、ベルピール自然公園が傷ついていくのを眺めるしかない。
リュバンベールの鐘が鳴らぬまま、衝突音ばかりが辺りに響く。
「市長おおお!」
その隙間に、戻ってきた秘書の叫び声が響く。
「投げるでござる!」
秘書は、美作さかの言葉に従い、手に持っていた二本の刀を投げた。
美作さかは向かってくる餓鬼を躱して跳び、空中にて二本の刀を手に取った。
鞘を腰につけ、刀を抜く。
勝利した後に刀を仕舞うための鞘が、ぷらぷらと揺れる。
その姿は、宮本武蔵。
「血が、騒ぐでござるな」
宮本武蔵出生の地、美作市。
江戸時代後期の地誌『東作誌』には、かの大剣豪宮本武蔵は、美作国にある宮本村の生まれと記録が残っている。
つまり、美作市の人間には受け疲れているのだ。
先祖代々、大剣豪の血が。
そして、宮本武蔵といえば二刀流。
人並み外れた剛力により、凡夫が両手でようやく振れるほどの重量を持つ刀剣を片手一本で自在に操り、誕生したのが二刀流。
美作市市長、美作さかもまた、幼少の頃より義務教育のように二刀流を学び、修めている。
大地を蹴り、美作さかは駆けた。
向かってくる餓鬼に向って。
そして、あまりにも柔軟な刀の制御によって、向かってくる餓鬼の体を刃の側面にそわせて受け流す。
餓鬼は、自身の体の制御を失ったまま空中へ放り出され、べちゃりと地面へ着地する。
「うん。いい調子でござるな」
悠々と刀を振る美作さかの瞳は、勝利を確信していた。
何故か。
音波でも殺せぬ餓鬼を前に、刀での勝利を確信していた。
何故か。
それは、持っているからだ。
宮本武蔵の残した、本を。
剣術の奥義をまとめた。五輪書を。
地の巻。生涯と兵法。
水の巻。剣術。
火の巻。戦術。
風の巻。他流派。
空の巻。兵法の本質。
五輪書を理解することは、即ち全ての戦いを理解すること。
全ての戦いを理解することは、即ち全ての戦いに勝利する方法を知ること。
「二天一流」
餓鬼の眼球が再び体の上部に浮かび、美作さかを捉える。
餓鬼の行うことは、変わらない。
何度でも再生する体と斬れぬ眼球という、滅ばぬ全身による突撃。
「奥義! 美真叉歌!」
突撃してくる餓鬼に対し、美作さかが振った二本の刀は空気を切り、美しい風きり音を奏でる。
空気抵抗さえ受けぬ刀は、あまりにも真っすぐと餓鬼の体へと吸い込まれていった。
体を斬り、眼球に優しく触れ、眼球を真っ二つにする。
餓鬼はしばしの間、自分が斬られたことに気が付かなかった。
突然、一つだった視界が二つに分かれ、自らの体内を美作さかが通過したと錯覚するほどに、滑らかに斬られた。
「真を知れば、斬れぬものなし。……で、ござるよ」
餓鬼の二つの体が、地面に落ちる。
半分になった二つの眼球が体から離れ、地面に落ちる。
餓鬼の眼球の元にばらばらになった体が集まって来るも、その体が再生することはなく、大きな水溜りに似た塊が二つできた。
美作さかは二本の刀を鞘に納め、秘書の元へと歩く。
餓鬼の方など振り返らない。
勝者はただ去るのが、美作さかの美学だ。
「怪我はないでござるか?」
確信した勝利を胸に秘め、美作さかが秘書に話しかけた時、秘書は美作さかの背後を指差していた。
恐怖に染まった表情で。
「ん?」
美作さかは、秘書の指差す方へと振り返る。
「……参ったでござるな」
餓鬼の、半分になった眼球の中から、どろりと液体が流れ出ていた。
流れ出た液体は集まり、眼球と同じ形を成した。
さらに、液状となった眼球には餓鬼の体が集まり、餓鬼は再び元の大きさに再生した。
先程までと違うのは、弱点と思われた硬い眼球が、体と同じく流動性のある状態へと変わったことだろう。
「ジュバアアアアアアアア!」