【番外編】蒼空にも負けない
「ユキメー」
山脈、天千陽の頂に位置する龍人の里。
海のように広がる白雲と、青黒い空が美しい町。
「ユキメ!」
まだ朝も早いその時間に、彼女の名を呼ぶ声が家中に響き渡った。
そしてユキメは、その甲高い声に眉をひそめながら、顔だけを布団から出し。
「なに?」
「なにって、今日はヨウ家に新しい御子が産まれる日でしょ。こんなにゆっくりしてていいの?」
「うん。まだ時間あるから」
そう言って、再び彼女はもぐりこむ。
「たく。もう140になるんだから、そろそろしっかりして頂戴」
人間の年齢に直せば齢16となる彼女は、官学を卒業すると共にヨウ家の侍女となった。そうなった理由は、ただ家から近かったことと、年俸が良かったからに過ぎない。
「分かったよ。起きます」
寝ぐせによってぼさぼさとなった髪を、彼女は手櫛で梳かしながら欠伸をする。
そうして起き上がった彼女は、就寝前に準備しておいた袴の袖に腕を通した。
着替え終えたユキメが居間へ行くと、そこには、既に食事中の父の姿。
「んん、やっと起きたのか?」
「お早うございます。父様」
「せっかく家から近い所で働いておるのに、こんな早うから起こされたんじゃ、たまったもんじゃないな」
朝の白米を喉に通したユキメの父は、呆れたように笑いながらそう言った。
「全くだよ。母様は本当に真面目なんだから」
「なんか言った?」
土間から顔を覗かせ、何の話をしているのか分からないと言った顔で、彼女の母親は声を飛ばす。
「なんでもない」
母親の方へは顔を向けず、座布団に正座をしながら返事をするユキメ。すると父親は、そんな彼女に声音を落として問う。
「そう言えばユキメ、お前、昇進するんだって?」
「うん。私の仕事が認められたの」
「そうかそうか。凄いじゃないか。で、何の仕事をして認められたんだ?」
なんとも嬉しそうな笑みを見せながら再び問うと、ユキメは、まだ朧げな目元をしぱしぱさせながら、手元に置かれた箸を持って答える。
「ヨウ家の御子の世話役だよ」
「御子って、長男のフウのことか?」
「うん。あの子が官学へ入れるよう、私が武鞭をしてあげたの」
「そりゃ凄いじゃないか! 流石はヨウ家に採用されただけはある」
「でもね、結構大変だったんだよ」
ユキメは、次々と朝食を口に運んでいた手を止めて、大きくため息を吐いた。
「泣くわ喚くわ、挙句の果てには家出をするわで…………」
「そ、そうか」
「だから、今日生まれてくる子の世話はしないつもり」
「苦労が多かったんだな」
「うん。私に、子供の世話はまだ早すぎた」
そうしてユキメは、刹那の内に平らげた皿を重ね、それを手に持って立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ出るね」
「ああ。気を付けてな」
父の言葉に頷いたユキメは、今度、母親がいる土間の方へと皿を持って行き、「ご馳走様」と言って皿を手渡す。
「しっかりね」
「うん。行ってきます」
母親に笑みを返したユキメは、どこか重そうな足取りで玄関へ向かうと、のんびりと草鞋を履いて家を出たのだった。
「おはようございます」
「あら、お早うユキメ。今朝は早いのね」
挨拶と共にユキメが戸を開けると、侍従のリーダー的ポジションである官長が挨拶を返す。
「ええ。母親にたたき起こされてしまいまして。私はもう成人なのにですよ?」
「ふふふ。親から見れば、子供はいつまでも子共よ」
そこはヨウ家の給仕室。狭き門をくぐり抜け、ヨウ家の侍女となった者達が、家の主を世話するための準備をする部屋である。
幾つも並んだ石かまどは息を吐くように煙を噴き上げ、休憩スペースでは数人の侍女達が談笑している。
「聞きましたかユキメさん」
ここで一人の侍女が彼女に聞く。
「何をですか?」
「今日生まれる子、女の子だそうですよ!」
「ふむ。そうなんですね」
「あれ、もしかしてあまり興味ない?」
そっけない返事をするユキメに、侍女は首をかしげる。
するとユキメは、すぐさま首を横に振った。
「いえっ、そんなことは無いですよ。…………ただ」
「ただ?」
「今度の世話役は、降りようと思っているのです」
「ええ!? でもコウ様とリン様は、もうユキメさんに任せる気でいましたよ?」
その言葉を聞き、ユキメは眉根を八の字にして肩を落とす。
「…………やっぱり」
「本当に辞退するおつもりですか?」
そんな問いに答えることが出来ず、ユキメが俯いたまま黙っていると、その会話を聞いていた官長のマキが、ユキメの肩に手を置いた。
「まぁ、無理にやる必要はないわ。お二人には私が言っておくから、安心なさい」
「マキさん、ありがとうございます」
だがそれも、束の間の安堵である。その瞬間は、ユキメが彼女の言葉に涙ぐんでいるとき、不意に訪れた。
「皆! そろそろ産まれるって!」
一瞬にして張り詰める空気。
「カゴメ! 直ぐに産湯を持っていきなさい!」
「はい!」
「ユキメとオリンは清潔な布を!」
「分かりましたっ」
的確な指示で皆を動かすマキ。そのおかげもあって、他の侍女達も、てきぱきと準備を進めて行った。
だがユキメだけは、どこか曇り空のまま、箪笥から取り出した布を畳んでいた。
「ほら、行きましょう、ユキメ」
「…………はい」
そう言って優しく笑いかけ、マキはユキメの背中を押す。
それをされてしまえば、彼女も行かざるを得なくなるわけであり、ユキメは家を出る時よりも重い足を、必死に前へと出してリンの寝室へと急いだのであった。
「さぁ、もうすぐですよ!」
「はっ…………はっ…………」
「リン! もうすぐだぞ! 踏ん張れ!」
「あなた…………っ」
ユキメが真っ白な手拭を持って寝室へ入ると、陣痛は既に始まっていた。
妻の手を握るコウ。そしてそれを見守る侍女たちと、赤子を取り上げるための準備をするマキ。
その空気は常に緊張しているが、しかしユキメも二度目の経験であるがために、冷静さはなんとか保ち続けていた。
「リン様! あと少しですッ」
「ひっ…………ひっ」
「もう少し!」
「リン! 頑張れ!」
「…………うんっ」
そして陣痛が始まってから四時間が経ったとき、遂に赤子は、小さな産声と共に、その全身をこの世界へ露わにした。
「お…………おぎゃあ」
「う、産まれた!」
「産まれたぞリン! 私たちの子だ!」
へその緒を切られ、産湯に浸けられ、そして雲のように白い布にくるまれた小さな赤子。
父のコウは、重機のように厳つい腕で赤子を抱き、その顔をリンへと見せる。
「ええ。とても可愛いらしい」
雪のように白い肌と、その体には似つかわしくない角。そして、太陽のように輝く瞳。
「きゃぁぁっ、何て可愛らしいのでしょう!」
「目はリン様に似ておりますね!」
そんなお祭り騒ぎの侍女たちを見て、リンとコウは呆れたように笑いながら互いの顔を見交わす。
「ほら、ユキメも見に行きなさい」
「いや、ですが私は…………」
中々その輪に入ろうとしないユキメを見かね、マキはため息交じりに背中を押す。するとリンも…………。
「ユキメ、貴女にも見て欲しいわ」
「は、はい」
主であるリンにそう言われては、頑固だったユキメも断ることが出来ず、彼女は、皆に見守られながらも、その足を一歩踏み出した。
「どうだ。可愛いだろう!」
「あなた、ユキメが困っちゃうでしょ」
「そ、そうか?」
「ええ。押しつけは駄目よ」
汗だくのリンに叱られてしまい、彼はしゅんとして肩を落とす。
だがここで、そんな二人の空気感は一瞬にして消えることになる。
「お、おおい、どうしたと言うのだユキメ」
「コ、コウが何か気に障る事でも言ったのかしら」
「…………いえ。違うのです」
「では、なにゆえ泣いておるのだ」
緋色の目を揺らがせて、その透き通った雫を赤子に落とすユキメ。
「分かりません。分からないのですが、涙が、止まらないのです」
その言葉と、赤子よりも泣きじゃくる彼女の姿を見て、二人は安堵のため息と、そして呆れたような笑みを浮かべた。
「ほら、ユキメも抱っこしてあげて」
「は、はい!」
涙のままユキメが赤子を抱きかかえると、赤子も、まるで彼女に喋りかけているかのように泣く。
「おぎゃぁ。おぎゃ」
「ふふふふっ。泣くのが下手でございますね。ソウ様は」
彼女がその名を呼ぶと、赤子は嬉しそうにきゃっきゃと笑う。
「ユキメよ。なぜその子の名を知っておるのだ? 皆には隠していた筈なのに」
コウは、何とも不思議そうな顔で首をかしげながら問う。するとユキメは、涙をあふれさせながら微笑む。
「ただ何となくですが、その名が頭に浮かんだのです」
「……そうか。やはり、この子の名はソウで決まりだな。リン」
「ええ。蒼空のように明るく笑うこの子には、ぴったりだわ」
「あ、あの」
ユキメは赤子を抱えたまま、ここまで決して外さなかった視線を二人に向け、そしてこう言う。
「この子の武鞭も、私に任せてはくれないでしょうか」
彼らを真っ直ぐと見据えては、その表情に力を入れるユキメ。そして、その言葉を聞いたリンとコウは、その笑みのまま頷いた。
「ああ。もちろんだ」
「ソウの事もお願いね」
「はい! このユキメ、骨身も惜しまず励みまする!」
こうして世界は、全ての願いを余すことなく成就させた。
一度は離れてしまった絆。しかし彼女たちは、それを再び、その手の中へ還らせたのである。
そして二人は心に誓った。
この先の未来、この手だけは、何があっても離さないと。




