10.一生一緒、愛してる
あれから更に一ヶ月の時が流れ、いよいよ私は参っていた。
……率直に言うと、アンリのアタックに堕ちてしまいそうなのである。
日毎毎夜くっつかれ、甘い声で名を呼ばれ、惜しげない優しさを与えられ、幸せそうな柔らかい顔を見せられ──男性経験があまりない私にとって、それらはどんなに凶器だったことか。
たった二ヶ月で私の気持ちはどんどんどんどん奴に傾いていった。いや、現在進行形で私の中のアンリの存在が大きくなっていっている。
護衛のみんなを始めとする神殿の人々の祝福ムードも相まり、「オッケーしてもいいんじゃなかろうか」と思い始めている自分がいて……悔しいけど、私、アンリの事を好きになりつつあるみたいだ。
しかし、私の「好き」とアンリの「好き」には重みの差がまだあった。私の「好き」ではアンリの「好き」に追いつけない。アンリの想いに答えてあげられない。
どうせなら、もっともっと……それこそ骨抜きになるくらいアンリに心を奪われればいいのに。そうしたら、堂々と「私も好き」って返事ができるのに。
「好き」なら「好き」だと言えばいい。気持ちの大きさなんか関係ない。「好き」ならそれでいいじゃないか。そう思う人は多いだろう。でも、私はモヤモヤしてしまうのだ。なんというか、どうせ「好き」だと告げるなら、もっともっと想いが大きくなって迷いなく「大好き」と伝えたくて。そうしないと、あんなに私を想ってくれるアンリに失礼な気がして。
ポチに私の進化した悩みを伝えると、「おぬし、いつからそのように乙女らしくなったのじゃ」と驚かれた。私は元から女子じゃい。
アンリの事を考える時間が増え、溜息をつく回数も増え、ボーっと考え事をし、おやつの量が減り──リリーとエメリアにすっかり心配をかけてしまっている。エメリアには「恋の病ですね」とそっと耳打ちされたが。……仰るとおりです。はい。
自分の気持ちに気付いた私はアンリと顔を合わせるのが気まずくなり、神殿騎士の熊さん総長にしばらくアンリを護衛から外してもらうよう頼み込んだ。一人で考える時間が欲しかった。
ドでかい体格の総長は萎れている私に詮索を入れることなく、二つ返事で了承してくれた。なんでも、最近私の護衛ばかりで鍛錬に参加する機会が減っていたアンリを鍛え直してやりたいんだとか。お、お手柔らかに。
私の護衛を外されたアンリは、予想通り超絶不機嫌になってしまった。
ずかずかと部屋にやってきたかと思えば、ポチがいるにもかかわらず「どういうことだ」と声を荒げる。そんなアンリに「ちょっと一人で考えたいの」と返す私は、ガラス細工よりも繊細な乙女心を抱いていた。
「俺と居るのが嫌になったのか」「俺の事が嫌いなのか」
そう憤るアンリに、「嫌いじゃないよ。むしろ好、っ……ぎゃ、逆になりつつあって……。だから一人で考えたいんだってば」と恥を忍んで言えば、仏頂面が一気に真っ赤になって。やめて、私の方が恥ずかしい。
お互いゆでダコみたいになってたと思う。少しの沈黙の後、アンリは「そういうことなら」とバツが悪そうに去って行った。照れ隠しか。
……ポチ? ポチはやれやれというようなジト目で私達のやりとりをじーっと眺めていた。後で散々冷やかされたのは、言うまでもない。
*
ある星の綺麗な夜。
私はアンリに貰ったチョーカーと指輪をつけ、窓辺で涼やかな風を浴びていた。……奴のことを考えている最中、なんとなくつけたくなったのだ。ああ、もう私重症かもしんない。
人を思う気持ちというのは、本当に不思議なものだ。一回、「好き」だと、「惹かれている」と自覚してしまうと、それはみるみるうちに育ってしまって……知らない間に取り返しがつかなくなってしまっている。
ここ数日アンリに会っていないのに、私の気持ちは成長をやめない。どういうことよ。
ガラスに映った赤いチョーカーの揺れる首元を見つめ、どうしたものかと深い深い乙女の溜息を吐き出す。誰か、ここに恋愛専門の病院を建ててくれ。
ポチは今日も今日とて主神に呼び出され、聖殿に出向いている。今宵は長くなりそうだから先に寝ていろと言われたが、何かあるのだろうか。
「はあ……」
これで幾つになるか分からない嘆息を漏らし、ぼうっと窓越しに空を見上げる。幾千もの星々が瞬く幻想的な風景が夜空に広がっていた。
ガチャッ、バタン。
突如静寂を破った扉の音。ノックを鳴らさず私の部屋に入ってくる人物など、ただ一人しかいない。
(わぎゃあああああああああああああ)
息を呑んで扉の方を見れば、茜色のオカッパ頭と鋭い青の三白眼を持つ奴が室内に入り込んでいた。何日ぶりだろう。久しぶりにアンリの姿を見た気がして、自然と胸が高鳴った。
「ア、アンリ、だから人の部屋に入る時はノックくらいしなさいって……」
言い終わる前に、私はハッと両手で喉元を隠す。──デジャヴを感じた。
「アンリ、あっち向いて! ちょっ、来ないで来ないで」
恥ずかしくて恥ずかしくて顔から火が出そう。アンリを意識している今、恥じらいは尚更強い。
椅子から立って逃げ惑うが、歩みを止めないアンリにベッドの横のスペースに追い込まれてしまった。逃げ場がないと分かっていても、恥ずかしくてしょうがない私はつい後退してしまって。
ボスン。
ベッドの脚に足を取られ、座るような形でふかふかのベッドに尻もちをつく。いよいよ距離をとることができなくなった私は、泣きそうになりながら近付いてくるアンリを見上げた。
「ひっでー顔」
言いながら、私の頬に手を伸ばすアンリ。優しい手つきで頬を撫でられ、私の心臓はバックバクだ。
「う、うるさいな。何しに来たの」
顔をずらし、細いけれどガッシリした手のひらから離れる。内心キュンキュンしている私にアンリが紙のようなものを渡してきた。
(ん?)
星の明かりだけではどんな紙なのか分からない。ベッドサイドの燭台にかざしてみると、文字らしきものが目に入った。しかし、私はシーバマメの言葉を読むことはできないので、なんと書いてあるのかは分からない。
「何これ」
「ここにお前の名前を書け」
尋ねるも、アンリは私の問いに答えず指示を出してきた。私の頬に添えられていた手が、紙の一番下の欄を指さしている。
「え、え? なんで? これ何?」
「うるせー。いいから書け」
テーブルの上に置いてあった羽ペンをインクに浸し持ってきて、私にずいっと差し出すアンリ。何なんだ。
どういうことか説明しろと言うのに、アンリは頑として答えてくれない。しつこく食い下がる私の手を取り、「書いたら教えてやる」と言って手の甲に口づけを落としてきた。
「ほら、早くしろよ」
ちゅ、ちゅ。と、手を啄むアンリを拒まず、馬鹿みたいにドキドキしている私は末期でしかない。
「えー……」
以前の私であれば、絶対にサインしなかっただろう。けれど、今の私は違う。
奴に恋するどうしようもない女なのだ。
「日本の文字でいいの?」
「あ? お前の名前だったらなんでもいいんだよ」
「はいはい」
促されるがまま、アンリが指す署名欄らしき箇所に自分の名前をサラサラ書く。
「ん、できたよ。で、それなんなの?」
署名を終えた紙をアンリに返すと、奴はニヤリと口を歪めた。あ、なんか嫌な予感する。
アンリは紙をベッド脇のエンドテーブルに置き、固唾を呑んで返事を待つ私に抱きついてきた。やめて、私の心臓持たない。
ギシリとスプリングの軋む音が聞こえる。アンリの体重がかかってどんどん後ろに倒れていく私の体。……ちょっと待ってちょっと待ってこれは危ないんじゃないの!?
「アンリ、アンリ! そ、ソファーに行こう!」
広い背中を叩きながら提案するが、時既に遅し。あっけなくベッドに押し倒される格好になってしまった。貞操の危機を感じずにはいられない。
アンリの下でもがもが身動いでいると、耳元で「クッ」と笑い声がした。温かな息が耳にかかり、ゾワッとする。
「婚姻届」
低く、つっけんどんな声が笑い声に続いた。
「え?」
なんだか不穏な単語が聞こえた気がする。
「だから、婚姻届」
アンリの言葉を脳が理解した瞬間、思考がフリーズした。呼吸と一緒に「え……」と力ない声が漏れる。
あれは婚姻届だったのか。
しまった。舞い上がりすぎてこの紙がなんなのか推考するの忘れてた。少し考えれば分かることだったのに……!
「えっ、嘘! なんで」
後悔しつつ口を開けば、アンリは僅かに上体を浮かせ、私と顔を向かい合わせる。お互いの息遣いが分かるほどの距離。アンリの熱を帯び青い双眸から、真剣な眼差しが送られた。
やけに真摯な沈黙が辺りを包む。じっと真正面から見つめられ、青い瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
長く無言だったアンリは、やがて私の頬にそっと手を添える。蝋燭の灯火が照らす奴の表情は、切なげで、苦しげで、熱誠なものだった。
「……もう待てねー。俺のこと嫌いじゃないなら、とっとと俺のものになれ。バーカ」
甘い、甘い、脳髄が痺れてしまうくらいに甘い言葉。甘い声。
私は泣きそうだった。
どうしようもなく胸がときめいて、切なくて、切なくて──今すぐにでも頷きたいと心から思ってしまった。
(ずるい。ずるい、ずるいずるいずるいずるい)
歯を食いしばって甘美な誘惑に耐えていると、反対側の手でチョーカーをなぞるように撫でられ、「似合ってる」と囁かれる。
たまらなくなって両目を閉じた。
「ナデシコ」
甘い声が私の名を呼ぶ。
「ナデシコ」
壊れ物を扱うような動作でキツく瞑った私の瞼をさするアンリ。
「目、開けて。こっち見ろ」
甘い響きに逆らえず、言われるがままゆっくり開眼する。熱に浮かされたような顔で私を見下ろすアンリと視線が絡まり、胸の奥がギュッと締め付けられた。
「……俺のこと、嫌いか?」
普段より少し低く、揺らぎのある声使い。不躾で、無愛想で、小生意気な普段のアンリはなりを潜めているようだ。
「──っ」
どうしよう。なんて言おう。
アンリのことは嫌いではない。むしろ、好き。私の心は随分こいつに酔わされている。
「嫌いじゃ、ない」
恥ずかしくて目を逸らす。心臓がうるさい。
「嫌いじゃないなら、なんだよ?」
すっかり熱くなった頬を軽くむにむにと親指の腹で押され、追求される。何、何を言わそうとしてるのこいつ。羞恥プレイか!
言えない。恥ずかしい。
目線を外したまま押し黙っていると、痺れを切らしたのかアンリは再び口を開いた。
「……好きか?」
ねだるように、誘うように短く聞かれ、私の脳みそはドロッドロに溶け始める。上手く頭が働かない。
ただ一言「好き」と伝えればいいだけの話。だのに、それができない。ひどく恥ずかしくて、伝えてしまったらもう後戻りできないような気がして。
「おい」
返事を促されるが、私は答えられなかった。いや、答えられないのではなく、言えないのだ。だって「好き」だと答えは出ているのだから。
尚も口をつぐむ私の頬を撫でながら、「じゃあ」とアンリが切り出した。
「今から十数えるうちに答えなかったら、好きってことにする」
ああ、これはいつぞや、私がアンリに言ったセリフに似ている。送還の儀の前夜、夜のガゼボでアンリを問い詰めた時だったっけ。
あの夜の情景が脳裏をよぎる。あの時はアンリが私の事を好きだなんて、思いもしなかったな。
「十」
初めて会った時は、目付きの悪い無愛想な護衛だった。
「九」
何度か護衛を担当してもらううちに、私の方から話しかけるようになって。
「八」
そのうちアンリも少しずつ自分のことを話してくれ始めた。
「七」
少しは仲良くなったのかと思っていた矢先、どんどんつっけんどんになっていって。
「六」
嫌われたのかと不安になったが、大神官が「心を許している証拠」だと教えてくれた。
「五」
時には辛辣な物言いに苛立つこともあった。でも、なんだかんだ私のことを気にかけてくれて。
「四」
気が付けば、私も遠慮なく素の自分を出せていた。
「三」
アンリの気持ちを知った時はかなり驚いたけど、積極的なアタックに何度もたじたじしたけど。
「二」
そのひたむきさと大きな愛情に心打たれて。
「一」
私は、アンリが。
「……好き」
自然と喉から声が出た。小さな小さな声だったが、アンリにはちゃんと聞こえていたみたいで。
おずおずと顔を前に向けると、安心したような、嬉しそうな、照れているような──そんな顔で微笑むアンリが視界に入る。細まった青い三白眼が私を捕らえて離さない。
私の頬を両手で包み、アンリが顔を近付けてきた。
「愛してる」
これまでにされた奪うような素早いキスとは違い、唇がゆっくりと落ちてくる。アンリが徐々に瞼を閉じてゆき、私もそれに合わせそっと目を閉じた。
唇に感じる熱と柔らかさ、アンリの体の重み、頬を包む優しい手のひらが心地よくて、私はとても満たされた気分だった──のだが。
っ……チュ、レロっ。
(んん!?)
触れ合うだけだったアンリの唇が私の下唇を吸い、ぬるりとした舌が這う。ビックリして目を開け、僅かに身じろぎアンリの口から逃げた。なんだか一気に我に返った感じ。
「アンリ、婚前交渉はダメだよ。あんた仮にも大神官様の孫で、神殿騎士でしょ?」
言って、胸板を押せばアンリは思いっきり眉を顰め。
「あ?」
「あ? じゃないよ。ほ、ほらどいてどいて。ポチがいつ帰ってくるか分かんないし」
不服そうなアンリを無理やりどかし、ベッドの端で居住まいを正す。言葉にこそ出さないが、アンリはもんのすごいムスッとしてた。
そんな私の想い人をあれこれ言いくるめ、なんとか純潔は守ることができた。いやほらね心の準備ができてないし、そういうことはもっと時間をかけてしたいし。
時刻は真夜中を過ぎており、アンリは最後に一回私にキスをして、官舎に戻っていった。
その後の私はというと、今しがたの出来事を何度も思い出し、興奮してベッドの上で一人身悶えていた。帰ってきたポチに不審がられ、若干気まずい思いをした。
*
ポチにアンリと結ばれた事を知らせ、次の日には大神官様と王様にも同じ内容を報告した。また、私がシーバマメに留まると決めた事も合わせて伝えて、これからの身の振り方を相談したいと申し出た。
王様も大神官様も私がシーバマメに永住することを快く許可してくれ、ほっと一安心。王様から私の永住が公表されると、神殿中が沸き立った。みんな驚きながらも笑顔で受け入れてくれた。リリーとエメリアなんて感激して泣いちゃうんだもんなあ。
シーバマメで暮らしていくにあたり、私はこの国の歴史や文化、文字と言葉を学習することにした。王様と大神官様をはじめ、神殿のみんなも協力的で嬉しい限り。
ずっとこの国で暮らすなら、自立すべきだ。いつまでもお世話になるのは申し訳ない。そう思い、ただメシ食いは卒業しようと「何か手に職をつけたい」とポチに言ってみれば、ポチは「わらわに任せよ」と口をめくり上げて意味深に笑い、聖殿に去って行って。帰ってくるなり、「わらわの巫女となれ」なんてファンタジーな発言するもんだから、私はえらく驚いてしまった。
どういうことかと話を掘り下げてみれば、なんでも私には「神気」という不思議エネルギーが多く宿っており、側にいるだけでポチの力を増幅させるんだと。送還の儀に必要な力が本来一年のところ半年で溜まったのは、私が近くに居たかららしい。自分にそんな効果があったなんてイマイチ実感ないけど、だから儀式が早まったのね。
なんでそういうことを教えてくれなかったのかと聞けば、「日本に帰るおぬしには必要のない知識だった」とのこと。それはそうか。あと、「神気を多く兼ね備えているという特別感で私を異世界に縛り付けたくなかった」とも言われた。ポチは私の知らないところで色々考えていたようだ。
「本当に私なんかが巫女でいいの」と不安に思い尋ねれば、「わらわはおぬしが良い」と信頼に満ちた眼差しで言われ、大神官様の後押しもあり私はこわごわ頷いた。
そんなこんなで、あれよあれよという間に私は「巫女」認定され、仕事ができた。お祈りとか、お祈りとか、お祈りとか。たまに儀式。体力的には楽だったが、覚えることが多くて慣れるまで大変だった。
仕事に勉強に、挨拶回りに勤しむ傍ら、私とアンリは結婚した。私としてはもう少し恋人期間を楽しみたかったのだが、アンリってば早々に婚姻届を提出するもんだから……ちょっと気が早いよね。
身の回りが落ち着くまで待ってくれとお願いしたものの、アンリは「巫女になったお前に男が群がるのが嫌だ」と頑なで頑なで。でも、ヤキモチを焼くアンリがちょっと可愛くて、結局婚姻届の提出を認めてしまった。
大神官の孫で神殿騎士のアンリと、神獣の巫女である私の結婚はそれはもう祝福された。国をあげての祝い事にすると言われたが、全力でお断りしたため祝祭は回避できた。しかし、婚姻届を出してしばらくは国中お祝いムードだった。「巫女」の誕生も相乗効果を引き起こしていたらしい。
今も変わらず私のお世話係をしてくれているリリーとエメリアに私とアンリの初めから最後までを打ち明けると、二人はうっとりと琥珀色の瞳を輝かせた。特にリリーは「羨ましいです」と何度も何度も溜息を吐いていた。頑張れコリン。
私とアンリは神殿の奥に新しい部屋をもらい、そこで二人暮らしをしている。新婚生活は──その、うん、甘々。穏やかであったり、激しかったり、様々だ。
ポチとは家が別々になったけど、ポチが遊びに来たり、私が遊びに行ったりと、私とポチの親交は健在だ。「赤子ができたらわらわが面倒をみてやる」「喧嘩したらわらわが慰めてやる」と、私の良き友人兼家族になってくれている。
──毎日がとても、充実していた。
*
地球ではない異界の国。そこで生きると決めた私。
かけがえのない家族同然のポチがいて、心から好きだと言える旦那様がいて、家もあって仕事もあって、神殿のみんなもいて──……何一つ不自由のない、シーバマメでの満ち足りた暮らし。
今でも故郷を懐う時もある。一度でいいから帰りたいと思う時もある。
そんな時はポチやアンリに甘え、私の居場所を確かめた。大好きな人達が生きているこの場所こそが、私の生きるところなのだと。
もっともっと時が経てば、私が日本を思う気持ちは薄れるのだろう。いつしか、帰りたいと考えることもなくなるかもしれない。
……けれど、私は忘れない。
地球で生きた記憶も、大切な人たちとの思い出も。
──お父さん、お母さん、お祖母ちゃん。
なんだか波瀾万丈な人生になっちゃったけど、故郷には帰れなくなっちゃったけど、私はこの国で大事なものを見つけました。
きっと、どこかで見守っていてね。幽霊でもいいから、会いに来て。みんなにアンリのこと、紹介したいな。
アンリはね、無愛想で、つっけんどんで、ひねくれてて、でも本当は優しくて──何より、私を一番に想って大切にしてくれる人なんだよ。
夕陽みたいな茜色の髪の毛でね、髪型は……笑わないでよ? ふふ、オカッパ頭なの。目つきは悪いけど、綺麗な青い瞳をしてる。
私とアンリの馴れ初め話、知りたい? ビックリすると思うよ。
あのね……、……、……。
*
「ナデシコ」
私を呼ぶ、声がする。
ぼんやりとした頭が徐々にはっきりとしていった。……ああ、私は寝てしまっていたのか。祈祷の文言を覚えていたところだったのに。
……何か、夢を見ていた気がする。忘れちゃいけない、大切な人の夢。
「悪い、起こしたか」
椅子に座る私に近付いてくるのは、ひねくれ者で、無愛想で、私に甘い旦那様。
「ううん、大丈夫。知らない間に寝ちゃってた」
大きく伸びをすると、背もたれごと後ろから抱きしめられる。首筋に触れるだけのキスをされ、くすぐったい。
「……あんまり無理すんなよ」
横を向くと、いつもの仏頂面がそこにあった。眉根が寄せられ、アンリはどこか心配そうにしている。
「ふふ」
知らず知らずのうちに笑みが漏れ、青い三白眼に睨まれた。
「んだよ」
「別に、なんでもない」
拗ねたような声も、目付きの悪い三白眼も、愛想のない顔も、茜色のオカッパ頭も、ひねくれた所も、ヤキモチやきな所も、強引な所も──全部全部、愛しい。
愛しくて、大好きで、たまらない。
アンリに想われることが、アンリが側にいてくれることが、嬉しい。
訝しげな表情を見せるアンリに腕を絡ませ、頬を寄せる。……私の贈った、リグレの匂い袋の香りがした。
甘えるように頬ずりをして、私はそっと口を開く。
「幸せだな、って思っただけ」
*
ねえ。
お父さん、お母さん、お祖母ちゃん。
──私は今、すごく幸せです。




