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12 迷子の子猫

じゃまた聴きたくなったらここにきますとだけ言って私は手を振って駅に向かった。


本当はもっと話したかった。

でも、無理はしたくはない。

良い感情でも心の容量を今はわきまえておきたいのだ。


慎重になりたかった。

感情の浮き沈みが激しいので、プラス面にも少し臆病になっている。


次は必ず同じくらいのマイナスの波がくるはずだから。

体験的にいやと言うほど分かっている。


帰りの電車の中で私の心は生まれ変わったように澄み渡っていることに気がついた。


老人のあの幸せそうな顔とハーモニカの音色が私を癒してくれたんだろうか?


電車の窓際に立っているとガラスに写った自分の表情があの老人の幸せそうな顔と同じように穏やかだった。


家に帰っても不安な感じはまったくない。

心がしっかり安定している。


シャワーではなくお湯に浸かってゆっくり出来そうだ。


久しぶりにバスタブにお湯を入れた。

お湯に浸かっている時、初めてあの砂浜で聞いた声...

「休ませてあげます」

と言う言葉が思い出された。


やはりこれはいくら考えてもわからない。

しかし、今こうして確かに私はくつろぎの中で休んでいる。


不思議だ...

横になっても心が騒いで休めなかったのに、今こうして休めている...


ゆっくりお湯に浸かっていると、あの犬のおまわりさんの歌詞が蘇ってきた。


*迷子の迷子の子猫ちゃん

あなたのお家は何処ですか?

名前を聞いてもわからない。

お家を聞いてもわからない。

ニャンニャンニャニャン

ニャンニャンニャニャン......


私は名前もわからなくなったあの子猫と同じだ。

この歳になって犬のおまわりさんで泣いているなんて...


でも、この涙は悲しい涙ではない。

自分を冷静に見ることが出来ている手応えが嬉しかった。


まともな精神が少し戻ってきたような感動だった。


もう一度、あの老人に会いたい。

あの不思議な老人は私に必要な何かを持っていると感じるのだ。


翌日の夕方、またあの海岸に立っていた。もう毎日来ている。


今日もいた。

惹きつけられるようにハーモニカを吹いている老人の背中に向かって歩き出していた。


近くまでくると老人は振り返り、横に置いてあったホワイトボードに

「こんにちは、元気そうでよかったです」

と書いてくれた。


今日も私が来ることがわかっていたようだった。


白い布で書いた文字を拭き取り、次の言葉を書いてゆく。


書くのも消すのも速い。

話すより書く方が速いかもしれない。


文字は続いてゆく。

「少しは自分の声で話すこともできますが、やはりなれている人ではないと聞き取りにくいので、普段はこうして読んでもらっています。

それでいいですか?」


「もちろんです。綺麗な字ですね。

それにとても書くのが早いのでびっくりです。」


私は自分で信じられないほどリラックスしていた。

思ったことをすぐ話せている。

この感覚は久しぶりだ。


調子が悪くなってから、頭の回転としゃべるスピードが噛み合わない感じだったのが、今はそれがない。


嬉しくなっていた。


それにこの老人には嘘も駆け引きも通じない事が直感でわかる。


だから、はっきりストレートに言えた。

今日はあなたのことが知りたくてここに来ました。

何処に住んでいて、どんな仕事をしてきたかとかそんなことを知りたいんじゃありません。


何故不安と恐れがあなたといると消えていくのか?


何故私がくつろぐことができるのか?

知りたいのです。

何故だと思いますか?


あまりにも一方的なことを聞いてしまっている。

自分の言葉を不思議な気持ちで味わっていた。


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