第18倭 其之弐 絶唱の応身、王を継ぎし者たち
スセリは、迷わず煮えたぎる湖の深淵目指し跳び込む。すると弾かれるように身体だけ遺された。それを観た班勇と、追いついてきたヤチホコは同様に跳び込み、意識のみを湖へ沈めていく。それは泳げば届く様な水の塊ではない。先の伏犠以上の「理の奈落」。
湖底にて、縛鎖の中、身体が「風に還る」のも厭わず、抱擁したまま力尽きようとしている蛇神へ歩み寄った。
その深緑の羽毛は、管理者の呪いによって焦げ落ち、権能の源泉、「眞理乃命脈」は絶え絶えに微かな光を放っている。
「……偉大なる蛇神さま。これからはボクがあなたの翼になります!」
強い想いを目に宿し、スセリは意を決して前に踏み出す。
蛇神の双眸が深翠の光を放ち、彼女の魂の奈落を射貫く。
「……娘よ。かつて、風は常に貴女と共にあった。四大全て跪きし女神よ……魂に刻まれし奈落の怨嗟に呑まれぬ覚悟在りしか?」
背後の昏き深紅の幻影が騒めき、残虐に歓喜する嘲笑が、スセリの喉を焼き付かせるように漏れ出る。
『……そうよ、すべて壊してしまえばいいの。蔓延る飢渇も目の前の惨めな蛇も! アーッハハハハァァ!』
「糸」を徹し、怨嗟の濁流がヤチホコにも襲い掛かろうとする。その怨念を、必死に振り払うようにスセリは己の胸を強く叩いた。
「……違うっ! ボクは逃げない! 絶対に蛇神さまを……」
ヤチホコが右腕の桎梏之腕枷鎖を熱く滾らせ、歯を喰いしばらせ緋色の糸より怨嗟を引きずり込む。
「スセリちゃん……安心して。僕達は、一人じゃ……ありません。内なる怨嗟が牙を剝くのでしたら……僕も虚空で受け入れます! 貴女が風にならんと欲するならば、僕が風の詩を詠い直霊しましょう。……いつでも、いつまでも一緒に!」
赤銅色の輝きを、「想い」と共にヤチホコは、スセリの肩に優しく、そして力強く置いた。
「蛇神さま、ボクは……超えてみせます!」
その瞬間、蛇神の目が鋭い光を放ちスセリを穿つ。
「……我も、そなた等の『想いの絆』に賭けよう……選びしはいかなる風か? 『風気血脈呪』……!」
突如、奈落の湖底に聳え立つ巨大な階。蛇神は静かに頂上を指し示す。
「求めし風は、この階昇り詰めし最上にあり。……『すべてを浄化す清き風』、『全て快癒す優しき風』、そして、『総てを滅ぼす猛き風』……。これら三つの『究極之風』用いて試練を超えよ。そして最も想い寄せる風を手元に」
そこまで聞くと、脇目も振らずスセリは階を駆け昇る。待ち受ける試練、頭を擡げる様に待ち構えるイザナミ。
(来るなら来い……! ボクは……蛇神さまを助け、ヤチの隣に並ぶ風になる!)
駆け上がるスセリは、眼前に顕れた扉へ躊躇せずに跳び込んでいった。
(……流石! 僕以上の『右脳者』。そしてその直感は常に正しい……!)
それは、膨大な経験と知識から、感覚的に選ばれる、「集合的無意識の啓示」。
出現した扉に刻まれていたのは……「第壱之試練 『慈愛』」。
「――子供相手に! その手を放して!」
光景が目に飛び込んできた瞬間、躊躇なくスセリは崖から飛び降りる。
そこは深い森の中、不自然に樹々の営みが喪われた岩だらけの大地――「修練の地」。
「……っ、キクリ姉!? ミヅチちゃん!?」
ヤチホコは、湖底に浮かぶ映像の中のスセリと同時に叫ぶ。蛇頭の亜人――オロチ族に囲まれているのは、幼いキクリとミヅチの姿をした……「純粋なる魂」。そこはかつてスサノヲやオオトシが厳しい錬を重ねた、氣力も霊力も封じられし処。幼い身体ですべてを封じられ、今にも輪を廻らんとしていた。
「……血脈継がん娘よ」
空間を透過して、満身創痍の蛇神が巨大な頭を垂れる。
「其は、汝の愛する血族であり、かつてその内に眠りし『破壊の女神』が踏みにじり、嬲り屠ってきた、無垢なる犠牲の象徴なり。見事この窮地、救ってみせよ」
スセリはオロチ達へ向き直る。途端襲い掛かるオロチ達。彼等の持つ生来の膂力は、この地で猛威を振るっていた。対するスセリ達は、氣力を纏えねば、その肉体は只の脆弱な乙女である。
(これは一撃でも貰ったら……!)
体捌きで躱し攻撃をいなす。一手間違えれば即座に輪を廻る暴威。
『――何を手間取っておる。斯様な者など「猛き風」にて、幼子諸共吹き飛ばし斬り刻めば良いのよ!』
巨大な風の鎌を振り上げて、今まさに、イザナミの幻影が滅びの旋風を励起させんとしていた。呼応する様にスセリはオロチを睨みつける。湧き上がる破壊の衝動。無残な肉塊に還す背徳の快感。恍惚とした昂揚感に捕らわれそうなその刻、緋色の糸を通して想いが注ぎ込まれる。それは、腕枷鎖を灼熱させて叫ぶヤチホコ。
「ダメですスセリちゃん! ……良く『観て』下さい。目の前の子達は、キクリ姉とミヅチちゃんです! そして、観じて下さい! オロチ達が心に抱く嘆きの怨嗟を!」
(……キクリ姉さん、ミヅチちゃん……? オロチ達……?)
観ると、少女達がスセリの両脚にしがみついていた。眼前のオロチ達は、もがく様に抗うように動きが止まっている。
「『糸』の権能を逆流させるんだ!」
即座にスセリは実行する。流れ込む絶望の想い。
(……俺たちゃどうしてこうなんだ? 助けを求めりゃ利用され、だまされ、挙句の果てに『正義之使徒』に倒されて輪を廻り……。ただ……飢える事なく暮らしたいだけなのに……)
「……ヤチ。ありがとう。わかったよ。ボクが為すべき事、それは敵を倒すことなんかじゃない! やぁぁっ! 吹き抜けろ、『全て快癒す優しき風』!」
清涼な紺碧の風は、辺りすべてを巻き込んで包み込んでいく。気脈の尽きた大地に生命の息吹が還る。傷だらけだった二人の少女が癒されていく。そして、敵対しているオロチ達を縛り付ける呪いの記述さえも「癒し」、風はどこまでも吹き抜けていく……。
「恐怖も苦しみも飢えもすべて癒してあげて……!」
遠ざかっていく光景の中、緑深き杜にて抱き合って微笑む少女達。跪いて天を仰ぎ、武器を投げ棄てるオロチ達。その眼には彼女達同様、想いの滴が溢れていた。
――スセリは一つ目の真理、「力はすべての弱きを護る為に」を、己の想いで顕した。
(……「第弐之試練 『真理』」……よしっ!)
「……暗い……真っ暗ねここは」
そこは、闇に呑まれし大地が競り上がり造られた闇黒の回廊。ジェスターが書き殴った夥しい「偽りの絶望」に囲まれ、足を踏み入れているだけで想いが折られ、存在が否定され消去していく。
「ヒヒッ! 無駄無駄無駄! 『バグ』らずに、諦めて消えてしまえ!」
ジェスターの幻影の嘲笑が響き渡る。苦悶の表情の中、スセリは瞳を閉じ、風の囁きを求める。
「……聴こえる。ボクは『ここ』にいる……! これはただの『記述の嘘』! 風よ! 偽りを『滅ぼして』!」
鋭い風が世界を突き抜けて斬り裂いていく。それは、偽りの記述のみを「滅ぼして」紙細工のように吹き払い、世界を真なる姿へと還す。
――スセリは二つ目の真理、「真実を見抜く智慧」を体得した。
その瞬間、深淵で生まれた鋭く猛き「真理」の風は、湖面を裂いて光の柱となり、遥か上空に浮かぶジェスターの「四大遊戯盤」に突き刺さる。
「キィィッ! 僕の大切な遊戯盤になんてことを! ……その分の仕返しはこっちにしてあげるよ! ヒャハハハハ!」
焼け付き乾ききった湖畔の戦場。どれ位経ったであろうか。ヤチホコ達を見送って以来、ミチヒメとミケヒコは、不殺の誓いに縛られたまま、混沌の濁流と限界を超えて対峙し続けていた。
ミチヒメはウガヤに倣い、風を鎮めた虎爪斬で吹き飛ばす。ミケヒコは剣を鞘に納め、剣には氣力を纏わずに、「観えざる刃」を生まぬ様、大上段から刃を立てず振り下ろし爆風を生む。
「オレの方がまだ民は傷つかぬ! オマエはオオトシさまと共にアイツ等を!」
己の俊敏さのみ氣力で増幅し、鬼の群れの中を縦横無尽に飛び回りながらミケヒコは叫ぶ。
「オオトシさま! わたしも共に――っ! こいつ等、強い……!」
朱雀の翼で舞い降りたミチヒメが驚愕する。それは、巨大なカルマ王を超え、極限まで研ぎ澄まされた武の極み。掌の動き一つ、脚の運び一つにさえ寸分の隙もない。
(こんな位階の相手二柱も同時に……流石ウガヤに並ぶと称されるだけあるわ!)
スサノヲ無き今、東方最強と謳われるウガヤに並ぶと称されるオオトシ。その武は流麗かつ豪胆。ヴァジュラ達の連撃を見事な化勁でいなす。それも自身の炎を遣わずに。
「オオトシさま、火の氣力、御遣い下さい!」
「……なりませぬ。今この地は風と火が猛っています。いかな彼らとて私が火纏いて剣撃を放てば、輪を廻るかもしれません……」
ミチヒメは、オオトシの「想い」を即座に理解した。
「ならば純粋に氣力を……はぁぁぁっ!」
氣力を滾らせてミチヒメが勁を放つ! 直撃して吹き飛び動かなくなる。
「――しまった!」
完全に「輪を廻った」と思いきや、見る間に傷が修復され、何事もなかったかのように構える。
「ヒヒッ! ソイツ達はオマエらを倒す『攻め手』だから、何度でも立ち上がるのさ!」
「こちらからも参る……! ヌゥン! 魔闘氣窮極発勁!!」
「あれはわたしと同じ、でもあの『邪氣』――オオトシさま逃げて!」
廻り中の昏餓鬼から飢渇の想念を吸い上げ放つ。それは怨嗟の奔流。掠ればたちまち飢渇の想念に呑み込まれてしまう。それを二柱の連携で放ってくる。ミチヒメの掛け声で辛うじて二人とも躱す。
全力で撃てるが、相手の撃は受け止めも出来ない。そして無限に黄泉還る……。
攻めあぐねるオオトシを制し、ミチヒメは黄金の生氣をかつてないほど激しく燃え上がらせていた。
「ふふ、あははっ素敵だわ……! そうよ、治して。何度でも、アナタが『刻』をかけて治してあげて……っ!」
仰天して見遣るオオトシをよそに、ミチヒメは笑い飛ばして言う。だが、その瞳には、戦闘や破壊への渇望などではなく、懺悔を請うような悲痛な決意が宿っている。彼女は理解していた。不殺の誓いに縛られたこの盤面で、仲間が深淵から還るまでの刻を稼ぐ唯一の方法は、「無限に黄泉還る」彼等を相手に、自分の全存在を賭した最大火力を放ち続けることだけだと。
(……ごめんなさい、ヤチホコくん。わたし、今だけは……『慈愛』を捨てるわ。彼等の不死にあやかり、わたしの『すべてを焚べて』倒し続ける……!)
「はぁぁぁっ! 『生氣発勁』!!」
獣王の神威を借りるまでもない。肉体から溢れ出す、全解放した純粋な生氣は、それだけで空間を震わせる暴威となる。直撃したヴァジュラ達の肉体は、記述の修復が追いつかぬほどの衝撃波に包まれ、霧散と再生を繰り返す。
だが、神威にも等しき「根源之生氣」に対し、彼女の肉体は……あまりに脆弱な民衆の乙女。
無限に焚べられる生氣に対し、それを顕し放出す――肉体、そして経絡が、全力を放ちながらも、記述で黄泉還る反作用で内側から焼き切られ、筋、腱、靭帯が……糸が切れるような捻髪音、そして弓の弦が切れた刻の様な断裂音を奏で、無残にも壊れていく。
「……っ、か、は……っ!!」
突如、ミチヒメは吐血し、その視界が真紅に染まりゆくのを観る。
氣力が尽きたのではない。肉体がこれ以上の出力に耐え兼ね、強制的に意識が遮断されていく。全身の毛細血管が悲鳴を上げ、黄金の光に混じって淡い紅の霧が彼女を包む。
「……もう、指一本……動かない、けれど……。まだ……まだよ……! わたしだけで無理なら……師匠達!――啊啊啊啊啊啊っ!!! 獣王究極発勁!!!!」
ミチヒメが、最後の全力を放ち二柱纏めて粉砕する。がっくりと跪く。もはや立つ事すら出来ない。傍らには、彼女同様力を使い果たし、剣に身体を預けて辛うじて立つオオトシ。二人の見据える先では……粘土細工の人形でも直す様に修復された二柱が、揺らめき蠢いて立ち上がる。
「ヒヒッ! とうとう限界だね? ……頑張ったキミへの『ご褒美』さ……受け取りたまえ……!」
限界の極限下、不気味な亀裂がミチヒメの周りに奔り、故郷滅亡時の絶望が閃光のように黄泉還り、彼女の心をへし折らんと囁き苛む。
「あ、あぁ……! い、いやぁぁぁっ! 助けて! ラーマおにいさまぁっ!!」
ミチヒメは無意識に、胸元の宝玉を握り締め絶唱した。それは、別次元で共にあった「真理の英雄」への、時空を超えた魂の懇願。その祈りは、一柱の王を介し今まさに成就する。
「……ミチヒメ、そなたの祈り、しかと受け止めたり。我が魂の血脈を徹し願いを叶えん!」
突如オオトシの瞳が青蓮華の如く輝きだす。すると凄まじい真輝銀の光柱がオオトシの身体を包み迸る。ヤチホコの「虚空」同様でいて、「真理」の維持を掌る絶対的な王の威光。
「――祖神顕現! 英雄之神威!!」
光柱から顕れたのは、瞳同様青蓮華の肌を携え、虹色に輝く弓を携えた伝説の英雄王。オオトシを憑代にして顕現し、その存在力と気勢を以って力業でジェスターの記述を圧殺し、戦場を含むこの地すべての「刻」を一瞬だけ止めた。
彼はミチヒメを優しく見つめ、静かに告げる。
「魂の妹よ……良くぞ耐えしなり! 今まさに、王の矜持知らぬ憐れな道化に、真なる『法』を教えん」
言うや否や、オオトシに顕現したラーマは悠々と煌く弓を引き絞る。その瞬間、戦場から音が消え、ただ一節の言霊が「概念」として響き渡る。
「如風於空中――(虚空をゆく風の如く)」
ラーマの指から光が放たれる。それは矢の形を成した「絶対的自由」の奔流。
「一切無障礙!!(――何者も、我が法を遮ること能わず!)」
あらゆる色彩に輝きを放つラーマの一射が貫くのは、ヴァジュラ兄弟ではない。
瞬間的に空間が斬り裂かれ、昏く淀んだ戦場が、色鮮やかに変貌していく。
それは、彼等を縛るジェスターの、「呪鎖の記述」だけを消し去った。光の矢は、同時にジェスターの手元の盤面までも、透き通るように色鮮やかに「書き換え(詠い直霊)」していく。それはまさに、世界を覆う霧を祓い消滅させる一陣の浄き風。
昏き深紅を放っていたヴァジュラ達の眼に、闘士の輝きが戻る。
「こ、これは!? 民のあの様は一体何者の所業であるか! な、そこな娘の背後に浮かぶは……四獣王様方であるか?」
「……いかにも。パーニ、久方ぶりです」
玄武が、旧知との再会を懐かしむ様に応える。
「ヴァジュラ達よ、此度この者を憑代に馳せ参じた、久しき」
青蓮華の肌に変貌したオオトシが、ヴァジュラ達を懐かしむ。その神々しき姿を見てミチヒメは驚愕する。
「ま、まさか、そのお姿……ラーマ……おにいさま!? 本当に……」
「約束したであろう。その虚空の宝玉に祈り籠めて呼びし刻、如何なる刻でも顕れると。……組みし難き『試練』を前に良くぞ耐え抜いたである。流石は我が魂の妹なり」
言い終わらない内に、満身創痍ののミチヒメは、ラーマと化したオオトシに倒れこむように抱きつく。
「……ラ、ラーマさまぁ……! ……っ……」
ミチヒメは、声にならない嗚咽に咽ぶ。
「うむ……よくぞ。……後は王さえ正気に還りしならば、此度の乱は治められしなり。今一度引き締めて、王の背後の外法へと立ち向かうが良い」
万物への慈しみを以って、ラーマはミチヒメを優しく、そしてしかと抱きとめた。
地上でラーマの放った法の一射は、緋色の糸を伝い、深淵の底にいるヤチホコの桎梏之腕枷鎖へと届く。
「……ミチヒメさんの想いが届きました! 顕現されたラーマさまが、刻を稼いでくれています……!」
(……この痛み……まさに限界を超えて……! ありがとうミチヒメさん!)
総てを観じ伝えるヤチホコの声に、スセリも糸を徹し、深く、力強く頷く。
「……うん。ボクも、最後の扉へ!」
昇りつめた最上部に顕れたのは、最後にして最大の門――「終之試練 『覚悟』」。
そこに立ち尽くすのは、殺戮の歓喜を深紅の涙とし、存在すべてに呪詛を叩きつけて慟哭する破壊の女神。前世、輪を廻る直前に得た正気が、最も忌み嫌い、切り捨て、目を伏せて来た「己の罪障」の象徴。来訪者に気付き怨嗟の深紅でスセリを睨みつける。
怨嗟の想念の神威を浴びせられた瞬間、割れんばかりの激しい耳鳴りがスセリを襲う。「破壊の女神」が漆黒の髪を逆巻かせ、怨嗟の咢を大きく開ける。それは、骸の山を踏みつけて高笑いし、「愛する者」さえも灰燼とする狂気の残響。
「『……わたくしは、我が背と共に歩むことが本懐。叶わぬならば貴方諸共すべて破壊し、共に逝きましょう……アーッハハハハァ!』」
スセリの瞳が昏き深紅に明滅し、壇上の女神と共鳴して艶やかな唇から冷酷な狂笑が溢れ出す。
「スセリちゃん!」「風の巫女よ!」
ヤチホコは、腕枷鎖で一蓮托生呪の緋色を握り締める。班勇も手を重ね、己の熱き風を全力で吹き込む。
「やめてぇっ!」
スセリは、己の頭を抱えて頑なに首を振り、必死に抗い、侵蝕を拒む様に絶叫する。破壊の怨嗟が純朴な自我を喰らい尽くさん刻、熱き風を受けて割り込んできた、凛とした透き通る少女の声が響く。
(……違うよね? 彼は、あなたを救うために……主の喉元へ歩み寄ったんでしょ!)
「か、楓ちゃん……!?」
ヤチホコ……いや「竜輝」はその瞬間、彼女の声だけがこの世界に存在する唯一無二であるかのように己の刻を止めた。やはり、いた。スセリの内で、楓はその理知的で純粋な「想念」で祈り、狂気の奔流に吞み込まれないよう、必死に楔となって繋ぎ止めていた。それがヤチホコの腕枷鎖を握り締めた班勇の、熱い風の力を受けて顕現した。
「『スセリちゃん! 今です(今よ)!』」
一蓮托生により重なり合う、竜輝と楓の「想い」を受け、スセリの瞳に純朴さと紺碧の慈愛が蘇る。
静かに、しかししっかりと踏みしめて歩み寄り、スセリはイザナミの怨嗟に塗れた悲しき冷たい掌をとり、そっと抱きしめた。
「……ごめんね、拒み続けて。ずっと独りだったね。……貴女の、この『怨嗟の記述』に操られて積み上げた屍の山も、それを理解した後の苦しみも後悔も、全部ボク、だよね。……すべて一緒に抱きしめて、新しい風を吹かせましょう……!」
悲しき操られし「罪の権化」を、スセリが受け入れた瞬間、至純の緑風が放たれる。それはすべてを浄化す清き風。スセリを、イザナミを通り抜け、偽りの怨嗟を「愛の安らぎ」へと詠い直霊して吹き抜ける。昏き闇の象徴の髪は、夜明けの希望の真紅へと変貌し、スセリと手を取り溶け合っていく。
――スセリは三つ目の真理、「己の闇を認め愛する勇気」を手に入れた。
階の先が開く。そこは湖のほとりであった。ヤチホコと班勇も同時にほとりへと戻される。
「……あ、あはは……。身体、軽い、な……」
スセリは、夜明けの様に白んだ世界を見遣る。空に翳す指先も、淡い光の粒子となり、虚空に溶けて世界に還っていく。大地の枷からも解き放たれ、魂が遥かな虚空を目指し、身体が二重に観え、静かに浮かび上がり始めていた。
それを観て神妙な面持ちで蛇神は問いかける。
「娘よ……すべての『風』遣い果たしし今……現状をいかに打破せんとするか?」
「スセリちゃん!」
ヤチホコは、試練を超え、今まさに輪を廻らんとする満身創痍のスセリに駈け寄る。しかしスセリはその姿で清々しく、そして力強く笑う。彼女の「覚悟の想い」に呼応して、右腕の桎梏之腕枷鎖が赤銅色に輝きを放つ。
「ボクは……ヤチに護られてばかりの乙女じゃない! 世界を、みんなを護る風になる! 吹き荒べ、ボクの想念!」
両掌を突き出して、スセリが全力の氣力を解き放つ。
内なる三つの魂が折り重なり、奏でられし想念により励起された権能は、「根源之凬」と化し、管理者の記述を力技で捩じ伏せて強引に書き換えていく。
大地から巻き起こったのは、天を突く白銀の竜巻――『浄化之野分』。
竜巻は淀んだ湖水を力強く吸い上げ、永い刻の鬱積を大気へ散らし、死水に生命の息吹を吹き込む。一瞬で絶望の死海を、希望の「至純之水」へと詠い直霊する。
「――舞い上がれ!」
巨大な水龍と化して虚空を翔け抜ける。それは、渇きに喘ぐ民待つ大地への、聖なる遷座であった。
しかし、力の根源たる『四氣王』と同等の奇跡の代償は凄まじかった。
立ち尽くし動きを止めたスセリは、全身の毛細血管が破裂し、滲み出た血が、白い肌を紅に染め上げている。吐血して崩れ落ちる彼女を、慌てて駆け寄りヤチホコが抱きとめる。
「……見事。そなたの貫きし、強き慈しみの想念、しかと観たり。……我が『大凬』は、とこしえに新たな『創世の巫女』と共に」
蛇神は静かに頭を垂れて、その巨躯を深緑の光子へと変換させて、優しくスセリを包み込み、その傷ついた身体へ染み入る様に、形造る欠片を一つ一つ癒していく。
癒しの微睡の中でスセリは観た。奈落の底で骸を踏みしめ嘲笑していた女神が、爽やかな風吹く草原ではにかむように微笑む姿を。それが、偽りの怨嗟から解き放たれた、本当の「創世の巫女」だと、スセリは確信して、慈しみを籠めて寄り添って抱きしめていた。
(……創世の巫女……貴女も、ボクが『私(楓)が』抱きしめる。……一緒に行こうね)
スセリを包む光から別れて、翠色の「風の宝珠」がヤチホコの封環へと吸い込まれる。やがてその色は、芽吹いたばかりのような鮮やかな若草色へと変貌する。
光が渦巻いて、嵐が晴れる様に霧散し顕れたのは、蛇神の翠の翼をはためかせ、自由に吹き抜ける風と共に在る乙女。
新緑の瞳を輝かせた、新たなる風の王スセリであった。
「ヤチ……観て。ボクも、みんなを護れる翼になれたよ」
三人で深く頷いて拳を突き合わせ、それぞれに戦場へと走っていく。




