第18倭 其之壱 煮え滾り、空へ還る豊饒の至純
「……この辺り、たぶん近いと思うよ。はっきり聴こえる」
「某にも同様に観じられまする、間違いありませぬ」
雷鳥の感覚器により、増幅された風の気配を、スセリと班勇が辿る。ヤチホコは、再び雷鳥を乱雲に沈ませ、一気に地上を目指す。顕れたのは、『彷徨える湖』の変わり果てた姿であった。
かつて「砂海の宝玉」と謳われた「豊饒の至純」は、六百前の刻、この地が「四大」を喪って以来、周期的に巻き起こる竜巻によって揺り動かされ、九死に一生を得ていた。
しかし今、ジェスターの「乾燥の記述」により、その命運は尽きようとしていた。
淀んだ粘性の湖面から、不気味な蒸気が立ち昇り虚空を歪めている。それは、集束する塩分と堆積物が鬱積した、「絶望の死海」であった。
「これが湖だなんて……観ているだけで胸が痛い……!」
窓に張り付いたミヅチが、愕然として嘆く。
「……アイツ等が、師匠達をこの地から引き剥がした為に……!」
無残な姿を前に、音を立ててミチヒメは拳を握りしめる。
「……泣いている処じゃない、これは『絶望の慟哭』……!」
風の想いを受け、驚愕したスセリの見つめる先、一柱の巨大な神威が、湖面を抱きしめる様に舞い降りる。
それは、風の四氣王、「羽毛と翼持ちし蛇神」。
傷つき折れかけた翼で、燃え尽きそうな神威を振り絞ろうとしている。彼は四大喪失の刻、伏犠達が放った鎮護の呪法がこの地まで届かない事に気づき、永き刻をたった一柱、すべての生命の為に捧げた。
死に絶えようとする湖を、誰も知らぬ処で己が風で浄化しては天へ舞い上がらせ、別地へと運び続けてきた、まさに砂海の守護神あった。
「……限界、か……風が……止まる。すべての生命よ……すまぬ……」
管理者の記述に背き救いを齎す行為は、まさに自殺行為であった。それでも彼は、己の「自由」を貫いて、生きとし生ける者達を護ろうとした。
「蛇神さま!」
「ヒヒッ! 待っていたよ、愛すべき『バグ』ご一行! っと、コイツ邪魔邪魔!」
スセリが、悲痛な面持ちで扉を開き飛び出そうとした刻、雷鳥の壁面へ唐突に、歪んだ笑顔が割り込み嘲笑が鳴り響く。彼は虚空に浮かぶ天超飛翔神威之城の操舵の間にて、巨大な「四大遊戯盤」を弄んでいる。その度に、虚空に不気味な亀裂が入って文字列が迸る。すると即座に砂嵐が吹き荒れ、次の瞬間は灼熱の陽光が照り付けたりと、天候が千変万化する。最後、深緑の大きな駒を盤面に減り込ませた途端、蛇神は、襲い掛かる縛鎖に捕らわれ、湖へと鎮められていく。
「あぁっ、蛇神さまが!」
助ける間もなく蛇神は、湖の深淵へと引きずり込まれてしまった。
「……許せませぬ。母なる大地を……理の神威でさえも弄ぶとは……!」
オオトシが静かに怒りを露わにする。お構いなしにジェスターが盤面を軽く小突くと、遊戯盤が階層化してもう一枚顕れる。そこには様々な駒が並べられていた。
ただ、王が一つ、士が二つで、後は盤面を埋め尽くす歩兵……。
「ヒヒッ! この湖から至純之水を持ち帰りたいんだよねぇ? だったら僕と遊戯をしよう。ほうら、『駒』は御覧の通りだよ!」
瞬間、盤面より駒が消え、不快な道化師の幻影も消え去る。湖畔に降り立つ一行の眼に映るのは、湖畔を覆い尽くす程の夥しい軍勢。
「あの紋章……遥か天竺は摩訶陀!」
班勇が驚きの声を上げる。それは、彼の英雄王治めし「コーサラ」の後に興った国。その兵士……と思しき者達が、絶望の死海を阻む様に立ち並ぶ。しかし、彼らの眼には最早理性はない。
ジェスターによりこの地に放り出され、極限までの飢えと渇きに晒されて、その「想い」は餓鬼道の境涯へと堕とされた。
今の彼等は、ただ、溢れ出る「飢渇の想念」の衝動に身を委ね、すべてを貪らんとする、昏餓鬼の群れへと「書き換えられ」てしまっていた。
「あれは……餓鬼! 矮小な鬼どもがオレの相手になると思うか!」
雄たけびを上げ剣を握るミケヒコを、鋭く冷静な声でミチヒメが制す。
「全員待って! あれは……倒しちゃダメ! ましてや『輪を廻らせる』事は許されざる禁忌。……特にヤチホコくん、あなただけは絶対に掌を汚してはいけないわ」
ミチヒメの神威之眼が、軍勢の背後に潜む罠を見抜く。
「雷鳥、ミチヒメさんの言う事は?」
(……真実です。彼等は、管理者の『記述』によって変貌させられた、摩訶陀の民衆です……)
「……我が主。良く観じてみて下さい。……彼らから溢れ出る怨嗟を」
背負いしカンナも、雷鳥に続いて煌きを放つ。
「カンナ――内なる虚空よ、彼等の『想い』を受け入れ給え!」
ヤチホコは、虚空を解放し、一蓮托生呪を逆流させて眼前の軍に向けて放つ。途端、あまりの昏き想念に、跪いて俯き嘔吐する。あまりの波動にヤチホコの腕が変貌しかけた刻、邪魔者を排除する様に、更なる「猛き怨嗟」が弾き返す。
「――快癒呪!」
その隙にミヅチが快癒呪を放つと、飢渇の想念は静かに引き下がる。
赤銅色に腕枷鎖が輝き、怒りを露わにヤチホコは立ち上がる。
「……なんて、ひどい。……苦しみと渇望を強制的に与えられています……。罪なき民を、無理やり餓鬼道に堕としたのですかジェスター!」
ミチヒメは氣力を解放せず、力強く握り締めた拳を開く。
「そう……彼らは、アイツに操られているだけのただの犠牲者よ。もし、わたし達が、そしてあなたが気づかずに、この非力な民たちの『輪を廻らせて』しまったら……すぐさまにあの『記述』が、きっとあなたを『無垢で残酷な、原初の根源神威』にしちゃう。それが狙いだわ。あの刻、そしてこの間のオロチ達と一緒!」
ヤチホコは左手で「桎梏之腕枷鎖」を握り締める。救うべき民を己で殺めてしまっては本末転倒。「堕天」しかねない。そうなれば……奴等が手を下さずとも世界は終焉を迎える。
(あの刻のウガヤ兄の何倍もの人数を、権能を振るわずに……!)
開始時点で既に王手の絶望遊戯。ジェスターは卑劣な笑いを満面に浮かべて虚空に浮かぶ。
「ヒヒッ! さぁ、湖と風の王を救いたきゃ、この盤面で踊るがいいさ! はじめぇっ!」
呻き、喘ぎながら、生命を渇望し突撃してくる鬼の軍勢。それは、かつて北の地にてタカヒコに施されたのと同様の呪法。か弱き民衆が、異様に隆起した筋肉で獲物を振り翳し、雲霞の如く駆け寄ってくる。
昏餓鬼(ケム・二トネィ)の群れの遥か最奥より、巨大な影が立ち上がる。闇闘鬼之王、カルマ・シャパーダ。伝説の人外王の名を冠し、同様に人肉を喰らい魔道に落ちし巨魁。その身の丈はウガヤの三倍、ヤチホコの四倍以上はあろうか。目方はその身幅と、筋骨隆々さから十倍はあろう。
そして王の脇侍として、一段小柄だが、それでもウガヤの倍はある巨躯が二柱。居並ぶ彼等の鍛え上げられた肉体は、王をも超える逞しさを誇る。それはまさに絶望の門番。
「ア゛ァ……ワ、水ヲ……。ソコ……血ノ詰マッタ肉ガァ……ッ!」
カルマ王の嘆きの咆哮が、砂の海を震わせる。呼応して猛り狂う火と風が、「火災旋風」となって吹き荒れる!
「――セイリュウ! 水龍の防楯!」
ミチヒメの叫びに左腕の籠手が煌き、湖面より巨大な水龍が蜷局を巻いて湧き上がり、焼け付く旋風を防ぐ。だが、連発出来ぬ事を湖は囁く。
「あぁっ! 湖の水が!」
明らかに目減りした彷徨える湖を前に、ミヅチは困惑と焦燥感を露わにする。
「ヒヒッ! 自分たちで枯らしたら本末転倒だよねぇ! ヒャハハハハ!」
陰湿な道化師の不快な狂笑が、心底嬉しそうに響き渡る。
「いけないこのままじゃ! ヤチ、ボク、風の王さまを助けなきゃ……! みんな、ここはお願い!」
風に乗り、一足飛びに王の元へとスセリは向かう。
「スセリおねえさま、ミヅチも参ります!」
「……それは実に危うきでござりまする。より強大な湖水に呑み込まれ、穢れに染められてしまいまする。此処は某が参りまする」
班勇も風を纏いスセリを追従する。
「ヤチホコくんあなたも行って。スセリちゃんとの『緋色の糸』が必要な気がする。――さぁはやく!」
観ると数万の軍勢が一斉に、大地を覆い尽くす混沌の濁流と化し押し寄せて来ていた! 向かい来る昏餓鬼を、武の技のみで一蹴してミチヒメは叫ぶ。
それを観たヤチホコは、手早く、しかし想い籠めて包拳の礼を観せ駆け抜けてゆく。
「ヒヒッ! バグは見逃してあげないよ! これでも喰らえ!」
襲い掛かる漆黒の雷撃を、腕枷鎖を輝かせ、斬り裂きざま詠い直霊する!
「――二度とその手は通じません! 神威之一閃!」
雷撃ごと、宙に揺らめくジェスターの幻影を、一閃の元に斬り裂く。
――急いでスセリの元へ。水同様、きっと自分と「四大」が共に受ける試練であると察したヤチホコは、仲間を信じ脇目も振らず全力で疾走する。
背後では、不殺の誓いを立てた「緋の神威に連なりし徒」の、圧倒的不利な攻防が始まっている。砂塵が舞い、旋風を起こし吹き抜ける。しかしその風に、水を癒す力はない。嘆き苦しみ、背後に水がある事すらわからなくなった、憐れな昏餓鬼達を干からびさせ、より苦しめて猛らす為に吹き荒れていた。




