第八話 《正しい選択肢》
身体が、軽い。軽すぎて、宙に浮いてしまうそうだ。
胸にそっと手を当てる。熱を感じた。じーんとなりそうな、胸の底から込み上げてくる感慨の熱による温かさ。
目の前には、大きな背中。私が体当たりしても、びくともしなさそう。全然、筋肉質ではないけれど、どうも頼もしかった。
廊下は静かだった。耳を澄ましても、聞こえてくるのは重なり合ったり、時々外れたりする二つの足音のみ。その音を聞きつつ、前へ進む度に、いっぱいに詰まっていたはずの胸の重さが無くなる。
美術室の扉は、すでに開いていた。少し、ドキッとした。でも、顔を覗かしても教室には人影が見られない。中に入って見渡しても、誰かが隠れているような様子はなくて、ほっとした。
「どこにでも、座ってもいいぞ」
やっぱり。そうだったんだ。
今日はいつもと違って席を指定されない。その理由は明確だ。
これで何もかも、合点がいった。
どうして、初めて美術部に訪れたとき、あんなにもきつくして私に声をかけたのか。
どうして、よりによってあの席を、わざわざ指定させたのか。
どうして、ああも矢継ぎ早に話して、私を追い出そうとしたのか。
どうして、絵を引き裂いて、私を不愉快にさせたのか。
どうして、欠席していたとき、あんな紙切れなんかを用意していたのか。
なーんだ。全部、このためだったんだ。大丈夫だよ、って言われた時から、なんとなく、もしかしたらそうじゃないのかと思っていたけど、まさか、ね。
笑えないや。あはは、って素直に喜べないや。だって、今まで、こんなにも迷惑かけてたんだもん。ちょっと、悔しいな。
千穂理が座ったのは、いつもの席。まるで計算されたような席。彼の優しさが、いっぱい隠っている席。
「ありがとう」
にかわ雨の滴が、ぽろっと落ちた。言葉にしたはずの千穂理にも、音が小さすぎたと感じた。
「え、なに?」
今まで自分の鞄の中をごそごそと探って、頭を潜り込ませていた仁一郎が、顔を上げて見据えてくる。
「あ、いや……。何してんの、って」
そう言って、千穂理が視線を外すと、何事もなかったかのように、仁一郎はもう一度手を動かす。
そんな彼に、千穂理はやっぱりがっかりして、なんとなく筆記具を用意する。
対して、仁一郎は分厚くて面積の大きい本を、明らかに読めるはずのない速度でパラパラとめくっていた。
「あった」
仁一郎には似合わない、ちょっと幼い子供寄りの声だ。
本には紙が挟んであった。それを手にとった仁一郎は、千穂理の席に放る。
「わっ……!」
紙が降り注いできたときは、そんな間抜けた声が出た。
またろくでもないものか、と思ったけれど、降り落ちてきた紙を見て、そんな気でいられなくなった。
え……?
驚きのあまり、口から声を発することを忘れてしまっていた。
そこには、以前散々引き裂かれてきた、千穂理の作品が撒き散らされていた。でも、よくよく見ると、それは自分の描いたものとは、線画の色だけが異なる作品だということに気がついた。
「カーボン紙使えば、それくらいできる」
「……」
「……悪いな。初めに描いた絵は、状態的にどうしようもなかった。本当、悪い」
どうすればいいんだろう。
私を助ける手段として、作品を引き裂くのはおかしいというか、少し納得がいかなかった。そんな想いも、胸の奥のほうへ密かに隠しておいたのは事実。
けれど、どうすればいいんだろう。こんなことされちゃ、苦しいよ。
悪気がなかったことなんて、わかってるよ。なのに、わざわざこんなことしないでよ。
「……絵の具、用意するか」
「あ……うん」
いいよ、の一言くらい、なんで言ってやれないんだろう。
この暗い雰囲気、私は大嫌いなのに。
* * *
仁一郎は、丁寧に塗りかたを教えてくれた。今まで、こんなことされなかった。
「うん……その調子」
千穂理の色彩を見て告げた。
こんな台詞、絶対に吐かないと思ってた。
「そうそう。いい感じ」
千穂理は手を止める。「……ねぇ」
「なに?」
「……気、つかってるでしよ」
「そうだけど」
あっさり認めた。なに当たり前のように言ってんの。ばか。もうちょっと粘りなよ。
「無理して、そういうのしなくていいよ」
「え、まじで?」
仁一郎は澄ました顔して絵を指し、
「これ、へたくそ過ぎ」
……う、うっざぁー。やっぱり全部ナシ。ありがとうなんて死んでも言うもんか。
千穂理の渋い顔を見て、仁一郎は笑っていた。こんな顔、クラスで見たことない。
「そんな正直に言わなくても……」
「あー、いや、悪い。気づかいすんな、って言われたから」
本当に、気をつかってくれてたんだ。それに、私がそのことに触れるまで、ずっと貫き通す予定だったんだ。
なにそれ。どっかの誰かさんじゃん。
「……ねぇねぇ、聞いて」
改まる千穂理から、仁一郎は雰囲気を察した。
「なに」
「私の家、和菓子屋なの」
ふーん、とつまらないそうな顔を見せる。文句くらい言ってやろうかと思ったけど、なんとか抑える。
「私は和菓子づくりが大好き。だから、いつか自分の作った和菓子を店に出せるくらいにするために、お母さんの手伝い……和菓子づくりの手伝いを頑張ってる。
でも、お母さんがお父さんと離婚してから、私の手伝いの量が増すと、お母さんは自分に気をつかっているじゃないか、って心配するようになった。私はもちろん、そんなつもりないのにさ……」
続きの言葉が出にくい。喉のあたりまで来てるのに、飛び出てくれない。
「そんなつもりないのに……?」
温かい声が、千穂理の耳に響いた。
「そんなつもりない……と、思ったけど、そうじゃないって、最近思い始めてきた。お母さんの手伝いの量が増したのは明らかだし、けど、和菓子づくりが好きなのは本当だったから。多分、それを言い訳にしてた」
「……何が言いたい?」
「私が気をつかっていることがばれて、お母さんが確信へと至ったら、きっとお母さんは、私に和菓子づくりをさせてくれない。そんなの嫌だ。
だからって、お母さんに嘘つくのも、嫌だ。そんなの辛くて、続けられない」
「お母さんのこと……大好きなんだな」
「うん……」
千穂理は自分が描いた夜空の絵に、色をつける。青みを帯びた白を疎らに塗った。小さな星はいくつも、点在していた。
「この星の数が、私の選択肢の数。どうしようもなく沢山あって、どうしようもなく全てが似ている。似ているけど、中身はまるで違う。どれを選ぶかで、人生はまるで変わる」
千穂理は絵を見下ろして、ゆっくりと微笑んだ。
「どうしよっかなぁ……」
それは一人言であって、疑問文でもあった。
それでも、仁一郎は迷いなく、適当な星を指差した。
「どれも同じだろ」
「……そんなわけ、ないじゃん」
「同じだ。本来全然違っている星を、地球上見るのと変わらん。どれも一緒。
大切なのは、選ぶ本人。お前だ、お前。どれが正しいかなんて誰にもわからない。でも、選んだ選択肢を、正しくすることはできる」
頬を染めて、らしくないことを呟いた。
「正しくしろよ。お前が」
「…………ぷっ、はははっ!ははっ!」
仁一郎の顔を見て、千穂理が腹を抱えて笑い始める。止まらないその笑い声は、一体学校のどこまで響いただろうか。
「な、なんだよっ」
「くさい。くさいくさい、くさいって……! はははは…!」
顔を赤くする仁一郎をよそに、千穂理は机をバンバン叩く。おかしくて、おかしくて。古川 仁一郎という人物像が少し壊れた気がした。
「……俺、お前きらいだわ」
「うん。私も!」
笑顔をみせる千穂理に、仁一郎は舌打ちした。
けれども、千穂理は知っている。星の数が私の選択肢の数、なんてくさい事を初めに切り出したのは、千穂理だ。それをわかった仁一郎は、決してそのことを咎めたりしない。私がわざと、堪えずに笑ったことを、理解してくれているから。
ありがと。
「ところで、部活体験が今日で最後だということを、ちゃんと理解してんのか?」
「あ……そうだった」
一週間以上の部活体験は認められない。まだ部活をしていたいのなら、入部届けを出せということだ。
つまり、千穂理は入部をするのか、しないのか、という選択肢のうち、どちらか一方を必ず選ばなければならないのだ。
「どうする?」
仁一郎と目が合った。まっすぐな瞳で、千穂理の瞳の奥を探っているようだった。
どうすると訊かれても、初めから答えは決まっている。だから、ごめん、と心の中で謝ってから、ゆっくりと口にした。
「次に、ここに訪れるのは、来週の美術の授業になりそう」
仁一郎はうつむいた。けど丸見え、君のにやけ顔。
「……そっか」
* * *
時間はかなりあっという間だった。気づけば下校時刻まで、そんなに余裕はない。
「そろそろ……だな」
仁一郎はパレットや筆についたの絵の具を洗い落とす。千穂理も何か手伝おうと試みたが、
「先に、帰っていいぞ」
帰ってほしい、ということなのか。それとも、わざわざ手伝わなくていい、ということなのか。千穂理なんとなく、後者だと思った。
「……うん。それじゃ、お先に……」
教室を出ようとした。仁一郎は端にある水道で、千穂理に背中を向けていた。今なら、言える気がする。
「ありがとう」
伝えてすぐに、扉を閉めた。そのあと、走った。階段も、なるべく速く降りた。いたずらしてる気分だ。
校舎を出ると真っ先に、夕日が顔に射し込んでくる。まぶしっ、と声を上げると共に、美術室のほうを向いてしまう。
あいつ、どんな表情してたんだろう。
美術室は四階。外から様子を伺うのは、厳しかった。けれど、あいつからはこちらの様子を伺えるはずだ。そのことが、どうも悔しい。
諦めて、正面に向き直る。すると、窓に私の顔が映っていた。
ほんのり、にやけた私の顔が、映っていた。