三杯目:Love・is・over
体育館で意識を取り戻したあと、原寄たちが用意してくれた簡易の風呂を楽しんだ。
温かいお湯に身を沈める。
生き返ったようだ。
文字通りの意味に気がつき愉快な気持ちになった。
指先から足の先、肌の隅々までこびりついた泥と血の匂いを丁寧にしごき落とす。
己の姿を検分するように、細部まで入念に確認を重ねる。
(サイズこそまだ全く足りていないけれど、この肌……まるで生まれたての赤ん坊のよう。なんて柔らかく、無垢で純粋な体かしら)
あらゆる汚れから隔絶された、純潔という言葉に相応しい身体に強い満足感を覚え、湯からあがる。
用意されていたのは、キャミソールとMサイズの下着、ダボついたグレーのパーカーとスウェットパンツという、あまりに無骨でラフな衣服だった。
もう少し仕立ての良い、女らしい服はなかったのか。
喉まで文句が出かかったが、原寄も鍋島も着古したシャツや派手なジャンパーといった大雑把な格好だ。年若い男たちが選ぶ価値観などこの程度かと、自分を納得させることにした。
過ごすうちに頭もはっきりしてきたが、同時に異変も起きた。
ショートするように、意識が何度か飛んだのである。
身体と頭が頼りない神経で繋がっているように、なにかあるたびに気絶した。
ただ、イダキにとってそれは都合が良くもあった。
気を使われてか、変に質問攻めにされることがなかったからだ。
歩くこともままならなかったが、原寄が嫌な顔一つせず背負って運んでくれて困らなかった。
自分で動かなくて良いので、むしろ思考を回すことに集中できたくらいだ。
体と同じように、徐々に脳と意識も切り替えていく。
前の自分には、あまりに余裕がなかった。
特に年齢だ。今考えれば目に見えて迫る己の期限に恐れ、しがみつくことに必死だったのだろう。
だがいまは違う。もう新しい自分だ。
見ろ、まるで箱入り娘のような扱いではないか。
これが安心、女であることで得られる一つの幸せの形。
守らなければ、死守するために頭を回し、自分がどう見られているかを計算するんだ。
これまでの経験に加え、幸いにも、意識の中で自分を他人として冷静に眺められるようになってきた。
頭蓋を割られるなど二度とごめんだが、願っても得られる経験ではないのも事実だ。
(これが、いまではよくある物語の主人公の気持ちなのかしら。素敵よ、とても)
心地の良い振動を押し当てた頬で感じながら微笑んだ。
学校のあった位置から東、都市の中心部に向かうように進んだ。
「あの、ばけものとか大丈夫なの?」
不安に思って訊いてみると、原寄は少し自慢気な表情をした。
「この辺なら平気だよ。意外かもしれないけど、僕たちそろそろ三廻……っていってもわからないか、んー鍛えてるから、滅茶苦茶強いんだよ!」
ふふんと言った彼は、腰元に携えている刀の柄をチャキリと握った。
イダキは少し首をかしげてみせながら、まるで子どものような原寄の様子に笑う。
「じゃあ安心でいいのかしら、頼もしすぎてこのまま眠ってしまいそう!」
「うんうん、任せて気を抜いちゃっていいから」
昔ならありえない帯刀という光景が今の状況では頼もしく見える。
この原寄と鍋島が持っている刀は、横にいる熊幡とかいう老人から貰ったらしい。
偶然助けた老人が、北側大通りの刀剣屋の主人だったなんて随分運が良いではないか。
ついでに刀剣の関係で神社とも繋がりもあって、特別なお神酒まで貰ったと言っていたな。
ただの運。
否……
誰ぞを助け、乞わずして得て、そこになんの疑いも持っていない。
この男の形だ。彼の人生が、ずっとそうやって成り立ってきているのだろう。
「ああ、でも」
先ほどまで呑気な言葉をかけていた原寄だったが、少しだけ真面目な声音で「ただ」と続けた。
「西や北、北東なんかは僕らでも危ないエリアだから、油断はできないんだ。いままであの学校でギリギリだったんだけど、もうあそこも危ないのかもしれないね」
なるほど……
笑顔で雑談を交わしながら、頭の中の地図にチェックをいれる。
有事の際に役に立つ情報だ。
誰か残っていればいいけれど、最悪一人で逃げないといけないし、覚えておいて損はない。
雑談を繰り返すうちに原寄たちの目的地にたどり着いた。
並び立つテナントビルや店の間に建った、十五階建てくらいのホテルである。
この辺りは、まだ霧が随分薄い。
一階のガラス張りのエントランスには、それぞれに毛布などを持って座っているたくさんの人がいた。
しっかりと避難所といった有様である。
だがここはホテルだ。部屋数自体は足りているはず、わざわざ下に集まっている?
ざっと見渡せば、女が多い。人恋しさ……ああ、運命的ななにかを求めているのか。
ホテルに入っていく原寄たちを視線の束が追う。
羨望や尊敬、感謝や熱情など様々な色が浮かんでいるようだ。
確かに、誰からみても優良物件には違いない。
「原寄さんおかえりなさい!」「満さん、ご飯でもいかがかしら」「縄さん、あの、お水いかがですか」
砂糖に集る虫のように、人々が笑顔で原寄たちにすがる。
「ありがとうね皆、気持ちは嬉しいけどまだちょっと忙しくて、またあとでくるからさ」
原寄の言葉に、視線が一気に自分へと集まってくるのを感じた。
探るような、じっとりとした視線。
歯ぎしりすら聞こえてきそうなソレを受けながら、
イダキは身体を小さく震わせて「ごめんなさい、わたし」と密着してる者にだけ聞こえるようにつぶやく。
原寄は、呼応するように足を早めた。
やんわりと置いていかれる住民たちを横目にする。
目の下に染みがある。爪ががたがたになっているじゃないか。
唇が乾燥していてガサガサだ。髪につやがない。
体臭を隠せていない。ああ、目が充血しているじゃない。
ほくそ笑む。
幸いにもここに〝今〟の自分より美しいものはいない。
みな手入れが甘く、その価値を己で落としている。
無様で、浅はかな女ばかり。
良かった。このまま似たような人々ばかりであればいい。
微笑みを湛え、イダキは願う。
近づくな。色目を送るな。
奪うな。手を出すな。
彼は、こいつは。
これは……
もう……
ああ、そうだ。諦めなさい。
そうすれば、手を汚さずに済む。
貴重なの。まだ、綺麗なままなのだから体も手も。
一階の奥、エレベーターの前にいた一人の男が、原寄を見つけ近づいてきた。
秀麗な面持ち、真っ黒い長髪をローポニーテールにし、紺色のシャツにグレーのスラックスといった小綺麗な身なりをしている。
歳は二十半ばだろう。縦幅の狭い眼鏡の奥、細めた双眸に少し冷たさを感じた。
一瞬男の瞳がイダキを映すが、視線が合ったとたんあまり興味ないですといった風に逸らされた。
朧気に人物像がイダキの中でできあがってくる。
店でもみたことがある。金持ちの息子、女に困ったことはないタイプだ。
「おかえり、ミツルさん」
「ただいま〝飛部〟さん」
肩を叩き出迎える飛部には、原寄への信用と歓迎が滲んでいる。どちらかといえば、男同士の友情を重視する性格だろうか。
「それでどうでしたか、今回の遠征は」
「そうだね、まあまあ色々あったかな? まあここじゃなんだし、後で話すね。そういえば、銀と尼水さんは?」
銀と尼水、また新しい名前。
原寄の質問に飛部が少し申し訳なさそうにした。
「二人は、ちょうどミツルさんたちと入れ替わりの形で西側境界付近の見回りに出ています。濃度の高い霧が迫ってるって報告を聞いて、少しでも数減らしをするって」
「そっか、すれ違っちゃったのか。大丈夫かな。飛部さんも止めてくれればよかったのに」
「あの二人が私の言うことを素直に聞くとでも? いや、冗談がお上手で」
「ちょっと、その、マイペース……ではあるね。いや頼りにはなるんだよ、本当に」
声を渋らせた原寄に、飛部が慰めるように言った。
「まあ大丈夫ですよ。あの二人で勝てない相手もそういないでしょう……とはいえ、最近物騒な話も増えてますからね。北の人面エリアの化け物も勢力拡大しているって話ですし、西から逃げてきた人を鬼が追って殺しにきているなんて噂もあります」
西の鬼、その言葉にイダキの脳裏に嫌な記憶が差し込まれる。
炎の面を被った鬼。
きっとイダキを見つけたら、何度でも殺しにくるだろう鬼。
寒気を感じて縮こまると、原寄が察したのか、
「とりあえず、あとで話そう。疲れもあるから一旦休ませてもらうよ」
話を終わらせた。思わずほっとしてしまう。
まるで本当の少女のようじゃないか。
「……そうですね。ではこちらは一旦任せてください。また連絡します」
「ああ、じゃ後で」
飛部が呼び出したエレベーターに乗り込み、カードキーを使用し十五階のスイッチを押す。
懐かしい浮遊感の後、フロア全てを貸し切れるようになっている特別な階層に降り立った。
導くように敷かれた毛並みの揃えられた絨毯を進み、重厚な木目調の扉を開ける。
葡萄を思わせるディフューザーの匂いが鼻腔をくすぐった。
覚えがある香りだ。一瓶数万はするブランドのものだ。
高揚感を覚えながら、玄関に入る。
「よし、着いたよ」
明るく広い大理石模様の床、原寄がイダキを小上がりの床にそっと下ろしてくれた。
温かい木の感触がする。
つや消しアッシュウッドのフローリングは、少しザラリとした足触りだった。
「奥に行こうか、きっと自分の家だと思ってくつろげるよ」
「ぁ、ありがと」
ふらっとよろけてみせると原寄が支えてくれたので、はにかむようにうなずく。
鍋島が茶化すように口笛を吹いたが、熊幡は特に何も言わなかった。
支えられるまま、イダキはそのまま奥に進んだ。
奥の扉を開けば、そこには十数名が悠々とくつろげるだろうリビングが広がっていた。
暖色の淡い間接照明は柔らかく、アイランドソファは思わず飛び込みたくなるくらい大きい。
モルタルを思わせるキッチンには果物が置かれている。
側の一枚板のリビングテーブルなど、天板だけで百万近くすることがわかる。
なんて、相応しいのだろう。
無垢なるこの自分を迎えてくれるのに、なんてぴったりなのだろう。
「ゎ、わー、すごい。こんな豪華な部屋はじめて!」
嘘じゃない。この体では初めてだ。
「おいおい、あまりはしゃぎすぎて倒れないでくれよ」
心配そうにこちらを見守る原寄。
「なんだよ満そうなったらどこぞの王子様が抱っこすりゃ良いだけだろ」
冷やかす鍋島に、雷黄と呼ばれる獣が反応する。
【馬鹿みてぇにミツルが拾うもんだから、どんどん人が増える。そのうち国でもできるんじゃないか】
熊幡が肩をすくめた。
「お人好しという欠点か、まあ拾われた儂はなんも言えんがね」
談笑といったムードの中で、イダキはアイランドソファに腰を沈めた。
イダキの緊張も緩んだ。
まるで、その隙間に刺すように、イダキの前に立った原寄が口を開いた。
「そろそろ落ち着いたみたいだし、聞いてもいいかな」
「え? どうしたの急に」
投げた疑問を笑顔でうけた直後、原寄がイダキの手を〝握り〟言った。
「あのさ、イダキちゃんって実は〝二廻〟……だよね? その〝視えてる〟一廻の能力[雲産霧勝]って隠れる能力は良いけど、もう一つのそれ……」
跳ねる、心臓が。
鷲掴みされたように縮む。
「[|Love・is・over]っていう[己を愛する者を犠牲に、一生を得るってやつ]これなに?
もしかして僕たちになにか隠していること、ある?」
原寄の表情は変わらないのに、イダキの呼吸は止まりそうになった。
血の気が引いた音がする。彼らにこれが聞こえていないだろうか。
穏やかな顔の原寄、睨むような雷黄、腕組みしている鍋島、探るような双眸の熊幡。
いま、自分は、どんな顔色だ。
っ。
ハっ、ハっ、っ――ぁ。
短く乾いた呼気が、喉奥で鳴る。
記憶がぐるぐる回る。
夢で見たようなあの赤霧の渦と魔女の姿がフラッシュバックする。
【こいつで、いいね?】
はい、そいつで、それでいい。
救え、それを犠牲に。
胃液がこみ上げる。ばれないように我慢するも小刻みに震え涙がでた。
記憶ががが。
死に際の映像ががg。
「ちょ、イダキちゃん、まって、落ち着いて、ねえ」
「満、やばくねーかこれ」
斧、胸を抉られた警官姿の男、男。
使え、犠牲にしろ。
二度も三度も同じだ。
じぃっと見つめてくるその視線に、イダキは必死で言葉を吐く。
「お、〝お父さん〟……なんで、おとうさん! お父さんがぁ、死んでアタシの、かわ、かわりににに」
ガチガチと歯の根が噛み合わず音が鳴り続ける。
「赤い霧が、バケモノがっ、守って、おとう、おとうさん!」
己の体を抱きしめ、嗚咽を吐く。
「もういい、イダキちゃんもう大体わかったから! 雷黄! 吉住の爺ちゃん、もういいな? いいよな!」
涙で滲む景色の中、堪えきれなくなったように原寄が手を伸ばしてくる。
「……お主がそこまで言うなら、これ以上はええが」
【わかったよぉ、〈邪〉属性だったから、相性的にちっと安全確認しただけじゃねーか、そう怒るなよ。まあ〈邪〉には陰険なのが多いが、属性と善悪ってのはまんま当てはまるわけじゃねーしな】
肩を掴む男の手の温かさ、抱きとめられる逞しさにイダキは思う。
危なかった。
誤魔化せた。
掴んだのだ、この手に藁を!
ほらみろ、死人はッ、喋らない!
視界が揺れ、狭まっていく。
ああ、また意識を失うのか。
できれば気絶という手札は、日常化したくないのに。あまり倒れすぎると鬱陶しいと思われかねない。
どうにか耐えようとするも、意識は引きずられるようにフェードアウトしていく。
薄れていく意識の中、原寄が気まずそうに頭を掻いた。
「こんな女の子にみんなでさ、本当にごめんね。みんなの為にも必要な確認だったんだ」
本当にそう。悪いと思っているのならば、もう二度としないで欲しいものだ。
胸に流れる安心の感情に目をすっと閉じると、最後に原寄の言葉が聞こえた。
「というか……大丈夫かな、この状態だともう一度西側へ行く手伝いを頼むのって気まずいよね。でも霧の能力あれば、行き詰まってた調査も進むし……よし、起きたら誠心誠意頼もう! 僕と一緒にきてくれって」
最悪だ。
本当に、最悪だ。




