17
お父様がカーペットにキスをした日の翌日、侍女のミラが私の部屋に来た。
「クロエお嬢様、昨晩は大変でしたね」
にこやかにそう告げるミラを私は睨み付ける。
昨晩、私がオレストと何をしていたのかお母様達に問い詰められたのだ。オレストの言動にどう思ったとか、どこまでいったとか……。私は羞恥心で精神をガリガリ削られている気分だった。
その問い詰めてくる中にミラが居たのを私はしっかり目撃している。後ろの方で興味津々に耳を傾け、鼻息の荒かったミラは少し恐かった。
告白のことも白状させられて、殿下が好きと言った時はお母様一同黄色い悲鳴が上がったものだ。
「……あなた達のせいでね」
「あ、旦那様が執務室でお呼びでございます」
露骨に話を反らし、用件を伝えたミラは、そそくさと部屋から出ていった。
先にそれを言えと思っても本人はいない。
ふっ、覚えておけ、今度仕返しをしてやる。
ミラに対する仕返しで、バケツの中に蛇のおもちゃを入れておく事を思い付いた時、私は執務室に到着した。
「お父様、クロエです」
ドアを叩き、名のると「入れ」と中から声が聞こえた。
部屋の中は壁一面に本棚が置いてあり、奥には大きな机がある。そして、その机を現在使っている人物がお父様だ。
「来たか、今日は──」
「あの、お父様」
「ん、何だ?」
「何でそちらを向いているんですか?」
お父様は私が入って来てからずっと背を向けていた。何かあるのかと背伸びをして、奥を覗いたが本棚があるだけだった。
少し気になって、指摘したのだがお父様は渋っている様子だ。
「……どうしても向かなきゃ駄目か?」
「いえ、そんなに嫌ならいいんですが……私の顔を見るのが嫌になりましたか?」
「そんなことは決してないッ!」
冗談半分で言ったのだが、思ったより強く否定してきた。……少し嬉しい。
「……すまないクロエ、これは私のプライドなんだ」
その言葉には僅かに悔しさが滲んでいた。
別に、お父様のプライドを踏みにじるまでのことでも無いからいいのだけど……何があった?
聞いてみたいが、話が進まないので諦める。
「それで、用件は……」
「そうだったな。だが、その前にクロエ、一つ聞きたい」
突然お父様の纏う空気が変わった。それに影響され、私の握る手にも力が入る。
「クロエは──アレクシス殿下が好きか?」
「はい、愛しております」
私は速答した。今さらなことだ。
殿下のことが好きではなかったら、こんなに悩んでなんかいない。
なぜ、こんな当たり前の事を今聞くのかが分からない。
少し間があった後、お父様は震えた声で言った。
「明日、一緒に城に行くぞ」
珍しい、私はそう思った。私が城に行く時は大体一人だ。侍女のミラが付いてくる時もあるが、お父様と行くのは私が幼い時以来だ。
一緒に行かなくてはいけない理由があるのか。
そこで私は先ほどの質問を思い出した。
殿下が関係している。明日、城に行く理由と何も関係してないとは思えない。それにお父様も行くと言うのなら、ただの世間話で終わることではない。
殿下が関わり、お父様が介入するような重大な話。
──婚約破棄。
私は自然とそれに辿り着いた。前世を思い出してから、婚約破棄を意識してたせいかもしれないが、あり得ない事ではない。
そう思うと、お父様の震えた声も情けない娘に怒りを宿したものかもしれないし、娘を捨てる殿下に怒ったものかもしれない。
どちらにせよ私にとって、最悪の結果になってしまう。
お父様に何か言おうと思って、止めた。ここでお父様に言っても殿下の気持ちが変わらなければ、問題を先送りにするだけになってしまう。
目に熱いものが集まる。どう足掻いても私は殿下と一緒にはなれない。ゲームよりもとても早く婚約破棄をされてしまう。
私は今まで何をしていたんだ? 記憶があり、有利に進められる筈なのに。
──何もしていない。
……そうだ、何もしていなかった。気付けば、殿下のことが好きだと言っているのに、何のアプローチもしていなかった。側に寄ることすらしていなかった。
それに比べて伊藤さんは、殿下にたくさんアプローチしているし、隙あらば側にいる。
私は自嘲げな笑みを浮かべる。何もしていないのに、殿下に好かれようとするのが、間違いだった。殿下の心から私がいなくなるのも頷ける。
いつの間にか俯いていた顔を上げる。
まだ泣くのは早い。
何もせずに終わってしまうのは、後悔が残る。泣くのは行動してからだ。
目に溜まった涙を拭ってから、言った。
「分かりました」
私は決意を固めた。明日、殿下に──告白する。
執務室から出て、私は自室へ向かう。
婚約破棄やら、伊藤さんやら、考えてた時より、体か軽い気がする。……少しずつでも、変わっていこう。
私は少し前向きになった。
*****
クロエの出ていったのを確認すると、クロエの父、エリック・ホーバットは、回転する椅子を回し、体を扉の方へ向けた。
両肘を机に立てて顎を支える。髪は青く、髭の剃り残しはない。顔はよく整っているが、目は鋭い。エリックに睨まれれば、大人でも背筋を伸ばし、緊張で体を固くするだろう。
だが、今の彼の顔には大きな紅葉が咲いていた。
「……クロナ、これでいいよな」
執務室で一人確認するように、呟く。
すると、机の下からクロエの母、クロナ・ホーバットがエリックの膝を支えにしながら、にょきっと出てきた。
「全然ダメよ~。チラッとクロエちゃんを覗いたけど、泣きそうだったわよ」
「ぐっ、それもこれも全部あの餓鬼がいけないんだ! こ、婚約者のくせして、クロエを放ったらかしにしやがって」
「今回のは貴方の言い方の問題ね。ちゃんと、後押しして上げるって、言わなくっちゃ」
「何で俺が……、クロエは俺と結婚するって──」
「──また、叩かれたいの?」
手をプラプラさせながら言うクロナ。エリックは、顔の紅葉を押さえながら、頭を横にブンブン振った。
「じゃあ、明日は、クロエちゃんをしっかりサポートするのよ」
「でも──ヒッ」
手を振りかぶったクロナを見て、エリックは慌てて言った。
「分かった! 分かったから、その手を下ろしてくれ!」
「しっかりね~」
「ああ。……こんな情けない顔はクロエに見せられないな」
「貴方は固すぎるのよ。もっと砕けた方がクロエちゃんとの仲が縮まるわよ」
それを聞いて、エリックは深く考え出した。ぶつぶつと「それもありか……」と聞こえてくる。プライドはどうした。
「……それも惜しいが、やっぱり見せられない。クロエに笑われたら、俺は生きていけない」
「……そう」
決意を滲ませた表情で言うエリック。
クロナは頭の中で自分に組伏せられて、カーペットとキスをしているエリックが思い浮かんだが、エリックが死んでしまうので何も言わず、暖かい目で見守った。