スズとユウ
彼女は走った。
走って走って、そして転んだ。
それでも立ち上がり、また走る。
なぜ走るのか。
それは追っ手に捕まるわけにはいかないからだ。
なぜ捕まるわけにいかないのか。
それは彼女が握りしめている小さな玉を奪われないためだ。
彼女の右手は胡桃程のサイズの白い玉を握っていた。
それは象牙のような硬さと重さで、彼女の手の中でしっくりとくる握り心地の良い、不思議と心が癒されるような温かみのある手触りの玉だった。
彼女の名は、結……。
彼女は気がつくとソファーに横になっていた。
ゆっくりと起き上がる。
「目が覚めました?」
正面から少女が声をかけた。
鈴を転がしたような涼やかな声だった。
耳に心地良かった。
ただ、なぜ自分がここにいるのか彼女はわからなかった。
何よりも、自分が何者なのかわからないのだった。
正面にいる少女は車椅子に座っていた。
見た感じは10歳くらいだろうか。
まっすぐ伸びた長い黒髪に前は眉の辺りで切り揃えたヘアスタイル。大きな黒い瞳と、ほんのり赤味のさした頬をした色白な肌。そして紅をつけたような小さな唇。
まるで日本人形のような顔立ちだ。
だが、着ているのは着物ではなく淡いブルーのワンピースだった。
ふっくらと血色の良い手足が見える。
ぱっと見、病を患っているようには思えなかった。
足が悪いのだろうか。
そんなことを考えていると
「気分はいかが?」
車椅子の少女が聞いた。
また、涼やかで心地良い声。
「私は、澄子と申します。澄んだ子と書いて、すずです」
少女が自己紹介をしたので、自分も、と思ったが
「私は、私は……」
「名前が思い出せないのですか」
「……はい」
「それでは、私が名づけましょう。あなたは結です。結ぶと書いて、ゆうです」
宣言するように澄子が言った。
「結、お腹は空いていませんか」
澄子が言った途端、結の胃はグルルと鳴った。
クスッと小さく笑い
「羽那、この人に食事を」
澄子が声をかけると、車椅子の斜め後ろに控えていた初老の女が一礼して奥に引っ込んだ。
やがて、羽那と呼ばれた女が料理を乗せたワゴンを結の前まで押して動かないようにロックをした。
「ゆっくりと召し上がれ」
澄子の言葉に結はお辞儀をして、目の前に置かれた食事をガツガツと食べた。
牛ヒレカツのサンドイッチ、コンソメスープ、温野菜サラダ、ヨーグルトムース。どれも美味しく、あっという間にワゴンの上の器は全て空になった。
「ごちそうさまでした」
一気に平らげて、深いため息を吐いた結を見て
「羽那、結にお茶を」
澄子が言うと、羽那はロックを解除したワゴンを押して奥に下がり、少しすると、お茶のセットを乗せたワゴンをこちらに押して来た。
優雅な手つきで紅茶を淹れて、茶を注いだカップの乗ったソーサーを澄子と結に手渡した。
「ありがとう」
澄子は慣れた所作で左手にソーサーを持ち、右手でカップを持ち上げて紅茶の香りを楽しんでから静かに味わっていた。
「羽那、美味しい」
澄子に褒められ、女は静かに頭を垂れた。
結も真似をして、左手にソーサー右手にカップを持って紅茶を飲んだ。香りは良いが甘くない。
結はワゴンに茶器を置き
「砂糖を入れてもいいですか」
羽那に聞いた。
「もちろんでございます。ミルクはいかがなさいますか」
「砂糖だけでいいです」
結は所作云々が面倒くさくなり、シュガーポットから角砂糖を手で摘まみティーカップに落とすとソーサーに乗っていたスプーンでぐるぐるかき混ぜた。そして、カップを持ち上げフウフウとしながら甘い紅茶を啜る。
やっと美味しい紅茶になったなと結は思った。
その様子を澄子は静かに見守っていた。
そして紅茶を飲み終えた結に顔を向けたまま、澄子は言った。
「羽那、結をお風呂に入れて」




