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三本





朝は澄んだ空気があって冷たい風があって心地良い。


 気分がいい自分をなんとなく誰からも見られたくなくて、早起きして登校した。


 浅かったのもあって、腕にある跡は3日くらいあれば薄くなっている。

「ふふふっ」


 狭い間隔で三本ずつあるのが、猫の髭みたいだなと思っておかしくて少し笑ってしまったりした。


 気にかける友人は、最初から作っていないから、少し怪我をしたくらいに思うだろうし、包帯とか巻いたりはしなかった。

 そんなに具合が悪いのが顔に出るタイプではない。 小さい頃に38度くらいで帰宅したときも、親は俺の表情からは全然わからなくて、学校の先生もわからなかった。

 本気でつらかったときも、母や姉たちは自主的に休むと言った俺を「怠けだ」「ズル休みだ」と言って何度かしかりつけた。

実際に計るまで続いたのはいい思い出だ。


 だから、それに気付ける逸材が居たらなんだか負けたような気になるのだろう。

小さい頃、あまり汗をかいても目立たなくて、表情も具合が悪くても軽めだったらそんなに揺らがない俺を見て、モデルをすすめてくれたやつが居たっけ。


まぁ健康が一番だけど。

「うえーい!」


ドンッ、と背中に何かぶつかった。

見なくたってわかる。


「昨日は、なっちゃんの家に居たんだろ? 楽しいことでもしたか?」


河辺が早口で言いながら笑顔を向けてくる。


「まあ俺よりカッコよくて頭がいいやつはいないから平気だろうが浮気はダメだよ」


俺は思っていたことを聞いた。

「なぁ。平均以上効果って、しってるか?」


「なにそれ」


知らないみたいだ。

俺が彼を見るたびに頭に浮かぶワードは、それなのだが。


「昨日、なっちゃんには勉強を手伝ってもらってたんだよ。お前も混ざる?」

「浮気したら仕置きだな。なにをしようかなー」



急に話題が変わったのは気にしないことにした。





教室にはまだ、誰もいなかった。

河辺はクラスの日直らしい。俺は一人で屋上のある階段に向かった。


嫌いな人を少しでも好きになれたら、汚されたノートや俺の人生を少しでも好きになれるかと思った。

許せると思ったのに。


実際にやっていることは、アームカット。


 なっちゃんも突然好きだなんて言うから、俺の今日の脳内の容量はすでに限界になりかけていた。

あまり笑える状態ではなかったけど、よく、こういう行為をする人が、それを後ろ向きにとらえないで欲しいと言った意味は今ならわかる気がしていた。


 軽くでも、ただ純粋に心地良いのだ。

跡が深くなる前にはやめなくちゃな、と頭の片隅では考えているけれど、果たしてやめられるのかはわからない。

ポケットから、持ってきていたハサミを出して、手首に当ててみる。

血が伝いはじめるとやっと我に返って、でもどこか気分が前向きになる。

血が、垂れたら拭くにも厄介だからあまり切りすぎないようにして、放置されてる椅子に座りながらハンカチで腕を押さえた。


新しい学校生活。

何が変わったってわけでもないけど、新たな刺激を手に入れただけでも充分だろう。

 ノートが本来の役目を果たさなくても平気そうだ。

 いかにも喧嘩して傷をつけた風に均一じゃないようにつけた傷が、じくじくと痛みながら、俺の新しい生活を歓迎していた。







 うとうとしていたら、朝礼に間に合うか怪しい時間になっていた。

 1限にある国語の授業はなんとなく好きになれない。

これは感動する、という本をほとんど知らないし。


ありふれた物語は大体、親がいない子は可哀想で、いじめられたら可哀想で、誕生日を祝ってもらえないからってものすごく怒る みたいな、俺には理解できないことがかかれている。

誕生日を祝うのは別に義務ではないだろうし、生まれたからって何がどうというわけじゃない。

俺は少なくともそう思ってきた。

生まれた日を知らない子だって、実は多い。





 出張の担任の代理で出席をとる先生が国語教師なことに悩んだんだけど、授業に出ることにした。

今の俺には、楽しいこと全部が苦痛だった。

 どの道誰かといるよりも、心を取り戻すのが先だろう。


河辺にも、なっちゃんにも、傷のことは触れられないようにしなければいけない。このハサミも、心の表層錆び付いた部分を削りとって新しくするために必要な道具。

質問に合わないためにも休み時間はまたここに来ることを決めて階段を降りた。


 その後、腕をちらちら確認しないように気を遣って授業を受けた。

河辺に冷たくあたるのも、俺の心の代わりが一切無いからだった気がするけれど、自傷を始めたら少しマシになっていて、いいことしかない。


ま、あの本を見たら発狂するかもしれないが。


今はただ、つらくなったら皮膚を切って、怖くなったら道を走って、悲しくなったら寝る。


 それで充分だったし細かいことを考える余裕もない。


俺は知った。

心が痛いとき、自傷を深くすると、反動で他人にちゃんと優しくなれること。

今はこのくらいの痛みでもないと、なくなった心を探して迷ってしまうから。

昼休みは、なっちゃんと教室で弁当を食べていた。

「最近なんか元気になってきたよな」

と、彼は俺を安心したように見た。

「わかる? いいことがあってさ」

 身体を傷つけていたから俺はあまり態度に出すことがなかったらしい。

「昨日とか、なんかすごい辛そうだったから、見てられなかったけど、もう平気だな」


「あの、さ。俺……」


なっちゃんが、好きだと言ってくれたことを、思い出した。


「あぁ。いい、いいって。幸せなら。今まで通り、こうしてるだけでも」


返事を言おうとして、遮られたので、だまってたまごやきをかじった。


(気を、遣ってくれているんだな……)


なんだか嬉しい。


嬉しい、と感じた経験は久しぶりで、俺の精神環境が少し改善していることを表してる気がする。

「やっぱり、お前は元気な方が俺も、嬉しい。よかったー」


胸を撫で下ろす仕草をされて、俺の箸を持つ手が止まる。ぽろっ、とたまごやきを落としかけた。

「な、なにそれ。でも、ありがとな。心配してくれて」


その曇りのない笑顔を見たら、俺はどれだけ不安がらせていたのだろうと思った。

もう心配させたくない。

……この腕のことは、だから俺だけの秘密だ。

なるべく直視せず、右手の袖をぎゅっとつかんだ。

 まるであのノートと一緒だなと嬉しくなる。普段は奥に大事にしまってあって、俺しかその痛みを理解出来ないのだろう、というところが。これが心の代わりになるなら、きっと俺はうまくやれる。

すっ、と、なっちゃんが俺の頬に指を伸ばした。どうかしただろうか。

「大丈夫?」


 なっちゃんは、そんなことを聞いた。

俺は箸をご飯につけながら、首を傾げていた。つーっと汗か何かが顔に落ちてきた。しょっぱい。

窓を見ながら食べていたから、クラスのやつらは俺の表情はわからないはず。

しかし今、向き合っているなっちゃんは俺がまだ心配に見えたのだろうか。さっきまでは、喜んでたのに。


「大、じょ、」


大丈夫だと言おうとしたら込み上がる気持ちが止まらなくなってしまった。顔を覆っていると、「どうした、おいー?」

と、少しおどけながら気遣ってくれた。

優しくて嬉しい。


 今、教室には幸い、誰も居なかった。

食堂に新メニューだとかなんとかで、ややミーハーなクラスメイトは、大体そちらに向かったからだ。

「なっちゃん……」

「どした?」


「なっちゃん。いきなりだけど俺。学校好き」


「お、おう?」


なっちゃんは戸惑いを浮かべながら、俺をなだめていた。


だいぶん涙は引っ込んだ。ないていたことには、今さっき気付いた。


「でも運動会だけは、嫌いだったんだ」


「なんで?」


「仲間だクラスメイトだって言ってたやつが急に、遠くにいってしまうみたいだから」


 もう涙が出ないことを確認して、顔を上げたら、なっちゃんの困ったような笑顔が間近にあった。


「でも、そういうもんだろ。張り合わせることで団結を強めるんだから」


「わかってる、わかってるんだけどさ……ああいう風な張り合いは俺には向かないなって」


普段同じ教室にいるのに、違うチームにいる友達には、話しかけてはいけないのが、なんだかとても寂しかった。


「色組なんて俺は関係ないって言いたくなって、それが迷惑をかけるのにな」

きっと、俺はとんでもなくずるいやつなんだろう。だめと言われたら、やりたくなるタイプでもある。


クラスメイトを指差して明日あいつは敵チームだと言われたって、どこか緊張感がなかったりしていた。

頑張ろうぜ、なんて言いにいってしまうくらいに。


「わかる。秋弥は本当そういう部分頑固だよ」


なっちゃんが、困ったように、でも愛しそうに言った。


 彼が俺のために困った顔をしてるのを見るのも好きだ。

俺のために困っているんだと思ったらつい、わがままを言いたくなってしまう。


「俺のモットーは必要がないことでは戦わない、だから」


「なにそれ」



ははっ、と彼が笑った。俺も笑うふりをした。

うまく笑えないのは、やっぱり騙しているみたいで苦しい。

。

「逃げなんじゃないのか」と、いつか、言われたことがある。

「大事なものを選べないならみんな失うかもしれない」と。


 色組になるのが嫌だったし、大事なものを選べなくて失うのなら大事なものは何も選ばなければいいと思っていた。

俺としては逃げたわけじゃなくて、明確な意思を持ったつもりだ。選ぶ必要も叶う意味もないから独りになるよていだった。


__そんな覚悟は甘い、とバチがあたったのだろうか。


「あー、あ。ずるい……」

「何が」


俺はなにも言わず弁当を全部平らげてから、こっそり呟いた。

 意地でも選ばなきゃいけないような、この状況が。

放課後。

河辺の姿を探してもいないから、いろんなやつに聞いて回った。

どうやら彼はもともと、滅多に登校しなかったらしい。

理由を聞いても誰もが笑顔で話題を逸らしていたけど、たぶん、彼は孤立しているのだろう。


 俺の前でも妙な奇声をあげたり、空気を読まずに牛か瓜坊みたいに体当たりしてくるところはあった。ただ、原因はそれより根本的な部分な気がした。

 詮索しすぎもよくないし、部活に顔を出すかと廊下を歩いた。

河辺が学校に行きたがらなくても俺とは関係がないし、彼の問題だった。 けれど一応付き合ったぶん、俺は、なにかすべきなのだろうか?


 考えていると部室までついていた。


「あっれー、早いね」


俺より早く来ておきながら綺羅が言った。

部屋の鍵を開けているとこだった。

会話するたびに、瞳が見開かれ、まつげがばさばさと動く。


「あぁ、うん……少しね」

がちゃり、と鍵が開く。二人、なかに入りながら俺は聞いてみた。


「学校に行きたくない気持ち、ってわかる?」


綺羅はそうだねぇと苦笑いしながら言った。


「あたしも一時期、いじめられていたから。怖かったかな」

「それなら、小さいとき俺もあった」


やり返すことしか頭に無かった俺は、すぐやり返しに行った。だから行きたくないと思わなかったから、いじめられたことと学校に行きたくないことが、どう結びつくかわからない。


「うっそー、それ、すごいね」


綺羅は弾けるような笑顔を見せた。


「すごくはない、けど」


抵抗したってしなくたって、 死にたいと感じたなら同じことだ。

死んだら他に恐れるものが無いというのなら踏み出すことも可能に思えた。


「信じてくれる先生や、一緒に訴えてくれる生徒だって一人は居るはずだから、案外抱え込まなくていいんだと思うよ」


 綺羅は、私は出来なかったと繰り返した。

 それだけなのに、なぜだか自分が悪いことをしているみたいな、後ろめたい気持ちになった。


「そういう人が居たんだね、秋には」


「自分のクラスが無理でも隣のクラスのやつと仲良くなったんだよ」


綺羅が、また大きな瞳で俺を見つめていた。



「案外クラス変わると、孤立事情なんか知らなかったり、関係がなかったりするから」


 河辺のことを思い出す。隣のクラスのやつだし孤立しているかどうかなんてのは、聞くまではっきりわからない。

俺が聞きに行ったように。少し申し訳なかっただろうか。

「私、そんな余裕持てなかった」

 なぜか、綺羅はややトゲがある言い方だった。長机が6つおかれた部屋に入り、一番右端にあるひとつの椅子に座り、彼女は言う。


「こんなに辛いのに、

なんでわかってくれないのってことしか考えなかったし。わかってくれる人も居るかもしれないなんて、思えなかった」


「そうか」


あまりの勢いにたじたじになりながら俺は答える。やばい、怒られるかとよくわからないけれど身構えた。

彼女は少し目を押さえた。

な、泣かせっ……!

焦っていると声。


「なんだ。立ち上がれた人って、何も、特別じゃないんだ」


諦めたような、安心したような声音だ。


「私よりも、周りを、見ているってだけ」


「おう……」


前にテレビで見た特集だと、嫌がらせはあったけど他の場所に友達が居たという話は多いらしい。

挫ける前に居場所があることが、彼らが閉じ籠らずにいられた理由だと言われていた。

俺だってそうだった。


案外、『ここしかない』『拠り所は他にない』 という気持ち自体のほうが一番の厄介なものだということを、ノートを奪われて知った。

それほどのものだった。


「そか。そんな人を、私、コネだとか実力があるからだとか言って、呪ってたんだね。


まだ出来るかもしれないことも努力しないで」


「気付くだけ、それを苦にいじめるやつよりは成長してる」

「ところで、なんでこんな話になったんだ。 もしかして、河辺がらみかな」

急に真面目な顔をして綺羅が言う。

その通りだった。


「確かに、クラスでの印象はよくないよ。

乱暴だし、奇声をあげるし、ちょっとよくわからない俺様感を出してくるから」


「まあ、他人の痛みには、鈍い感じがするな」


俺は濁しながら言う。

綺羅の近く、すぐ斜め後ろの席に座って鞄をドサッと投げるように置いた。


「寄り添ってあげられる人がいたらいいけど、精神が未熟な相手に構えるほど、成熟したクラスメイトはそう居らんわよね」


「ですよね」


 思いきった俺は、


俺が唯一心の拠り所だった場所に彼が居ついたこと、俺様感を出してそこから動こうとしないことを話した。


「もしかして、最近それで元気なかった?」


と、彼女は言う。気付いてたのか。


「うん。まあ。

強引に自分の場所にされてしまったから。

俺行くとこがなくなったんだ。

人生のほとんどだったのに」

「なにそれ、ひっどい! なんでそこを奪うようなこと」


「なんか知らないけどあいつが、俺も孤立していると勘違いしてきて、

一方的に仲間だと思い込んでたことが原因なんだ。

同類だから仲良くしたいって。


たぶん孤立してたぶん寂しさもあって思い込みが強まっているんだと思う。


家とか勝手に調べてやってき」


ここまで言う必要はなかった、と途中でハッと気がついた。


「え、家まで、来たの」


綺羅が引いた顔をする。

「頼む、これはクラスのやつとかにいわないでくれ」

せっかく、その補填をすべく付き合っているのに、台無しになってしまうから俺は焦った。

「わかった……」


綺羅は一応うなずいてくれた。


「お前本当いいやつだな」

「あっ、私、鞄忘れてた!」

 彼女はそういってすぐ出ていって、俺は一人になった。


不思議と今日は心がきしんだ音を立てることはなかった。


 昔の、家族からの扱いなんて誰にも言いたくないし同情されたくない。学校は俺の居場所で、友達も居て、楽しいところ。だから言いたくない。知られたくないし嫌な気持ちなど持ち込みたくない。

近くの棚には、資料としてならべてある本や漫画があった。


 市販の本や漫画に価値観を否定され続ける気分とも戦ってきた俺は本当に、なんの救いもなく、ノートが、拠り所だったと改めて、何度も、考えた。


俺にとって市販品は敵だ。

そして、それになってしまった。


自分を否定しつづけてきた、あの女の子を悲しい意味で泣かせてきた価値観の塊のひとつに、自分自身の心までもが成り下がった苦痛は、計り知れない。


自分自身にまで否定されてしまった心など、どう直せというのだ。



生涯に渡るこの『汚点』。

俺の人生の汚点が、教室の棚にまで並ばないようにと願った。

部活が終わって、家に帰ったら、今日は休みだった母さんに夕飯用の卵を頼まれてまた家を出た。


「あ」


なっちゃんが、家の前に居た。


「な、に」


「いや、あのさ……たのみがあるんだ」


聞いたとき、危険だと思った。

心の代わりを必要としている心は、逆に、他人に頼られたりすがりつかれる余裕を持つのはよくない。


「いいよ、何」


なのに、俺は断れなかった。





「いやー、助かったよ。俺じゃどうしようもなくて」

なっちゃんの頼みは、道端に居た知らんおっさんたちの喧嘩の仲裁。

年上が周りに多かったからか俺はよく、こういう役回りをさせられてきたからあまり苦でもない、はずだった。


「うん、よかったな」


上の空で返す。


「やっぱお前しかいないな。

礼に奢るよ」


「あぁ」


「あっ!秋弥とスズじゃん!」


ハンバーガーでも食べるかと、店に入った。

昔の知り合いの女子どもが、先にテーブルに存在していた。


「秋弥は相変わらず可愛いね」

おねーさま的なやつがにこにこしながら言ってきた。

「うっせーよ……」


「そういうとこ、好き」


「再会したのが運命だよね、私らと話さない」


「モテるね」


なっちゃんが囁いてくる。俺は余裕なんかなくて黙ってなっちゃんを睨んだ。

夜中、頼まれたものを買ってきて帰宅したら、急に自分が空っぽになったような空虚な感じに見舞われた。

 適当に台所に荷物を置いてから急いで部屋に戻る。


俺でないとどうしようもないというなっちゃんの頼みは聞けたが自分をなだめるのは自分じゃどうしようもないという事実。


同時にやってくるフラッシュバック。

自己嫌悪が凄まじく俺に襲いかかった。

俺自身のことはもう、どうしようもない。



「頼らないで、もう頼らないで、頼らないで、俺を必要としないで」


壊れたように繰り返す。壊れたのかもしれない。そこら中にあったものを引っくり返して、身体をかきむしった。

傷口が開いて血が出てくる。



 夕飯になってテーブルについても味を感じることはなく、適当に飲み込むように食べて部屋に戻ると、一人でもがいた。

必要じゃない、お前なんか必要じゃない必要じゃないんだ、要らない要らない……

心の中でなにかを必死に拒絶しながら、俺は首を括る紐を探し始めた。

切り刻むだけでも、足りないのははじめてだ。


あのとき、気軽に助けるんじゃなかった。

やばいな、と思ったんだ。

次の日、高熱が出て学校を休んだ。


やっぱり俺の身体には、あのとき動くのは正しくなかったらしい。

ばかだなと思いながらもちょうどいいから、布団の中に踞った。


電話が来ていたので履歴をみたらなっちゃんだった。

「大丈夫か」という内容のメールもきていて、それはまだ続きがあった。


「実はこの前あった人たちの一人が、秋弥に困ってることの相談にのってほしいらしいんだけど、


元気になったらまたお願いする」



俺はなにも返信出来なくて、腕を切った。

例え元気になっても俺に頼まないでほしかった。

『お前が、俺のものならよかったのに』



俺はものじゃない。





それから3日、俺は眠ったり起きたりを繰り返した。

崩れかけていた心が決壊するのははやくて、腕を切るだけじゃ足りなくなっていた。


「物じゃない、物じゃない、俺は物じゃないものじゃない」


俺は物じゃない。

ノートも、売るようなやつじゃなかった。

人生も。生活も、商品なんかじゃなかった。


あれ?

俺は物なんじゃないか。こんなに尊厳がないなら、なっちゃんも俺を物だと思うんじゃないか。


物だから売られたんじゃないだろうか。

俺は、何もかもが物だったんだろうか。


熱でぼんやりした頭は、それでうまいこと辻褄を合わせた。だとしたら俺は、お金みたいなものだから傷付くのはおかしいだろう。


「っはは……あははは! アハハハハッ」


なんだ、そうか俺は物だから身体を切っても痛くないんだ。感情が麻痺していたからじゃなくて単に無機物。河辺が違ってたんじゃなくて俺の認識が違ったんだな。

布団に踞っていると、河辺から電話が来てそれには仕方なく出た。


「なにか」


「お前3日もいないってどういうこと」


「お前学校にいないときあるだろうに、人になにか言えるのか」


「それはそれなんだよ」


あ、そうですか。


「なんかあったのか。仕方なく、スズシロに聞いても


『知らないし俺も無視されてる』


と言われたから驚いた」


ぎゃあぎゃあとうるさいやつだな。


「ただの風邪だから」


嘘をついた。

これはたぶん、ただの風邪なんかじゃない。

話をしていると、フラッシュバックに見舞われる。熱のせいもあるかもしれない。

本当、なんのためにこいつが居るんだか。

いや。なぜ俺がいるんだろうか。上手く思考が纏まらない。


「前からきこうと思ってたけどお前は誰のものだ?」

河辺が言った。


俺の人生がプロットだったこと、なっちゃんにも物だと言われたことで壊れていた俺には耐えがたかった。


「俺は、物じゃない! ものじゃない、俺は、」



相手が通話を切るまで、ずっと繰り返してしまった。





誰かとむやみに会える状態じゃないことは俺には明らかで、冷静になってはまたそうでなくなり、また落ち着くという具合だった。

誰かが話しかけるだけでとてつもなく激痛が走ったようになった。


 そういえばとこの前から時間を止めたままの育成ゲームを思い出して、起動しなおす。なかにいるイキモノは生きていた。

ふよふよと動きながら、おはよう、と話しかけてくる。他人の目にはきっともう俺は物にしか映らない。今話をしても自我がわからなくて、他人がわからなくてパニックになるだけだろう。


物同士で戯れておこうかと、熱心に世話をしていた。


午後になり、少しマシになったかと起き上がると着信が来ていた。


「はい……」


「クラスメイトの麻奈美だけど!」


「あぁ」


と言ったけど、印象がない。そこまで親しくないからだ。


「今からこられる?」


頭が追い付かなくて俺はえ? と聞き返した。


「来るよね」


そういえば、休みますという連絡も入れてない。サボリにしか見えないかもしれない。


熱は、頑張れば耐えられたし他の不調は特にない。健康といえば健康だ。

「気分が悪いから、休んだんだ」


「声元気そうじゃん。私待ってる」



電話は一方的に切られた。

なっちゃんが言ってた件なんだろうかと思ったが、身体を動かす気力がなく、結局行かなかった。

夕方。具合はどうかと河辺から連絡があった。


 一時期はウザいほど絡んできていたのに、最近河辺はやけに紳士的な距離感になっていることが不気味ではありつつも、もしかすると許せるようになる日が来るんじゃないかと考えてしまう。


「なんとか生きているよ」

メールに返信すると「そうか」と来た。気をつかうことを覚えたのだろうかと楽観していた俺は、違和感と思ったことはなかったのだが。


「お前の姉と付き合うことにした」



……。

おとなしくなったって、そういうこと?

最近の静けさはフラグだったのか。


あきれた俺は、返事が浮かばない。


「いや、だってお前ずっと寝てるし」


そりゃそうなので返す言葉はなかったが、なんとも言いがたい気分が俺のなかを駆け巡った。


「姉は……ちょっと」


厄介ごとが増える。


おおもとになった彼と一緒に居る姉を想像してみたが、これでは彼に責任をとらせる前に、姉が割り込むだろう。

会話どころではない。

それに姉は後先を考えない。

熱が上がりそうになったところで、河辺はさらに付け足した。


「お前、なんか最近怖いしさぁ、昨日だって気持ち悪いから。

もういいかなって!」


「わかった」


「ちょっと私待ってるんだけどどういうこと?」


 また電話が来て、いきなり怒鳴られた。麻奈美とかいう人だった。


「元気だよねぇ。気分だとか怠けの代名詞だよねぇ? そんなに会いたくないの、つーか学校来る気あるのかな」


ひきこもりの気分って、こんな感じなのだろうか。始めて体感した気がする。

会話が驚くほど耳からすり抜けていき、ただ呆然とする自分が居るだけだ。嫌われようが構わないからと黙って電源を切った。


 明日を生きていく気があるかどうかというときに来る気があるかどうかなど考えるはずもない。明日は連絡しようと思った。


けど、その前になっちゃんに電話をかけようかどうしようか迷った。

でも、余計になにか背負いそうで、背負わせそうで、プレッシャーがのし掛かってそれはできなかった。

次の日も休んでいたら、河辺から連絡が来ていた。

「性格が悪いな」


という内容だったので、俺は首をかしげた。

それより、酷く頭が痛い。限界かもしれない。

 腕の絆創膏をびりりと剥がすとまだかさぶたが見えた。

人と話しているどころじゃなかった体調が、今度は食べるのもままならなくなっていた。


きっと、このまま死んで行くんだろうな。

俺は前向きに捉えて、身辺整理を始めた。

と言っても、友人たちを忘れるためのもので、俺の痕跡や、まだ生活で使うものなどは手をつけない。

まず、アドレス帳を最低限の人数まで消す。

もらった手紙や、誰かのラブレターは箱に詰めてこれは捨てられなくて、結局少し泣きたくなった。

 本棚の隙間から卒業式でもらった寄せ書きを見つけた。あたたかい言葉が沢山あった。


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