ノート
ノートにも吐けない。イライラする。こいつが消えますようにと心のなかで祈るくらいしかない。
「俺さ、孤独だったんだわ、昔」
聞いてもない孤独を語り出すのはなぜだ。気持ち悪い。
「きみとは、仲良くなれるんじゃないかなー、なんて」
「俺はなれそうにない」
勝手な親近感を抱くな、とますます腹が立った。
何よりも、この一部始終の態度は、こっちを逆撫でしてるようだった。ねっとりとした口調といい、大声といい、背が低い癖に無理に見下ろそうとする白目を剥いたような目といい――
見下されているような、絶妙に不快な気分になる。
「いつも、きみは、優しい言葉をかけてくれる」
陶酔したような声が、そんな話を始めたので、俺は困惑した。
「はぁ?」
なんだこいつ……
わかったことが、ひとつだけある。
こいつは、俺をさかなでするのが上手い。
「きみからの言葉があれば生きていけそうだ」
俺は、なにもこいつに、そんなこと言ってない気がするが、気のせいだろうか。
「こっちは自殺しそうだよ」とは言わなかった。
自分を見失ったと自覚したら――
鏡の向こう側から自分についての言葉を鏡が否定するのを聞き続けることになる。ナチスドイツの実験に片足をつっこんでしまった。
直感的に、よくないことが起きているのは理解できる。けれど同時に、頭の中に広がるものを他人に口外することにより、さらに被害を拡大する恐れも過る。
自覚したくない。しない方がいいだろう。
認めたときに「お前は誰だ?」と自分の声で聞かされる毎日に陥るのだ。
「で。俺は、何を言ったんすか」
面倒だなぁと思いながら聞く。明るく適当なノリに徹していないと見えない沼に引きずられそうな気がする。
彼は、にやりと口を開いた。
そしてやけに気取った口調で話す。
『心がいたい、けれど、これは、受け入れようとしているからだしまだ頑張らないと、河辺くん』
微妙にアレンジしてあるがノートに書いていた言葉だ、というか、彼は河辺という名前なのだと知った。寒気と、吐き気もした。
「それを、お前に言った覚えはないけどな」
理解した。やっぱり、あれを見たのだ。勝手に見て一方的に絡んでくるようになっているのにまるでこっちも周知だと頭のなかでできあがってるわけだ。
不気味だ。気持ち悪い。
愉快な頭の中身を想像したくない。
「お前に、一言だってかけてやった覚えはないから」
ストーカーって、みんなこういう思考なんだろうか。
ノートに書きたかった。苦しい、とか、あいつはわけがわからんとかそんなんで良い。
おかしくなりそうだ。
でも読まれているんだった。
そしてそれを目の前で読み上げるだろう。部屋に、なんで居るんだ?あれ?
「まだあるよ。他にも沢山、俺に話しかけてくれた。だからきみが好きにな――」
「気持ち悪い幻想をいだくのはやめろ!」
俺の心を、お前の名前にしないでくれ。
「なんで? きみ、今、フリーでしょ」
「好きな、やつは、居る……」
なんで、こんなやつに話しているんだろう?
体勢を直して、背中を軽くはらってから、目的もなく前へ歩く。
ざっ、ざっ、と、靴が擦れるわずかな音がした。
「きみだけが、きみだけが、友達のいない、俺の……」
「俺は、友達を作ると傷つけるだけだから作らない。いないことを、恥じたりはしてない」
はっきり言うと、男のまとう空気が、黒くなったような気がした。
まあ気のせいだろう。
「そうやって、強がっちゃって……」
「強がりなんかじゃない」
「本当は、誰かがいなきゃ寂しいくせに! 俺と同じなくせに!」
大声をあげて、殴りかかろうとしたが、勢いをつけすぎていたので、軽くかわすと彼の方が前へ倒れた。
こうは、なりたくないな。漠然とそう思う。
寂しいから誰でも良い、とりあえず友達になればいいと、そんな感じがした。本当にいないのだろう。
「俺は、ほとんど、アニメも、漫画も、小説も、アイドルのおっかけもしない。誰とも話が合わない。
お前と、盛り上がれそうなものなんか、ひとつもねぇよ」
家に帰ってすぐ、部屋でノートを開いたけど、なんの感情もわかなかった。
涙だけが、ぼろぼろとこぼれた。
「こんな、もの」
強く握りしめて、引き裂いてやろうと思った。でも、意味もないと思ったし、過去を全部なくす必要もない気がして手を止める。
書き出せば楽になると言った先生を逆恨みしたくなった。
救われたことを思い出すのと同時に、勝手に楽しみにされたことへの苛立ちでぐしゃぐしゃだった。
あいつが台詞を読み上げ救いだと言ったとき、俺の心の中は真っ黒になったのだと思う。あれは戦いで、苦しみなんだ。俺が生きてきたっていう、そういう葛藤なんだ。
それをあんな笑顔で触れられて楽しそうな顔で台詞みたいに発しないでほしい。
いじめ自殺の手記を、
爆笑しながら読んでいるような、胸糞悪い気持ちが膨れ上がる。
さらに無理矢理遠ざけて帰宅する帰り際で、あいつはあれを『楽しみにしてる』と言ったのだ。俺の苦しみを、楽しみにしているやつとなんか関わりたくはない。最低なやつだと思う。
蹴られた背中がしくしくと痛んだ。
でも、それよりもあいつは、俺を的確に苛立たせるのが上手過ぎる。
好きだと言われるほどに、殺してやりたいとさえ思いそうな自分が、恐ろしかったからか、これはそんな考えへの忠告だという気がして甘んじて受けた。
あの痛みがなければ、形がなくなるまで殴り付けたかもしれない。
「でも、あんなこと、よかっただろうか……」
数分前。
つきまとわないでくれないか、と言ったら、付き合ってくれないかと言われたから頷いてしまった。これ以上俺への犯罪に走られるよりはマシだし近くに居れば、有益なこともあるかもしれないと思える。
心の支えを乱された人間とは恐ろしいもので、もうあいつや周りのやつに対して怖いものなどほとんどないような気持ちになっていて、それが怖かったから、部屋に来るくらいで動じる気持ちもなぜかあいつにわかなかった。
その夜からは、俺は必死に、まだ人間でいられますようにと願った。
うっかり手を染めそうな自分。それほどまでに些細なことが崩壊させた心。人間でいられなくなるかもしれなくてそれが怖い。
俺を純粋に好いていたり楽しみにするようなやつのそばに居ても、欠けた心は戻りはしないが、彼と付き合えば、いいことしかない。心の支えをなくした俺のサンドバッグになるだろうし、嫌いになれば、ストーカーとして警察に渡せる。
復讐も心の回復も出来るとなれば断る理由はない。
責任をとらせてやる。俺がなくした心の代わりになってもらう。
あいつが読み上げた俺の心なんだから、
もう、あいつをその心にすることで同一にさせてしまえばいい。
そうすれば、きっと、あれを読み上げて楽しみにしたくらい、
たいしたことじゃなかったと思えるだろう。
その夜は、夢を見た。馬乗りになった男が、俺の首を両手で絞めている。
助けてともがくと、何度も腹を蹴られる。
ノートをつけるのをやめてはじめてのことだった。
飛び起きて見た時計は朝の2時。
意識が覚醒したままで、いっこうに眠ろうとしない。
浅い呼吸が短い感覚で何度も何度も繰り返されている。
しかも、書いても楽にならない。そのことが俺を何より苦しめた。
『楽しみ』 という、あのいまいましい声が幾度と無くリフレインする。
やめろ楽しみになんかしないでくれお前を殺してしまいそうだ。いろんな感情がぶわっと沸き上がったが、ノートに書いたりもしない。
どこにも吐き出せない。だとすれば。
彼を、頭のなかでひたすら殴っていた。
翌朝。
「ごめん、なっちゃん」
出会い頭にそう言った俺に、なっちゃんがかじりかけのクリームパンの欠片を、口からぽろっとこぼした。
どうにか登校したけれど、俺の心はもう干上がって嬉しいとか楽しいとかがただ黒く塗りつぶされている。誰かといれば、そいつを殴り付けるだけだろう。
昼休み。
校庭では、生徒が元気にサッカーをしている。
サッカー部じゃないやつも入っていたり、応援していたりして、うちのクラスの仲のよさに感心。
それを、眺めながら俺は言う。
「今日、遊ぶやくそく、パス」
なっちゃんは不思議な顔で首をかしげている。
「なんか用事?」
「うん。少し、勉強することがあって、集中したいから」
「わかった」
隣になっちゃんがいるのに、俺はぼんやりしていて脳内では、河辺を殴り付けていた。
本当に恋人になんかなれるだろうか。
一抹の不安がよぎったが無くした気持ちの大きさを思えば、たいしたものではない。
カウンセリングを受けるよりはただ大事な誰かのそばにいたいけれど、その誰かのそばにいても、楽しいとか嬉しいはやってこないということは、想定できる。
思えば自分に自信を持たせてくれたものを無くしているのだ。
自信もなく、心を『楽しみ』にされるという異常事態。
誰もいない昼休みの教室はすいていて、電気のついてない部屋の明かりは窓の日光だけ。
普段は落ち着く静かな空間が、やけに落ち着かない。
「いま流行ってんの!」
クラスの女子の一人が、知らない女子と話しながら教室に入ってきた。
「あぁ、ネット小説でしょ、カンベなんとかっていう人」
「そうそれ!」
いつもは風景みたいに気にしない言葉だ。
机に頬杖をついていた俺は、ゆっくりと、隣のあいた席に座ってたなっちゃんを見つめた。
「なに」
「なんでもねえ」
教室で、わざわざ内容を読み上げる声。
自分で黙って読めばいいだろうに……と呆れることさえできなくて、
なっちゃんにしがみついた。
「どうしたんだよ」
あせる声。そして俺もあせっていた。
聞こえてくる、言葉たち。
なにか画面を見たままの女子の誰かが、言う。
「『馬乗りになり、首を絞めるミドリ。
俺は怖いよと叫んでいた。なんていう』」
なんていう、地獄だ。
「この描写、リアルだよね」
「わかるー」
でしょうねとも言わない俺は、偉いと思った。背筋を冷や汗が伝っていく。この空間にいてはならないのだと本能が察していた。なっちゃんが、驚いたままで固まっている。やがて俺の手を引いて、こっち、とそこから連れ出してくれた。
「どうしたんだ、顔が真っ白だ」
そう言って、心配そうに俺を見てくる。
「なっちゃん」
俺、怖いよ。
あんな小説見たくないよ。
カンベって誰か知らねぇけど、あんなにそっくりになることが偶然であり得ると思うか?
身体中から体温が奪われたような、そういう感覚が全身を支配した。
気をしっかり持っていなければおかしくなりそうだった。
「河辺ってやつなら、いたな、そういえば」
思い出したみたいになっちゃんが言う。
「ほら、隣のクラス」
昼休みということもあり人がまばらな隣のクラスを訪ねた。
「あ、やっほー、倉羽」
「あぁ」
心の中で宇宙人と呼んでいた、ハーフアップに、毛先をくるんくるんさせた長い髪の女子、綺羅に見つかった。
こいつは同じ中学だったからか、妙に気やすい。
「何しに来たのぉ?」
長いまつげをバチバチと動かして、そいつが真ん丸の目を向けてきた。
「あー、あのさ、人探してんだよ」
「へえ、誰」
「河辺っていう男」
「なに、カレシぃ? あたしは差別しなーいよっ☆」
えへ、とウインクされる。
リアクションに困った。違うというのも、また面倒だ。しかし、肯定も困る。
「いや、聞きたいことあって」
「え、つまんねえのー」
ほら、と教室の前の方の席を指差されて、見ると
「来てくれたんだね」
とあの河辺が、椅子から立ち上がって言った。俺の来訪に、心から喜んだ、ように見えた。
マジかよ、本当に居た。
「あぁ昼休み、少し話したいなと思ってさ」
いろいろと思いはしたが努めて冷静に言うと、わかったよと快くうなずいてくれた。
河辺とともに教室から出る。
「お前がよくいる、
なっちゃん、は?」
とげのある言い方で聞かれる。
知っているのだろう。
俺がなっちゃんを大事に想うことくらい。
トラウマから、交遊関係まで、あとをつけてノートを読めば少しはわかる。
舌打ちしたくなった。
河辺は苦笑いで付け足す。
「妬いているんだよ、ちょっとあの男に」
「クラスメイトと仲良く話すくらい良いだろ」
「悪いとかいう話はしてないけど、ね」
そうだった。
でも、あんな圧のある言い方しなくていいと思うというくらいに、彼の言葉にはとげがあり、圧がかかっていた。
「教室で別れたよ。まさかお前と話すとこ、見られたくないし」
歩いている間しばらく、どうしようかと俺は悩んで黙ったままだった。
お前、ネット小説書いてんの?
と、そのまま聞いていいのかといざとなるとためらうのだ。
それに、証拠はなく、ただこいつがノートを読んでいるらしいという疑惑があるくらいで聞いていいものなのか。
だけど疑わしいのはこいつだ。
なっちゃんと離れてから携帯で著者名に検索をかけたらすぐ見つかった作品の内容は、明らかに俺のトラウマから何からをなぞって付け足したようなもので、あの一部分だけじゃなかったことをすでに確信している。
恐怖と憎悪と嫌悪が一気にやってきたが、家族にもクラスの誰にもそんな話は言っていないし俺が始めたノートの、どこまでがトラウマかなど聞くものは普通現れない。現れようもなかったはずだ。
説明すれば、それを知らなかった相手からの質問攻めにより、余計に傷を負うことも、吐き出したものを背負い直すことになることもわかった。
「さっきから、黙ったままだね」
河辺が、困ったように笑って言った。
頭が、ぼーっとした。屋上から飛び降りても今なら怖くないかもしれないと思う。
心は完全に逝ってしまっている。
「昨日夢を見て、眠れなかったんだ」
頭がぼーっとして、何もかもがどうでもよくなっていた。こいつは心なんだ。
気が済むまではサンドバッグにしても構わない。深く考えなくていいじゃないか。
楽な方に流れれば。
衝動的に誰もいない階段の途中で抱きつく。思ったよりも温かかった。
「どうしたんだ」
「河辺……」
なにか言おうとした。
けれど、回された腕があたたかかったのと、昨日の夢のせいで、錯乱した頭は、もう思考をやめていた。
浅い息を感じながら、俺はその場で眠った。
少ししてから目を覚ますと、保健室だった。河辺が横に居て、心配そうに俺を見ているのがおかしい。
俺は、今ならこの首を締め上げられるだろうかなんて思っていたのに。カラカラと、乾いた心は他には、幸福も楽しさも、なにも感じていなかった。
こいびととやらが居てもただ、苦しいだけだ。
「大丈夫?」
額に手を当てられて、ゆっくり目を開ける。そいつを見やる。
死なないかなと思う俺を心配する彼に、どちらが悪人なんだかわからなくなりそうだ。
元はといえばこいつが元凶のひとつのはずだったが。
頭がぼーっとした。
はやくしなないかな、を繰り返した。
それは自分でも相手でもある。
俺の心のくせに、俺の心配をするなんてふざけていて、だから起き上がって殴りかかろうとした。
「まだ熱があるんだな」
と、無理矢理おさえつけられた身体は、ぴくりとも動かせず、ベッドに戻るだけだった。
苦しい。苦しい。
バタバタともがいて、発作的に首を絞めそうになる。勿論、
自分の。




