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そら音のイデア  作者: 金田悠真
第2章 母を訪ねて両世界編
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第8話 全て照らす光



廊下には五月蝿いくらいに響いていた部活動の活気ある声は、今は聞こえない。

もしかすると、香織にその声を聞くような余裕がないだけなのかもしれないが。


気持ちの悪い蛆虫のように自身の身体を這い回る宮原の手が、そのような思考に至らせていないとも言えるだろう。


本能的に感情を閉ざして痛みも恐怖も不快感も押し殺したまま、香織はただ真っ直ぐに床に押し付けられながら宮原を見上げていた。


無意識にあげていた悲鳴じみた許しを請う声も上げることがなくなり、香織にのしかかり肩を押さえつけていたままの宮原はつまらなそうに鼻を鳴らした。



「静かになったなぁ?………あんな生意気だったのに」


嘲笑いながら見たことのない表情を浮かべ続ける彼は、徐に右手を振りかぶったが、香織の目に光が灯ることもなく、その身体は反応すらしてはくれていなかった。



1度だけまた骨を打つような鈍い音が響くと、宮原は自身の右手を軽く振りながら香織を見下ろした。

それはゴミを見るように冷たく、愛する我が子を見ているかのように温かい視線だった。



「おっと……これ以上は少し誤魔化すのが面倒くさそうだ」


そう言って香織の上から男性的な重みもなくなったが、その顔は既に十分痛々しく腫れ上がっており、一向に晴れる事はなかった。

左目を覆う瞼は見てわかるほどに骨に異常があるように腫れ上がり、血と涙で恐らく視界も見えていないのであろう。

鼻も斜めになっており、蛇口を捻ったように赤黒い血がとめどなく溢れ続けている。

幸か不幸か、歯だけは無事だったようで、恐怖なのか悔しさなのか、カチカチと小さく綺麗な音を立てて震えているだけであった。

もっとも、その口すら血だらけで、表情からしてもまるで死に絶えたかのように何の感情もない人形のようなものだったが。


何故かその姿にさせた張本人は考え込むように顎に手を当て、地面に座りながら香織の姿をまじまじと見つめていた。それはまるで今してしまったことを後悔しているようにも、自分の努力の成果を見るように誇らしくも見える。どっちにも取れるという事はどっちでもない。



彼もまた、人形のように無機質であった。




次いで来る暴力も恐怖も与えられ、香織の心にかけていたメッキが少しだけ剥がれてきてしまう。

好きな男を見ている時の鼓動のようにズクンズクンと激しくなる顔中の痛みにまた涙を溢れさせながら、少しずつ頭を回転させ始めてしまう。


もっとも、宮原に問いただしたい事やイヤリスの事を思い出そうとしても、今しがた行われた行為の恐怖に負けてしまい正常に思考などできないのだが。

今までに乱暴にされた事はなかった。身体は良いように扱われていたし、脅しのように逃げ場のない香織に手を出していたのは紛れも無い事実だが、それでも痛めつけたりは無かった。


だから油断してしまっていたのかもしれない。彼は自身を傷付けるが痛めつける事はない、と。そう決めつけていたのかもしれない。


やりようのない後悔にまた涙を溢れさせる香織の顔に、薄暗い影がかかった。


痛みと腫れで上手く見えない目に力を入れながら見上げると、そこにはいつも通りの笑顔を浮かべている宮原が映る。



「自分の立場がわかったかな?」



数分間の虚無な時間ですら香織を追い込むためだったのだろうか。

また心の奥底が冷えていくのを感じ、ホコリだらけの床に大の字になりながら、香織はゆっくりと頷いて見せた。


「………っ、良い子じゃないか」


ゾクゾク、と身震いして頬を紅潮させた宮原は、やけに甘い猫撫で声を上げた。

そしてさっきまでとは違うゆっくりとした手つきで香織の頬へと手を伸ばす。


これならば良い。


慣れた行為だし、さっきまでのような圧倒的な恐怖感も無い。


ただ心にメッキを貼って天井のシミを数えていれば終わるだけの行為だ。




自分に言い聞かせながらまた心に少しずつメッキを纏っていく。


その間にも彼の顔は香織へと焦らすようにゆっくりと近づいてきて。


大急ぎで貼らないと間に合わない、と心を急速に閉ざしていく香織と、彼女の吐息を吸い込むくらいにまで顔を寄せた宮原の間に、1つだけ音が響いた。



ピポン、と。


近代的で機械的でとても無機質で。

けれどその空間には合わずどこか可笑しくて。


気の抜けた音が鳴ったすぐあとに、ガタガタ、と机が揺れる音がした。



「………ぁ…っ、ゎ………ぅ………!」


呆然としながらその音の出所を見つめる宮原と、釣られて機械的に顔を横に向けた香織の2人の視線の先、積み上げられていた机が1人でに動き出し、中からヨタヨタと小太りの学生服の男が出てきた。


手にはスマートフォン、ホコリをかぶって汚れた天然パーマを払うこともなく、慌てた様子で机から飛び出し、声にならない声を上げながら宮原と香織を見つめていた。


香織にきっかけを与え、今日久しぶりの再会を果たした男子生徒、茜、だった。


あまりの展開に言葉を失ったのだろうか、部屋には茜の吃音だけが響き、宮原も香織も身動きどころか視線を動かすことさえ出来なかった。


そんな中で必死に両手でスマートフォンを操作する茜がやけに滑稽に見える。


それに反応し、いち早く行動を始めたのは宮原だった。


香織に暴力を振るった時の目を少しだけ浮かばせながら、跨ったままの香織から退け、ゆっくりと立ち上がって震えた人差し指を茜に向けた。



「おい………お前、いつから………?」


「ひ、ひっ………!」



それは宮原に様々なトラウマと恐怖を抱いている香織からすれば、笑ってしまうほどに頼りのない声だったのだが。


茜は怯えたように体を大きく震わせてスマートフォンを地面に落としてしまう。


画面をひび割れさせながら転がったスマートフォンの画面の真ん中には『動画を保存中』という文字とくるくる踊るようにまわるアイコンだけが表示されている。


顔を一気に赤く染め上げた宮原が駆け出してその脚を思い切りスマートフォンに対して踏み抜くが、体型とは裏腹に俊敏に動いた茜がスマートフォンを抱きしめるようにして庇って見せた。


ぼふ、と布団を叩いたような音が鳴ると同時に、茜の抱いていたスマートフォンからノイズ交じりの音がまた響き始めた。



『………鍵は開けたはずだけど』


そんな宮原の声と、遠くから聞こえるくらいに小さい金属の擦れる音。

ガタガタと扉が開く音がすると、響いてくる宮原の声はとてもクリアに聞こえてくる。



事態を一瞬で理解したのか、宮原はまた大きく脚を振りかぶって茜へと振り下ろすが、また布団を叩いたような鈍い音だけが響いた。

三度脚を振り上げた時、茜がいきなり立ち上がって宮原を突き飛ばした。


踏み抜こうとした脚に全ての力を込め、片脚で立っていた宮原はいとも簡単に弾き飛ばされ、長机にその身を投げさせた。


ガシャ、ガシャ、と机が崩れ、その流れでパイプ椅子も倒れるうるさい音の中、茜は未だ血だらけで寝転がる香織をじっと見つめていた。

香織からは怪我の影響もあってはっきりとは分からなかったが、彼の口は香織のように震えており、スマートフォンを両手で抱えながらも極寒の地のようにガタガタと震えていたように見える。



「ぁ、ぁ………ぁっ、………!」



言葉に詰まりながら香織の方へ一歩踏み出した時、パイプ椅子が思い切り叩きつけられる音が響いた。


「このデブ………っ!!」


そして腹の底に響くような鬱屈とした低い声。

言葉の全てから憎しみが溢れ出ているようなドロっとした声を響かせながら、宮原が立ち上がり、思い切り威嚇するようにパイプ椅子を机に向かって振り下ろした。


激しい破壊音が鳴り、いとも簡単に机は凹み、パイプ椅子は解体されて。手に握るのは尖った鉄パイプだけになったが、好都合とばかりに地面を叩きながら宮原は犬歯をむき出しにした。


「ひ、ひぃっ………!」


その暴力的な敵意を向けられた茜は、甲高い声を上げながら、迷うことなくその小太りの身体を反転させて部屋の扉に手をかけた。震えながらなんとか鍵を開けて、彼は大きい足音を立ててミーティングルームを飛び出した。



「待てっ!!……逃げれると思ってんのかよデブがぁっ!!」


扉は開け放たれたのに怒声を大きく上げながら宮原もミーティングルームを飛び出してしまう。


たったそれだけのことで、香織の取り残された部屋には、五月蝿いくらいの静寂がもたらされた。


茜色が差し込んでいた窓の隙間からは、暗い闇の切れ端が飛び込んできており、いつのまにか外で活動する人達の声も少なくなっていた。


痛み。そして恐怖に支配されている身体をゆっくりとゆっくりと起こすと、視点が変わった窓を塞ぐ木の板の隙間からは、野球部の物と思われるナイター照明の設備が目に入った。


それと同時に照明から真っ白な光が伸び、暗かった部屋の中でピンスポットが当たったかのように香織の血だらけの顔を映し出した。


そんな舞台のような照明の中で。

いつ宮原が戻ってきてもおかしくない中で。


香織は両手で醜い傷を隠すように覆い尽くしながら、寂しそうに肩を震わせ、血の混じった涙を流し続けていた。

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