第7話 小さな勇気
将来役にたつかもわからない授業を終え、それぞれが部活に全力を出している頃、香織は初めて部室棟というものに足を踏み入れた。
教室と違って、汗とホコリの匂いが充満するボロボロの廊下を歩いて行く。
すぐ外からは野球部と思わしき気合の入った声が響き、その活気に溢れる声はまるで香織を置き去りにするかのようにも聞こえていた。
野球部、サッカー部、陸上部。
入り口にほど近い部室を通り過ぎ、L字の廊下を曲がると、更に埃っぽさが増した気がする。
ラクロス部やラグビー部。そもそも活動していたのかと思うほどの部活だらけで、しばらく使っていないのがよくわかるほどである。
そんな過疎部活の部室をも通り過ぎ、行き止まりにある部屋。そこにかかっている札を見て、香織は大きく一度深呼吸をした。
埃っぽい空気にくしゃみでもあげそうになるが、幸か不幸か、今の香織にはくしゃみをする余裕すらも無いようだった。
汚れた札に、「ミーティングルーム」と記載があることを確認してから、ゆっくりと香織は扉に手を伸ばした。
「おや、早いね……」
背後からいきなりかけられた声に、香織はビクンと肩を跳ねさせて扉から手を離した。勢いよく振り返りたかった感情を殺しながら、首だけ斜め後ろを向くと、見飽きた程のスーツと顎先だけが目に入る。
「もしかして待ってたかな?……鍵が見当たらなくてね」
香織のトラウマそのものであり、今はここにいる理由でもある男ーー宮原は優しげな微笑みを浮かべながら掌にある鍵束をカチャ、と鳴らした。
そのまま香織の肩に手を乗せながら、ゆっくりとミーティングルームの鍵を差し込んで回すと、ガチャリと音がなる。
その音がやけに大きく聞こえて仕方なかった香織は、誤魔化すように扉に手を伸ばし、横に動かした。
だがしかし、扉は何かに引っかかるような音を立てて開く事を拒んでいた。
「……ん?鍵は今開けたはずだけど……」
宮原も不思議そうに何度か扉を引くが、どこからどう見ても鍵がかかっており、立て付けの悪さなどでもなさそうだった。
再度鍵を差し込んで回すと、先程と同じような音が響く。
だがしかし、また香織が扉を横に動かすと今度はすんなりと扉が開き、乱雑な長机と古ぼけた革のソファが1つ目に入ってくる。
「……噂通りか。……全く、警備のものに部室棟まできちんと確認してもらわないとな」
呆れたようにため息をつく宮原は、ゆっくりと香織を押して中に入り、ごく自然に中から鍵を掛けてしまった。
未だに掴まれている彼の手から逃れるように香織は前に進み、ホコリのかぶったパイプ椅子にそのまま腰を落ち着ける。
だが、何を口にするわけでも無く、ぎゅっとスカートの裾を握りしめたままで俯き、少しだけ体を震わせていた。
それは、嫌悪感の表れかもしれないし、何度もしてきた経験による恐怖や憎しみによってのものかもしれない。
だが、それは香織自身にも理解できることはなかった。
「まずは、戻ってきてくれて嬉しいよ香織」
くしゃ、と香織の頭を撫でてから、宮原は目の前の長机に腰を下ろした。灰色のスーツのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを片手で緩める彼の一連の仕草は、いつかネットで見た男性に惹かれる仕草そのものではあったが、残念ながら香織に湧き上がる感情はそのような甘いものでは到底無かった。
アンタの為に帰ってきたわけじゃない。
そんな言葉に蓋をしながら、ゆっくりと顔を上げて彼を見つめ返す。
優しげな微笑みに見えるが眼の奥が笑っておらず、どこかギラついても見える。
香織の、苦手な眼差しであった。
自分の事をただの道具程度にしか見ておらず、ハイエナのように燻んだ野望の瞳。
大嫌いなその視線から逃げるように、香織は顔ごと横に背けてしまう。
窓には木の板が打ち付けられており、茜色の綺麗な夕陽は、漏れてくるだけで美しさをまとってはいなかった。
「お母さんの事は、大丈夫かい?」
香織の全てを飲み込んでしまいそうなほどに大きな掌は、未だ香織の頭の上に乗せられている。
どんな言葉を返そうか、そう思考を巡らせる事で嫌悪感を誤魔化していると、掌はやがて髪の毛を辿り、頬にとあてがわれて行く。
手つきだけは愛おしい恋人を慈しむかのように頬を撫でている。だが、香織にすれば今すぐにでも発狂してしまいそうなほどであった。
「僕に出来る事なら何でもするよ?……ずっとそうしてきただろう?」
そう言いながら、宮原は香織のリボンタイに手を伸ばしてくる。あまりにもゆっくりと楽しむような手つきだが、それに抵抗する事は出来なかった。
今までは。
軽く手を動かして宮原の伸ばしてくる手を払い、頬に触れる手からも逃げるように香織は思い切り顔を振って立ち上がった。
座っている宮原の顔を初めて見下ろしながら、香織は何をしたわけでもないのに荒くなる呼吸で肩を上下させている。
こうして真っ直ぐに宮原の表情を見たのは初めてかもしれない。
もっとも、今の彼の表情は少しの驚きに染まっているだけでほぼ無表情であったが。
「お母さんの事……誰から聞きましたか?」
「………………」
宮原は表情を消したままで払い除けられた掌をじっと見下ろし、返答どころか身じろぎひとつしなかった。
「貴方が言い出したんですよね?………お母さんが居ない事、誰から聞きましたかっ…!?」
また同じ疑問をぶつけると、彼は小さく鼻を鳴らした。
その仕草はイヤリスで出会った、香織が惹かれているかもしれない男性に良く似ていて。
同じ仕草なのに抱く感情は全く違う事に笑ってしまいながら、香織は顔一杯に嫌悪感と敵意を貼り付けた。
「貴方は何を知っているんですか………っ?………本当に失踪していたのは私の方のはず!」
宮原に見せるのはーーいや、そもそもここまで感情的になることすら香織の中では珍しい事だーーはじめて大声をあげて宮原に逆らうように香織は目を細めて睨みつけた。
偶然とは言えイヤリスに行き、騙されたふりをして1ヶ月近くも向こうで息抜きをしていたのは香織自身である。
母のことが心配でなかった事は無いし、今日奈緒に会って友人達も非常に大切なものだと言うのも痛感した。
それでも、母のことに気がついたきっかけは単純な「魔法が使いたい」という子供のような理由だった。
そんな情けないガキの自分ではあるが、母のことを心配しているのは紛れもない真実だ。
そして、その母が居ないという話。
それを広めたのが目の前にいるトラウマであるという事を聞いてから抱いていた確信のようなものをぶつけて行く。
「貴方はお母さんについて何か知ってるんでしょうっ!?」
声を荒げた香織は、自分から宮原に近づいて行く。
それは今まででは絶対に考えられない事であった。
緩んだワイシャツの襟首を震える手で掴み、思い切り引っ張ってやる。
「お母さんはどこ………。お母さんに何をしたの………っ!?」
ミーティングルーム中に響く大声を間近で上げても、宮原は無表情で香織を見つめ返すだけである。揺すっても引っ張ってもそれに身体を合わせるだけで何も反応はなかった。
「答えろ…っ!!」
そう叫ぶと同時に、香織の視界は真っ白に爆発した。
そして気がつくと、床に溜まったホコリがよく見えている。
何故自分の視界が低くなったのかとぼんやり考えていると、そのまま鈍い音が響いて、また一瞬視界が真っ白に光った。
今度ははっきりと見えていた。
光る前に見えていたあれは、革靴だ。
顔を蹴られたのだ、とどこか他人事のように受け止めながら、顔に走り始める激痛に顔を歪ませていた。
「うるせぇよ、ガキがガタガタ………!!」
宮原の物なのか。
今まで聞いたことないような粗暴な口調と低い声に、無意識に恐怖を抱きながら見上げると、宮原は香織に掴まれていたワイシャツの襟首を直しながらゆらりと立ち上がった。
「………あー……。ごめんね?………唯一の肉親が居なくなって気が動転してるんだよね……?」
いつものような優しげな笑みを浮かべながら近づいてくる宮原を見ると、香織のしていた反抗する覚悟や対抗する勇気などが根こそぎ折れたことがよくわかってしまった。
意識せずとも喉からヒュッ、と悲鳴じみた音がなり、口の中いっぱいに広がる血の味と鼻に走る激痛に思考も崩壊して行く。
「でもねぇ?……今までその身体だけで助けてやった事を忘れてあの言い方はダメだよねぇ………?」
ねっとりとした話し方に、香織はゆっくりと身体を起こして後ずさる。
スカートにホコリが巻き取られて汚れて行くのが感覚でもわかるが、それどころではない。
「立場ってのを理解しないと。高校生なんだから……もう大人でしょ?」
嘲笑うかのように一歩一歩宮原は香織に近づき、後ずさる脚を思い切り踏み抜いた。
激痛に悲鳴をあげる前に、彼はしゃがみこんで香織の頬を片手で鷲掴みにする。
「お前は俺のモノだって……散々教えたはずだけどなぁ……っ!」
大きく宮原が腕を振りかぶり、香織は目を閉じてしまった。
次いで響く鈍い音と頬に走る痛み。
平手打ちなど生温いものではない男性の拳が頬に打ち付けられたと分かると、いよいよもって逆らう力が全て身体の奥底から抜けてしまう。
顔が冷たいのは涙のせいか鼻から溢れている血のせいか。
そんなこともわからずにぐちゃぐちゃの顔のままで香織は宮原を見上げ、声にならない悲鳴を上げ続けた。
なんと言ったのかは香織もよく覚えていない。
助けて、なのか許して、なのか。
謝っていたのかも懇願していたのかも分からないほど必死な香織を乱暴に床に押し倒し、その学生服が力づくで破り取られた事すら、最早気に留めるほどの事にもならなかった。
初めて向けられた明確な悪意と、暴力。
圧倒的な力の差に絶望する余裕すらなく、香織は、その心を思い切り閉ざして思考を放棄した。




