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7 遅い? いいえ、遅かろうと早かろうと、前進は前進です。

遅くなりました、すみません


インフルエンザ大流行中。すでにピークを迎えて逆に収束に向かっているのかもしれませんが、気を付けてください。

 





 次の日、午前中の早い時間に大家さんが家にやって来た。早いというか、朝の八時。人を尋ねるには微妙な時間だ。


「彼女に関しては優花が臥せっている状況では話し合いもできなかったが、大家さんが自分の借家(ざいさん)に傷をつけた事にすごく怒っていたぞ」

 とは水森君から聞いていたけど、大家さんのお怒りは深かった。昨夜の内に彼女の親に連絡して、即刻退去を申し渡したらしい。


 彼女の親は最初こそ半信半疑だったけど、既に警察が立会いの下、本人が自白していることや、彼女自身が親にちゃんと伝えた事でようやく事態を把握した後、真っ青になったそうだ。いや、電話口だからあくまでもイメージだけど。


 こういう場合の被害者は私なのか大家さんなのか、それとも両方なのかよく分からないけど、大家さんとしては店子が別の店子を間接的に傷つけたという事も鑑みて、示談云々よりもとりあえず私の精神状態の方を優先してくれたらしい。まあ、要は、加害者が近くに住んでいること自体、気分が悪いし不安でしょうから、目の前から消えて頂戴ね、という大家さん的親心の様なものから発せられたものだったみたい。


「四年生の年度末なんて、卒論さえ書いてしまえばなんとでもなるんでしょう? ただし、示談になるかどうかはそちらの出方次第ですからね(意訳)」

 と通告して、来年早々に出て行くことに決まったからと、大家さんは笑いながら私にそう報告してくれたのだ。内心、ちょっとその上品な笑顔が怖かった。


 ……というのも、朝のこの時間に来たのは、勿論早く私に伝えて安心してもらいたい、引っ越しなんてしないで卒業までここに住んでねという腹積もりもあっただろうけれど、昨日会えなかった理由、「怪我をして熱を出している」というのが本当かどうか確かめに来たみたいだったから。


 ここは女性専用って謳ってる手前、別に男子入室禁止を規約に明記している訳じゃないけど、やたら男の子を泊らせたって言うのは外聞が悪い。

 扉の暴言を書いたきっかけが水森君が私の部屋に泊まったことだったし、犯人が発覚した場に刑事さんが居たことも合わせて事情を説明してあったらしいんだけど、それだけじゃ信用できなかったみたい。


 待たせるのも申し訳ないから化粧はしないで、仕方なしに昨日の夕食の材料と一緒に実は買ってあったマスクだけをして大家さんに顔を合わせたら、一応酷く心配した様子でお見舞いにミカン貰ったけどね。マスク程度じゃとてもカバーできないくらいあざが広がっていたから、ちゃんと主張は信じて貰えたようだ。


「あちらの親御さんから謝罪に伺いたいと申し出があったわ。日曜日で体が空いているから今日にでも来ると言っていたけれど、やっぱり後日にした方がよさそうね。とても具合が悪そうだもの」

 あちらはなるべく早く決着をつけたいのでしょうけれど、と大家さんは溜息をついた。


 なんでも、娘の就職が掛かっているので、少々強引にも示談に持っていきたい様子が電話口からでも伺えたそうだ。さらに面倒くさそうな人柄が透けて見えたので、私に早めに警告をした方がいいと思ってこんな時間にやってきたらしい。


 え? 信用してなかった訳じゃなかったんだと思ったのが表情に出たらしく、大家さんが詳しく説明してくれた。


 先ほど言った電話口で「真っ青になった(イメージ)」は間違いではないけれど、最初は何度説明しても信じて貰えなくて、信じた後も色々なことを聞いてきたらしい。


「誰になぜそんなことをしたのか?」 

「娘はなんと言っているのか?」


 くらいだったらごく普通の反応だったけれど、根掘り葉掘り私の事を聞いて、

「男を部屋に連れ込んでいたのなら、娘の書いたことは本当の事ではないのか? 怪我をしているとのことだったが直接会っていないなら、本当かどうか分かったものではない(意訳)」

 と言いだしたので、これは注意しなければならないと思ったそうだ。


 私に連絡したいと言うあちらの親に、連絡先を教えて良いかどうか聞くのでと一旦電話を切り、確かに顔を合わせて話をした訳ではないので、最悪の場合は証人として口添えするつもりだったのだとか。即刻退去を申し渡したのも、あちらの親が娘の様子を見に来るついでに、私の部屋に押し掛けて無理を言わせないようにと思ったとのこと。


 ……全面的に親切心だった。怖いなんて思ってごめんなさい。


 今のうちに証拠収集として、扉の写真や私の顔の写真なんかも撮っておくと良いかもしれないと大家さんは言った。それから、話をすることになっても、一人で相手をしないで必ず誰かと一緒に話を聞くように、と。こういう人のパターンは必ず「言った」「言わない」の水掛け論になるから、心配な時はICレコーダを持ち歩くと良いとまで言われた。

 転ばぬ先の杖、備えあれば憂いなしだって。……大家さん、長年大家さんをやっているせいか、痛い目に遭ったことがあるみたい。


「扉を綺麗にする手配もしているけれど、もう年末が近いから年内中の作業は無理なのですって」


 扉は木製ラッカー仕上げなので、マジックで書かれた文字をエタノールなんかで消すことはできるけど、一緒に塗装まで落ちてしまう。まだらになるので結局全面塗装をし直した方が目立たないらしい。私が思っていたよりも大事になりそうだった。


「でも、部屋を出入りすれば嫌でも目に入るのに、何時までも残しておくのは不快でしょう?」

 文字を消すのは構わないと大家さんが言ってくれたので、ありがたくそうさせて貰うことにした。





 お大事にと、綺麗なお辞儀を見せてくれた大家さんを見送った後。


「塗装を気にしなくていいなら、除光液でも落ちると思う。なければ買って来て消すぞ」

「えーっと、一応持ってる。けど、足りるかどうか分かんない」


 勧められた通りに扉の写真を何枚か撮り、怪我の写真も一応撮ってから水森君の申し出に乗っかってしまった。具合の悪い時に除光液みたいな薬品臭って結構きつい。


 だるいし、やる気も起きないのは、まだ熱の影響があるのかもしれないけど、面倒くさい親が面倒くさいことを言ってくるかもしれないと聞いただけでうんざりしてしまった。


 その場で白状したことを考慮して、被害届を出すのは保留にしてあるけど、どうしたものかなー? ここまできたら家の親に事情を話して立ち会って貰うのが普通なんだろうけど、そうすると怪我の事も一緒にばれちゃうんだよね。


 あざさえ薄くなればなんとでもなると思っていたけど、こうなると隠すのも難しい。逆になぜ早く連絡をよこさなかったのかと怒られる未来が見える。

 言わなきゃならないにしても、今が一番ピークで顔のあざが酷いような気がするから、もう少しましになってから……少なくとも、明日の診察が終わってからでいいかな?


 怒られるのがわかり切っているので、連絡をすることを考えるだけで億劫だった。

 一つの問題が片付いたら、また一つ問題が起きるなんて、具合が悪くない時にしてほしいよ。いや、彼女の親が問題起こすかもっていうのは、あくまでも予測の内だけど。


 ぼーっとそんなことを考えていたら、水森君が部屋に戻ってきた。


「どうした? ますます具合が悪そうだが、寝ていたらどうだ」

 朝食も食べていなかったせいか、顔色が酷く悪いらしい。青白い顔をしていれば余計にあざが目立つから、大家さんが心配するのも納得の有様に見えるんだって。


「うん。じゃあ悪いけど、ちょっと横になってる」

「分かった。朝食が出来たら起こすから、眠ってしまってもいいぞ」

「ありがとう」

 水森君、いいお嫁さんになるよ。マジで。



 布団の上に横になって、ボーっと天井のしみを見る。一人暮らしを始めた頃は、あのしみが妙に気になって眠れなかったことがあったなーなんて結構どうでもいい事を思い出した。


 ……私、何にもしてないのに、なんだか悪いことばっかり起きるなぁ。扉の件は不可抗力だとしても、階段落ちが本当に突き落とされたのなら、記憶のない間に何かやらかしている可能性がない訳じゃないけど。


 そこまで考えてふっと思った。


 水森君の彼氏発言が信じられないのは、短期間の記憶がなくなったとしても、自分の性格や癖、嗜好が変わる訳がないからというのが理由だ。好みじゃないのは好みじゃない。これは変わらない。


 同じように、私が誰かから恨まれていたと言うのは自分でも考えるのが辛いけど、扉の暴言みたいな逆恨みなら同じように不可抗力だ。「自分が恨まれるような何かをした」よりも納得が出来る。

 逆恨みの理由は本人でないと分からない理屈で成り立っているから、された方には考えも及びもつかないって今回の件で身に沁みた。感覚の違う人が実は身近にいたんだって思えば、まだ想像はできる。


 ……まあね。分かってはいたんだよ。

 昨日の今日だから、物理的な問題で記憶が戻らない可能性はあるけど、一応階段落ちした時はちゃんと覚えていたみたいだから、衝撃で記憶が飛んじゃわけじゃない、って辺りから。


 階段落ちの現場に居た人は、知り合いとか、顔見知り程度じゃない誰か。私が親しい人だって。


 その人から突き飛ばされて……それこそ一瞬は死んでしまってもいいと思われるくらい憎まれたのが信じられなくて、記憶を無くしたんだってことも、その事実を認めたくなくて、思い出すような何かを言われたりしたりすると、気分が悪くなるって事も、分かってはいたんだ。

 手帳やスマホを見れば、誰かに聞かなくてもある程度は自分がどういう行動をしていたか予測が付くのに、怪我して以来、あえてそれを考えないようにしていたのも、記憶が戻るのが嫌だったからって。


 でも結局、恨まれた事は忘れても、記憶が戻らない気持ち悪さは大きくなるんだもの。


 忘れたのは私の中で受け止める準備が出来ていなかったんだと思う。でも、逆恨みだったら、多分私がどんなことをしても、相手に何を言っても恨まれたんだろう。……って認めることはできた。


 私が相手を傷つけたかもしれないけど、だからって階段から落とされていい法なんてない。逆恨みでも、そうじゃなくても、何がどうしてそうなったのか、知りたい。理由は何でも、知らなければ許すことができないから。


 ……そう。私、納得できる理由であれば、許したいと思ってる。その方が自分の気持ちが楽だもの。怒りや恨みを持続させるのって辛いんだよ。

 なんか今は、胸と言うか胃の辺りが不安とか悲しみとか怒りとか、訳の分からない黒い成分でぐるぐるしてる。こんな感情知りたくなかったし、このままで居たくない。




 水森君に言うと遅いって突っ込まれるかもしれないけど、記憶を取り戻そう、取り戻したいって思えたのは、この時だった。





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