3
彼は都市の真ん中を歩き続けた。僕も並んで歩いていたのだが、彼の方が背が高く、かっこいいので、自分が召使いになったような気分でいた。もっともそこに屈辱感はなかった。ただそんな自分を向こうから、もう一人の僕が見つめていただけだ。
「芸術がやりたいんですよ」
彼は繰り返した。僕は彼の顔を見上げた。
「芸術が…芸術って今、存在しないじゃないですか。あるように見えるけど、全然ない。美っていうのは、あると思うんですよね。だけど…それがない。見てくださいよ、この風景」
彼は目の前の風景を指差した。人が歩く大通り。人で埋め尽くされている。
「この風景のどこに美があるっていうのか? …ここに美を見つけようとするのは…無理です。モダニズムなんてのもあったけど倒錯した…いや、そうじゃないな。僕は、ラウシェンバーグが好きなんです。あれは、現代の美ですよね。そういうものもあると思う」
「ラウシェンバーグ…名前しか知らないなあ」
僕は言われて、思い出していた。
「僕は彼が好きです。彼は…いや、いいや。それよりも、今、芸術は全然ありません。全てが資本主義、サブカルに飲み込まれてしまって、どこに行っても壁におでこをぶつけるようなものですよ。どこに行ってもね。それにしても、浅田さんは芥川賞取ったんですってね。良かったですね。僕は、彼を応援しているんですよ」
牧田は僕を見てニッと笑った。人が良さそうな笑顔だった。浅田というのは同じグループに所属している同年代の、文学志望の青年で、僕も二、三話した事があった。浅田は新人賞を取って、その後、あれよあれよという間に芥川賞を取った。仲間内では彼は誇りであって、話題によくあがった。
「ああ。浅田さんね。あれでしょ? サッカー選手が主人公だっけ? 文芸誌で見たよ」
僕は言った。僕は、彼が芥川賞を取った時の個人的なパーティーに呼ばれたが、行かなかった。何か僕には行く資格がないように感じられたから。
「いや、サッカー選手じゃなくて、ラクビーです。ラクビー選手が主人公です。僕は…彼の事は人としては好きなんですよ。だから応援しています。彼が、賞を取ってよかったと思ってますよ。それで…山田さんは率直に言って、あの作品、どうでした? 芥川賞を取った作品。良かったですか?」
僕は頭の中でその作品を思い出した。また同時に、牧田が欲しがっている答えがどんなものかもイメージした。彼を傷つけたくはないという気持ちがあった。
「どうだろうな…? 前の作品より良くなったと思ったよ。つまり、以前よりは良くなっているというような。文体もこなれてきたし…」
「そうですか」
牧田はあっさり言って、無言で歩いた。僕らは、美術館の帰りに駅に向かって歩いていたのだった。
「ほんとのところはどうです?」
信号で立ち止まると、牧田が思いだしたように言った。「何が?」 僕は聞いて、牧田は「浅田さんの作品」と軽く言った。それで、芥川賞の話はまだ続いているんだと思った。
「正直に言っていい?」
僕は聞いた。牧田はうなずいた。僕は口を開いた。
「駄目だと思うよ」
「どのへんが?」
「強いて言うなら全部、かな。全部駄目だと思う。それは結局は、僕ら全体が駄目だという事だけれど。現代の、普通の視点もやってても駄目だと思う。この生活のどこに文学が、文学の対象がある? どこをつついてもスポイルされた、腐ったものしかないし、無理だと思う。それで今の作家は、平凡な事実をこねくりまわした文体で書いて、文学的だと言ってる。文学は基本的には近代のものだから、そこを抑えなきゃいけないんじゃないかと思う。人間の自由が歴史的に現れる軋みとして生まれたのが文学で、今はそれがないんだから、根底的に視線について考えるべきだと…まあこんな大きい事を言ってもしかたないけど」
「それで、浅田さんはそれができてないと?」
「全然。彼とは話した事あるけど、凡庸だったよ。いい人だったけど」
信号が青になった。僕らは歩き出した。牧田が口を開いた。
「安心しました」
僕は彼を見上げた。
「安心しましたよ。僕は彼の事が好きなんで、自分の口からは言えない。だけど、今、山田さんにそう言ってもらって安心しました。実は僕もあれは良くないと思ってたんですよ。本人には、褒めたんですけどね」
「直接、交流があるんだ?」
「ええ。二人で飲んだ事もある。彼は…いい奴です。いい奴が努力して賞を取る。それはいい事でしょう? 一応。でも、これは山田さんはわかってくれると思うけれど、芸術にはまた芸術の基準というものがあるじゃないですか? それ独自の? 早い話、偉大な芸術家が心底のクズだって事もある。ワーグナーとか…。だからそれとこれとは別なんだけど、その話はなかなか通じない。僕は浅田の事が好きで。だけど、山田さんにそう言ってもらって安心しました」
牧田はスッキリしたような表情をしていた。僕らはいつの間にか、駅前まで来ていた。
「もう少し、喋りましょうか?」
牧田が喫茶店を指差した。僕が喋りたそうにしているように見えたのだろうか? 僕はうなずいた。僕らは店に入っていった。