「願い」
当時、番外編として書いていたお話を見つけたので再掲載します。
蓮視点の切ない過去ですが、お楽しみいただければ幸いです。
はじめて山神に出会った時、なんて能天気な神だろうと思った。
その名の通り山のように雄大で、穏やかな性格。山の神なのに、どこかひ弱そうに見える細身の身体。深緑の瞳と杉染色の髪が印象的な、美青年の姿を持っていた。
美しい姿をした山神は、にっこりと優しく微笑んでいる。
「こいつが蓮じゃ。わしの専属にするからの」
ゆるい口調で蓮を紹介したのは、この国一の神、蒼華大神。
こちらもこちらで、呑気に笑っている。
蓮は、蒼華大神付きの鬼狩師として修行をはじめたばかりだ。
そのため、神に顔を知られておらず、各地を蒼華大神と回っている。
神相手のため、毎回蓮は緊張していたのだが。
蒼華大神と山神、ゆるい二人の神に挟まれてしまえば、緊張しているのが馬鹿らしい。
「蓮、か。いい名前だね」
山神が蓮に向けて放った、はじめての言葉。
内心、こんなのが山神で大丈夫なのか、と思っていた蓮だが、何故かその言葉ですべての思考は吹きとんだ。
この神は、何もかもを受け入れてくれる、そんな気がした。
頼りなさ気に見えるのに、蓮の中で彼の姿にどっしりとかまえる山が重なった。
この時はまだ知らなかった。山神が心に抱える苦しみを。
もう鬼狩師として一人で仕事をこなすようになった頃。幽鬼の気配が渼陽地区に集まっているという情報を得た。手が空いていたため、担当地区ではなかったが、蓮は渼陽地区へ向かった。
「……山神?」
祠で山を清め、見守っているはずの山神が今にも泣きそうな顔で山の中を歩いていた。
何かを探しているようだ。
何をしているのか、問いただそうとした蓮の耳に聞こえてきたのは、信じられない言葉だった。
「凛鳴、凛鳴……!」
母の名だ。何故、山神が母を知っている。
山神の口から母の名を聞いて、蓮はその場から動けなくなった。
「どうか、どうか私のところへ戻ってきてくれ」
蓮に気付かず、山神はなおも叫び、懇願する。
そして、気付く。
――どうして、俺には父上がいないの?
幼い頃、蓮は一度だけ母に尋ねたことがあった。
村の子どもたちには皆、父親がいるのに、どうして自分にはいないのか。
純粋に知りたかった。母はしばし考えた後、にっこりと微笑んで蓮を抱きしめた。
――お母様はね、あなたのお父様をとっても愛していたの。愛していたから、離れることを選んだの。あの人は、お母様だけしか見えていなかったから……。
そして、寂しい想いをさせてごめんと謝った。
そう言った母の目には、涙が浮かんでいた。
だから、蓮はもうそれ以上父親のことについて聞かなかったのだ。
今、目の前で必死に母の名を呼び、探している山神は、神ではなく愛する女性を求めるただの男だった。
会うことはないだろう、と思っていた父親が目の前にいる。
しかし、蓮は動けなかった。
山神が探し求めている凛鳴は、もうこの世には存在しない。
自分のせいで、死んだ。蓮が、母を殺したのだ。
鬼狩師として、山神を止めなければならない。
祠に戻り、この山を清めるよう頼まなければならない。
そして、山神が幽鬼の闇に堕ちないよう守らなければならない。
それなのに。
(……どうして、足が動かない)
蓮の足は震えていた。
あまりにも衝撃的で、自分にとっては忘れがたい記憶が蘇り、感情を切り離せない。
何故なら、山神は同じだった。母を失ったあの時の自分と。
――母上っ! 母上、どこですか!
走って。走って。探し求めて。
見つけたのは、無残にも殺された母の躯。そして、目の前には異形の鬼がいた。幽鬼姫として人々を守っていた母は、人に殺されて幽鬼となった。
母は、言っていた。幽鬼を救うことができるのは幽鬼姫だけだと。
それなのに、幽鬼を救ってきた幽鬼姫である母は、誰が救ってくれるのか。
憎悪の闇に呑まれ、醜く歪んだ母の姿に、蓮はぎゅっと目を閉じだ。
もう、母は蓮のことも認識していない。
――お母様ね、蓮が大好きよ。
母の声が蘇る。
しかし、母を人殺しにはしたくない。
母を止められるのは、自分だけだ。
覚悟を決めた蓮の手に、いつの間にか龍が刻まれた大鎌があった。
震える手で鎌を握りしめ、おもいきり振るう。
何度も自分を抱きしめてくれた腕を斬り落とし、何度も大好きだと微笑んでくれた顔を斬りつけ、蓮と日比那に優しい子守唄を歌ってくれた声が壮絶な叫び声を上げるのを聞いて、蓮は鎌を手放した。
母の魂のない、空っぽの肉体を抱きしめて、蓮は泣き叫んだ。苦しくて、辛くて、心があまりに痛かった。
――弱い自分を許せないと言うのなら、わしと来るか? お前を強い鬼狩師にしてやるぞよ……。
蓮は、蒼華大神の手を取ることで、自分の心を守ったのだ。
昔は、もし父親に会えたなら自分を母と同じように愛して欲しいと思っていた。
しかし今、そんなことを願える立場ではなくなっていた。
(俺が息子だなんて、言える訳がない)
凛鳴は死んだ。自分が殺した。その言葉が、喉につかえて出て来ない。
だから、蓮は蒼華大神に頼み込んで渼陽地区の担当になった。側で見張っていれば、真実を告げずに山神を守れるかもしれないと考えたから。
「山神、行くな。大人しくしていてくれ」
凛鳴を探す山神を見る度、止めた。
「ごめんね。どうしても、会いたくて」
しかし、山神は穏やかに微笑むだけで、止まってくれなかった。
それも当然だ。
蓮の言葉の裏には、罪悪感と後ろめたさがあったから。
それを自覚していながらも、蓮はすべてを告げることができなかった。
「幽鬼姫、どこかにいるならば山神を、俺の父を助けてくれ……」
幽鬼姫だった母はもういない。
身勝手な願いだと分かっている。
それでも、幽鬼姫の力を継ぐ者がいるのなら……――。




