第四章 【隣人】 4.
徐々に薄れていく『隣人』の姿で、最後に目に残ったのは、なぜか笑っている口元だった。
小学生の頃、父の書斎で読んだ童話のエピソードに、そんな場面があった気がする。
笑いながら消えていく、不思議な異世界の住人。堅い背表紙の本は、母星からの持ち込み品だという。
既にデータベース化済みの、しかも『童話』の本なんかの他に、持ち込むべき物はなかったのかな――と尋ねた生意気盛りのオレを、父は叱らず笑わず、優しい目のまま
「生きるためには、役に立つ知識の他に『夢』も必要なんだよ」
と真面目な声で語った。
さっきは、親父は本望だっただろうと口にしたが、ようやく『隣人』に会えて、これからだという時に、やはり無念な思いもあっただろうなと思う。
答えてくれる人は、もういないが。
もっとたくさん話をすれば良かった。死を悼むのにすら、こんなに時間が掛かってしまった。
刈り取られた背の低い草と、その向こうの森と山、今それらは夕日で赤く染まっていた。どれだけ目を凝らしても、誰の姿も見えない。
「消えたなぁ」
呟くと、隣から声が返る。
「はい。夢のようでしたね」
言葉ほど夢の余韻を感じさせない、はっきりとした口調だった。オレは思わず笑ってしまった。『なんです?』と綾部の目が問う。
「オレ一人だったら本当に、夢か幻覚だと思っていたところだ。お前がいてくれて、良かったよ」
夢と現実の境界が曖昧になっても、綾部がいれば現実と、いつでもオレは認識できるだろう。
「確かに、一人では会いたくない『ひと』ですね。実際のところ、オレが一人でいても、出て来てくれたとは思いませんが」
「必要条件は、『オレ』か。疫病神の面目躍如だな」
「仕方ありませんね。昔は積極的に、御自ら、トラブルの渦に飛び込んでましたし」
付き合いの長い後輩は、礼儀正しく、歯に衣着せずに、痛いところを突いてきた。
「若気の至りってやつだろ」
誰にでもそういう時期はあるはずだ、と一般論にして返す。だが、一般があまり当てはまらない綾部の口の端が、意外なことに上がっていた。
そんな風に笑うこと自体珍しいので、思わず「何だ?」と尋ねた。
「覚えてない、と返されなくて、ほっとしました」
結構、重たい答が返ってきて、片手で口元を覆った。つい最近までのオレの態度が、脳裏にありありと蘇ってくる。
「……お前や、鴻上司令や生島に、オレはどのくらい」
甘えていたのか……いや、訊くことじゃないな。
「思い出してくれたんなら、いいんです。鴻上司令も、生島曹長も、おそらくそうですよ」
綾部は整った顔に似合いの、綺麗な笑みを浮かべていた。
それでいい――ほど、軽い借りではないだろう。だからといって、他に何ができるという訳ではない。
「そうだな」と答えて、オレは両手を組んで上へ伸ばした。
「首府に戻ったら鴻上司令に会いに行って、『隣人』の話をしなくちゃな」
夢のように『隣人』が現れて、オレを夢から覚ましてくれたと。そんな夢のような話をしに行こう。
「信じてくれますかね」
「証人がお前だから、なんとかなるんじゃないか」
信じてくれても、公式に現れるまで『隣人』は『お伽噺』のままだろう。
それでも近い未来、『隣人』が再び現れるまでに、やるべきことは少なくない。
「政府にも連絡を取らないとな。あちらは、信じざるを得ないはずだ」
「六年前、関わっているはずの人は、リストアップできそうですね」
「そうだな」
今回政府の中で、故意に情報を広めていた人間が数人いた。彼らが何を考えていたのか、今なら推測できる。
何が起こっても、もう闇に葬らないという意思表示。
誰に対してかは分からない。彼らの上司かもしれないし、もしかしたらオレかも知れない。いや、親父か。
生島の声が聞えた気がして、建物のほうを振り向くと、テラスへ通じるドアが開いていた。
「まだここにいたんですか! もう日が暮れますよ」
叫んでいる声に応えて、軽く手を振った。
「戻るか」
頷いた綾部は、歩き出しながら「そういえば」と、思い出したように口を開いた。
「何で、『今』だったんでしょう?」
主語がなかったが、何を指しているのかは分かる。
「また森の中が死体で騒がしくなったのか、もしかしたら吹き飛ばされたショックから、立ち直るのに掛かった時間かもな」
オレたちにとっては短くない、六年という月日は『隣人』には、どれくらいの時間だったろう。
「案外、今回死体を動かしていたのは、本当に『隣人』だったのかもしれませんね」
オレは、はっとした。もうほとんど仲間の気配がしないと言っていたのは、ほかならぬ『隣人』だ。
「……成程。やられたかもな」
律儀な『隣人』のことだ。オレと接触する方法を考えつつ、『境界線』上での石背の行為も監視し続けていたのだろう。
「覚えているか? 参謀本部の報告書。爆発後、何も残ってなかった此処に、唯一あったっていう人工的な発火装置の破片」
「あんな話を聞いた後では、ますます不自然ですね」
「政府の連中の仕業かもしれんが、アレも、もしかしたら、『隣人』の仕業じゃないか?」
「かもしれませんね。ですが何故でしょう?」
「さあなぁ。オレだったら腹いせだな」
一軒の火災で済んだところを、村四つも巻き込んだ大爆発にしてしまった。その責任は感じても、引き金を引いた相手は憎いだろう。
「だとしたら、結構人間っぽい理由ですね」
「今度また会ったら、聞いてみるか」
せっかく証拠を貰っても、犯人を追及できなかった詫びも一緒に。
扉を開けて待っていた生島から、「サインをお願いします」と紙を挟んだボードを差し出された。
「今日の夕飯は豪華ですよ。用意しておいた会食用の食材は、持たないものが多いですからね」
「そりゃいい。主賓は帰っちまったしな」
生島は訝しげにオレを見た。オレは知らん顔してボードを戻す。
「一番あくせく働かされた、オレたちで食べるのが妥当だ」
「まぁ、そうですね」
生島は、何か言いたそうな顔をしたまま、署名を確認する。
後で生島とも話さないとなと思っていると、建物の奥がガヤガヤしてきた。甲高い片山の声がするから、滝も近くにいるんだろう。
滝にはどう言うか。なにも言わないか。
明日には来るという、地方軍への対応。結局、この部隊の存続はどうなるんだろう。進退に伴う人事や予算。
あぁその前に軍法会議だ……。
見える範囲にあることから、先の見えない未来まで、やることが並んでいる状況に、軽い眩暈を覚える。
今までもずっと、同じように目の前にあったが、見えていなかっただけだろう。
そんな奴でもなんとか生きてこられたのは、色々な人に、生かされていたということだろう。
きっと、すれ違っただけの人にさえ。
ぼけっと突っ立ってる、オレの背中を押すように、まだ開いたままだった扉から、風が入ってきた。
「風が強くなってきましたね」
綾部が目を細めて、テラスを振り返る。
「そんな季節だな」
「今の季節に吹く風なんですか? あんまり冷たくはありませんね」
生島の言葉に、オレと綾部は目を見合わせる。オレは黙って、扉に向かって歩いた。
「山から降りてきた風には……」
綾部の生島に対しての説明を背中で聞きながら、オレは扉に手を掛けて外を見る。
吹いて来る乾いた風は、あの山の向こうに憧れた、子供の頃のオレを連れてきた。
『生きるためには、夢も必要だ』
父の言葉への、答も一緒に。
濃い橙色を背景に、浮かび上がる山の影。
そちらに向かって心もち頭を下げると、オレはゆっくりと扉を閉めた。
END
『いつかそれすらも神話になる日』干支ピリカ




