第一話
チャイムが放課後の訪れを告げると同時に、教室全体が解き放たれたような熱気に包まれる。
夕陽が差し込む二年の教室で、僕、榊志雄は竹刀袋を机の脇に立てかけながら、ゆっくりと息を吐き出した。
今日の稽古は放課後すぐからだ。
汗を流す準備を始めようと鞄に手を伸ばしたところで、不意に視界が暗くなった。
「志雄、今日も一緒に帰ろ?」
目の前にいたのは、碧原明穂だった。
長い黒髪をサラリと揺らし、いたずらっぽく微笑みながら僕の顔を覗き込んでいる。
制服のブレザーを綺麗に着こなし、すらりと伸びた背筋と相まって、校内でもひときわ目を引く佇まいだ。
だが、幼稚園からの幼馴染である僕にとっては、見慣れすぎているほど見慣れた笑顔だった。
「明穂か。悪い、今日はこれから部活なんだ。剣道場に行かなきゃいけない」
僕が申し訳なさそうに答えると、明穂は「知ってるよ」と可憐に唇を尖らせた。
「だから、待ってるの。志雄の稽古が終わるまで、図書室で予習でもしてようと思って」
「待つって……いつも言ってるだろ? うちの部は稽古が長引くこともあるんだから、先に帰っていいんだぞ」
「いいの。どうせ家に帰っても暇だし、志雄と帰りたいから待つの」
断固とした口調でそう言い切ると、明穂は僕の机の端にちょこんと腰かけた。
少し短めのスカートから覗く脚のラインや、ふわっと香るシャンプーの甘い匂いに、周りの男子生徒たちがちらちらと視線を送っているのがわかる。
けれど、当の明穂はそんな周囲の視線など意に介さず、僕の顔をじっと見つめていた。
「……わかったよ。じゃあ、なるべく早く終わらせるから。遅くなりそうだったらLINEする」
「うん! 約束ね」
満足そうに満面の笑みを浮かべる明穂を見て、僕は苦笑いを浮かべた。
昔からそうだ。
明穂は一度こうと決めると、絶対に譲らない頑固なところがある。
「おーい、志雄。相変わらずラブラブだなあ」
明るい声とともに、僕の肩にバシッと手が置かれた。
振り返ると、女子バレー部のアクティブなユニフォームに着替えた蒲原皐月が立っていた。
ショートカットがよく似合う健康的な美少女で、うちのクラスのムードメーカーだ。
「ラブラブじゃないって。ただの幼馴染の会話だろ」
僕が即座に否定すると、皐月の後ろからぬっと大きな影が伸びてきた。
「皐月、あんまり志雄に引っ付くな。嫉妬する」
低い声でボソッと言いながら現れたのは、バスケ部のアジサイ色のユニフォームを着た小鹿原瑠偉だ。
185センチを超える長身を少し丸め、ダルそうに首をほぐしているが、その手はしっかりと皐月の腰を引き寄せていた。
「もう、瑠偉ったら! 志雄は友達でしょ? すぐそうやって焼きもち焼くんだから」
「皐月が可愛すぎるのが悪い」
「〜〜ッ! もう、みんながいる前でそういうこと言わないでよ!」
顔を真っ赤にしてポカポカと瑠偉の胸を叩く皐月と、それを嬉しそうに受け止める瑠偉。
付き合って半年の二人は、校内でも有名なオープンカップルだった。
「やれやれ。放課後早々、ごちそうさまなことだね」
呆れ顔で二人を見下ろすように現れたのは、サッカー部ユニフォーム姿の萱場蓮斗だった。
整った顔立ちに少し長めの髪をかき揚げ、タオルを首にかけた姿は、どこかのモデルのようだ。
「蓮斗、部活いいのか? グラウンドで後輩が探してたぞ」
僕が尋ねると、蓮斗はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「大丈夫、ちょっとサボり……じゃなくて、ウォームアップの準備体操中さ。それより明穂ちゃん、今日も志雄の部活終わりを待つのかい?」
「うん! 当然でしょ?」
明穂は胸を張って答える。
「健気だねえ。どこかの鈍感剣士様は、この幸せにいつ気づくのやら」
「ん? 僕のことか?」
僕が首を傾げると、蓮斗と瑠偉、そして皐月までもが同時に深い溜め息をついた。
「……志雄、本気で言ってるならお前、相当重症だぞ」
瑠偉が呆れたように鼻で笑う。
「そうだよ志雄! 明穂ちゃんがどれだけ志雄のこと大事にしてるか、見てればわかるじゃない!」
「僕だって明穂のことは大切にしてるよ? 妹みたいなもんだし、家族みたいな存在だからな」
僕が胸を張ってそう言うと、隣にいた明穂の肩がピクッと跳ねた。
明穂は一瞬だけ切なそうな目をしたが、すぐにいつもの笑顔で僕の腕を軽く小突きいた。
「もう、志雄ったら余計なこと言わないでよ! ほら、部活遅れるよ? 早く行きなさい!」
「うおっ、押すなって。わかったから。……じゃあみんな、また明日な」
僕は竹刀袋を持ち直し、みんなに手を振って教室を後にした。
廊下へ出ると、冷たい秋の風が窓から吹き抜けていく。
(妹、か……)
歩きながら、ふと自分の言葉を反芻する。
幼稚園の頃、転んで泣いていた明穂の手を引いて家まで送った日から、僕たちの関係は何も変わっていない。
隣にいるのが当たり前で、一緒に笑うのが日常。
明穂は僕にとって、かけがえのない大切な幼馴染だ。
それ以上の関係なんて、考えたこともなかった。
◇
稽古を終え、汗を拭って着替えを済ませると、すっかり外は暗くなっていた。
時計を見ると、すでに6時半を過ぎている。
(しまっ、長引きすぎた……!)
急いで竹刀袋を担ぎ、校舎の図書室へと急ぐ。
明穂のことだ。僕が遅くなっても、きっと文句も言わずに待っているはずだ。
静まり返った廊下を走り、図書室の扉をそっと開ける。
放課後の図書室には人の気配がなく、オレンジ色の街灯の光が窓越しに差し込んでいた。
一番奥の窓際の席に、目的の人物を見つけた。
明穂は机に伏し勝ちになり、規則正しい寝息を立てていた。
開かれた参考書の上に頬を乗せ、気持ちよさそうに眠っている。
「……明穂」
声をかけようとして、僕は口を閉ざした。
静かな図書室の中で、無防備な寝顔を見つめる。
夕闇の中に浮かび上がる明穂の横顔は、僕の知っている「幼馴染の明穂」なのに、どこかハッとするほど綺麗だった。
長いまつ毛、少し開いた小さく赤い唇、そして夕光を浴びて柔らかく輝く髪。
昔は背も同じくらいで、一緒に泥だらけになって遊んでいたはずなのに。
いつの間にか、明穂はすっかり大人の女性のような雰囲気を纏うようになっていた。
ドクン、と胸の奥が小さく跳ねた。
(……なんだ、今の感覚)
胸に手を当て、戸惑いながら首を振る。
きっと、稽古で動きすぎて心拍数が上がっているだけだ。
僕は自分のジャージを脱ぎ、そっと明穂の細い肩にかけた。
すると、明穂がうっすらと目を開けた。
「……ん……志雄……?」
目をこすりながら、眠たげに僕を見上げてくる。
「わるい、稽古が長引いちゃって。起こしたか?」
「ううん……ちょっとウトウトしてただけ……。稽古、お疲れ様」
明穂はジャージの袖をぎゅっと握りしめ、僕の匂いを確かめるように深く息を吸い込んだ。
そして、ふわりと花が咲くような笑みを浮かべた。
「志雄のジャージ、温かいね」
「……汗くさかったらごめんな」
「ううん。志雄の匂いがして、すごく落ち着く」
まっすぐな目でそう言われ、僕はなんだか急に決まずくなって視線を逸らした。
「ほら、もう遅いから帰るぞ。家まで送るから」
「うん! 帰ろ!」
明穂は嬉しそうに立ち上がり、自分の鞄を抱えた。
夜の校門を抜け、街灯がポツポツと灯る帰り道をふたりで並んで歩く。
少し後ろを歩く明穂の影が、僕の影と重なり合っていた。
「ねえ、志雄」
「ん?」
「明日も、一緒に帰れる?」
明穂が少しだけ上目遣いで僕を見る。
「明日は部活休みだから、普通に帰れるよ」
「ほんと!? じゃあ、どこか寄り道していこ! 駅前に新しいカフェができたんだって!」
「いいけど、買い食いばっかりしてるとおばさんに怒られるぞ」
「志雄と一緒なら怒られないもん」
無邪気に笑う明穂を見ていると、さっき図書室で感じた妙な胸の騒ぎは気のせいだったような気がしてくる。
やっぱり明穂は明穂だ。ずっと昔から変わらない、僕の隣にいるのが当たり前の存在。
「ほら、足元暗いから気をつけろよ」
「はーい。志雄、手……繋いでいい?」
「は? 高校生にもなって手なんか繋ぐかよ」
「えー、いいじゃない! 暗くて怖いんだから!」
冗談めかして僕の制服の袖を引っ張ってくる明穂。
僕は呆れながらも、その手を振り払うことはしなかった。
家までの道のり。
静かな夜の空気に、僕たちのたわいもない笑い声が溶けていく。
この穏やかで甘い時間がずっと続くのだと、僕はその時、疑いもなく信じていたのだった。




