ウシ、58年のキャリアデザイン(明治14年~昭和14年)博多②
戸籍謄本のウシの母の欄には、
氷見ヲトと書かれていたが母の戸籍を知っていたわけではないので氷見家のことは何も知らなかった。
産褥熱でそのまま亡くなった産みの母ヲトのことは、
父から話を聞いたことはなく、
数年で変わる子守りの女たちからも思い出話などなかったので、
あとになって創られた美しい物語すらない。
実家の小さい自分の部屋の行李(こうり、大きめの籠のような物入れ)には、
小さな女の子のワンピースが何枚か入っている。
文明開化で日本は西洋風にならなければいけなくて、
東京になっていた江戸では鹿鳴館でヨーロッパではすでに古くさいデザインとなっているもっさりしたドレスを、
さほどスタイルの良くない不馴れな日本女性が着付けられて諸外国人らと共に社交ダンスを踊っていた。
明治11年には、
「これまでの和装を祭服とし正装は洋装とする」という法律もできて、
ウシのような小さい女の子も洋装が好まれ、
医学を学びに長崎に行くこともあった祖父が西洋の可愛らしいデザインの子供服を手に入れていたらしかった。
父が40歳の秋、
山口県の岩国から28歳の公務員の娘ミヨが嫁いできた。
ミヨはハキハキと思ったことを口にして私にもいろいろとうるさく言ってきたので、
ウシは懐いてあげようという気もしなかった。
ミヨが作ったご飯は味が合わなかったし、
ミヨが選ぶ着物も洋服も気分に合わないものばかりで、
髪飾りのセンスのなさと言ったら田舎臭さ満載な気がした。
なぜだかミヨが来てからは父の側に居る時間がほとんどなくなってしまい、
ウシは自分の笑顔がミヨに吸い取られたとっていたが、
祖父は穏やかに笑って近所のお団子やに連れていってくれたりした。
多分自分の人生では、
父と祖父から可愛がられて甘やかされていた10歳までに、
一生分の笑顔の時間を充分に過ごした事になっていたのではなかったかと思う。
ミヨは、
ウシが12歳のとき女の赤ちゃんを産んだので、
診療所の奥の離れで暮らす家族の時間は華やかな甘い匂いの空気が漂っていた。
父があんな顔で笑うのかと観察する
ウシには、
自分にはまるで興味のないことだと割りきって生きることにした。




