理乃の夢
車いすの転校生 大西理乃は教室では結希の隣の席であり、二人とも体育は見学と言う状況から、自然と会話する機会は多く、結希にとっては「理乃」、「結希」と呼び合う仲になっていた。転校して来た当初、結希自身は知らなかった事だが、この少女は元はフィギュアスケートの有名な選手で、不幸な事故で下半身が動かなくなり、選手生命を絶たれた状態になっていた。
いつだったか、体育見学のさなか、結希が理乃に聞いた「夢」に対して理乃が語った「私の夢は世界で活躍できるフィギュアスケートの選手になる事」、そして、その言葉に少し間を置いて付け加えられた「だった」と言う悲し気な言葉は結希の胸の中に突き刺さったままだった。
理乃の夢が突き刺さっている結希の胸をさらに揺さぶったのは、理乃の家を訪れた時の事だった。
閑静な住宅街の一角にある大きな邸宅の中、訪れた結希と由依、真に卓也が案内された部屋は窓も大きく広く、部屋の広さも何十畳もありそうなリビングだった。
真ん中には大きな液晶TVが置かれ、その周りの棚には高尚そうな本に、ガラス食器が並んでいる。そんな棚のガラスの扉の向こうに並べられている物の中に、理乃がスケートしているもの、メダルをかけて満面の笑みを浮かべているものなども並んでいた。
「メダルだよ!」
由依がガラス棚の中で輝くメダルを見つけて、指さした。首からかけられるメダルはテレビの映像の中では見ていても、結希たちが本物は見たことなどなく、その由依の言葉に結希と卓也が駆け寄った。
「本当だ」
「そりゃ、あの大西理乃だぜ」
背後で力を込めて言った真の言葉に、結希の胸に突き刺さっている理乃の夢が結希をさらに揺さぶった。誰もが知っているほどの選手で、数々のメダルを獲得した大西理乃。その才能は彼女のものであると共に、彼女を応援するみんなのものでもあったはず。だと言うのに、今は……。
「お待たせ」
リビングのドアが開く同時に理乃の声がした。結希たちが視線を向けた先には、ケーキとティーカップを持った理乃だけではなく、理乃の母親の姿があった。
結希たちが慌ててソファに着くと、ソファの前のテーブルに理乃の母親がケーキとティーカップを並べ始めた。ほんのりとした甘いフルーツの香りと、気分を落ち着かせる紅茶の香りが結希たちを包み込む。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
まじめ腐った顔つきで、理乃の母親に軽く頭を下げる結希たちの横に、理乃がうれしそうな表情で、車いすを寄せてきた。
「どうぞ。食べてくださいね。
転校して友達ができるのか、心配していたんですよ。
そしたら、すぐ出来たって言うし。それも、優しいいい友達だって言うし。
これからも仲良くしてやってくださいね」
ケーキと紅茶を並び終えた理乃のお母さんが言った。
「いえ。こちらこそ」
そう言って頭を下げた結希たち4人に、理乃の母親が言葉を続けようと、唇を動かし始めた時、理乃がそれを遮った。
「もう、お母さんはいいから、あっちへ行ってて」
理乃が車いすから体と手を目いっぱい伸ばして、自分の母親の身体をぐいっと押した。
「はい、はい」
理乃は母親がリビングを後にするのを目で追ってから、結希たちに視線を戻した。
「ごめんね。
さ、食べよう。ここのケーキ美味しいんだよ。
前いたところでは有名だったんだよ」
そう言うと、理乃が生クリームとストロベリーがたっぷり乗ったケーキにフォークを指して、一口食べた。とろけそうな理乃の表情を横目に、結希も生クリームがたっぷり乗ったケーキの端の部分をフォークですくって、口に運んだ。
理乃のとろけそうな表情が作ったものでも、大げさなものでもない事が分かる適度な甘さと濃厚さの生クリームと、ふわっとしたスポンジケーキ。
「これはまじやばい」
そう感想を漏らした結希が隣の由依に目を向けると、由依もそのおいしさに目を見開いていた。
「大西さんて、ここに来る前はもっと都会にいたんでしょ?
美味しい店とかいっぱいあったの?」
由依が身を乗り出して、理乃にたずねたのは会話のネタなんかじゃなく、ケーキのおいさに感動してだと感じた結希も、理乃の答えに興味津々で身を乗り出した。
「川嶋さんも、理乃って呼んでくれませんか?」
「じゃ、理乃。美味しい店とかいっぱいあった?」
「そうね。繁華街にも多くあったけど、それだけでなくて、住宅街にも結構美味しいお店はあったわよ」
「そうなんだ」
ケーキから三人の話は盛り上がり、賑やかな会話が続く中、話から取り残された男二人組は、ただにこにこしながら三人を見ていたが、中盤からは話に参加し、男子ならではの面白い話で理乃を楽しませ、結希たちは楽しい一時を過ごした。
理乃の家を訪ね、理乃の過去の実績を知り、話をした事で結希は理乃のすごさを知った。そこには才能もあるだろうが、努力もあったはずだ。それはきっとスケートが好きで、理乃が以前に言ったように、世界で活躍できるフィギュアスケートの選手と言った夢を実現するためだったに違いない。
夢を果たせず、今のような状態となった事は理乃にとって、計り知れない挫折だったと結希は思っていた。
理乃の家を後にし卓也や由依と別れ、二人っきりになると結希が真の前に回り込み、真を見つめた。
突然の結希の行動に真が立ち止まり、少し驚いた顔で結希を見つめる。
「ねえ、真。
理乃ってさ、このままなのかな?」
結希が真に目を合わせることなく、空でも見るかのように少し上を向きながら、呟くような小さな声で言った。
「かわいそうだけど、神経が切れているって事だから、治らないだろうな」
真も結希に視線を合わすことなく、独り言のようにそう言った。
一瞬の沈黙の後、結希は一人強く頷くと、きりっとした表情で、真を見つめながら、自分の右の人さし指を突き出した。その仕草と結希の表情で、真は結希の言いたいことは分かったが、すぐに賛同する事はできないでいた。
「しかし」
「でも、これを使えば治せるよね?」
真に向けた強い視線に、ゆるぎない決意を結希は示していた。