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Pandora(改稿版)  作者: あすか@お休み中
第1章:すべてを与えられし少女
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悲劇のはじまり

 そこはこの都市で一番大きな街を少し外れた緑多い場所だった。その敷地の中には何棟かのコンクリート造りのビルが点在していて、いくつかの建物はよく言えば歴史を感じさせる、悪く言えばおんぼろだった。入り口に遺伝子研究棟と言う看板が掲げられたそんな歴史を感じさせる一つの建物の正面玄関のガラスドアの数m手前で、結希の祖父 小田哲也は目を閉じ、数分間ずっと立ち止まったままだった。

 一歩を踏み出せずにいる間、小田の心中には昨夜、自分が出した決断に対する迷いが渦巻いていた。


 自分が出した決断。

 それは結希の指に埋め込まれた息子 悟志が開発した遺伝子治療を使って、結希の友達 大西 理乃と言う少女を治療する事。だが、小田はただ結希の願いに応える事だけを考えて、決めた訳じゃなかった。結希自身を元の普通の女の子に戻すために、決めたのだった。

 しかし、悟志の研究を実行に移すには、誰かの力を借りなければならず、その者は悟志の研究の全てを知ることになる。それはこの社会の秩序を乱す力、一言でいえば天下を盗る力を得る事を意味する。


 力を手にした多くの者が心を闇に蝕まれ、悪に染まっていく。今の大統領 松下もその一人である。それだけに、これを任せる人物の選定には細心の注意が必要であり、小田が出した結論は、目の前の研究棟にいる小出教授だったが、本当にこの人物に任せて間違いはないかと言う頭の中での再検証に時間を要していた。


 小出幹夫、50代半ば。

 育った家庭自身が医院を複数持つほど地域では有名な開業医であり、育ちがよかったため、金銭欲と言うものはほとんど無かったと小田は記憶していた。

 そんな小出が職業柄、十分すぎる収入を得ており、そのお金を貯めこむことなく、下の者に気前よく使うと言う噂も度々耳にしていた。

 すでに親は亡く、一人いる兄もこの国最高と言われる大学の教授である事や、小出自身の子どもたちも独立した医者となっている現状を考えれば、金銭欲に囚われる素など、小出の周りには無い。そして、人柄は悪く言えばぼんぼん育ちのため、人に対する攻撃性もほとんどなく、いい人である。

 やはり、彼しかいない。

 小田の腹は決まった。


 小田はガラスでできたドアを押して、中に進んでいった。目的の小出の部屋を目指し、エレベータで5階に向かった。

 迷いを見せず、エレベータを5階で降り、小出の部屋の前まで進んだ小田だったが、ドアをノックしようと、右手の拳を握りしめたところで、再び動きを止めた。

 深く息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出すと、ドアをノックした。


「どうぞ」


 部屋の中から言葉を確かめると、ドアを開け部屋の中に入って行った。


「お久しぶりです。小出先生」

「こちらこそ。小田先生。

 お元気そうで、何よりです。

 で、お話があると言うのはどのような?」


 小出と呼ばれた50代前半の細身の男性は机に向かって座っていたが、椅子から立ちあがり、部屋の中ほどにある応接セットに向かい始めた。軽い笑みを浮かべてはいたが、その顔立ちには知性と品位が伝わってくるものがあった。


「どうぞ」


 応接セットの前に来た小出が右手を差し出し、座るよう促す仕草をしたので、小田がソファに腰を下ろすと、その前にある小さなテーブルの向かい側のソファに、少し遅れて小出も座った。


「実はですね」


 ほんの少しだけだが、まだ迷いがあった小田が言葉をそこで一瞬止め、小出を見つめた。

 小田に向ける小出の表情に曇り一つない明るさを感じ取った小田が最後の迷いを消し去り、言葉を続けた。


「私の孫の友人に、脊椎を損傷して神経を痛めたため、車いすで生活している子がいるんです。

 で、先生にお願いしたいのは、その子をもう一度普通の生活ができるようにしてやって欲しいんです」


 小田の言葉の途中から、小出としては小田の話を遮りたかったが、先輩格相手への遠慮からそれだけはしなかったが、首を傾げ怪訝な顔つきで、その心の中を伝えていた。


「はあ。

 お話の主旨は分かったのですが、私は先生とは違って、医者ではありませんよ。

 外科的な手術でしたら、それは先生の分野でしょう」

「医者では治せないから、こうしてお願いに参っているんですよ。

 神経が損傷しているのですから」

「よく理解できませんが」

「私の所に、人の治癒能力と再生能力を劇的に高める遺伝子情報があります。

 その遺伝子を組み込めば、組み込まれた人間の治癒、再生力は信じられないほどのものとなります」


 小出の目が見開いたかに見えたが、すぐに首をかしげた事に小田は気づいていた。


「そんな遺伝子があったとして、治療を欲している人間にどうやって、その遺伝子を埋め込むのか?

 そう思われましたですよね?」


 小出は黙って頷いてみせた。


「特殊な遺伝子改変したファージを使うんです。

 このファージが細胞に侵入し、元々の細胞の遺伝子の一部を切断し、別のものに置き換えるんです」

「あ!

 それはあの小田悟志先生が研究していた」


 小出の表情から疑いの色は消え去り、大きく目を見開いて立ち上がり、身を乗り出していた。


「あれは完成していたのですか?

 実験中に失敗して、全てが灰燼に帰したとの事でしたが」

「すでに完成していたのです。

 大統領に目を付けられたため、息子自身が闇に葬った技術です」

「あの火事はただの火事じゃなかったと言う事ですか?」


 小田は言葉ではなく、頷くだけで返したのは、その事の裏にある重すぎる事実に触れられたくなかったからだったが、頭の回転が速い小出は気づいていて、ぼそりと言った。


「多くの人の血をもって隠され続けてきた技術」


 自分の息子が多くの命を奪ったと言う事実を表す小出の言葉に、小田は何返さなかった。


「なるほど。

 で、その治癒、再生能力はどのくらいですか?」

「たとえば、銃で撃たれてもすぐに治癒、再生してしまうくらい」


 真顔でそう言う結希の祖父に、小出は一瞬考え込んだ後、笑い始めた。


「ははは。

 先生、さすがにそれはないでしょう。

 SF映画かアニメの見過ぎかなにかでは?」


 目の前で手のひらを振って、あり得ないと態度でも信じていない事を表している小出に、小田が真剣な表情でゆっくりと話しはじめた。


「いいえ。

 まちがいありません」

「うーむ。それでも、信じがたいが、そこまで先生がおっしゃられるのなら、事実なんでしょう」


 そう言った後、黙り込んで考え込んでいる小出に、小田は鞄から取り出したホッチキスで束ねられた資料を手渡した。そこには悟志が開発した技術の概要が記されていた。


「お読みください。

 その技術の概要です」

「では」


 そう言って、手を差し出した小出の手が小さく震えているのは、この技術が持つ意味と、それを手にする事の意味を理解しているからに違いない。小田はそう言う人物こそ、この技術を持つに好ましいと考えていた。

 小田から受け取った資料に目を通し始めた小出は、資料を読み進めるに従い、目が見開いて、驚きの表情になり、最後まで読み終えると、小田に真剣なまなざしを向けた。


「大体の事は分かりましたが、本当に危険はないのですか?

 この技術は実証ずみなのですか?」

「ええ。大きな声では言えない事ですが、すでに私の息子が実験を繰り返し、今もこの技術で遺伝子を書き換えられた者が二人おります」


 小出の顔に驚きの表情が浮かんだ。


「すぐには信じられない話ですが、具体的な情報をいただければ、早速動物実験を開始しましょう」


 小出の言葉からは乗り気になった事が感じられたが、小田は小出の言葉を否定するかのように、首を横に振った。


「それは無駄です。

 書き換える遺伝子の場所は人間のその目的の場所にチューニングされています。動物に適用しても、全然違う場所が書き換えられ、どんな事になるか分かりません」

「なるほど。

 とは言え、人間に近い生き物でできる可能性はあると思うのですが」

「すみません。私は専門外ですので、詳しい事は分かりません。

 ただ、その結果が成功しなかったからと言って、手を引かれては困ります。

 情報をお渡ししますので、それに従って、やっていただけませんか?」


 小出は目を閉じ、何か考え込み始めた。即断できない慎重さの裏には、人命に対する尊重があると感じた小田は小出に対しさらに好感を抱いた。


「動物実験も無しにやるのは危険すぎる。

 今しばらく、考えさせて下さい」

「分かりました」


 小出の口から出たのは拒否の言葉ではあったが、そう言ってソファから立ち上がった小田に落胆の表情は微塵もなく、十分明るかった。その理由の一つは完全な拒否ではなかった事、そしてもう一つは人命を尊重する態度から、信頼できると確信したからだった。もし、この技術に魅せられら、人命も顧みず、技術を欲しがる相手だったなら、技術を手にした事で心を闇に落とすに違いなかった。

 部屋のドアの手前で小田は振り返り、にこやかな表情を小出に向けた。


「今日はこの辺で失礼いたしますが、よい返事をお待ちしております」


 そう言い終えると、一度頭を軽く下げ、小田はその部屋を後にした。

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