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ヤンキー生誕

【過去編・前日譚】:漂白された箱庭への、消えない苛立ち


 深夜の三鷹の一軒家は、底冷えする沼の底に似ていた。

 リビングのソファの前、父親の背中はここ数ヶ月で一回りも二回りも小さくなったように見える。


 あの女が、クローゼットのハンガーを全て空にして、見知らぬ男のミニバンに乗り込んで消え去ってから、父は生きる屍になった。怒鳴り散らすわけでもなく、涙を流すわけでもない。ただ、仕事から帰ると服も着替えずにぼんやりと座り、虚空を凝視し続けるだけの機械。


 私と目を合わせることもない。私が夜中にどんな思いで部屋にこもっていようが、どれだけ荒んだ視線を投げかけようが、父の瞳は何も映さず、私をただの背景として透過させていた。


「……なんか言ったらどうなんだよ」


 わざとぶっきらぼうな声をぶつけても、父の肩が微かにぴくりと震えるだけ。それ以上は何の反応も返ってこない。

 その煮え切らない、死人みたいな態度が、私の胸の奥にある黒い感情をさらに激しく逆撫でする。

 家の中に、私の居場所なんて最初からなかった。あの女がいた頃は、まだ「偽物の家族」を演じるための最低限のルールがあったけれど、その皮膜が破れた今、ここにあるのはただの冷え切ったセメントの箱だ。

 自分の部屋に戻り、乱暴にドアを閉める。

 壁にかけた鏡の中に映る自分の顔を睨みつけた。

 生まれつき色素が薄く、放っておいても茶色く浮いてしまうこの髪の毛。睨みつけるようなきつい目つき。ただ普通にしているだけなのに、昔から勝手に「ヤンキーみたい」「関わると怖そう」とレッテルを貼られてきた、この見た目が大嫌いだった。

 

 本当は、ただ不器用なだけだった。


 他人にどう話しかけていいか分からない。クラスの連中のように、思ってもいないお世辞を言い合ったり、流行りのものに必死にしがみついて周囲に同調したり、自分を偽ってまで人に合わせるのが、たまらなく嫌だっただけなのに。

 

 あの女が男と逃げたことで、私の周囲に張り巡らされていた「話しかけづらい」という壁は、決定的な孤立へと変わった。


「あいつらも、この家も、全部ぶっ壊れればいいのに」


 ベッドに倒れ込み、天井の染みを見つめながら、私は爪が皮膚に食い込むほど拳を握りしめた。脳裏に浮かぶのは、明日もまた行かなければならない、あの息の詰まる教室の風景だった。


 朝、最悪の気分で目覚め、私は重い足取りで登校した。

 校門を潜る瞬間から、周囲の視線が突き刺さる。けれど、その視線には明確な「敵意」や「攻撃性」はない。そこにあるのは、動物園の猛獣の檻を遠巻きに眺めるような、あるいは道端に転がっている不発弾を避けて通るような、卑屈で生ぬるい「腫れ物扱い」だった。

 私が教室のドアを開けて入っていくと、それまで騒がしかった空間が一瞬だけ、不自然に凪ぐ。

 教室内で繰り広げられているのは、徹底的に管理され、漂白された「正しい高校生」たちの学芸会だ。流行りのSNSのダンス動画を真似てキャッキャと笑い、次の定期テストの範囲がどうだの、どのブランドのスクバが可愛いだの、反吐が出るほどくだらない、薄っぺらな平穏。


「あ、おはよう……」


 隣の席の女子生徒が、引きつった笑みを浮かべて蚊の鳴くような声で挨拶してくる。

 その瞳の奥には、「話しかけづらいヤンキー」に対する恐怖と、「母親が男と逃げた家庭環境の悪い子」に対する、底知れない蔑みが透けて見えていた。


「……」


 私は何も言えず、ただ黙って机にカバンを置いた。

 無視したわけじゃない。どう返事をして、どんな顔をすればいいのか分からなかっただけだ。けれど彼女はびくりと肩を竦め、それ以上は一切関わろうとせず、すぐに前を向いた。

 クラスの連中は、私のことを完全に「関わってはいけない人間」として処理していた。

 私の周囲にだけ、目に見えない透明な壁が張り巡らされている。誰も近づかず、誰も目を合わせず、ただ私が暴発しないことを祈りながら、生ぬるい親切の仮面を被って遠巻きに眺めているだけ。

 休み時間、廊下を歩けば、私の背後からひそひそ話が聞こえてくる。


「ねえ、あそこの家、マジでやばいらしいよ。お母さんが男作って夜逃げしたって」


「うわ、だからあんなに荒れてるんだ。見た目もヤンキーだし、近寄らない方がいいよね、何されるかわかんないし」


 振り返ると、そこにはさっきまで楽しそうに話していた優等生グループの女子たちがいた。私と目が合った瞬間、彼女たちは一瞬で顔をこわばらせ、何事もなかったかのように笑顔を作ってすれ違う。

 その、保身のためだけの汚い笑顔を見るたびに、私の胃の底からドロドロとした硫酸のような苛立ちがせり上がってくる。


(何もしてねえだろ。勝手に怖がって、勝手に被害者ぶってんじゃねえよ)


 あいつらは、自分たちが「正解の側」にいることを疑わない。恵まれた家庭、優しい両親、計画的な未来。その安全圏の中から、勝手に私を腫れ物として排除する。その清潔な悪意が、私の皮膚をじわじわと焼き焦がしていくようだった。


 授業中、私は机に突っ伏したまま、ただ窓の外を眺めていた。

 前に立つ教師たちの声は、私の耳にはただの不快な耳鳴りにしか聞こえなかった。


「おい、そこ。ちゃんと前を向け」


 眼鏡をかけた初老の数学教師が、申し訳程度に私を注意する。だが、その声には一切の熱量がない。私が黙って前を向くと、彼はそれ以上何も言わず、何事もなかったかのように授業を再開した。

 学校という組織にとって、私は「いつ問題を起こすかわからないリスクファクター」でしかなかった。担任も、私の家庭環境が崩壊して不登校気味になってからも、個別の面談で吐き出すのはマニュアル通りのセリフだけだった。


「色々大変なのはわかるが、出席日数が足りないと卒業できなくなるぞ。お父さんも心配しているぞ」


 心配? 誰が? あの、ただ空っぽになって座っているだけのあの男が?

 よくもまあ、そんな嘘を平然と吐けるものだと、教師の綺麗に整えられた髪型を見つめながら思った。彼らにとって重要なのは、私の人生がどうなるかではなく、自分の受け持つクラスから「ドロップアウトした問題児」を出して、自分の査定に傷がつくかどうか、ただそれだけだ。


「綺麗事ばっか言って……」


 教室内で小さく呟いた言葉は、誰にも届かない。

 窓の外、五月の生ぬるい風が校庭の砂を巻き上げている。

 教室内は、エアコンの効いた快適な温度に保たれているというのに、私はここにいるだけで窒息しそうだった。

 周囲のクラスメイトたちは、楽しそうに笑い合っている。彼らが目指す「正しい未来」と、私が今立っている「底なしの泥沼」。その間には、どれだけ手を伸ばしても届かない、絶対的な隔絶があった。

 あの女が男と逃げたことで、私の家庭は終わった。そしてその瞬間から、学校という箱庭もまた、私を異物として吐き出すための巨大な消化器官へと変わった。

 あいつらの凡庸な幸せ、親に守られた温室育ちの笑顔、すべてが憎かった。そして、ただ周囲に合わせられないだけで孤立していく自分自身が、何よりも、死ぬほど忌々しかった。


 決定的な瞬間は、ひどくあっけなく、必然のように訪れた。

 梅雨が始まる直前の、じっとりとした湿度を帯びた日の体育の授業だった。

 バレーボールの試合をするため、チーム分けをすることになった。クラスのリーダー格の男子や、取り巻きの女子たちが、楽しそうに「じゃあ、次〇〇ね!」「私、あっちのチームがいい!」と、自分の身内を囲い込んでいく。

 元から「話しかけづらいヤンキー」として腫れ物扱いの私に、自ら「おいでよ」と声をかけるようなお節介は、この教室には一人もいない。

 私は体育館の壁に背中を預け、腕を組んで、その楽しげなチーム分けを冷めた目で見つめていた。

 やがて、チーム分けが終わり、私は当然のように「余り物」としてその場に残された。

 体育教師が、面倒そうに頭を掻きながら、クラスの優等生グループの女子たちのチームを指差した。


「おい、お前ら。そこ、一人足りないだろ。こいつを入れてやれ」


 その瞬間だった。

 指差された女子生徒たちが見せた、一瞬の、本当に微かな「嫌悪と拒絶の表情」。

 まるで、綺麗に掃除されたリビングの床に、泥のついた野良犬が上がってきたかのような、あからさまな不快感。彼女たちはすぐにその表情を隠し、保身のための「正しい笑顔」を張り付けた。


「あ、はーい。おいでよー、一緒にやろ?」


 その、生ぬるくて、反吐が出るほど偽善的な声。

 私を「関わりたくない可哀想な子」として、義務で迎え入れてやっていると言わんばかりの、その傲慢な態度。


 私の中で、何かが完全に爆発した。


 胸の奥で燻っていたすべての苛立ちが、一瞬で純粋な破壊衝動へと変わる。

 無理に笑って合わせるくらいなら、こんな場所、こっちから願い下げだ。


「……誰がいくかよ」


 体育館の床を強く蹴り、私は出口に向かって歩き出した。


「おい! どこへ行くんだ、戻れ!」


 背後で教師が怒鳴り声を上げる。クラスメイトたちの、驚きと「やっぱりあいつは異常だ」という確信に満ちた視線が背中に集まるのがわかった。だが、私は一度も振り返らなかった。

 更衣室に入り、制服のシャツを乱暴に引っ剥がす。ボタンが一つ、床に転がって乾いた音を立てたが、どうでもよかった。


 カバンを掴み、校門へと走る。

 

 漂白された教室。死んだ父親。男と逃げた母親。

 そのすべてに対する強烈な拒絶が、私の足を加速させた。

 

「お前たちがそんなに『正しい』なら、私は徹底的に汚れてやる。あいつらの想像もつかないくらい、ドロドロの泥沼に沈んでやる」


 校門を飛び出した私の目に映ったのは、灰色の雲に覆われた三鷹の空だった。


 私はそのまま家に引きこもり、数日後、カミソリで黒髪交じりの髪を乱暴に切り落とした。ドラッグストアで買った一番安いブリーチ剤で、頭皮が焼けるような痛みに耐えながら、不器用な手つきでムラだらけの金髪に染め上げた。それは、周囲の「正しい日常」に対する、私なりのせめてもの反抗のつもりだった。


 あの、すべてを泥濘で塗りつぶすための、歌舞伎町の夜へと向かう準備は、この時すでに完了していたのだ。

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