長畝揚羽
◇ ◇ ◇ ◇
始業の鐘が鳴る五十分以上前。一部の運動部連中が朝練に励んでいるような時間帯に、早起きをして教室に来るのが最近の俺の日常となりつつあった。
当然だが、用もなくこんなことをしているわけじゃない。
俺ともう一人。クラスを飛び越えて学年レベルで全科目の成績トップを誇る女子と机を挟んで向かい合う。
彼女の顔は知らなくても荒輪井保呂という彼女の名前だけは、掲示板に貼り出される成績上位者の一覧で知っている生徒も多いことだろう。そんな風に男女が二人きりになったからといって、いかがわしいことなど一つも無い。
俺達の間にあるのは愛情や友情のようなぬるい関係ではなく、もっとビジネスライクなものだった。
彼女が眼鏡の縁を持ち上げながら原稿用紙から視線を外すのを見て、俺はおそるおそる、声を掛けた。
「どう……だった?」
「うん。いつもどおりつまらないね。君、烏森伝馬の書くおはなしは」
「そっか。何かアドバイスとか、いただけますか?」
「なんていうか。そもそも構成としてなってないよ。面白いと思わせるだけの要件を満たしていない、っていうのかな」
トントンと机の上で端を整えられた手書きの原稿用紙を受け取りながら、俺は落胆して溜息を吐き出した。
今回の作品がダメダメだったのは、読んでいる最中の彼女を見れば一目瞭然ではあった。
だってなにせ、ギャグ小説を書いたつもりだったのにそれを読む彼女の眉はピクリとも動かなかったのだから。
最近数千円で購入したシュール系小説に感化されて挑戦してみたものの、俺にはどうも向いていないような気がしてならない。
とりあえず今日帰ったら、前に書きかけで筆を止めていたファンタジー物の続きを書いてみようか……と思い、ひっそりと拳を握りしめていると、そんな様子を見て彼女は呆れたような顔をした。
「まあいろいろなことに挑戦するのは結構だがね。この程度の小説は市場に出したとて小遣いにもならないよ」
「それは……分かってるよ。俺の才能のなさぐらい、俺が一番分かってる。それにそもそも、俺は稼ぎのために書いてるわけじゃない」
「いいや、分かってないね。君は何にも分かっていない。そもそもだね……」
彼女は淡々と、教科書に載っているような……あるいは少し調べれば出てくるような。そんな事実を当たり前のように語り出した。
生成AIという技術が発達発展することで、人間の創作性に意味は失われつつあった。
高性能なコンピューターとソフトウェアを用意して、ポチッとボタンを押すだけで、人間にはとても作り出せないような素晴らしい作品がインスタントに生成される。
同じ本を数万部印刷して販売されるような時代が、あるいはWebサイトで作品を公開して、数千数万の人が同じ作品を読むという時代が、かつてはあったのだとか。
しかもなんと羨ましいことに、その時代は小説を読むのにお金を払う必要が無かったらしい。
「まあこれは、あらゆる小説が生成AIの学習素材になったのが原因だけどね」
とは、彼女の推測だ。
現に俺が書いたいくつかの駄作でさえも、生成AI学習データとしてそれこそ二束三文程度の値段がつく。
もちろん俺なんかの書いた小説を学習してもそれだけで小説を書けるようになることはない。というかむしろ、人間の書いた駄作は「つまらない作品」として反面教師に使われるらしい。
その話を聞いて、俺は作品を公開するのを止めたわけだけど。
彼女の演説じみた俺への説教は、徐々に教室に人が集まるにつれて落ち着いていく。
俺以外の前で被っている真面目な生徒の仮面を付け直した彼女は、席に戻ろうとする俺に静かな声を掛けてきた。
「そういえばもう一人。君のライバルちゃんは? 最近彼女の作品は読んでいないけど」
「あいつは……どうしたんすかね」
保呂が言っているライバルちゃんというのは、俺の幼馴染みでもある女子のことだ。
長畝揚羽。
中学時代から共に「小説家を目指す」という同じ目標を持っている同志だったのだが……
「今度会った時にそれとなく聞いとくよ」
そう言って、俺はいよいよ自席に戻る。
俺が小説を書いているなんて、彼女達友人二人以外には、家族にすら伝えていない。
彼女は模範的な優等生に戻り、俺はやや不真面目な不良生徒に戻る。
噂をしていた隣クラスの彼女がここ数日学校を休んでいると聞いたのは、この日の授業を終え家に帰った時のことだった。
◆ ◇ ◇ ◇
「伝馬くん。揚羽ちゃんが最近学校休んでるって、聞いてる?」
子供の頃から呼ばれ続けているあだ名で呼ばれることに思春期特有のむず痒さを覚えながら、俺は「え、そうなの?」と問い返した。
最近会っていないとは思っていたが、休んでいるなんてことは初耳だ。
性格はともかく顔は良いから噂ぐらいにはなるかと思っていたのだが……クラスが違うという壁は、その程度の情報は遮断してしまう程度には分厚いらしい。
新情報に驚くばかりで心配する様子のない俺を見て、母親は「はぁ」と情けなさそうに嘆息した。
「テンくん、アーちゃんと仲良かったでしょ? ほら。家も近くだしお見舞い行ってあげなさい?」
「いいよ、そんなの。そ、それに仲が良いって言っても、そういうのじゃねーから」
「良いから! 行きなさい!! あ、そうそうちょっと待って……」
有無を言わさぬ母の横暴に、俺は仕方なく脱いだばかりの靴を履き直した。
高校に入ってから使い始めた革靴は、半年近くたってようやく足に馴染みはじめていた。
トントンと爪先で床を突いて調節していると、リビングに行っていた母親が紙袋を持って戻ってくる。
「これ、アーちゃんが好きだったゼリーが入ってるから。持って行きなさい」
「ああもう、分かったよ。行ってくる、すぐ戻るから」
「ごゆっくりしても良いのよ? 遅くなるなら連絡だけ頂戴ね」
母親の意味深な笑顔を俺は無視して、学校の鞄を玄関に放り捨てて外に出る。
たしかに小学校から中学校まで俺と揚羽は仲が良かったが、それはいわゆる男女の仲とはちょっと違っていた。
男女の友情は成立するかという問いは、互いが異性と意識し合わない限りにおいて成立する。
そしてその関係は、今もなお俺と揚羽の間には維持し続けていた。
毎日通っている通学路を逸れて、揚羽の家に向かって歩く。久しぶりな気もするし、かと言って特別な感情は浮かばなかった。
母親が激推しする程度には、揚羽は美人の類いであった。
ドアホンを鳴らすと戸を開けて現れた久方ぶりの彼女を見て、俺はその事実を改めて認識する。
長く真っ直ぐな黒髪を手で耳に掛けると、そういうVTuberかと思うほどに整った顔が現れる。
表情は疲れ切っていて、コンタクトではなく縁の太いスクエア眼鏡を着けている。
完全OFFでもこの魅力なのだから、高校ではさぞモテているのだろう。
揚羽は俺の姿を確認し「なんだ、烏森か」とつまらなそうに口にしながら、玄関を開けたまま家の中に引っ込んだ。何も口には出さないが、以前の流れで考えると「入れ」と招かれたのだろう。
「おじゃましまーす……」
玄関には彼女のローファーが几帳面に並ぶ以外は何もない。家族はまだ帰宅してないようだ。
二人きりになったからといって今更思春期じみた反応をすることもないが、それとは別に薄ら寒さのようなものを感じて緊張してしまう。手の中に汗が溜まっているのに気づき、俺は「ははは」と誤魔化すように笑い飛ばそうとした。
ゆったりしたルームウェアを着た揚羽は振り返りもせず階段を上り自室に入る。懐かしい気持ちになりながら俺も彼女の後を追う。後ろ手に扉を閉めると、彼女は勉強机の椅子に腰を下ろして俺を睨み上げてきた。
「なに、何しに来たの」
「なにって……学校を休んでいるって聞いたから。でも元気そうでよかったよ。ああこれうちの母からお見舞いだって」
「そ。その辺置いといて。用が済んだなら……帰って」
ただその一言だけを残して彼女は椅子を回転させ、卓上のPCに身体を向けた。
カタカタとタイピングをする様子から新作の小説でも書いているのかと思い、俺は「帰れ」という言葉を無視して後ろからのぞき込む。薄暗い部屋の中、画面に映っていたのは明らかに小説ではない超長文の文字列だった。
彼女がエンターキーを叩きつけるとタワーのように積まれた高性能PCが「きゅーん」と叫び、人ならざる速度で作品を産みだしていく。
揚羽はその小説をさらさらとスクロールしながら読み流す。俺では追いつくこともできない速読を終えると「はぁ」と面白くなさそうに息を吐き、椅子を軋ませながら隣に立つ俺を見た。
「カス……まだいたの」
「うっせー、悪いかよ。なに、最近はAIで書いてるの?」
「悪い? こんなでも、カスより面白いのが書けるのよ、馬鹿みたいでしょ」
「そりゃ事実だろうけどさ。その言い方はひどくない?」
「真実だもの、しょうがないじゃない。人が数時間かけて練り上げるのをこいつはたったの数秒で……ふふっ、ほんと、馬鹿みたい」
揚羽は自嘲するように笑いながら、PCのマウスを握る手に力が入り、軋み音を立てながら手の甲に血管が浮き上がる。肩は震えるが涙は流れない。
俺がしばらく言葉を失っていると、彼女は手を離し、真っ直ぐに俺を見た。
「ねえカス、あんた書籍沢山持ってるでしょ。わたしにくれない? それぜんぶ」
「ぜんぶ……って、何言ってるんだよ。そんな一度に渡したって読み切れるわけないだろ」
「読むのは私じゃない、この子。私の本を全部喰わせても足りないの……ああ、本、本が欲しい、この子を育てる餌が!」
かつて俺の親友とさえ思っていた彼女とは思えない、鬼気迫る顔に俺は気圧され言葉を失った。
眼鏡の奥で揚羽の瞳がギラと輝いて、蛇に睨まれたように手足がしびれ、動けない。
「じょ……じょうだん、だろ? AIの学習に使うってことは、本の所有権を捨てるってことなんだぞ?」
俺が紙に書いて執筆する小説と違い、一般に販売されるノベルデータには複製制限が設けられている。
自分で使う限りは無限回数読み返せるが、他人に譲渡した瞬間に元データは消失する。生成AIの学習素材に利用した場合もまた、それは同様だ。
歴史的な経緯がいろいろ重なって、娯楽小説のほとんどは文字通りの消耗品と化したのだ。
執筆家であると同時に読書家でもあったはずの彼女が、魂のすべてをAIに喰わせたと聞いて、俺は困惑よりも先に動揺してしまった。その中にはかつて互いが幼かったころに交換した作品も含まれるはずで、怒りではなく悲しみが湧き上がる。
「そっ……か」
憐れむような、見下すような、そんな音が俺の喉を震わせた。
座ったまま飢えた獣のような顔で見上げてくる彼女は、俺の声を聴いて一瞬だけ怯えたような表情を浮かべ、後ずさりする俺を見て「ひひ、ひ」と口角を引き攣らせる。
コンピュータがフィンフィンと不気味に囀る。親に餌をせがむ雛鳥のように。肩甲骨に壁が触れる。
AIで小説を書く人を否定するつもりはない。現に俺が今までの人生で読んできた小説のほとんどは誰かがAIで出力した作品だ。AIでは人間の作品を越えられない。などと言われた時代は昔のことだ。今の作家のほとんどはAIのコントロールに心血を注いでいる。むしろ俺は彼らに感謝しているし、彼らのことを尊敬していると言っても過言ではない。
だから揚羽がAI小説運用に手を出すと言っても止めるつもりもないし、そもそも他人事に口を出す権利もない。
ただ単に、馬鹿なことを一緒にやる仲間だと思っていた親友が離れていくのが、怖かっただけなのかもしれない。
手の指先がドアノブに触れて扉が開き、バランスを崩して俺は廊下に尻餅をつく。そのまま這うように手足で床を蹴り部屋から逃げ出した。
階段を滑るように降り玄関にたどり着き、靴のかかとをつぶしながら振り返りもせず、走る。短距離走を全力で駆け抜けて家に帰ると、母親が「おかえり、今日は肉じゃがよ」と呑気に出迎えた。
俺の部屋に入って閉じこもると、マナーモードのスマホがブーッと振動した。通知を見ると揚羽から「忘れて」というメッセージがあった。俺は既読すらつけずにスマホを机の上に放り捨て、悪夢を上書きするように布団の中へと逃げ込んだ。
◇ ◆ ◇ ◇
「ふう、読ませてもらったよ」
いつも通りの時間に登校していつも通り彼女に原稿を渡したが、彼女の表情はいつも以上に険しいものだった。
反応が怖くて何も言い出せず縮こまっていると、彼女は紙束を返しながら抗議するような目を俺に向けてくる。
「ふざけるなよ、ボクだって暇じゃないんだ。真面目に書く気が無いなら、もう読ませてくれなくて構わないから」
声のトーンは全く変わらない。だが彼女が怒りに震えているのが、付き合いが長いからかはっきりと伝わってきた。
ぐうの音も出せない俺に対して、彼女は俺と目を合わせようともせず黒板を真っ直ぐ見つめ、たたみかけてくる。
「技術が足りないなら良い、だが気持ちが入っていないゴミを読まされる側の気持ちにもなりたまえよ」
「気持ちが……入っていない、か。確かにそうかもしれないな」
昨日の出来事があってから、俺は何をするにも集中できない状態だった。
予習復習なんかのやらなきゃいけないことが終わって、いざペンを握っても言葉が走らない。
昨日までは書きたいことが多すぎて時間が足りないことを悩んでいたのが嘘のように、何も浮かばなかった。
信念も持たずにインクを無駄にしただけの作品を読まされたのだから、怒りに震えるのも仕方ない。
だが彼女は結局声を荒げることはせず、かといって冗談めかして誤魔化すこともせず。なんでもないようにチラリと視線をこちらに向けた。
「それで何があった? もしかして休んでいる、件の彼女に関係することかい?」
「な、なんでそれを……」
「一体ボクが、今までに何回キミの駄作に付き合わされたと思ってるんだ。わかるさそれぐらい。またどうせ告白でもしてこっぴどく振られただとか、そんなところだろ?」
「いやそれは、てんで違うけど……」
俺の応えを聞いて、彼女は「なんだ違うのか」と少しだけ恥ずかしそうに声色を赧らめた。
一瞬だけ胸をなで下ろしているように見えたのは俺の錯覚だろう。
揚羽のことを相談すれば楽になる気がしたが、これは彼女自身の個人的な問題でもあるので結局言い淀み、甘酸っぱいような気まずい空気が教室に漂った。
ああ、今日はもう何もかもがダメダメだ。頭は上手く回らないし親友にはダメ出しまでされた。
人生史上で最悪の日を決めることがあるなら、間違いなく今日という日はその候補になるだろうというほどの厄日。
帰って寝て、すべてをリセットしたい気分になるが、高校生という生き物にはそんな自分勝手も許されない。
とにかくもう、ひとまず自席に戻って大人しくしていよう……などと考えた矢先、「ふん♪ふん♪」と楽しげな鼻歌とスキップするような足音が近づいて、俺と彼女は同時に顔を廊下に向けた。
ガラガラッと教室の扉が開いて一人の女子が入室し、彼女は俺達を見て「おややぁ?」と目を細めながら驚いた顔をする。
「あれぇ? 荒輪井さんと、カスっち? おはよー……はやいねぇ、二人とも。今日はアユチが一番だと思ったのに!」
「おはようございます、天塚さん」
「……はよーっす」
保呂は優等生らしくハキハキと挨拶を返し、俺は劣等生らしく口籠もった返事をした。
変な誤解を招かないようにとっとと席を離れると、彼女、天塚阿由知は保呂の席に置きっぱなしとなっていた原稿用紙に目を向け飛びついた。
「荒輪井さん、それなに? もしかして、小説?」
「え、ああこれはね。なんでもないよ、天塚さん」
「見せて、見せて! うふふ、あたしこう見えて本とか結構読むんだよ!!」
ぐいぐいと距離を詰める天塚さんに、保呂は困ったような態度で接し、助けと同意を求めるような顔を俺に向けてきた。
俺は彼女に「しかたないから、いいよ」とジェスチャーで伝えると、保呂は天塚さんに紙束を手渡した。
「ふんふん……ふーん?」
天塚さんが俺の小説を興味深そうに黙読するのを、俺は緊張した面持ちで盗み見る。
よりにもよって今日の、今まで史上最悪クラスの作品を読まれることに苦みを感じていると、彼女は目をキラキラと輝かせながら頁をめくる。
「ふひ、ひひひ……」
俺自身でも自信を持てない、保呂に駄作と評されたばかりの紙束をパラパラとめくりながら彼女は時折小さく肩を揺らし、没頭するように読み進めていった。最後の一枚を読み終えると表紙に戻り、ふとあることに気がついたように顔を上げる。
何かを言おうとして呑み込んで、保呂の顔を見て俺の顔を見て……もう一度保呂に視線を戻す。
「ねえこれ、もしかしてこのお話、カスっちが書いた?」
保呂は答える前に、同意を得るために俺の顔を見る。
その反応が既に答えを言っているようなものだし、そもそも表紙にはPNですらない俺の本名が記されているのだから誤魔化しようが無い。
俺がこくりと首を縦に揺らして頷くと、保呂の返事を待たずに天塚さんは「ぱぁ!」と笑顔を咲かせて、とてててと駆け寄ってくる。
「すごい……すごいよカスっち! こんな面白いお話、初めて読んだ!!」
「え、あー……それは、どうも」
「ねえ、ねえねえ! あゆち、カスっちのファンになりたい! 荒輪井さんが一号なら、ファン二号でも良いから!!」
女子にしても小柄な天塚さんにぐいぐいと詰め寄られ、俺は間違っても触らないように両手を上げた。
ここまで直接的な褒め言葉を受けてしまうと、社交辞令だと分かっていても顔がニヤけてしまう。
座ったままこちらを見ていた保呂は気に食わないような顔で「ぷぅ」と可愛らしく頬を膨らませ、目が合うとぷいとそっぽを向かれた。
俺は視線を彼女に戻し、笑みを殺しながら後ろに逃げる。
「あ、天塚さん、ちょっと距離が近い……かな」
退がった分だけ詰められる。外窓側の柱まで追い詰められた俺は、汗が背中を伝うのを感じた。
今にも抱きつきそうなほどの至近距離ににじり寄り、彼女は俺にキラキラとした上目遣いを向ける。
「ねえカスっち、他には? 他にも読みたい!」
「他に? いちおう今まで書いたのも捨てずに残してはある、けど」
「カスっちの家にあるってこと!? ねえ、明日休みだし、行って良い?」
「はぁ……えっ!? ウチにくるって事? 天塚さんが?」
初手から王手を宣言されるような異常事態に、俺は完全に思考を停止してしまう。
陽キャ界隈では定石なのかもしれないが、陰キャにとっては劇物だ。というかこんな手順があってたまるものか。
脳の引き出しをすべてひっくり返しながら無難な断り文句を探していると、見かねた保呂が椅子を引いて立ち上がった。
彼女は天塚さんの両肩に後ろから手を乗せて、俺から優しく引き剥がす……助かった。
「天塚くん。女子が一人で男子の家に行くなんて、ふしだらだよ」
「荒輪井さん……?」
「まったく。節度を持って欲しいものだ。ということで君が行くなら、ボクも行くからね」
「荒輪井さん……!」
「そういうわけだ。さあそろそろ他の生徒もやってくる。後で住所を教えてくれたまえよ」
保呂は俺の返事を聞こうともせず、引き剥がした天塚さんを解放すると自席に戻った。
「………………え?」
何を勝手に決めているのか、と問い詰めようとする機会は「はよーっす」と呑気に教室に入ってきた男子生徒によって遮られ、俺達はなんでもない関係性に戻される。
胸ポケットの中でスマホが震えた。揚羽による謝罪の言葉が何件も何件も届いているのから目を逸らし、俺は机の上に顔を突っ伏した。
◇ ◇ ◆ ◇
のらりくらり、無かったことにしようとしても逃げ切れず、結局二人は土曜休みの朝から俺の家に来ることになった。
家族には「明日友達が遊びに来る」とだけ伝えておいた。
幸か不幸かちょうど父も母も家にいないので、女子二人を連れ込んだとか変な誤解を招くこともないだろう。
約束した朝十時になる七分前。インターホンが鳴り俺は玄関へと走る。
扉を開け、見慣れない私服姿の二人に気圧されそうになりながら、数時間も前に両親が外出して誰もいないのを良いことに二人をリビングへと招いた。
とりあえずお茶でも振る舞おうかと食器棚へ向かい、グラスに手を伸ばそうとしたところで、二人から「待った」と声がかけられる。
「カスっち。そんなのは良いから早くカスっちの話を読ませてよ」
「そうだよ君。ボクは君の部屋を見てみたくて……違った。君の小説を読みたくてわざわざここまで来たんだ。お茶は後で部屋に運んでくれたまえ?」
「え、ああ……はい」
時間稼ぎはことごとく破られ万策尽きた。
二人は椅子やソファに座るそぶりも見せず俺をじっと見る。これ以上下手な冗談が通じるような顔じゃない。
俺は棚に向かって伸ばしかけていた手を引っ込めて廊下に出て自室のある二階へ向かう。
大丈夫だ。昨夜あんなに掃除をしたのだから、見られてまずいものは残っていないはず。
細い隙間から室内を覗いて間違いが無いことを改めて確認し、背後から近づいてくる二人分の足音に急かされるように俺はゆっくり扉を開けた。
「こ、ここが俺の部屋です。今まで書いたのは、とりあえず机の上に……」
「ふうん。カスっちの部屋、結構綺麗じゃん」
「そうだね。がさつなキミのことだから、もっと散乱しているかと思ったけどね」
二人が室内に入ると、無機質だった男部屋が一瞬にして華やいだ。
天塚さんは原稿用紙が積まれたちゃぶ台の前で胡座をかき、ダブルクリップでまとめられたひと束を持ち上げ目を落とす。今まで、保呂以外には見せたこともない非公開作品の数々が暴かれていく。何気なく「普段はどんな本を読むの」と聞いてみるが、返事はない。どうやら読書に夢中になるあまりこちらの声が届いてないようだ。
決して、無視された。とかではないはずだ。
最も最近書いた一冊目を読み終えた彼女は感想を何かいうでもなく、即座に別の束に手を伸ばす。
目をキラキラと輝かせながら眼球を小刻みに動かして文字を追う彼女は、しばらく放置して良さそうだ。
その間保呂はキョロキョロと視線を彷徨わせ、書棚に並べられた無数のデータチップを眺めていた。そこに並べてあるのは何度も読み返したいと思う名作ばかりなので見られて恥ずかしいようなものはないはずだが、書歴を見られるのは趣味嗜好を暴かれるようで恥ずかしい。
「あの……なにか面白いものでもありましたか?」
「いや、さすがだね君。これだけ大量の小説データを見るのは初めてだよ」
「ありがとう……とは言っても俺が持ってるのは全部、千円ぐらいの安物だけどな」
昨今の書籍インフレは凄まじく、高度AIが出力した作品は日々数百万から数億円でやり取りされている。
それもこれも『複製禁止法』とその関連法によって一つの作品を複数刷りすることが困難になったのが理由らしいと授業では習うのだが、世代ではないので実感はない。
ちなみにこの法律は一部の機関にのみ発行が許される『特定教科書』だけには適応されない。だから今の時代の小説家が多くの人に読まれたいと思ったら『教科書に載る作品』を書く必要がある。
まあ俺は流石にそこまでに届くとも思えないので、趣味のレベルで満足しているわけだ。
保呂はしばらく小説のタイトルを眺めていたが、それもすぐに飽きたようで天塚さんの向かいに座り、彼女が読み終えた小説を懐かしそうに読み返しはじめた。
女子二人が、一言も話し合うことなく黙々と小説を読みふける様を見て、手持ち無沙汰になった俺は勉強机の椅子に腰を下ろしぐったりと体重を背もたれに預ける。父親が使っていたのを譲り受けたオフィスチェアは小さく軋み声を上げるが二人はこちらには見向きもしない。感想を聞こうにもそういう雰囲気ではないように感じた俺は、手持ち無沙汰に執筆用のノートPCへと身体を向ける。テキストアプリを起動してホームポジションに指を置き……だめだ。普段であれば勝手に動く指々が微動だにしない。
「はぁ……」
このまま待っていても何も浮かびそうにないので俺は早々に執筆を諦めて、漫然と部屋を見渡した。
読書以外に趣味のない俺の部屋はものが少なく掃除も楽で、男子にしては綺麗にしていると思う。
まあそれでも一部、原稿用紙を満載した段ボール箱が積まれた一角だけはロボット掃除機の管轄外なので、薄らと埃が積もっているのだが。ちなみにそこには高校以前に書いた作品や、小説という形にすらなっていないメモ書きなんかも入っている。
高校に入ってからの作品はまあ個人的に「見せても良い」と思えるから保呂にも読んでもらっているが、中学の頃のなんて、とてもじゃないが人に見せるものじゃない。だから今日もあえて段ボールから出したりはせずに手を着けずにいたのだが……
「ん?」
そこからはみ出したクリアファイルの、ポリプロピレンの光沢がふと視界に入る。
なぜなのか、言葉には出来ないが、その一点から目が離せなくなる。大切な何かがそこにある。俺の忘れた何か……
なんだったかな。ギシギシとスプリングで不協和音を奏でながら立ち上がり、二人の横を通過して壁際に。そこからはみ出している、原稿用紙数枚を折りたたんで納めたA4のクリアホルダーを取り出した。
「……………………そうか」
原稿用紙五枚にも満たない、文字の羅列。それを見た俺は女子が部屋にいる事も忘れて呆然と立ち尽くした。
あまりにも唐突な行動だったのか、流石の天塚さんも読む手を止めて心配そうに顔を向ける。
「えっ、と。カスっち?」
「君、どうしたんだい。忘れ物でもしたのかい?」
「忘れ物……そうなのかもしれないな。俺は忘れていたのを、今まさに思いだしたのかもな」
何を言っているのか分からない。という二人の間抜けな表情が、息を合わせて同時に傾げられた。
説明を、いやその前に。この感情が少しでも冷めてしまう前に、俺はやるべき事がある。
「保呂、天塚さん。ちょっと出かけてくる! すぐ戻るから!!」
そう言って俺は返事も聞かず来客に留守を任すという不用心さも気にせず外へと駆けだした。
◇ ◇ ◇ ◆
一心不乱に道路を走り、揚羽の家に着いた俺は玄関に直接向かい、ノックの一つもせずにドアノブを捻った。
不用心に鍵が掛かっておらず、何事かと玄関を覗いた彼女の母に「おひさし、ぶりです」と息も切れ切れに挨拶をして、俺は靴を脱ぎ捨て彼女の部屋に飛び込んだ。
相も変わらず完全OFFの緩みきった格好をした揚羽は、俺を見て目を丸くする。
その表情は怒っているようにも……何かを悔いているようにも見えた。
「なにしに……来たの」
覇気の無い声で問われ、俺は呼吸を整えながら汗を拭い、真っ直ぐに彼女の目を睨み付け口を開く。
「揚羽。おまえに、伝えとかなきゃいけないことがある」
「わたしは……無いよ。聞きたいことも、言いたいことも。私には何も残ってないから」
「そうじゃ、ない! 確かに小説を全部喰わせるなんて、やりすぎだと思う。だけどそれで、揚羽の何かが失われたわけじゃない!」
「ちがう、違うんだよ。わたしはね、私なんかには、結局才能が無いんだよ。小説がなくなったから書かないんじゃない。ねえ、カスは小説に感動させられたこと、ある?」
「それは、あるよ。何度だってあるよ。それがどうしたって……」
「わたしもね。でも本当の、本物の小説は、違う。私がどれだけ努力を重ねて書いて書いて、書いて書いて書いて書いて書いて書いて経験値を稼いでも、私の小説じゃそこにたどり着けないの! テクニックとかそういう次元じゃない。どこか一箇所、何か一点が優れているとかじゃなくて、すべてが!! 無理なのよ。人間には書けないのよ!本物の小説は」
ぐったりと肩を下ろす。彼女の背後、机の上には一冊の小説が開かれていた。
そのタイトルには見覚えがある。確かどこぞの富豪が数千万円で落札したとかの、俺達庶民はニュースでしか聞かないような小説だ。たしか数億に近い作品を学習した最新のAIが生み出した傑作だったとか。
本当にすごい小説は比喩抜きにして人生を変えるだけの『力』を持っていると聞いたことがある。
彼女がどうやってそんな『本』を手にしたのかは知らないが……その一冊は、女子高校生一人の人生を歪めるには十分だったのだろう。仮に俺がそんな作品に出会ってしまったとして、それでも正気を保っていられる自信は、俺にはない。
互いに言葉を失って、しばらく経った。
俺は「わかった。だけど最後に、これだけは」と言いながら古い原稿用紙を取り出した。
疲れ果てた顔で俺を見る揚羽に向かって、俺は音読をするために背筋を伸ばす。
◇─────────
かっこいいおうじさまがひめを助けてくれるお話。
ながうね あげは
わたしはアゲハひめ。
わるいまほうつかいに、まほうをかけられて、ねむったままになってしまったの。
これはわたしの王子さまが、わるいまほうつかいをたおして、わたしを助けてくれるおはなしです。
─────────◇
冒頭部分を読み上げはじめた瞬間に、揚羽はガバッと顔を上げ、頬を紅潮させながら俺に詰め寄ってきた。
「んな……な、なな、なんの、なんのつもりだ、このカス!」
彼女は俺の胸ぐらを掴み止めようとするが、俺は構わず続きを口に出す。
◇─────────
おうじさまはテンマくんという名前の、かっこうのいい男の人でした。
かれは王さまのめいれいで「めんどくせーな」とか言いながら、悪いま女に捕まったわたしを助けるために出発しました。
ある日テンマくんが静かな森を歩いていると……
─────────◇
「うわぁぁぁ、やめ、やめろぉぉ、読むな! 音読するな!! そんなもの捨てろ、なんで捨ててないんだよぉぉ、馬鹿、馬鹿馬鹿! はぁぁぁあ、ぁぁぁああああああ!!!」
「揚羽、ちゃんと最後まで聞いてくれ! 俺はこの作品を読んで、初めて『自分でも書きたい』って思ったんだ! この作品があったから俺は、小説を書きたいと思うようになったんだ!!」
「わかった、分かったから! 音読するの禁止!! これも、だめだから。没収だから!!!」
そう言って、彼女は読みかけの小説を俺から強引に奪い取ってしまった。
仕方がなく俺は読むのをやめて、彼女の目を真っ直ぐに見る。
「揚羽、揚羽がどんな小説に心を乱されて、どんな思いをしているのかを、俺は知らない。知ることも出来ない……」
「うん……」
「でも揚羽。俺はやっぱり、揚羽のせいで小説を書き始めたし、揚羽のおかげで小説を書き続けてるんだ」
「うん…………うん」
「信じられないかもしれないけれど、揚羽には才能があるんだよ。少なくとも俺という一人の読者を、小説に狂わせる程度には。だからさ、生成AIと比べて勝てないって悩むのも分かるけどさ。一人のファンとしてはやっぱり、揚羽には書いてほしい………………なんて。そんなことをふと思ったんだ。それだけ」
思いの丈を言葉にした瞬間に、急に恥ずかしくて堪らなくなった。
なんだこれ。なんでこんなキザな台詞を言ったんだ、俺は?
だめだ、なんか顔が熱くて、揚羽の顔を見られない……
「じゃ、そういうわけだから!!」
俺は原稿用紙を見てわなわな震える彼女にそれだけ言って、その場で振り返って逃げ出した。
玄関で「あらテンマくん、もう帰るの?」と挨拶してくれた揚羽のお母さんに「お邪魔しました」と足踏みしながら頭を下げて、我武者羅に来た道を引き返す。
丁字路の真ん中で立ち止まり空を見ると、憎らしいほどに雲一つ無く、青かった。




