彼女の名はエルザミナ
「……フラウ? フラウ、どこに行ったのよ……っ!」
アメリアの声が、石造りの学園通路に響いていた。
入学手続きのため、数分目を離した――その隙にフラウがいなくなったのだ。
アメリアの額に浮かぶ汗と怒気は、もはや“妹を失った姉”というより"唯一無二の所有物を喪失した女王”に近い。
その頃、当のフラウは迷子になっていた。
白い靴を小さく鳴らし、ぐるぐると学園の構内をさまよい続け、いつの間にか一枚の鉄扉を開けてしまっていた。
そこは――入学試験会場だった。
乱戦形式による試験が行われるこの場では。
まるで戦場のように幾多もの魔術、剣技、怪力、猛毒が飛び交っている。
その混沌の中に紛れ込んだフラウに声をかける影が一つ。
「……君も戦うの?」
低く、艶やかな声。
甘い蜜のような響きに、少年のような声色。
フリルとレースを贅沢にあしらった深紅のドレス。
金糸のような髪は大きく結い上げられ、彼女の妖しげな微笑を縁取っていた。
一見すると美麗な淑女ではあるが、ドレスのスカートの中から伸びるのは、艶やかな漆黒の蜘蛛脚。
その数本が、まるで裾から漏れ出るように床を這っていた。
アラクネの少女。
名をエルザミナと言った。
「戦うにしては線が細すぎる気がするけど」
「魔術が得意なのかな」
「それとも」
フラウを見下ろすその目は、まるで宝石を見つけた子どものようだった。
「……ふふふ、美味しそう」
艶やかに笑い、エルザミナはフラウの手足を糸で縛る。
絹糸のように柔らかな束が、フラウの身体を徐々に包み、繭状に変えていく。
「ボクの糸にこんなに素直に捕まってくれる子なんて、はじめて……」
「ちょっとだけ、いただいちゃおうかな」
エルザミナは繭を胸元に抱え、その顔をゆっくりと寄せる。
「……味見、してもいい?」
誰にも聞こえないように囁き、舌先をゆっくりと伸ばす。
肌の隙間から覗いたフラウの鎖骨に、ぬるりと舌が這う。
「……っ」
小さく身を震わせたフラウ。
くすぐったさに肩をすくめる。
けれど逃げない。
声なき吐息。
ほんのり紅潮した頬。
揺れるまつ毛。
「……な、なにこれ……」
エルザミナの指先が震える。
「なんで、こんな……」
喰いたい――喰らってしまいたい。
でも、それ以上に。
「……かわいい……かわいすぎるでしょ、君……」
心が揺れる。
"無垢"の力に捕らわれる。
蜘蛛の本能はささやく。
「獲物だ」と。
けれどもう、彼女はそう思えなかった。
「……君、ボクのだ。誰にもあげない……あげたくない……」
そのまま、フラウを包む繭を両腕で抱きしめる。
乱戦が続く中、彼女はフラウの体温を感じ続けていた。