20.人は宝ですわ!
東京ビッグサイトのVIP控室。
分厚い防音扉の向こうからは、全世界1億人が同時視聴し、熱狂の渦に包まれたフェスの地鳴りのような歓声が微かに響いてくる。
最高級の革張りソファに深く腰掛け、凛音は優雅にアールグレイの香りを嗜んでいた。傍らには、彼女に絶対の忠誠を誓う『下僕シックス』のリーダーであり、国家最高権力の中枢に座す男、アーサーが静かに控えている。
完璧な静寂と安らぎの空間。
しかし、その均衡は無作法な音によって破られた。
「バァン!」という乱暴な音を立てて扉が開け放たれる。
「おい、凛音!探したぞ!!」
そこに立っていたのは、安物のスーツを汗と脂でテカらせ、肩で息をする中年男だった。
凛音はその顔に見覚えがあった。彼女が愛想を尽かし、辞表を叩きつけたブラック企業の元上司(部長)だ。
「……どちら様でしたっけ?ここは関係者以外、立ち入り禁止エリアですけれど」
凛音が冷ややかな視線を向けると、元上司は首から下げたラミネートパスをドヤ顔で掲げてみせた。
「はっ!俺の会社がこのフェスの『末端スポンサー』として協賛してやったんだよ!末端とは言え、偉大なるスポンサー様の特権パスだ、文句は言わせねぇぞ!」
(なるほど。末端とはいえスポンサー権限のパス……。道理で厳重なセキュリティを抜けられたわけね)
凛音は内心で小さくため息をつく。スポンサー枠を悪用してまで、一体何の用だというのか。
「お前、全世界で数百万人も集める人気配信者になったらしいな!だから俺がわざわざSNSで宣伝してやったぞ。『世界最高のインフルエンサー凛音を育てたのは我が社です!』ってな!感謝しろ!」
元上司は下品な笑い声を上げ、ずかずかと部屋に踏み込んでくる。
「これでお前はうちの専属広告塔だ。さあ、今すぐスマホを回して『今の私があるのは社長と部長のおかげです、うちの会社の商品を買ってください』って配信しろ!育ててやった恩を返す時が来たんだよぉ!」
そのあまりにも自己中心的で、現実の見えていない妄言に、凛音はふふっ、と可笑しそうに笑みをこぼした。
「育てた?月200時間のサービス残業を強要し、過労死寸前まで働かせたことを言うのかしら。それに……私が辞表を出したとき、貴方はこう言いましたよね?」
凛音の瞳から、スッと温度が消える。
絶対零度の視線が、元上司を射抜いた。
「『お前の代わりの人材なんて、いくらでもいる』と。――それで?私の『代わりの人材』は、無事に召喚できましたの?」
「っ……!こ、この恩知らずのガキが!誰に向かって口を利いて——」
図星を突かれ、顔を真っ赤にして逆上した元上司が、凛音に掴みかかろうと手を伸ばす。
しかし、その汚い手が彼女に届くことは永遠になかった。
「――その手で、我らが至高の主に触れるな。万死に値するぞ、愚民」
氷の刃のような声が響く。
いつの間にか、アーサーをはじめとする『下僕シックス』の面々が、元上司を完全に包囲していた。彼らから放たれる異常なまでの覇気と殺気に当てられ、元上司はカエルみたいに引きつった声を上げて足を止める。
「り、凛音様。お耳汚し、大変申し訳ございません」
アーサーは優雅にお辞儀をすると、虫ケラを見るような冷酷な目で元上司を見下ろした。
「ご報告いたします。すでに『古参リスナー(特定班)』の皆様が、この愚か者の不用意なSNS発信からわずか3分で、過去の悪事、裏帳簿、悪質な労働基準法違反の証拠を全て発掘し、全世界へ拡散し終えました。現在、ネット上はこの企業への大炎上で埋め尽くされております」
「あら、仕事が早いですわね」
「えっ……?」
間の抜けた声を出す元上司を無視し、アーサーは淡々と事実を告げる。
「さらに、我々『下僕シックス』の権限を行使し、現在対象の企業口座を完全凍結。全取引先への契約打ち切り、及び損害賠償請求の手配を通達完了いたしました。……そして今この瞬間、国税局と警察の合同捜査本部が、貴様の会社に強制捜査(ガサ入れ)を行っているはずです」
「は……?な、なにをデタラメな……お前らみたいなコスプレ野郎に、そんな権限が……」
元上司が震える声で反論しようとした、まさにその瞬間だった。
彼のポケットに入っていたスマートフォンが、狂ったような着信音を鳴らし始めた。
ビクッと肩を揺らし、慌てて画面を見ると「会社」の文字。
震える指で通話ボタンを押すと、スピーカーから鼓膜を破るような悲鳴が飛び出してきた。
『ぶ、部長ぉおおお!!警察が!警察がいきなり踏み込んできて、社長が連行されましたぁあ!!取引先からも何億円もの損害賠償の電話が鳴り止まなくて、もう終わりです!会社が、会社が倒産しますぅうう!!』
それは、彼が権力を振りかざしていた小さなブラック帝国が、物理的にも社会的にも完全に「殲滅」された音だった。
「あ……ぁ……そんな、嘘だろ……」
スマートフォンを取り落とし、白目を剥いて膝から崩れ落ちる元上司。
スポンサー権限を悪用し、わざわざ自ら死地(特等席)に飛び込んできた哀れな男を、凛音はただ退屈そうに見下ろした。
「『代わりの人材』がいない会社は、あっけなく潰れてしまいますのね。人は宝ですわ~!とは、昔の人は良いことを言いますわね……アーサー、このゴミを摘み出してちょうだい。フェスの空気が悪くなりますわ」
「御意のままに」
アーサーが指を鳴らすと、控室の外で待機していた黒服たちが雪崩れ込み、魂の抜けた元上司を無言で引きずり出していく。
再び静寂を取り戻したVIP控室で、凛音は手鏡を取り出し、乱れのない前髪を少しだけ直す。
「さあ、外の皆が待っていますわ。最高のステージにしましょうか」
彼女は何事もなかったかのように微笑むと、熱狂が待つ光の先へと歩き出した。




