18
午後3時半にメールをする習慣は変わらない。
変わったのは、何としても早めに帰ろうと躍起になったことだけだ。
会議が入っている日を除き、通常のスピードで処理していたらこのくらいで帰れるだろうな、という時間の1時間前の時間をメールするのだ。
そうするとやる気の度合いが変わるせいか、処理能力が必然的に上がる。
しかも、この一年間家に帰るまいとして全て抱え込んでいた仕事も、任せられるものは秘書に任せてしまうようになったので、大幅に時間は短縮できるのだ。
以前と比べると、素っ気なさが格段になくなったメールに、智紀は自然と笑みを浮かべる。
最近の木綿子は瑞枝に教わって絵文字なんてものを混ぜてくるようになり、忙しさで苛つく気分を和ませてくれる。
バイブレーションがメールの着信を知らせ、智紀はもう一度ディスプレイを見る。
メールを開いた瞬間、文字をすっ飛ばして目に飛び込んできたのは、きらきらと光る薄いピンク色のハートだった。
初めて目にするその絵文字に、冗談ではなく椅子から飛び上がりそうになった智紀は、開けっ放しにしていた引き出しの角に膝をぶつけた。
「い…っ!」
生理的な涙が滲んだせいでぼやけている視界で、もう一度携帯のディスプレイを見直してみたが、ハートは確かにある。
幻では無いらしい。
見る人が違えばかなり些細なことなのだろうが、智紀にとっては小さなことではない。
木綿子が、隠さずに伝えてくる気持ちは、誇張でなく、智紀を天にも昇らせるほどの力があるのだ。
膝を擦っていると、西條が入ってきたが、智紀の顔を見た途端妙な顔になった。
「何だ」
「いや、どんな顔なんだそれは」
痛みに眉を顰めつつも、ハートを目にして緩んだ顔というのは、やはり複雑極まりない表情のようだ。
時間的にも木綿子とのメールが原因だと気づいたらしい西條は、智紀に許可も得ずにひょいと携帯のディスプレイを覗きこむ。
慌てて隠そうとした智紀だったが、間に合わなかった。
件のハートを瞬時に見つけると、西條はやれやれというような苦笑を漏らす。
「で、今日は何時に帰るって?」
「8時だ」
智紀の答えに、西條は今度こそ声を出して笑う。
これまでの智紀を誰よりもよく知っているのだ、この変わりようにはもう笑うしかないのだろう。
「俺たちの仕事を増やすなよ」
「前はお前たちがやってたことだろ」
「一年もブランクがあれば、面倒くさくもなるだろう。若いのは文句たらたらだ。それに、お前、陰で何て言われてるのか知ってるか?」
「…何だよ」
「お気に入りの愛人ができたんじゃないか、って言われてるぞ」
「はぁ? 愛人って」
新婚のくせにろくに家に帰らず仕事ばかりしてきて、今になって早く帰りだしたので、変な誤解を招いたらしい。
それにしても、女子の妄想力は逞しすぎて末恐ろしい。
それを耳にしていながら、面白がって訂正もしない西條も西條であるが。
「馬鹿馬鹿しい。そんな噂構ってられるか」
何と言っても、今日は木綿子の得意な和食系の料理なのだ。
それに、ハートまで付けられてしまったら、楽しみにする他無いに決まっている。
鼻歌まで歌いそうな勢いで上機嫌になった智紀に、西條は付き合いきれないと言うように部屋から出ていった。
木綿子に対する、この愛しさを、どうすれば表現しきれるのか、未だによくわからないでいる。
家に帰ると必ず手を差し出してきて、鞄やスーツなどを嬉しそうに部屋まで持っていってくれる木綿子を見ていると、柄にもなく涙が出そうになるのだ。
智紀としては、してもらわなくても基本的には良いのだが、木綿子が嬉しそうにする姿を見ることができて、今はとても幸せだ。
それに、思い返してみると、迎えに出てくれながらも手持無沙汰でただ突っ立っていた木綿子がいたことに気づいた。
亭主関白な実家で当たり前のように目にしてきたことを、本当はずっと木綿子もしたいと願っていたのだろう、と思うと胸が詰まる。
愛しいと感じる気持ちと感謝の気持ちとは溢れているのに、それに反して伝える術は未熟で、智紀は木綿子を抱きしめることくらいしかできない。
腕の中に収めていた木綿子が突然笑ったので、何かと思って尋ねてみれば、恥ずかしそうに答えた。
「いつも、智紀さんは帰ってきた時に先にモモに触るから。さっきも。だから、モモが羨ましいな、って思ったのを思い出して。それで」
だんだんとしどろもどろになり、声を細くさせた木綿子を見つめながら、智紀の頭の中はほとんど真っ白になっていた。
何を今更、と詰られるだろうが、木綿子が与えてくれる愛情には、底が無い。
これまで、よくも気づけずにいたものだ、という脱力感と、それを遥かに凌ぐ幸福感が智紀の心を埋め尽くす。
抱きしめることでさらにその気持ちが膨れていくものだから、木綿子を愛しく思う気持ちは、やはり伝えきることなど到底できないように思えた。
食事を一緒に摂った後は、木綿子が後片付けをしている間、智紀はモモと遊ぶ。
それが終わると、リビングのソファに並んでかけて、適当な番組を流しつつ一日あったことをお互いに話す。
すぐ隣で木綿子の体温を感じて、すぐ傍で木綿子を見つめられること、何でもないことも話して笑いあえることが心地好い。
西條から聞いた、愛人疑惑なんかを話しても、木綿子は楽しそうに笑った。
「じゃあ、私、智紀さんのお気に入りなんですね」
反応するのはそこなのか、とおかしくなる。
同時に、嬉しそうにしている木綿子がかわいくて、笑っているその横顔に、キスをした。
びっくりしたようにぱっとこちらを向く木綿子は、まるで小動物だ。
木綿子は、智紀から名前で呼ばれることや智紀が早めに家に帰ること、智紀と一緒に時間を過ごすことにはだいぶ慣れてきている。
ただ、こういった触れ合いには、未だに慣れていないように思える。
「お風呂、一緒に入る?」
木綿子の答えはわかっているのだが、毎回聞いてみたりする。
恥ずかしそうに首を振る木綿子がかわいいから、その表情を見たいとか、自分でも腐ってるなとは思うのだが、やめられない。
「さ、智紀さんが先にどうぞ」
いつも通りの答えに、いつも通りの表情だったが、その表情に今までは見たことのない揺れが見えた。
毎日言い続けてきた甲斐があったらしい。
明日はもう少し粘ってみようか、などと内心で考えながら、木綿子の言葉にひとまず従った。
智紀と入れ替わりに、今度は木綿子が入浴する。
その間智紀は、書斎で持ち帰った仕事を済ませてしまう。
以前は木綿子と居るのが気づまりで、わざわざたくさん仕事を持ち帰ったりしていたものだが、今はそんなことバカらしくてやってられない。
たまに持ち帰らざるをえなくとも、木綿子がいない間か寝てしまった後にする。
変われば変わるものだ。
書斎を出ると、今はゲストルームに戻った隣の部屋のドアを一瞥し、智紀はベッドルームへ足を進めた。
ずっと智紀ひとりで使ってきたこの部屋は、今は木綿子の部屋でもある。
もともと物欲のあまり無い木綿子は持ち物が少なかったため、部屋に劇的な変化は無いのだが、それでも少しだけ増えた木綿子の物があるのが嬉しい。
先にベッドに入って本を読んでいると、木綿子がドアを開けて部屋に入ってきた。
最初は緊張してそろそろと窺うように入ってきていたが、今は少し慣れたのだろう、普通に入ってくるようになった。
そういった些細な違いひとつひとつが、幸福感として智紀の心に沁み渡っていくのだ。
今夜も、木綿子はネグリジェを身に着けている。
今まで普段はパジャマを着ていたらしい木綿子は、智紀の前ではそうではない。
智紀がほぼ家に帰ってくるようになったので、今ではパジャマの出番はほとんど無いようだ。
関わりを持とうとしていなかった過ぎ去った一年の間でさえも、木綿子が智紀のためにそうしていた理由を、今は知っている。
作っているのが瑞枝だということが、智紀を少々複雑な気持ちにさせるが、さすがに木綿子に似合うものばかりなので、文句は言えない。
ベッドにごそごそと入ってきた木綿子の腕を取って、そのまま智紀の脚を跨がせるように座らせる。
向かい合って、俯き加減で、けれどそっと視線だけ上げるようにしてくる木綿子の表情は、単に恥ずかしがっているだけで無意識のくせに、扇情的だ。
指で髪を梳いて、頬を撫でながら、もう一方の手をサイドの紐にかける。
解くと、するりと抜けて、完全なスリットになるものだ。
わざとというわけでもないがゆっくりと紐を抜いていると、耐えられないとでも言うように、木綿子が智紀のその手をぎゅっと抑えた。
「…どうした? 嫌?」
そんなわけはない、というのはわかっている。
案の定、木綿子はすぐさま首を横に振り、抑えていた手からゆるゆると力を抜いていく。
「さっき、言ったこと、覚えてる?」
「い、やってほど、触る、って…」
言いながら、もう智紀の顔を見ているのも恥ずかしいらしく、木綿子は肩口に顔を埋めてしまう。
けれどその分密着度は増して、その高い体温に、智紀の鼓動も早まった。
罪悪感は、消えない。
過ぎた一年は、もう永遠に取り戻すことができないからだ。
しかし、だからこそ、木綿子に対する愛しさは増す一方だ。
時期を外して狂おしいほどに咲き誇る徒花の恋は、今、ようやく始まったばかりなのである。
FIN.
こんな感じで、智紀も日々感謝しながら幸せを噛みしめております。
狂い咲いた徒花の恋は、今始まり、これからも続いていきます。
続編等は構想中ですが、いったん完結済みとします。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
多謝。