第四章 鉄の女の恋
「いらっしゃいませー」
智子は微笑んでいた。だって、接客業だもの。
こんな気分でも微笑んでいなければいけないなんて、暴力的だわ。
ほんの数メートル離れた場所で、あんなことがあったというのに、何事もなかったように、老人にプリンターのインクが出ないと言われている。
クリーニングはしましたか?
クリーニングがわかりませんか?
それは故障ではありません。お手入れです。
怒っているんですか? ふふふ、もっと別のことに怒りましょうよ。
頭の中でこんなことをつぶやきながら、表面上はとても親身に聞いているふりをして、一番安いプリンターを最小限の案内で売った。
天才かもしれない。
サボろーっと。
喫煙所に行くとテキトーなことでおなじみの若手社員が、またサボっている。
「一本ちょうだい?」
軽めのメンソール。ラッキー。
重たいのだったら吸えないし。
「橘さん、タバコ吸うんでしたっけ?」
「吸わないよ」
はあ? っと首をかしげながら、一本くれた。
そしてそれ以上はなにも言ってこない。テキトーなひとっていいな。
テキトー君は短くなった煙草を捨てると、次の一本を取り出そうとしていた。
「ああ、いいよ、いい、これ吸いなよ」
智子はまだ3口しか吸っていない煙草を手渡した。
「え、口付けたのに?」
「サービスだろが」
彼は一瞬ためらったが、そのまま受け取って残りを吸い始めた。
「橘さん、なんか、最近、雰囲気変わったっスね?」
「そう?」
「なんか、はい。マジメな人だと思ってたんで」
「マジメだろーが。誰よりも」
うーん、と言いながら彼は頭をかいていた。
わかるよ、君の言わんとすることは。でも、私だってそれはよくわからんのだよ。
喫煙所の前を通りかかった船橋副店長は、智子と若手社員を見て「えっ」と立ち止まった。
「なにしてるんですか?」
「サボってました。サボって若い男子にいたずらしてました」
「ええ……!?」
鉄の女の顔が戸惑うのは面白かった。
そんな顔もするんだ。可愛いじゃん。
喫煙所にもう一人ベテランの社員が入ってきた。
何人喫煙所にいるのやら、この店は。
「副店長、人事部長が来てます」
ベテランはサボりに来たわけではないようだった。声のトーンがあまりに低かった。
船橋副店長の顔は青ざめていた。
鉄の女の顔に、不安や恐れが浮かんでいる。
そんな顔もするんだ。
ベテラン社員の後を付いていく船橋副店長は、まるで連行されていくみたいだった。
「もしかすると、サッチャーさん、辞めるのかも、っス」
ジュッ、と煙草を灰皿の水に落としながら、彼は言った。
「なんで?」
「いやー、噂なんスけど。サッチャーさん、営業部長と不倫してるって」
「は!?」
まさか、と言いかけてやめた。
まさか彼女がそんなことするはずない、と言うほど彼女のことを知らない。
しかし、船橋紗智子よ、矛盾してないか?
貴女は超仕事人間だったんじゃないの?
女性初の大型店の管理職だったんじゃなかったっけ?
そんなところで道を踏み外すような女だったっけ?
連行されていった船橋紗智子はその後、誰にもなにも告げず裏口から帰宅していた。
翌日の朝礼で人事部長は店舗のみんなに、彼女が退職するということと、代わりの人材は早急に手配し、現場には極力混乱がないように取り計らうという旨を伝えた。
それ以上の説明はなかった。
「さー、みなさん。とにかく私たちがやるべきことはお客様へのサービスが第一です! 今日も元気に仕事をしましょう!」
いつもことなかれ主義の店長はそういって朝礼を締めくくった。
白々しいことこの上なかったが、他にどんな立ち回りができたのかと思うと、まあ、そうするしかないよね、と納得した。
店長は解散していくスタッフの間をぬって、智子に声をかけた。
「橘さん。ちょっとお願いが」
「なんでしょうか」
「船橋さんの私物、帰りに届けてあげてくれませんか?」
店長は住所と電話番号の書いてあるメモを智子に差し出した。
「じゃあ、あの人はもう、来ないってことですね」
「そうなります」
しばらくの沈黙。
智子はメモを受け取った。
ことなかれ主義の店長。喜怒哀楽を出さない人だとは思っていたが、これは彼なりの優しさかもしれない。
「橘さんが行くことは、私から伝えておきます。すみませんが、よろしくお願いします」
店長はちゃんと頭を下げた。部下に行動に責任を取ろうとしているのだろうか。
だとすると、少し彼のことを見直した。
転勤の多い管理職の住居は大体提携先のアパートが多く、店舗からは近かった。
荷物は段ボール箱ひとつ。
オートロックのインターホンを押した。
「はい」
「橘ですけど」
「あ、はい。そこまで取りに行きます」
アパートのエントランスでしばし待つ。
スウェットにメガネの紗智子がドアを開けた。
「すみません。わざわざ」
段ボールを受け取った紗智子は、おずおずと会釈すると聞き取れるか聞き取れないかくらいの音量で「じゃあ」と言った。
「お茶くらい出してよ」
「え、でも、部屋散らかってて」
「わざわざ届けたのに?」
「え、でも」
「いいから」
「……うん」
部屋を開けるとき、紗智子は一度振り返って「本当に汚いんですけど」と言ったが智子は首を振って聞き入れなかった。
電気をつけると、部屋はまあまあ汚かった。
コンビニ弁当の容器とペットボトル。ビールの缶。
「ったく。なんで捨てないの」
「うう……」
仕事中はかけていないメガネのせいだろうか。なんだそのキャラは。わかった、髪型か。ひっつめ髪をほどいてるのか。うつむいた顔に髪がかかっていた。
「ベッドに座ってて下さい。お茶いれます」
智子は改めて部屋を見回した。部屋の壁と棚の一か所に同じキャラのポスターやフィギュアが並んでいた。推しってやつか。
「これはなんてアニメ?」
「アニメじゃなくてライバーです」
「ああ、Vtuber」
「うう、恥ずかしい」
智子はベッドに腰を掛け、紗智子はパソコンデスクのイスに座った。お茶のコップは置くところがないのでそれぞれ手に持ったままだった。
「ねえ、サッチャー」
「ブッ!」
紗智子がお茶を吐いた。
「なに?!」
「直接そう呼ばれたの初めてで。(小声)あと、ずっとタメ口」
「いいじゃん。会社辞めたんでしょ」
「はい。まあ」
「サッチャー、貴女って仕事人間じゃなかったんだね」
「そうですね…はい。たぶん」
紗智子はマグカップを見つめたまま、
「私って、仕事人間ではなくて、誰かの言うことを忠実に守る人間なんです」
紗智子は学生時代、勉強も部活の水泳もそこそこだったらしい。目立つほど優秀ではなく、そこそこ。中の上くらい。才能がなくても、ある程度努力で行けるところ。親が喜んでくれるくらいのところ。
勉強も水泳も、別に好きではない。
好きではないけれど、やるべきだからやる。求められたから答える。喜んでくれたら、たぶん、私もうれしい。
たぶん?
そう、たぶん。本当にうれしかったかどうかは、いまいちわからない。
「だから、仕事人間ではない気がします」
相手の営業部長は入社した頃の育成担当だった。何度か転勤があり、何度か再会し、彼が初めて店長になったときにも、その店に紗智子はいた。
紗智子に仕事のノウハウを教えてくれたのが彼で、紗智子はその忠実さで優秀な部下になていった。
成果を出すために出来の悪いスタッフを他店に飛ばしたり、出来の悪いパートにはやめてもらったりもした。彼が成果を必要としたからだ。
サッチャーという陰口はこの頃からだった。
「私は彼に認めてもらいたかったんです」
「んー? ん? なんか、矛盾してない? その人に認めてもらいたかったのに、それを棒に振るような…」
「私、本当に、鉄の女だったんですよ。マーガレット・サッチャーということではなく、ロボット的な、アンドロイド的な意味で」
「そうだね、本当のサッチャーほど熱くないもんね」
「そうなんです。でも、でも……」
紗智子のメガネが光った。
「あの日、彼は、私を求めてくれたんです」
危うい。
悪い男に騙されそうな女だなー。
「そう。それで、妻子ある男に抱かれて、付いていくと」
いくつもの疑問が浮かぶ。彼は本当に妻子を捨てて紗智子を選ぶのだろうか。仮にそれができたとして、今よりも絶対に貧しくなる生活の中で、その気持ちを持ち続けることができるのだろうか。彼女は幸せになれるのであろうか。
「私そのとき、私はこの瞬間のために生きてきた、って思えたんです」
沈黙。
紗智子は顔を上げて、智子を見つめた。
「仮に最後私に、私の手に、なにも残ってなかったとしても、それでもいいと思ってます。私が初めて自分で欲しいって決めたことなので」
そうか、覚悟決まってんのか。
じゃあ、私もささやかながらお返しをしよう。
「サッチャー、私、アンタの友達になってあげるよ」
「え? 友達?」
「そうだよ。喜べ。これで私たちは対等だ。お互い社会的弱者だ。事と次第によってはアンタのほうが下になるかもしんないけど」
連絡先を好感して、席を立つ。
玄関で智子を見送る紗智子を、智子は強めに抱きしめた。
「あ、ありがとう」
紗智子はしがみつくように応えた。
「じゃあ、やるだけやってみなよ」
「うん、ありがとう」
翌日の家電量販店にもちろん紗智子はいない。
さほど変化は感じなかった。
サラリーマンの世界は残酷だ。紗智子ひとりが欠けてもなんの変化もないのか。
いや、違う。なんの変化もないように、彼女が準備をしたのかもしれない。
店長は紗智子の残したノートを見ながら右往左往していた。ノートには紗智子の几帳面そうな文字でびっしりと引継ぎが書かれていた。マジメだ。
「あ、智子さん。この、警察に提出する防犯カメラの映像って、これのことですかね?」
「そうだと思います。取りに来たんですか?」
「えっと、ああ、これが、申請書類で、えっと」
事務所には先日の警察官と警備員が来ていた。
店長が警察官と話し始めた隙に智子は警備員ににじり寄った。
「警備員って、普段どこにいるの?」
「え? え? 三階の奥ですけど。映画館側の」
「今日の夜はいるの?」
「え?」
「いるの?」
「は、はい、はい」
有無を言わせない智子の物言いに、警備員は相変わらず不器用そうに数回頷いた。
「じゃあ、行くから」




