第94話 一枚に賭ける(1)
面倒な手続きを全て済ませた。防犯登録は駅近くにある自転車屋を利用した。その時、クロスバイクの調整を頼んだ。おかげで変速機の切り替えが滑らかになり、異音は聞こえなくなった。ブレーキは程よい効きで今日から実践に入る。
白いクロスバイクを押しながら家を出ると黒塗りの高級車が停まっていた。後部座席のドアが開き、降りてきたスーツ姿の男性が深々と頭を下げた。
「ルチル様とお付き合いされている菅原拓光様でしょうか」
「そうですが、今日はどのようなご用件で」
「ご同行願えないでしょうか」
言葉に強い意志を感じる。こちらの質問には答えない。その権限を与えられていないとも受け取れる。
「わかりました」
クロスバイクを玄関に残して僕は車に乗り込んだ。左右をスーツの男性に挟まれた。助手席にも男性がいてルチルは乗っていなかった。
「こちらもお願いします」
シートベルトの装着が終わると黒いアイマスクを渡された。以前と同様に自ら付けた。
車は音もなく走り出す。滑らかな加速と減速を繰り返して止まる。信号待ちだろうか。微かに金属を引きずるような音がした。鉄製の門扉が開いているのだろうか。
ゆっくりと車は動き出す。徐行するような速度で進み、軽い前後の揺れで止まった。僕はアイマスクを外そうとした。
「そのままでお願いします」
「わかりました」
先に男性が降りて僕を誘導した。両側を挟まれる形で歩き始める。感覚で道の傾斜がわかる。スロープなのだろうか。
上った先を更に進むと空気が変わった。適度に冷えていて風の流れを全く感じない。屋内に入ったようだった。
「少しお待ちください」
数秒の時間で何かに乗り込んだ。下に沈み込む感覚はエレベーターで地下に向かっているように思える。
「少し歩きます」
歩く音が響く。床は硬く、広い空間を想像した。そこにピッという、この場にそぐわない電子音が聞こえた。
「菅原様、貴金属をお持ちですか」
右隣の男性が訊いてきた。思い当たることは一つしかない。
「大学の講義に使うノートパソコンをリュックに入れています」
「荷物をお預かりしても、よろしいでしょうか。もちろんお帰りの際にご返却いたします」
「わかりました」
背負っていたリュックを預けて僕は奥へと連れていかれた。
最初からドアが開いていたのか。床の感触が柔らかい物に変わった。
「アイマスクを外してください」
言われて取り去ると横長の机が目に入る。革張りのイスに座っている白いスーツの人物は精悍な顔付きで一言も喋らない。顎髭を指で触りながら感情のない目でこちらを見てきた。
「座るがいい」
男性の低い一言で、ソファーの存在に気付いた。
「失礼します」
一人掛けの黒いソファーに浅く座る。
「おまえが今回の馬の骨か」
「それは僕のことですか?」
「おまえ以外に誰がいる」
顎髭を撫でながら平然と言う。厳めしい顔のまま感情を見せず、ただ視線を合わせていた。
左右の壁際には黒いスーツを身に纏った人物が三人、合計六人が彫像のように遣り取りを眺めている。その中には女性も含まれていた。
「どのような理由で僕は連れて来られたのでしょうか」
「小賢しい。いくら欲しい? 言ってみろ」
「それはなんのお金ですか」
「手切れ金に決まっているだろう。前に愛娘に近づいた馬の骨は三百万で手を引いた。おまえはいくら欲しいのだ?」
ルチルから聞いた約束と話が食い違う。大学在学中の間に恋人を作れば、政略結婚に近い状況を回避できるのではなかったのか。
「ルチルさんから聞いた話と違います。大学で恋人を作れば、決められた相手との結婚を考え直すのではないのですか」
「別れてしまえば関係ない。前の馬の骨は喜んで金を受け取った。無理強いはしていない。何か問題でもあるのか?」
抑揚のない声で逆に問い掛ける。そこにはなんの感情も込められていない。盤上にある駒を淡々と動かし、勝利をもぎ取る。駒には娘のルチルが含まれていて、少なくない怒りが噴き出す。
「お金は要りません。僕はルチルさんが好きで、お付き合いをしているだけです」
「おまえの不実は明らかだ。愛娘以外に六人の女性と付き合っている。その中の一人に木下綾芽がいた。以前、使ってやったが考えを改めないといけないようだ」
「僕は七人を平等に愛しています。もちろん七人に隠していません。同意の上で付き合っています。問題はないと思いますが」
怯みそうになる心を叱咤して言い返す。相手は全く動じた様子はなく、やや目を細めた。
「愛娘の結婚相手には商才がある。おまえと同じ学生の身分でありながらコンサルタント業や株に尽力して、今や個人資産は十億を超える。おまえにはどのような能力が備わっているのだ?」
「それは、その、女性を虜にする能力があります」
「偶然を能力のように言う愚か者が。叩き出してやろうか」
目配せを受けた黒いスーツの女性が音もなく僕に近寄る。
「ま、待ってください。僕の能力は女性であれば、全てに通用します。他社にいる有能な女性をヘッドハンティングすることも可能です。女性社長であれば僕の好きなように動かすこともできます」
「実証もしないで、それを信じろと?」
「……この女性で試させてください」
隣にいた女性は冷たい目で僕を見下ろす。
「秘書と勘違いしているようだが、その者はSPの筆頭だ。腕力でどうにかなる相手ではない。閨房術にも長けていておまえのような馬の骨に、それこそ骨抜きにされることは万が一にもない」
男性の口の端が僅かに上がる。揶揄ではあったが、初めて相手の感情を引き出せたことに静かな喜びが心に満ちていく。
「試させてください」
「一週間だ。その間にSPの片瀬光を虜にした写真を撮ってくればおまえの勝ちだ。愛娘との交際を認めてやってもいい」
「わかりました。少しルールを変えてもいいですか」
「期間の延長はない」
「その逆です。一時間で証拠の写真を撮ってきます」
瞬間、男性は目を吊り上げた。握った拳を机に叩きつける。机上に置かれたペン立てが衝撃で倒れた。
彫像に等しいSP達の肩が僅かに動いた。横にいた光は直立不動を崩さず、僕を射殺すような横目で睨み据える。
「スマホの写真は加工が可能で信用できん。こちらが用意するインスタントカメラで決定的な一枚を撮って来い」
「わかりました。この階の部屋を利用したいのですが許可を貰えますか」
「自由に使うがいい。タイムリミットは一時間だ」
「わかっています。それでは光さん、少しお付き合いください」
立ち上がって右手を差し出すと平手で叩かれた。打ち据えられた掌が熱を持ち、感覚が鈍くなる。最悪の出だしとなった。




