第93話 大変な買い物
ついに最高気温が三十度に突入した。土手の道は風通しが良い。ただし、陽光を遮るところがない。歩いているだけで全身に汗が滲み出る。
電車での移動は時間短縮となるが危険と隣り合わせ。ほぼ無臭とは言え、体臭で女性を不機嫌にさせる。香水で対策したとしても、分量を間違えると今度は発情した女性に襲われることになる。
そんな手詰まり状態を解消しようと日曜日の早朝に思い立つ。
僕はパジャマ姿でノートパソコンを起動した。検索ワードを駆使してネットの情報に目を通す。気になる内容は特化した言葉で更に絞り込んだ。
程々の時間で答えを見つけた。大手のサイバーモールにアクセスしてサイト内の検索機能を使った。『クロスバイク』と文字を打ち込むと千件以上のヒットになった。そこから一台を決めるのは無理がある。『最軽量』と付け足した。それでも三百件以上が該当した。
僕は腰を据えて自転車の仕様を見ていく。値段は三万円前後の物が多い。ギア変速は幅が広く、六段から二十四段まであった。
車体の重量も値段に反映するらしい。軽いアルミフレームのクロスバイクは六万円の価格が付いていた。
予算的な問題で三万円くらいを考えている。車体のサイズは適した身長が併記されているので迷うことはない。
最後に控える難関がギア変速。段数はどれくらいが適切なのか。六段では少ないような気がする。二十四段は逆に多い。土手に入る経路を除けば大学まで平坦な道が続いている。その為、細かいギアの切り替えを必要としない。
ここで欲が出る。小学生以来の自転車なので出来れば通学以外にも使いたい。時間がある時、遠乗りして山へいくのもいいだろう。そんな思いに囚われて大いに悩む。
時間だけが過ぎていく。午前九時を回った。焦った僕はスマホを手に取り、響輝に電話を掛けた。
七回の呼び出し音で繋がった。用件を伝える前に悲痛な声に阻止された。
『俺の天使が見つからないんだ。どうしてだよ』
「まだ、探していたんだ……」
『当たり前だろ。一目惚れなんだよ。本当に同じ大学に通っているのか?』
「通っているのは確かだよ。気長に探せば見つかると思うよ」
僕が幸子に頼んでメイクをして貰えば、という限定付きの話になるけれど。
『もう少し、がんばってみるよ』
「ちょっと訊きたいんだけど、響輝は今でも自転車に乗っているのかな?」
『いや、今はバイクだけだ。実家に帰れば高校の時に使っていたロードタイプの自転車はあるけどな』
「ギア変速は何段だった?」
『二十一段だが、自転車通学でもするつもりか?』
「その前に自転車を買わないといけないんだけど、二十四段はどうだろう。響輝に訊いてから購入しようと思って」
ギア変速の段数は多い方がいいように思える。細かい調整で脚の負担を減らせば汗を掻かずに済む。歩くよりも早くに大学にいけるので、朝もギリギリまで寝ていられる。メリットの多さに考えるだけで心が浮き立つ。
『フロントギアとリアギアの枚数にもよるだろうな。フロントが三枚でリアが八枚だと車体が重くなるし、変速の状態によっては効果が被る。俺のオススメはフロント二枚でリアが七枚の組み合わせだな。少なく感じるかもしれないが、これくらいがちょうどいいと思う』
「ありがとう。参考になったよ」
『自転車を買うのはいいが、大学の駐輪場を利用するなら許可書がいるんじゃなかったか?』
「そうなの? 調べてみるよ。本当に助かった」
『それはいいが、天使を見つけたら絶対に俺に教えてくれよな。できれば名前も。頼んだぞ』
切る間際、響輝は早口で伝えた。女装しないとダメかもしれない。取り敢えず、不吉な予感は切り捨てた。
大学への駐輪場の許可は後回しにして自転車選びに戻る。フロントの枚数が記載されていない物は車体の写真を拡大して確かめた。三十分を費やしてようやく該当する一台を見つけた。
シンプルな白いフレームでサイズもちょうどいい。値段は税込みで三万円を切っていた。手持ちのお金と貯金を足せば無理なく買える。
心に決めた途端、一切の迷いが消えた。購入ボタンを押して到着を待つ。
なんと二日後の夕暮れに家へ届いた。重さはそれほどでもなく、急いで自室に持ち込んだ。梱包を開けて、え、と疑問の声が漏れる。
プレス機で潰されたような平べったい物体が入っていた。およそ自転車の形状をしていない。
それもそのはず。ハンドル、サドル、前輪、後輪が別個で出てきた。キットの状態に、ええっ!? と驚きの声を上げた。
更に追い打ちを掛ける。工具の類いが入っていなかった。逆さまにして上下に振っても何も落ちて来ない。説明書によれば六角レンチとプラスドライバーを使用すると書かれていた。
急いで部屋を飛び出し、階下で夕飯を作っている母に声を掛けた。
「工具箱はどこにある?」
鍋を掻き混ぜていた手を止めて母が振り返る。
「そんなもの、家にはないわよ。DIYに目覚めた?」
「出掛ける!」
「早くに帰りなさいよ」
「わかった」
全速力の走りでホームセンターに駆け込む。必要な物を買い揃えて家に戻った。
夕飯よりも先に自転車の組み立てに全精力を注ぐ。
早々とハンドルに取り掛かる。差し込みが浅くならないように示されたところまで押し込む。六角レンチで手早く締めて固定した。サドルは簡単で大した労力を使わないで済んだ。
最後にして最難関は前輪と後輪の取り付けだった。上手く嵌めたつもりでもブレーキの部分と微妙に接触して微調整を加えないといけない。
「ご飯できたよ!」
階下の母の声が僕を焦らせる。手が汗で粘つく。神経をすり減らす調整を何度も試して完成した。
あとは試乗と思った矢先に気付く。タイヤに空気が入っていなかった。
「もう、勘弁してよぉ」
力なく部屋を出て階下に降りる。キッチンに顔を出し、食べている母に期待薄で訊いてみた。
「我が家に空気入れってある?」
「自転車がないのにあるはずないでしょ」
「そうだよね。少し出掛ける」
「夕飯はどうするつもり?」
「あとで一人で食べるよ」
「今後も一人で座敷牢状態で食べてくれると私としては大変に助かります」
彩音の冷ややかな目に僕は半笑いで返した。
再びホームセンターへ向かう。空気入れを買って家に戻ると、キッチンには誰もいなかった。
僕は二階の自室に戻り、組み上がったクロスバイクを眺める。
よく見るとライトが付いていなかった。防犯に必要な鍵もない。自転車の防犯登録は自転車屋ですればいいのだろうか。大学の駐輪場の利用は全て終わったあとになるのか。
情報が一気に頭の中に流れ込む。
「……ちょっとギブ」
床に空気入れを置いてベッドに俯せの状態で倒れ込んだ。




