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第92話 時に子猫のように

 梅雨明けの初日は時間を巻き戻したかのような曇り空となった。背負ったリュックには大学の教材だけでなく、折り畳み傘を入れた。

 夏とは思えない涼しさに誘われて土手の道を歩く。目の前を上下に揺れながら横切るモンシロチョウに心が和む。いつもと比べて足取りが軽く感じられた。

 現実に引き戻すようにスマホが鳴り始める。画面に表示された『綾芽』を見て、一呼吸して電話に出た。


「拓光です。もしかして日時が決まったのですか」

『いや、まだだ。少し訊きたいことがある』

「どのようなことでしょうか」

『峰山幸子を知っているな』


 思いもしない名前を口にした。不意打ちに近いこともあり、やや言葉が遅れた。


「結愛の高校の友達で面識はあります」

『あれも坊やの彼女なのか? そうであれば調べる必要がある』

「彼女ではありません」

『坊やに気が無くても向こうにはあるかもしれない。そこらへんはどうなんだ?』


 思い当たる節はある。香水の影響と思うが路上でキスをされた。激怒する杏寿をなだめて危機的状況を回避すると、お礼に胸を揉んでもいいと本人が口にした。

 あれは僕に対する好意のアピールに入るのだろうか。


「僕なりに調べてみます」

『よろしく頼む。彼を知り己を知れば、の精神だ。会える日を楽しみにしている』


 電話は切れた。以前、幸子から掛かってきた電話番号を呼び出す。タップしようとして思いとどまる。

 声だけだと見抜けないかもしれない。表情と仕草が合わさることで真実に近づけるような気がした。

 今日の講義は四限まで。幸子が通うボクシングジムに行けば会えるだろう。本人がいなくても杏寿に話を聞けば何かわかるかもしれない。

 今日の行動が決まって少し気が楽になった。


 四限目が終わっても雨は降っていなかった。少し黒雲が増えたので夕立の可能性が高まる。

 足早に訪れたボクシングジムを外から覗き込む。リングやサンドバッグに目をやるが、幸子の姿はなかった。それどころか、杏寿もいない。

 待っていても現れるとは限らない。最後はスマホに頼るしかないのか。

 決め兼ねていると横から抱き着かれた。しっとりした身体が密着して吐息のようなものが耳に掛かる。

「私に会いに来てくれたのね。嬉しい、キスして」

「ジムの人に見られると思うんだけど」

「それなら、こっちで」

 杏寿は腕を抱え込んで死角に連れ込み、上から覆い被さるようなキスをしてきた。その状態で僕の右の手首を握り、自分の胸に押し当てた。その意図に従って胸を強めに揉んだ。ブラに覆われた固い丸みが変形するのがわかる。

 声のない状態で身悶える。激しい動きで合わせた唇が滑るようにして離れた。バランスを崩した杏寿が前へ倒れそうになり、抱き締める状態で支えた。

「大丈夫ですか」

「急に身体の力が抜けたみたいになって。もう平気だから」

「あの、今日は峰山さん、お休みですか」

「拓光さんも知らないの? 理由を言わないで辞めたから、こちらから訊こうと思っていたのに」

 杏寿は困ったように眉根を寄せた。

「初めて知りました。僕の方で少し調べてみます」

「私はまだ練習があるから。わかったら教えてね」

 少しふらつく状態で杏寿はボクシングジムに入っていった。


 やはり電話に頼るしかないようだ。時間帯は悪くない。放課後を迎えてのんびりしている頃だろう。

 僕は足早に移動した。ボクシングジムから少し離れたパーキングエリアの横で電話を掛ける。


『なんか用か』

「少し話がしたくてボクシングジムにきたんだよ」

『杏寿さんに聞いたんやろ。ウチがジムを辞めたこと』

「知りたがっていたよ。僕の話はそれとは違うんだけど、会って貰えないかな」

『別にええよ。その近くにあるバーガーショップにいるから、来たらええ。あまり遅いと帰るで』

「わかった、すぐ行く」


 ショップ名を聞いて地図アプリを利用した。道を間違えることはなく、すんなりと目的地に到着した。道路に面したガラス張りのカウンター席に制服姿の幸子がいた。僕に気が付くとストローから口を離し、軽く手を振った。表情は明るく、以前のような刺々しい感じはしなかった。

 店内に入るとМサイズのコーラを注文した。支払いを済ませて受け取ると幸子の隣に座った。

「これがウチの待ち受けの画面や」

 いきなりストレートを放つ。可憐な少女は自分で見ても別人に思える。

「早く消してよ」

「なんでや。こんなかわい子ちゃんを消す訳ないやろ。ウチのメイクの腕が生んだ奇跡の一枚や」

 笑うと三白眼は一本の線になる。日溜まりで寝転がる子猫のようだった。

「どうしてボクシングジムを辞めたの?」

「自分の才能の無さを思い知ったんやろな。杏寿さんはホンマに強いで。あの最強でもリングでは勝たれへんとウチは思ってる。そんなんがゴロゴロおったら、やる気が出んやろ。ちゃうか」

「そうかもしれない。でも、関西の時からボクシングをやっていたんだよね。ここで諦めて後悔しない?」

 パチンと背中を叩かれた。軽いと思ったのか。もう一度、平手打ちにした。

「いつ辞めても後悔するわ。意欲がなくなったんは、それだけやない。本腰入れてメイクの勉強をしたくなったんや。これは、あんたのおかげやで」

「知識が凄かったし、メイクの腕はわからないけど、生まれ変わったように感じたよ。でも、できればその待ち受けは消して欲しいかな」

「アカンって。これ、ウチの最高傑作なんやし。でな、高校卒業したらメイクの専門学校に行こうと思うねん」

 白い犬歯を見せて幸子は笑う。少し照れが入っているのか。見える耳たぶが少し赤くなっていた。

「お礼はいらないからね」

「ホンマか? マジで胸、揉ませたるで。ウチは小ぶりやけど形がええし、それなりの弾力があって揉みごたえは十分や。それが嫌なら吸わしたろか。綺麗なピンク色やで」

「声のトーンを落として。勘違いされる」

「見たまんまのヤリチンのくせに」

 幸子は意地悪そうな笑みでストローを咥えた。

 妙な汗が出る前に僕も飲んだ。一気に吸い上げて中から冷やした。

 落ち着いたところで本題に入る。

「峰山さんは僕のことをどう思う?」

「女装が似合うハーレムの王様やな」

「変態みたいに聞こえるね」

「まあ、普通ではないやろな。でも、あれや……ウチは嫌いやないで」

 フライドポテトを齧り、ストローを咥える。耳たぶは真っ赤に熟れた。

「それでおまえはどうやねん。ウチのこと、どうしたいんや」

「キスされた時は、少し嬉しかった」

「お、おまえ、ここでなにを。知り合いに聞かれたらどうすんねん」

 幸子は小声で怒る。目をキョロキョロと動かし、実に忙しない。

「ごめん。悪気はないんで」

「ホンマ、びっくりするわ」

 言いながら手招きをする。聞かれたくない話かと思い、顔を近づけた。

 幸子は不思議そうに顔を傾けるとキスをした。舌と舌を絡めて吸うようにして自ら離れる。

「ええ塩味やろ」

「急にどうして?」

「お礼とウチのほんの気持ちや」

 恥じらうような表情がどこか色っぽい。笑うと子猫のようになり、頭を撫でたい衝動に駆られた。

 このような状態を綾芽にどのように話せばいいのだろう。

 わからないながら、今を二人で楽しんだ。

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