第58話 甘酸っぱい気持ち
一限目と二限目は同じ講義棟もあって移動が楽だった。机の上に置いたスマホの時間によると、あと十一分で講義が終わる。
講師は重要箇所にきて、少し声を上げた。雨音に対抗しているのだろう。外に面した窓を見ると夜のように暗い。
朝のテレビのニュース番組では梅雨に入ったと伝えていた。この時期は嫌いではない。体質の効果を弱めてくれるので僕としては恵みの雨となった。
ただ、先のことを思うと少し憂鬱な気分になる。汗を掻き易い夏は毎日が波乱に満ちていて、いつも以上に女性を気に掛けなければいけない。
昔のトラウマ級の出来事を思い出しそうになり、意識を講師の声に集中させた。そこにスマホの振動の邪魔が入る。
気にしなければいいのだが、どうしても確認してしまう。画面に表示させたアプリの一つに『1』と表示されていた。要だろうか。響輝は連絡先が多いという理由で繋がっていなかった。
アプリを起動させると予想が外れた。最近になって繋がった美知だった。胸の谷間のアイコンは見慣れていないこともあって、今でも一定の緊張を強いられる。タップして内容を表示すると、意外に普通で肩透かしを食らった。
『そろそろ講義が終わる頃かな』
『そうだよ』
『ランチはどうするつもり?』
『学食になると思う』
間延びしない文章は新鮮で夏の忌まわしい記憶を薄れさせた。
『どこで講義を受けているのかな』
『第二講義棟だよ』
『わかった』
そこで途切れた。何の確認だったのだろうか。疑問に思いながらも講師の説明に耳を傾けた。
講義が終わると足早に食堂へ向かう。別の建物なので、一度、外に出る必要があった。
出入口が近くなる。歩きながら折り畳み傘を取り出すと、美知が小さく手を振った。パンツルックを初めて見た影響で目が離せない。
「見つめすぎ」
「意外な格好にびっくりして。ドレス以外の時もあるんだね」
「雨の時はパンツルックが多いよ」
「そうなんだ。でも、どうしてここに?」
美知は栗色のソバージュを片方に纏めていて、その髪を触りながら答えた。
「わたしの家でランチにしない?」
「もしかして美知が作ったの?」
「そうよ。だから、一緒に来て欲しいな」
先程のアプリの遣り取りを思い出す。
「まだ講義がある?」
「あるけど、四限だから大丈夫だよ。本当にごちそうになっていいのかな」
「もちろん。だから来て」
間延びしない声は色っぽく、僕の胸を甘く満たした。
同意を示して二人で雨の中を歩く。相合傘ではないけれど、二つの傘は触れ合って一つになった。
「味は保証できないけど、わたしなりに頑張ったよ」
「それなら美味しいんじゃないかな」
「どろどろの愛情を注ぎ込んでいるからね」
表現は生々しいが、期待で胸が膨らんだ。
東門を抜けて平屋建ての一軒家に着いた。リビングダイニングに僕を連れていくと、美知は濡れた服を気にするような素振りを見せた。
「着替えてくるね」
はにかんだような笑みを浮かべて自室に入っていった。
残された僕はすることがなく、取りあえず目に付いた椅子に座る。長方形のテーブルに片肘を載せた状態で銀色の電子ジャーを目にした。撫子のアパートに持っていった物とよく似ていた。
美知の今回の手料理と関係があるのだろうか。中身が少し気になる。工夫次第でプリンやスープまで出来るという。
「お待たせ。すぐに用意するね」
白いエプロンドレス姿で現れた。肌の露出が多く、重ね着をしているように見えない。
「どうかした?」
「その、似合ってるね」
「ありがとう」
美知はスカートに当たる部分を軽く摘まんで左右に開き、足を前後に交差させて頭を下げた。愛らしい姿に自然と頬が緩む。
「今から用意するね」
美知はにこやかに言うと背後にある食器棚から平皿とカップを取り出す。
驚きの声を上げられず、僕は一瞬で固まった。
美知の白い背中にクロスさせた紐は何も隠さない。薄っすらと浮かぶ肩甲骨が見て取れる。目は僅かに下がって、更なる衝撃を受けた。
張りのある白い桃が見える。またの名を臀部という。そうなるとあの姿は裸エプロンなのだろうか。
現実と妄想の境界が激しく揺らぐ。目を擦っても現状は変わらなかった。
どういう態度を取ればいいのかわからない。美知の行動を目で追うこと自体が罪のように思えた。
極度の興奮で息が苦しくなった。ところどころの時間が抜け落ちて、気付いた時にはテーブルにオムレツが運ばれていた。隣にあるカップは薄い琥珀色でコンソメスープのようだった。
美知は隣の椅子に座って上体を傾ける。大きな胸がずれて横から白い一部が食み出した。
「食べてみて」
「……いただきます」
スプーンを手にして黄色い楕円の端を掬い取る。断面からほんのりと赤いご飯が見える。小指の先くらいの鶏肉が入っていてチキンライスとわかった。最初の印象のオムレツは頭の中でオムライスに修正された。
スプーンを口の中に入れる。程よい酸味と甘味が広がる。ご飯はべたつかず、弾力を伴ってチキンと玉ネギの香りを伝えた。隠し味なのだろうか。黒コショウが甘い口を引き締めに掛かる。
「味はどう?」
「美味しいよ」
「少し卵の部分が焦げたんだけど」
真ん中から少しずれたところに皺が寄って茶色くなっていた。
「気にならないよ。味のバランスがよくて、いくらでも食べられそうだよ」
「ありがとう。今度はわたしを美味しく食べてね」
裸エプロンで美知が微笑む。一瞬、手が止まって、慌てて食べ始める。
妙に喉が渇く。カップを持ち上げて飲んだ。予想通りのコンソメスープだった。クルトン代わりに入れられたベーコンの塩味が程よく、あとから爽やかなパセリの味が加わった。
軽く息を吐くと全身に味がじんわりと染み渡る。食べる前よりも酷い空腹感に襲われ、一気に平らげた。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったよ」
「頑張った甲斐があったみたいね」
美知は弾む声で言った。エプロンに包まれた胸も弾み、僕の目は上下に動いた。
食べ終えた食器をシンクに運び、スマホで時間を見る。思った以上に時間が進んでいた。
「僕は次の講義に行くよ」
「あなた、いってらっしゃい」
新妻のような言葉が返ってきた。何かをせがむような行為はなく、美知は微笑んでいる。
「……行ってくるよ」
僕は唇を軽く合わせて急いで大学へ戻った。
その後、四限目の講義を甘酸っぱい気持ちで受けた。
もちろん、オムライスの味だけではなかった。




