第105話 香水を失った未来へ
自室のベッドで目が覚める。天井をぼんやりと眺めて深呼吸をした。香水の匂いはすっかり消えていた。五日目でようやく鼻が正常に戻った。
上体を起こして締め切ったカーテンに目をやる。朝陽を浴びてぼんやりと光って見えた。日中の気温を想像するだけで喉が渇いた。
手元に香水はない。全てを失い、焼き鳥屋の騒動は収束した。事の顛末は意識が回復したあとで彼女達から雑談の形で聞いた。
綾芽が車で僕を家に送り届けている間に、ルチルと美知が祖父の家に乗り込んだという。大企業であるゴッドケープの名を出して脅し、トドメに精神攻撃も加えたと当人達は楽しそうに語った。
「異性にモテる香水を作る前に、ジジイのふにゃちんをどうにかしろ!」
美知が痛烈な言葉を浴びせた。祖父は土下座の姿で丸まって、ごめんなさい、とか細い声を繰り返したという。聞かされた僕は少し気の毒に思った。
身体を捻って枕元のスマホを手にした。時刻は午前六時を回ったところだった。
二度寝する気分にはなれず、両腕を左右に開いて伸びをした。身体から完全に眠気を追い出すとドアをノックする音がした。
「鍵は掛けてないよ」
「兄さん、おはようございます」
「おはよう」
部屋に入ってきた彩音は高校の制服を着ていた。柔道の朝練があるのかもしれない。そこまでは理解できても深呼吸の意味はわからなかった。
「その行動は?」
無視した彩音が摺り足で迫る。躊躇なくベッドに片膝を突き、僕の両肩を掴む。
「じっとしていてください」
「……わかったよ」
美人の凄味をひしひしと感じて横目になった。彩音は顔を傾けた。その状態で首に鼻を近づけて小刻みに吸う。
「おかしいです」
「彩音が?」
「不当な侮辱は許しません。腕挫十字固を決めて肘関節を破壊しますよ」
さらりと恐ろしい内容を口にする。
「僕が悪かった。それで何がおかしいの?」
「兄さんから不快な感じがしないのです。香水の匂いもなくなりました。ケダモノから真人間に戻ったのですか」
冗談には思えない。彩音は僕の目を見て言った。
「前と同じだと思うんだけど。もしかして体質が改善されたのかな」
「わかりませんが、試しに首筋を舐めてもいいですか」
「いやいや、そこまでしなくていいって」
「遠慮しないでください。私と兄さんの仲ではないですか。今ならサービス期間中なので漏れなくキスマークがついてきますよ」
犬猿の仲ではなかったのだろうか。過去に添い寝をされることもあったが、香水を失った今では甘い夢となっていた。
「僕達は兄妹だからね。試すなら彼女達にするよ」
「そうですか。下半身で物事を判断する下劣な兄さんに相応しい方法ですね。わかりました。腹上死を心から願っています」
彩音は突き放すようにしてベッドを離れた。反動で後ろに倒れた僕は片肘を突いて上体を起こす。
「いつか――」
「え、なに?」
彩音は口を閉じて一睨みすると部屋を出ていった。
一人になったことで抑えていた感情が溢れ出す。右の拳を固めてベッドに振り下ろした。片手では足りず、両拳を何度も打ち付けた。笑顔が止められない。
確かに香水は失った。全てを飲み干し、自身の血肉となった。そう、体質は香水の力で相殺されたのだ。
彩音が行動で証明した。探求心が高まる中、家のチャイムが鳴った。
僕はパジャマ姿で部屋を飛び出した。階段を駆け下りてドアを開け放つ。
ルチルと美知が笑顔で立っていた。黒とピンクのチュニックは夏仕様なのか。個々の白いブラが透けて見えた。
瞬間、気持ちが抑えられなくなった。飛び付くようにして抱き締めた。二人は僕の背中に、そっと手を回す。
「拓光、心配したんだぞ」
「わたしもですよぉ」
「好きな彼女と、ずっとこうしたかったんだ」
二人は僕の背中を摩る。そうか、とルチルは穏やかな声で言った。
「香水がなくてもぉ、できるようになったんですねー」
「そう、みたい。これで僕は皆と、これまで以上に深い絆で結ばれることが、できると思うんだ」
「そこにはあたしも入ってるんだよな」
緩いティシャツ姿の要が現れて横から僕を抱き締める。偶然が重なってワンピースの結愛と杏寿が僕に身を寄せた。
車が急停止するようなスリップ音が間近で聞こえた。スーツ姿の綾芽が走り込んできて僕の背中に抱き着いた。
「これが坊やの力だ。これからは心のままに楽しめばいい」
「綾芽、ありがとう」
「やっと呼び捨てになったな。嬉しい限りだ」
「皆さん、考えることは同じみたいですね」
パンツルックの撫子は最後に現れた。自分の居場所を目で探す。綾芽が少しずれて一緒に笑顔で張り付いた。
「これってどういう状況なのよ」
母の声を聞いた。埋もれていた僕は右手を挙げて頻りに振った。
「皆で喜びを分かち合っていたんだ。もうやめるから気にしないで」
「人様の玄関先で見苦しい姿を見せてしまい、申し訳ありません。拓光さんの元気な姿を見て感情が抑えられなくなりました」
全員の感情を代弁するように綾芽が言った。
「こちらこそ、お世話になりっぱなしでごめんなさいね」
それっきり、母の声は聞こえなくなった。
「良い母親だ」
綾芽は僕の背中越しに言った。
「なんか照れるね……ルチル、それと美知もどうかした?」
二人の抱き締める力が増した。僕の身体を通して胸の膨らみを否応なく意識した。
「キスしたくなった。拓光、いいよな」
「わたしもしたくなっちゃいましたぁ」
「それならあたしにもさせろ」
要が腕に絡み付く。杏寿は息を弾ませて、私にもしてぇ、と切ない声を出した。
「ここは杏寿さんでも譲れないから。あたしの綺麗になった身体を心ごと抱いて」
「ガキが調子に乗るな。坊やは私のものだ」
「皆さん、好き勝手に言い過ぎです! わたしにも我慢の限界があります!」
初めて撫子の怒号を聞いた。全員が同じようで、一瞬、僕の包囲網が緩んだ。
隙間を狙って身を捻じ込み、藻掻くようにしてなんとか抜け出せた。
そこで彼女達に向けて提案した。
「こんな日は皆でプールに行こうよ」
「それなら無人島だ」
ルチルは小鼻を膨らませて言い切った。
「ヘリコプターですとぉ、人数が多くないですかー?」
「そこでクルーザーを用意する。行くなら三泊四日がいいだろう」
「マジで!? 凄すぎるんだけど……」
ルチルの話に結愛は驚き、最後は自信を喪失したような声になった。
「それはいいけど、もうコンドームに穴とか開けんなよ」
「こんなところで言うな、要! 締め落とすぞ!」
「その手があったか」
綾芽は底意地の悪い笑みを浮かべた。
「取り敢えず、一度、解散して出直すのはどうだろう」
「拓光の意見に賛成だ。皆はどうする?」
要は各々の目を見て訊いた。
「私は裸で泳いでもいいよ」
「杏寿さん!」
結愛の一喝に笑いが起こった。
これが本当の彼女達なのか。自分を包み隠さず曝け出し、本気で怒って笑える。個性が際立ち、皆が可愛らしくて愛おしい。想うだけで気持ちが高ぶり、目に沁みるようだ。
そこに彩音が冷ややかな目で現れた。高校指定のボストンバックを背負っている。ルチルへの対抗意識は強く、睨むような横目をやった。
「これから朝練なので場所を空けて貰えますか」
「ごめんなさい」
撫子が端に寄った。ほとんどの者が同じ行動を取った。
ルチルは舌打ちをして退いた。
「それでは兄さん、今から朝練に……」
「立ち眩みか!?」
彩音はこちらに倒れてきた。受け止めようとした時、視線が合った。抱き合う状態で唇が重なる。
「なにチューしてんだよ!」
一歩を踏み出した要が強引に引き剥がした。
「こ、これは予期しない事故で」
「それは違います。忘れたのですか。私と兄さんは連れ子同士なので結婚もできるのですよ。それではいってきます」
嵐は去って酷い大災害を引き起こした。
ルチルは叫ぶ。
「どういうことだ!」
「初めて知ったぞ! どうなってんだよ!」
要は目を剥いて詰め寄ってきた。
「妹まで彼女なんてことは、さすがにないと思いたいが」
「それはないと思います。そうですよね?」
苦笑いの綾芽の側で撫子が必死の目で問い掛ける。
「同じ家に住んでいる妹に狙われたらぁ、フツウ逃げられないよねぇ。もう、わたしとやっちゃえばいいんだよー。不安ならー、お尻で練習しとくぅ?」
美知は背中を見せた。突き出した尻のスカートを自らずらし、薄っすらとした割れ目を露出した。
「それなら私をめちゃくちゃにして。噛んで、揉んで、舐め回して」
「杏寿さん! こうなったら綺麗になったあたしの身体で、先輩の初めてを奪ってやる!」
「皆さん、落ち着いて! 私は、その、お口で奉仕しますよ?」
撫子までおかしくなっていた。
なんなんだ、この状況は。急にどうしてこうなる!?
混乱を極める中、僕はパジャマの袖で頬を伝う汗を拭った。
香水が失われた今も、拓光君はいつも匂いに振り回される運命にあるのだった。




