第102話 相手の正体(3)
自室のベッドの縁に座る。俯いた拍子に握ったスマホに目がいく。勝手に緊張感が高まり、一度、大きな息を吐いた。
少しすっきりしたところで指を動かし、スマホを耳に当てた。呼び出し音の回数を心の中で数える。掌がじんわりと汗で湿ってきた。
『……誰だ』
祖父の厳めしい声に生唾を呑んで僕は答えた。
「拓光です」
『香水は持っているのだろうな』
「持っています。それよりも今日の行動について説明してください」
ふつふつと湧き上がる怒りで意外と口が滑らかに動いた。
『それは俺のセリフだ。彼女が奇跡的にできたことは直に聞いた。まさか七人も囲うハーレムを築いていたとは、全く知らなかったぞ』
「それについては、その、偶然というか。僕もこの状態にびっくりしていて」
『拓光よ。お前が関わったことで悲願である、女を虜にする香水は完成した。元は俺の作った香水だ。使い切っていないのならば、こちらに一本、速やかに渡せ』
「……完成したとは、どういう意味ですか」
極度の興奮で頭の中が脈打つ。そこに揶揄を含んだ忍び笑いが聞こえてきた。
『実に白々しい。それだけの奇跡を繰り返していながら、本気で誤魔化せると思っているのか? それに拓光にとっても悪い話ではない。破棄したデータを再び得られれば今後も安定して香水を提供できるぞ。どうだ?』
香水は使えばいつかは尽きる。金の切れ目と同じで彼女達との縁を失うかもしれない。関係が深まる程、その危機感は色濃い不安となって僕に執拗に纏わり付いた。
「悪用するつもりですか」
『拓光と同じ使い方をするだけだ。それにしても盲点だったぞ。もっと早くに気付いて真摯に取り組んでいれば、ここまでの回り道をすることはなかった。だが、これで長年の夢が叶う』
しみじみと過去を振り返る。思い入れのない僕としては反応に迷う。そこで勝手に話を進めることにした。
「あのぉ、香水だけならすぐにでも渡せますが」
『まさか、本当に理解していないのか? お前の体臭と香水が混ざることで劇的な変化をもたらし、初めて香水は完成するのだ。ここにきて汗の採取を拒んだりはしないと思うが』
過去、祖父は僕の体臭の再現を試みた。一流の調香師を自負する祖父でも解明できなかった。その未知の成分に香水が加わると、負の作用を打ち消すどころの話ではない。口ぶりから考えて異性を魅了する絶大な力を発揮するらしい。思い当たる場面が次々と頭に浮かぶ。
「……少し考えさせてください」
『香水の破棄は許さんぞ』
「もしもの話ですが、それを実行したらどうするつもりですか?」
『脅し文句ではないが、拓光のハーレムを内側から崩壊させる。手荒な真似はしない。彼女達に事実を教えるだけだ』
僕は言葉を失った。大きな喪失感に似ていた。
ごく普通の言葉に打ちのめされて視界がぼやける。思考力は鈍り、波のような悲しさが何度も心に打ち寄せた。
『すまんな。俺の長年の夢なんだ。期限は今月末とする。よく考えて答えるのだぞ』
通話が切れた瞬間、僕はゆっくりと後ろへ倒れた。
ここまでの結果として、僕は彼女達を騙したことになるのだろうか。香水の力で相手の感情を自由に操り、欲望のはけ口にしようとしている、とは思いたくない。祖父の話が事実だとしても、僕自身に悪気はなかった。
心の中の弁明は言い訳がましく、自分の本当の気持ちとわかっていても受け入れ難いものがあった。香水を利用して彼女にした。この部分は変わらないし、捻じ曲げることもできない。揺るぎない事実として胸中に根を下ろしていた。
そのような時に涼し気な音が鳴った。自分を追い詰める思考は途切れ、寝っ転がったままスマホを顔に近付けた。
アプリを使って送られてきたメッセージを表示させる。
『綾芽だ。集まる場所と日時を伝える。坊やには包み隠さず、私という人物を語りたいと思う。そして全てを受け止めて欲しいと願っている。この場での返信は不要だ』
覚悟を決めた文章に僕は恥じ入るように目を伏せた。
階下から母の呼ぶ声がした。夕飯の時間らしいが、はっきりとは聞き取れない。食欲も全然なくて、死んだように眠りたかった。
その思いに反してスマホの画面に目をやる。軽い衝撃を受けた。運命という言葉を強く意識した。
今月の末日が視界に飛び込む。祖父の期限と被っていた。
二つの選択肢を同時に突き付けられた僕は、階下の母の声を無視して死んだように眠りについた。
上の空の状態で大学に通い、明後日から夏休みに突入する。夏期講習を受けても一か月半近くの休みがある。バイトが頭を過ったが、今はそれどころではなかった。
今日は月曜日で末日に当たる。綾芽に指定された場所へ午後六時に何事もなく到着した。大学から直行したので背中にはリュックを背負っている。ファスナー式のサイドポケットには三本の香水が収められていた。家への襲撃とも取れる祖父の行動から学んだ。大切なものは肌身離さず持っていた方がいいと。
服装はTシャツと七分丈のズボン。夏の定番というのか。代わり映えのしない格好だった。
改めて手前の雑居ビルを眺める。二階の窓に焼き鳥屋の店名がでかでかとあった。アプリに書かれた名と一致した。
高級なところをイメージしていたので逆に驚いた。見た目と違って中は広いのだろうか。入ったことのない店もあって微量の香水を仕込んではいた。
「……行くかな」
道路に面した狭い階段に向かって歩き出した。




