第101話 相手の正体(2)
玄関でスニーカーを脱ぎながら左手に目をやる。小ぢんまりとしたシステムキッチンがあった。長方形のテーブルにイスが四脚。一人住まいなので来客用なのだろう。
「腹でも減ったんか?」
「そうじゃなくて、キッチンが綺麗だなって」
「結愛と違って料理は好きやし、掃除も嫌いやない。せや、前に作ったオムライスは舌の肥えた杏寿さんにも味を褒めて貰えたなぁ」
幸子は思い出に浸るような声で言った。
「……ボクシングに未練は本当にない?」
「もう決めたことや。そら、思い返せば懐かしい気持ちにはなるで」
言いながら壁のスイッチを押した。蛍光灯の白い光が廊下を照らす。
歩き出した幸子は右手のドアを平手で叩く。
「ここがトイレや。その隣が風呂やけど入らんよな?」
「それはないよ。初めてきたところで、いきなりお風呂を借りるのは抵抗があるというか」
「真面目か!」
笑いながらツッコんだ。
廊下の突き当りには長い暖簾が垂れ下がる。紺色で白い波飛沫のようなものが描かれていた。幸子は手で掻き分けるようにして中へと入る。僕も同じようにして後に続いた。
「適当にくつろいでや」
フローリングの部屋は一目で広さを感じた。
壁際に本棚とベッド。中央のガラス製の座卓には二つのリモコンが置かれていた。幸子は一つを手に取り、窓の上の方に向けた。エアコンが動き始めると程よい冷風が部屋の温度を下げていく。
「飲み物はコーラでええか」
「いいよ」
「そこ、座っとき」
一つのクッションを指さした。僕はそこに座って幸子を眺める。
ベッドと反対側の壁に古めかしい三面鏡。その横にはミニ冷蔵庫があった。ワンドアのタイプでしゃがんだ状態で開けると二本の缶を取り出した。
「コップは無しや」
僕の手前に缶を置くと後ろを通って左側に座った。両脚を伸ばした状態となり、缶コーヒーを飲み始める。
「で、今日はどうしたんや? なんかあったんやろ」
「僕もよくわからないんだけど、誰かに狙われているみたいなんだ」
「狙われる理由もわからんの?」
幸子はテーブルに片肘を突いた。その姿勢で缶コーヒーを飲んだ。
神崎家に連れて行かれたことを思い出す。ルチルの父親の思惑を覆したことが今回の件に絡んでいるように思えてならない。確証はないので迂闊なことは言えないけれど。
「今のところは。でも、僕の知り合いが調べているから直にわかると思う」
「その間、ウチがあんたを匿えばええんやな」
「そうなるのかな。危険な目に遭うようなら出ていくから安心して」
「ウチの方が強いこと、忘れんなや」
握った拳で僕の胸を軽く突いた。
「そうかもしれないけど、峰山さんは女の子だから」
「そら、まあ」
幸子は視線を逸らす。目にしたリモコンを使ってテレビを点けた。適当にチャンネルを変えてニュース番組で止めた。
僕はコーラをちびりと飲んだ。幸子はテレビを観ていた。コマーシャルに入っても目を逸らさない。
その状態で怒ったように言った。
「そんな見られたら落ち着かんわ」
「ごめん。そんなつもりはなくて、少し考え事をしていて」
「どんなことや」
目だけを動かした。怒りとは違う感情をちらつかせる。
「僕と峰山さんは友達なのかな、とか」
「友達とはキスせんやろ、普通」
「まあ、そうだよね。それなら僕達の関係はなんだろう」
「キスくらいできる仲なんやろね。前はフライドポテトの塩味やけど、今ならグレイドアップしてコーヒー味やで」
幸子は白い歯を見せて笑った。喉の渇きを覚えた僕は残りのコーラを一気に飲み干した。
「それなら僕はコーラ味だね」
「混ざると何味になるんやろ」
とろんとした目で顔を近づけてくる。僕は引き寄せられるように上体を傾けた。
唇が触れた。どちらも受け入れるように開いて舌を絡ませる。
幸子が僅かに顔を引いた。熱い吐息に声を潜ませて、ベッドいく? と訊いてきた。ぐらつく心に警告を発するようにスマホが鳴った。
離れた僕は腰のホルダーからスマホを取り出す。非通知ではあったが電話に出た。
「拓光です。相手がわかったのですか」
不満そうな幸子には、ごめん、と口の動きで伝えた。
「……そうですか。それで相手はどのような人物なのでしょうか」
口籠るような間のあと、僕を降ろしたコンビニにくるように言った。
幸子に目をやる。他の者に聞かれると都合が悪い話なのだろうか。
「わかりました。今から出ます。十分くらいで着きます」
電話を切ると幸子はコーヒー缶を呷った。
「待たせると悪いから行くよ」
「しゃーないな。気いつけていきや」
「ありがとう」
胸騒ぎがする中、僕は幸子のアパートを後にした。
速足で来た道を戻り、コンビニへ向かう。駐車場の端に青い車が停まっていた。三回のノックはしないでドアを開けて助手席に乗り込む。
「早速ですが、相手の素性を教えてください」
「今回の首謀者は一人だが世界的に有名な企業がバックにいた。トランシーバーの遣り取りを傍受してわかった」
「企業ぐるみですか」
光の眼付きが鋭くなる。
「その線は考えなくていい。首謀者は長年、勤めた会社を定年退職して五年が経過していた」
「そうですか。そろそろ相手の素性を教えて貰えませんか」
「驚くなとは言わない。貴様の祖父、菅原源一郎だ」
「そ、そんな、何かの間違いでは」
「確かめる意味も含めて貴様を家に送り届ける」
光は車を発進させた。何も考えられない状態で僕は、ただ車内で揺られた。
「……ただいま」
玄関で靴を脱いでいると母が小走りでやってきた。
「今日、源一郎さんが家に来たんだけど、何を借りたのよ」
「何も借りてない。それって、いつの話?」
「午前中だったと思う」
聞いた瞬間、僕は急いで階段を駆け上がる。廊下を走って自室へ飛び込んだ。
本棚に目をやる。微妙に本の位置がずれていて波打って見えた。机に目がいく。引き出しを片っ端から開けた。余程、急いでいたのか。乱雑な状態で放置されていた。
最後にベッドへ向かう。枕を引っ繰り返してカバー越しに触る。二本の香水の瓶は取られていなかった。隠し場所を机の引き出しから変えた矢先の出来事なので、安堵の溜息が長々と漏れた。
「それにしても……」
祖父の行動の裏には何があるのだろう。このあとの僕の行動にも関わる。気付かないフリをするのか。思い切って本人に問いただすのか。
手にしたスマホを見て考えを巡らせた。




