絶対女王(ウルミ)は未知のスイーツに敗北し
ヒナ(火乃)が教室で親友たちの視線に晒され、冷や汗を流していたのと同じ頃。
ウルミは駅前の通りにある、ガラス張りの瀟洒なカフェのレジカウンターに立っていた。
店内に漂う焙煎された豆の香りと、甘いシロップの匂い。
ウルミはメニューボードの横文字を胡乱な目で見上げ、レジで待機しているエプロン姿の若い店員に視線を下ろした。
「おい、そこの店員」
「は、はいっ。ご注文をお伺いします」
「最高級のシナモンリーフを煮出した茶を出せ。風味付けにマンドラゴラの根を少々、温度は八十五度で統一しなさい」
「……え?」
店員が困惑してレジの画面とウルミの顔を交互に見た。
「あ、えっと……シナモン系のメニューですと、チャイティーラテがございますが……マンドラゴラ、というのはトッピングのメニューにはなく……」
「は? メニューにない?」
ウルミは眉根を寄せた。
「ここは人間の集う茶会でしょう? まともな茶葉一つ置いていないというの?」
店員が助けを求めるように奥の店長をチラチラと見ている。
ウルミは小さく舌打ちをした。自分が異世界ではなく、人間の現代社会にいることを失念していたのだ。
「……もういいわ。そのチャイなんとかを一つ。それと――」
ウルミの視線が、レジ横に置かれた写真付きのメニュー表に止まった。
そこには、分厚く膨れ上がった円柱状のパンケーキに、たっぷりの白いクリームとメープルシロップがかけられた『特製スフレパンケーキ』の写真が載っていた。
「この、無駄に膨張したパンはなんなの?」
「あ、当店の看板メニューのスフレパンケーキですね! 焼き上がりまでに二十分ほど頂戴しますが、ご注文されますか?」
「ふん。見た目だけ取り繕った見掛け倒しの代物でしょうけど……まあいいわ。一つ出しなさい。昨日手に入れた日当の消費にはちょうどいいわ」
ウルミは火乃の財布から巻き上げた一万円札を、レジのトレイに無造作に置いた。
数十分後。
窓際の席に座ったウルミの前に、湯気を立てる分厚いスフレパンケーキが運ばれてきた。
ウルミはフォークとナイフを手に取り、その柔らかすぎる生地にナイフを入れた。
スッと、刃が沈み込む。
一口大に切り分け、クリームとシロップを絡めて口に運ぶ。
「…………」
ウルミの動きが、完全に停止した。
口内で噛む必要すらない。フワフワの生地が、舌の上で甘いシロップと共にシュワッと溶けて消えたのだ。
彼女が生きてきた数百年という年月の中で、これほど物理的な質量を無視した軽やかな食感の食べ物は存在しなかった。
ウルミは無言のまま、もう一口切り分けて口に運んだ。
ゆっくりと口を動かす。
ルビー色の瞳がわずかに見開かれ、フォークを持ったまま、こくり、こくりと小さく二度、深く頷いた。
「(……悪くないわね、人間のエサも)」
彼女は誰にも見えないほどの微かな笑みを浮かべ、圧倒的なペースでスフレパンケーキを切り分け始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一方、その頃の2年B組の教室。
俺の前の席では、猪祐と繁倉が振り返り、俺の顔を穴が空くほど見つめていた。
指先が微かに震える。俺は机の上の紙パックの紅茶を両手で握り込み、努めて無表情を保ったまま、二人の視線を正面から受け止めた。
ここで視線を逸らせば、逆に怪しまれる。
「…………」
「…………」
数秒間の沈黙。
先に口を開いたのは、猪祐だった。
「……んなわけ、ねーよな」
猪祐はふっと息を吐き出し、隣の繁倉の肩を軽く小突いた。
「おい繁倉、お前バカか。よく見ろよ。西川さんと夏海ちゃんじゃ、全然タイプが違うだろ」
「む……? しかし、顔のパーツの配置が……」
「いいか? 素人はこれだから困るんだよ」
猪祐はオタク特有の早口モードに切り替わり、スマホの画面を繁倉に突きつけた。
「夏海ちゃんはな、あのオドオドしたポンコツ具合からの、一瞬でドSに切り替わる狂気の二面性が魅力なんだよ! いわば奇跡の存在だ! 対して西川さんはどう見ても大人しい清楚系の純粋な転校生だろ。そもそも、女子のプライベートを勝手に詮索するのは、推し活のルール違反だぜ」
「……言われてみれば、確かに」
繁倉は納得したようにメガネの位置を直した。
「二面性を持つ女王と、静寂を纏う転校生。全くの別物だな。俺としたことが、つまらぬ邪推をしてしまった」
「だろ? だから西川さんをジロジロ見るのやめろ。初日でビビってんじゃん」
二人は俺から視線を外し、再びスマホの画面(昨夜の配信アーカイブ)に向き直って「この罵倒シーン最高だよな」と語り合い始めた。
俺は、無意識のうちに強く握りしめていた紙パックから、ゆっくりと力を抜いた。
潰れかけていた紙パックが、ベコンと元の形に戻る。
肺に溜まっていた息を細く長く吐き出し、口元を隠すようにストローを咥えた。
(……助かった。猪祐の限界オタクっぷりに救われる日が来るとは思わなかった)
これならいける。
俺がこの教室で『大人しくて静かな女子』を演じ切れば、こいつらに正体を悟られることはない。
そう確信し、残りのパンに手を伸ばそうとした時だった。
「――西川さーん。ちょっといいかしら?」
教室の前方から、担任の千歳先生が歩み寄ってきた。
手には、何枚かのプリント用紙とバインダーを抱えている。
「あ、はい。何でしょうか」
「転入手続きの書類のことで、いくつか確認事項があるのよ」
千歳先生は俺の机の横に立ち、バインダーの用紙をめくった。
「午後の体育の授業で使う、指定の体操服なんだけど……書類にサイズの記入漏れがあったみたいなのよね。今ここで測っちゃってもいいかしら?」
「え?」
「保健室まで行く時間もないし、上着のサイズだけだから。ちょっと立って、胸を張ってみて」
千歳先生はポケットから採寸用のメジャーをスッと取り出した。
俺の思考が、一瞬でフリーズした。
胸を張る? 今の俺の、この服がはち切れそうな規格外の膨らみを? クラス中の男子(猪祐と繁倉を含む)がいるこの教室のど真ん中で!?
「ほら、立って立って。すぐ終わるから」
千歳先生の有無を言わせぬ笑顔。
その背後で、猪祐と繁倉が会話をピタリと止め、こちらにゆっくりと視線を向けてくる気配がした。
俺の平和な偽装学園生活は、開始わずか数時間で、再び物理的な意味で最大の危機を迎えようとしていた。




