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冬満願~山城国・後編

 空は渦を巻いたように茜と闇が轟轟と鳴り、足下の惨状と変わらぬ地獄の有り様を呈していた。赤い恒星と黒雲が不気味な存在感を放っている。

 地獄と見紛う惨状は、その黒雲と見える〝穴〟から生じたものと見えた。

 桐峰、明榛、犬王丸は地獄を無に帰すコトノハを唱える雅常を先頭に、馬で鳥辺山まで向かっていた。

 溢れる亡者の群れは臆することなく桐峰たちの馬の脚に絡みつこうとする。それを蹴散らしながら進んだ。ここで情けをかけていても始まらない。

「風塵」

 雅常が唱えるとそれらの亡者も崩れ落ちる。雅常のコトノハの効能に、今更ながら桐峰たちは驚嘆し、僅かな畏怖をも覚えた。

 途中、鉄で出来た虫の群れにも襲われたが、雅常のコトノハでことなきを得た。

 雅常と桐峰たちが進むごとに、地上に顕現していた地獄が吹き払われ、清められていくようだった。

(さすがは神祇官。音ノ瀬家当主)

 実は邸を出る前、この異常事態に動揺した宮中から雅常を呼び出す使者も来たのだが、雅常は参内するより鳥辺山に向かうほうを優先した。

 全ての狂いの源がそこに集っていると思うからこそである。

 桐峰たちも雅常がいなければ、鳥辺山に向かう途中で亡者の群れに囲まれ身動き出来なくなっていただろう。

 雅常の存在が、現状を打開する鍵と言っても差し支えない。

 行く手よりどよめきが聴こえてきたと思ったら、そこには剽悍な土佐の兵士、一領具足たちがいた。

 率いるは長曾我部元親。

 一領具足は何かことあれば一騎当千の働きをする、土佐の(つわもの)である。

 雅常のコトノハもなく、ここまで来ることが出来たとは驚異の働き振りだ。

 先頭をゆく元親の隣に初震姫と五鶯太がいた。

 皆、馬に乗り、一様に鳥辺山を目指している。

「初震どの!」

 桐峰が声をかけると、気付いた初震姫が馬首を巡らせこちらを見た。

 初震姫は弱視というのに、今はその双眼で明確に桐峰を見据えているように見える。

 星震大社の剣客巫女は細い身体の隅々まで闘気を漲らせていた。おっとり構えた普段とは打って変わった有り様に、雅常たちははっとする。

 だが桐峰はこうした状態の初震姫に馴染みがあった。

 あの遠い日向の地で――――――。

 果たして初震姫は空のどよめきにも負けぬ声で桐峰に告げた。

「黒縄丸と三好星愴はわたしたちで仕留めます。桐峰どのたちは両面宿儺とそれを率いる音ノ瀬多香子を討ってください」

 決して怒鳴るような威勢ではなかったが、その凛とした声は桐峰の耳に確かに届いた。

「そうじゃあ、桐峰どの!我が土佐の妖怪坊主はわしらに任せるぜよっ。なあ、皆の衆!」

 檄を飛ばす元親は普段はうすら白い頬を紅潮させ、ともすれば品よくも見える面立ちを完全に戦武者のそれと化している。

 一両具足の兵たちが元親の声に呼応して雄叫びを上げる。

「承知!」

 彼らに負けぬよう、桐峰もまた、声を放った。

 馬首を返した初震姫たちの先には黒縄丸と星愴がいる。

 そうして桐峰の前に立ちはだかるのは古の兵。

 両面宿儺とそれを率いる音ノ瀬多香子だった。

 

 こんな時でさえ―――――いや、こんな時だからこそだろうか、艶やかな笑みを浮かべた多香子は送葬の地である鳥辺山で嫋やかな花にも似た風情で立っている。

 手には咲き誇る椿の枝を持ち。

 それを斬ると考えると桐峰の胸にも多少の躊躇いが湧いた。

 更に不気味なのは両面宿儺の兵たちである。

 一両具足のような戦場における特有の荒ぶる熱が感じられない。

 ただただ粛々と多香子の後ろに控えているのだ。

 その静けさはしかし、多香子のコトノハで破られた。

「行きや」

 多香子が顎を傲岸にしゃくると、両面宿儺たちは唸り声を上げながら桐峰たちに突進してきたのである。

 桐峰たちは素早く下馬し、刀を抜いた。

 両面宿儺の纏う短甲が耳障りな音を立てながら桐峰らに迫る。

(――――やはりでかい)

 七尺を超える両面宿儺と、正面から斬り合うのは愚かだ。

 巨漢の持つ刀が空を凪いだあと、その風圧で近くの大樹が激しく揺れた。

 辛くも刃をかわした桐峰は、両面宿儺の刃の威力に驚愕する。

 桐峰の前髪が風圧でふわりと浮いた。

 両面宿儺の拳をいなした明榛も同様に風圧で飛ばされた。何とか受け身を取る。

 桐峰はちらりと明榛を見る。

 明榛が頷く。

 二人ともに、この兵たちに対抗する術を認め合ったのである。

 雅常を庇うようにして丹生と澄行が閃く。

 二振りの大業物は適格に両面宿儺の脚の腱を切り裂いた。

 ぱっくりと裂けた傷口から血が噴き出す。

 それまで表情のなかった両面宿儺たちが苦悶の色を浮かべる中、息継ぐ間もなく桐峰たちは動いた。

 大太刀で脚の腱を斬るという芸当は本来難しいものだが、そこは両面宿儺の巨漢であることが幸いした。

 次々と斬り伏せていくのは、桐峰と明榛の腕があってこそのものだが、両面宿儺は大きさのみならず数で二人を圧しにかかる。

 明榛があわや両面宿儺の刀に捕らえられようとした時、一矢が飛来し、両面宿儺の目を射た。

 そこには雅常邸で待機している筈の犬王丸の姿があった。

「若君…!」

 叱責の響きを帯びた明榛の叫びに動じず、犬王丸が二矢目を放った。

 これが両面宿儺の顔に的中すると、ぱっ、と赤い粉が散り、両面宿儺が苦悶の雄叫びを上げる。

 矢の先に、唐辛子入りの小さな袋を結わえて射たのだ。

 それは雅常の邸を桐峰たちを追って出る犬王丸に、明那が持たせてくれたものであった。

 だが犬王丸の援護射撃にも限界がある。

 この際はやはり両面宿儺を封じるしかなさそうだ。

 出来れば武で勝りたかったが、この局面では致し方ない。

「雅常どの!コトノハを!」

 背後で待機していた雅常が頷く。

 と、同時に桐峰は両面宿儺の前から後退し、丹生を鞘に仕舞い、代わりに竜笛を取り出した。


 それは確たるコトノハではなかった。

 雅常は、踏歌の如き韻律で、桐峰の竜笛に合わせて〝音〟のみを処方した。

 高く、或いは低く。

 両面宿儺たちの動きが止まる。

 その怜とした、ともすれば朧なコトノハに、囚われているのだ。

 雅常の指貫(さしぬき)のあたりから浅い色の樹の枝がからみつくように蠢いていた。

 竜笛を吹きながら桐峰は忸怩たる思いであった。


〝ではその、両面宿儺を封じるコトノハを唱えれば、雅常どのは樹木と化してしまわれるのか!〟

〝然り〟

〝何か…。何か別の手立てはないのか〟

〝桐峰どの〟

 呼びかけた雅常の双眸は怖いくらいに澄んでいた。

〝これが私の宿命なのだ。音ノ瀬家当主としてことの収集をつけねばなるまいよ〟


 多香子もまた、雅常の身に起こる異変に気付いた。

(…そこまでするか、雅常)


 雅常の脚が半ば樹木と化し、葉までが茂りつつある。

「見よや、多香子。この雅常、音ノ瀬本家当主として、そなたが呼び覚ました哀れなる古の兵士たちを再び眠りに就かせる」

「…大した欺瞞じゃな。大方、わたくしを懐柔する為の芝居であろうが」

「………」

 雅常が樹と同化しつつある箇所の枝から葉をぶちぶちっ、と引き千切った。

 雅常の腕から血が噴き出す。

 更に雅常は枝を荒々しく手折る。

 次は雅常の口から血が吐かれる。

「これでもまだ私の存念を疑うか」

 ひゅー、ひゅー、と荒い息の下から雅常が問うた。

 芝居ではない、とようやく多香子は悟った。

 自分の赤心を告げる為、雅常は真実、我が身を引き換えに両面宿儺を封じる積りなのだ。

「すまなんだな、多香子」

「…ようやくわたくしを陥れたことを認めるか」

「いや。だが、そなたを叔父から守ってやれなかったのは私の責でもある。辛い思いをさせた。…すまなかった。苦しかっただろう」

 そのコトノハは苦しげながらも温かさに満ち、荒れた多香子の胸の内をなだらかにする効果があった。

 古来、最も効くとされる呪は、慈悲の心から生まれると言う。

 多香子は目を見開いていた。

 なぜ?

 自分を陥れた男がこうも真摯であるのはなぜだ。

 自分を見る目の、慈しみが宿るようなのはなぜだ。

 もしその疑問の答えが、これまでの雅常のコトノハを裏付けるものだとしたら。

 自分は恐ろしい間違いをしてはいなかったか。

 星愴にこの世に地獄を顕現しまいかと誘われた時からあった、狂ったような熱が冷めていく――――――――。


 多香子は雅常に飛びつき、コトノハの書かれた短冊を奪い取った。

「多香子…っ」

「ぬしにはこれは、荷が重かろう」

 そうして両面宿儺を封じるコトノハの続きを、多香子は処方し始めたのである。

 その声は高く澄んで、雅常の声とはまた異なる趣があった。

 桐峰の竜笛の響きと相まって美しい音色が奏でられた。

 両面宿儺は音色に聴き入っている。

 多香子もまた、樹に変化しつつあった。

 紅の花を咲かせる椿の樹である。

 下半身はもう、樹と化している。

(多香子…)

 多香子の心境の変化を知らぬ雅常と桐峰は、ただ驚いていた。

 多香子はコトノハの処方を終え、やがてすっかり総身が椿の樹と化した。

 美しい真紅の花弁は艶めき、多香子が人でありし頃を彷彿とさせた。


挿絵(By みてみん)


 桐峰ももう、竜笛を吹くのをやめている。

 両面宿儺はすっかり大人しくなり、ぼろりぼろりと身体が短甲ごと崩れたかと思うと、土へと化していった。

 再び永の眠りに就くのだろう。


 一方、それより時を少し遡る頃、元親率いる一両具足たちも地獄の亡者たちを蹴散らして、黒縄丸と元親、三好星愴と初震姫がそれぞれ対峙していた。


「ぐわっははははアッ!星震大社より来たりし凶兆!星の繁栄を妨げる、地に這う者どもよッ!あれに見える凶星こそが、我が大義の証ッ!地を這う虫どもッ、その罪深き身に相応しき獄にぞつながるるべしッ!」


 初震姫は星愴の長広舌を意に介さず、仕掛けた。高々と跳躍したのだ。星愴に向かい、星震の太刀が振り下ろされる。するとさしもの星愴も色を失くし、息を呑んだ。


「ふふっ、さすがの星愴殿も凶賊が刃は、お口に合いませぬか」

「不埒者ッ…!」

「誰が不埒者ですか。年貢の納め時です、三好星愴」

 初震姫は星愴の顔面に、次いで胴に刃を浴びせた。

 追い詰められたかに見えた星愴だが、そこで彼は(げき)を後ろ手で取り上げた。

「吾輩自ら、凶星再誕の露払いをばせんッ!」

 長い得物である戟を軽々と片手で振り回す。

「なるほど。…口先ばかり、と言うわけではなさそうですね」

「侮るなッ!この星愴とて、三好の猛将の血を授かる身よッ!刀槍の沙汰なぞ、所詮は匹夫の技ッ!されど致し方なし、おのればかりはこの上は、吾輩の手で素ッ首ねじ切るが命運と思いきわめたわッ!」

 初震姫は煩そうに柳眉をしかめた。

「この期に及んで、口説は無用」

 長柄物の戟に対して、少しも怯むことなく初震姫は星震の太刀を構える。

「参りませ。ここに集った多くの戦友たちのためにも、疾く疾く決着をつけねばなりません」


 椿が爛漫と咲き誇る。

 その一つが落花すると共に、黒縄丸の首も元親の手によって落ちた。


「あの花は、多香子さんでしょう。散る花のコトノハにて前非を報いましたか」

 花風を浴びながら、歌うように初震姫が言う。

 椿の花が一つ、落ちる時、元親に介錯された黒縄丸の首も落ちた。

「あとは星愴、あなた独りです。来るべき時が来たようですね」

「喧しいッ!くたばれッ!」

 星愴は大きく戟を振り下ろした。ふわりと初震姫が舞うようにそれをかわし、たちまち星愴の眼前まで迫る。星愴の顎を蹴り上げ、のけ反った脳天目掛けて、星震の太刀を瞬息で振り下ろした。受けようとした戟の柄ごと、星愴は両断された。

「初震さんッ、やりましたねッ!」

 桐峰たちと共に五鶯太が駆けてくる。

「まだです」

 初震姫がそんな彼らを制する。星愴は虫の息だが戦意を失っていない。

「おのれッ、憎き星愴!」

 犬王丸が星愴に斬りかかろうとするのを、明榛がやんわりと止めた。

「ここは、初震姫殿にお任せなされませ」


「星愴殿、あなたの望みは潰えました。三好の名を背負い、都を地獄で穢したあなたが最期に出来るのは、せめて武人として果てること」

 犬王丸の脇差を、初震姫は星愴に渡した。元から赤黒かった墨染が、今や完全に血潮に染まっている。

「自ら決しなされい。止めはせめて、この星震の太刀にて」

「星よ。…今そこに手に取るように瞬いていながら、なぜ吾輩を勝たせなんだか…」

 暗紫色の妖星は今も燦然と輝くが、脇差を受け取る星愴を助けようとはしない。

「…小癪なる虫けらども」

 すらり、と刀身を抜き放つ。その双眸はぬらぬらと憎悪に滾っている。

「この吾輩に、虫けらの理が通用すると思うか。吾輩は三好星愴、虫けらの命に生まれ、星に殉ずるが運命なり!」

 止める間もなく、星愴が赤い隕石のはまった右の眼窩に刃を突き入れた。

 その、瞬間。

 眩い白光が星愴の全身から放たれた。野獣のごとき巨躯はやがて灼熱の紅い焔に溶けるように包まれ、光は天を掃いた。

「これはまずい」

 異常な現象に初震姫が血相を変える。

「皆、早く逃げるのですッ」

 初震姫が言うが早いか、天からその灼熱に向かって凶星がうなりをあげて突っ込んできた。大地を穿った隕石の衝撃派は凄まじく、その場にいた全員が跳ね飛ばされた。

「皆、無事かっ!?」

 桐峰が声を上げる。桐峰は明榛と共に逃げ遅れた少年たちを守っていた。

「大事ありません」

 答えたのはコトノハの結界を張った雅常だった。初震姫の姿だけが、見えない。

「初震さんはッ!?」

 五鶯太の声は獣のような咆哮にかき消された。

 そこにあるのは最早人ではなかった。両面宿儺ですら可愛らしいと言えただろう。

 山のように聳え立つ巨体。右目は禍々しい赤の輝きに満ち。

 真正の化け物と化した星愴の姿が、そこにあった。

 桐峰は一瞬、言葉を失くした。

 これか。これと対峙しなければならないのか。しかし桐峰は、ともすれば怯みそうになる己を鼓舞した。明那がいる。今も自分の無事を祈り、待っている筈だ。そして桐峰は犬王丸をも庇護するという役割があった。当初は厄介な頼まれごとだと思えたそれが、今では桐峰自身の望ともなっていた。

(それにはまず、この化け物を倒すしかあるまいな)

 桐峰は凄絶に微笑んだ。その横では、五鶯太が初震姫から喝を入れられている。勝機はある、と初震姫は言う。初震姫の言い分を、桐峰には非現実的とは思わなかった。見えない初震姫には、視えているのだ。この、圧倒的に不利と見える局面での勝機が。

「五鶯太どの、戦おう。俺は見えるぞ」

 初震姫にも言うように、桐峰は言い切って見せた。

 巨躯が必ずしも勝つとは限らないのだ。それであれば両面宿儺にもとうに自分たちは敗れていた筈だ。

「やりましょう。私のコトノハも、存分に使ってもらう」

 雅常の疲労をおしての果敢な声が、更に追い風となる。

 長曾我部衆、一両具足たちもまだ闘志を失ってはいない。

 初震姫の声が、皆を再度、奮い立たせる。

「最後の戦いです。ここでやり遂げねば、誰よりも殉じた者たちが報われません」


 巨躯と接しての戦いの場合、有利な戦法とは何か。

 それは両面宿儺との戦いでも実践してみせた、小回りの利く斬撃である。要は両面宿儺がより巨大化したようなものであり、狙いどころは先程と変わらない。

「まずは足を狙います」

 果たして初震姫は桐峰と同じ答えを弾き出した。桐峰は当意即妙なこの巫女が、小気味良くて少し笑った。こんな時なのに笑えた。それがまた、桐峰を勇気づけた。

「やるしかないな」

 桐峰と初震姫、同時に突出する。物怖じなど寸毫もない在り様に、一両具足率いる元親も雅常も、それぞれの役割に徹した。即ち、一両具足たちは槍で桐峰らを援護し、雅常はコトノハで援護するのである。少しの間呆けていた五鶯太も、動きを再開した。


 それはまるで小山そのものと見え、命宿る人であったとは考えにくい怪異と化していた。更にその怪異を中心に砂嵐が縦横無尽に吹き荒れて、気を抜けばはるか彼方まで飛ばされそうだ。


(さつ)


 風と親和性の高い雅常のコトノハが、これを抑える。

 突進を続ける桐峰の眼前を、何か黒い物体が勢いよく飛来した。ぎょっとして見るとそれは女の顔をした人面蝙蝠であった。金切声を上げ、襲いかかってくる。桐峰はこれを丹生で斬り伏せ、初震姫は星震刀で一掃した。怪物の足元にようよう、到着した二人は、単騎、駆けてくる雅常の姿を捉えた。


「ご無事かっ、二人ともッ!?」

「音ノ瀬様、貴殿は大切な御身、ご無理をなさらぬよう」

 初震姫の気遣いに雅常が笑う。ともすれば取り澄ましているように見える公家顔が、途端に人懐こくなる。

「なんの、名を惜しんで身を養うて誰が音ノ瀬の当主たれましょうや。私もコトノハで貴殿らの、少しでも助けになりたいのだ」

 雅常は照り映えるように咲きこぼれる椿の花枝を地に突き刺した。


(よう)


 するとそのコトノハに応じて椿が輝き、桐峰と初震姫の周囲に結界が出現した。雅常のコトノハが、元は多香子であった椿に働きかけ、太陽とも見紛うような光を発したのだ。

「さあ、二人とも怪物の足を払いなされ!」

 雅常の結界の守護を受けた桐峰らは小山。と見える怪異の弱点、足に対して、斬撃に斬撃を重ねた。そのたびに巨大な足から蝙蝠たちが闇を吐いて千切れ飛び、墨色の爆煙が盛大な音を立てて空に消えた。


己、蚤ドモッ!


 それは呻き声であり、大音声の咆哮であった。鯨のような巨躯の腕が桐峰と初震姫を掴みとろうと蠢いた。寸ででかわした二人であったが、爆風に煽られ、はるか後方まで吹き飛ばされた。受け身をとるも、自分たちの斬撃がこの巨体に対して有効なものではないと思い知り、改めて愕然とする。巨大過ぎるのだ。

 この状況を見てとった雅常が二人に向けて叫ぶ。

「奴の顔を地まで伏せるコトノハを処方します。然るのち、必殺の一撃を!」

 雅常は巨躯に向け、語り掛けるように長い呪言を唱え始めた。

 コトノハの処方に集中して無防備な雅常を、初震姫が護る。

「丹生の大太刀ならば、星愴めの顔を貫き通せましょう。あやつの顔に輝く紅い凶星の目は、そのままのはずです」

「そこが急所なのだな?」

 初震姫が頷く。

「コトノハの秘法を使おうと、勝機は一瞬です。雅常殿はわたしに任せて、桐峰殿は決して奴から目を離さぬよう」


「この術は言わば禁呪。私だけの力では処方すること、まかりなりませぬ」

 雅常は椿の花枝をかざして、舞踊を踏んだ。

「多香子の力、借りまする。そうしてお二人の助けとなりましょう」

 椿の花弁が散る様は、悲壮なものの筈なのに、今この時ばかりは勇壮にして華麗な様と見えた。


 初震姫は結界の内外を自在に往来し、巨体の腕の注意を自分に引き付ける。大岩のような拳をかわし、人面蝙蝠を切り払っては、機が熟するのを待った。

(堪えてくれ、初震殿)

 桐峰は丹生を構え、刺突に備えた。鎧武者二人を難無く串刺しにする必殺の剣である。普段は温厚な桐峰に似合わぬ大技であった。

 しかし、舞踊を踏む雅常の額には玉のような汗が流れ、人間離れした身のこなしを旨とする初震姫にも、限界が迫っていた。

「もうそろそろ限界ですッ!」

 初震姫の悲壮とも言える叫びに、

「堪えてくださいッ」

 悲鳴のように雅常が応じた。

 ついに巨躯の掌が初震姫を捕らえる。

「初震殿ッ!」

「桐峰殿、わたしに構わず集中をッ!」

 星震の太刀がその白い手から滑り落ち、朱唇からは血が滴っている。その図は手弱女が強力に無体を強いられているようで、より痛ましく桐峰たちの目に映った。桐峰は思わず、初震姫の救出に動こうとした。その時。

「初震殿ッ、待たせてすまんきッ!」

 天馬かと思うような土佐駒を繰りながら、元親が現れ、その大身槍で巨躯の大腕を一刀両断した。凄まじい悲鳴とも怒号ともつかぬ声が起きる。解放された初震姫を、五鶯太は寸でで受け留めた。

「信じていましたよ、五鶯太ッ!」

 苦笑する五鶯太と、その言葉通り、彼を信じ切っている初震姫を桐峰は垣間見る。自分と明那とは色合いが異なるが、似合いの道行だ。五鶯太が星震の太刀を広い、初震姫の手に持たせてやる。

(そうなんだな。初震殿。貴女には五鶯太が必要で、その逆もまた然りなのだ)

 二人の絆の強さを、まざまざと再確認した桐峰だった。


(しん)


 雅常が放ったコトノハは、穏やかな波動を大地に伝えた。不動の大地が、一個の人間の処方したコトノハに従ったのだ。これは驚嘆すべきことであった。椿の花枝が地から湧き出し、熟した甘やかな花の芳香が陽の光とともにあたりにこぼれだした。さながら桃源郷のごときやわやわとした温かな光は闇を払い、甘さを含んだ風と真っ白な湯気が無数の蝙蝠たちを消し飛ばしてしまった。白煙のごとき湯気は、温泉であった。温泉はそこかしこ、花枝が突き出たところに水龍天に登る勢いで噴き出したのだ。


グアアアアアアアアア…


 芳しい花の湯が、禍々しい毒煙を蕩かす。見る間に、巨躯がしゅわしゅわとちじみ溶け出す様を、桐峰は目の当たりにした。その様はもうすぐに迫る嘗て巨躯であったものの消失を予感させた。

 大きな紅玉の片目を備えた顔が断末魔とともに現れる。

「目出度き餞です、星愴」

 一度は手放した星震の太刀を、再び闘志とともに手にした初震姫は、最後の力を振り絞り、椿の花枝を伝って、更なる跳躍を重ね、黒耀の太刀を振り、舞った。巨大な顔面から人面蝙蝠の残党が逃げては散る。

「今ですッ、桐峰殿」

 紅玉、堕つ。

 集中力を繋ぎ直し、桐峰は丹生を構えた。


(安らかに眠れ。願わくば、世を言祝ぐ祈りを込めて)


 (はふ)りは、(はふ)り。


(星愴殿。あなたも生まれ直すのだ)


 祈りは刹那。


 京を地獄に貶めた根源、禍々しくも巨大な紅玉を、桐峰は貫いた。




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橋本ちかげさんが描くアナザーストーリーはこちら→ 初震姫 斬人舞刀
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